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コロナウイルス連作短編その63「シューベルトが描かれた小さな箱」

 14歳の時、王同大知は中学校の同級生たちとともに、学校近くのショッピングモールを歩いていた。気分が高揚しているのは片思いの相手である和賀智里からバレンタインデーのチョコをもらったからだ。だがそれはオーストリア旅行のお土産であり、大知だけがもらった訳ではない。それでも彼は左の親指と中指を擦るのを止められない。
 歩きながら彼は個包装のちっぽけなチョコを眺める。表面には優雅な表情を浮かべたシューベルトが描かれている。大知は笑いながら彼の鼻を折ってやりたい。そして鼻穴にコンビニで買った廉価なチョコを突っこむのだ。
「このイケメン、マジで誰だよ!」
 友人たちは軽蔑的な笑いでチョコの包装を嘲笑う。その中で自分だけが肖像の男性をシューベルトだと分かっている、この事実を大知は誇りに思う。
 突然、マグマさながら哄笑が十二指腸から湧きだしてきて、大知はハハハハハと大声で笑いながら、ショッピングモールを疾走する。道は買い物客で犇めきながら、その群れの間隙を器用に縫いながら、トイレへ辿りつく。鏡の前で改めてチョコの包装を眺める。封を開けて、一気呵成にチョコを口に放りこむ。甘い、旨い。舌で溶けるのを楽しもうかと思うが、我慢できず猛烈に噛み砕く。こんな優しい甘さを猛獣が生肉を貪るように味わう今が愛おしい。願わくば横に智里がいれば更によかった。
 口にチョコの余韻を感じながら、股間には尿意を抱く。大知は便器の前に立ち、ペニスを露出するが、なかなか尿が排泄されることがない。横に男が立つ。先日、映画好きの父から古い映画を見せられた。そこには不愉快なまでに意固地な建築家が出てきた。彼にそっくりだ。設えたスーツは雄々しいが、肉体の内奥にある下劣な品性を隠せない。実際、彼がヒロインにするキスは気味が悪かった。何故この初老の男が遠くの便器を使わないのか、大知には疑問だった。大知のペニスから尿が排泄される。男は激しくペニスをしごき始める。排尿の響きの奥から男の息遣いが聞こえる。尿が全て出た後にも、大知は動けない。ただ視線だけが男の方に引かれた。男のペニスは頗る勃起している。巨大だ、大知のペニスよりも、父のペニスよりも。その赤黒い肌の上では紫の血管が蠢いている。大知はそのペニスをずっと見ていた。
 36歳の大知は所用を終え、最寄りの駅にまで帰ってくる。帰宅者の群れは例外なくマスクを着けており、その上から覗く瞳もまた例外なく淀みを湛えている。群れの隙間を縫い、大知は階段を降り、男子トイレにまで辿りつく。横でしばらく待つ。眼鏡をかけた中学生ほどの青年がトイレに入ったので、後に続く。彼が尿を放出している横に立ち、大知はペニスを露出する。そして一心不乱にしごき始める。血が急速にペニスへ収斂していき、肉が膨張を遂げる。時おり少年の方を見る。彼は既に排尿を終えているのに、いっこうに便器から立ち去ろうとしない。大知が少年たちの横に立つ時は、いつだってそうだった。だがある時、その少年は足早にトイレから立ち去る。彼が手すら洗わないのを大知は目撃した、このコロナ禍にだ。誰も来なかったので、大知はしばらくペニスをしごき、そのまま射精した。個室に行き、トイレットペーパーで精子に塗れたペニスを掃除する。
 家に帰ると、息子である八柱がリビングのTVでファイナルソードというゲームで遊んでいる。Youtuberが"これが最高のクソゲーだ!"と笑いながらプレイしている実況動画を観て、興味を持ち始めたらしい。しばらく横でプレイ画面を眺める。確かにグラフィックは酷い。だが八柱は無邪気な笑顔を浮かべながら、楽しそうにプレイしている。悪くないと大知は思う。
 夕食を食べた後、大知は八柱とともにソファーでアイスを食べる。巨大な箱へ各々が好き勝手にスプーンを突き刺し、バニラアイスを大口で貪る。観ているのは録画した『呪術廻戦』だ。最初は八柱との交流に丁度いいと付きあいで一緒に観ていたが、深くまで嵌ったのは大知の方で、今やコミックスを発売日に買うのは彼だった。
「俺もこういう少年漫画描いてみたいなあ」
 『呪術廻戦』を観終わった後、突然八柱が言った。
「お前、絵とかあんま描けないだろ」
「でも原作者ならなれると思うんだよなあ、何か」
「『アクタージュ』の変態みたいに痴漢とかするなよ」
「するわけねぇだろ」
「アイデアとかはあるのか?」
「何か微妙にあるよ」
「ノートとかにまとめたか?」
「いや、そこまではやってない」
 大地は寝室に行き、ノートとシャーペンを持ってくる。
「じゃあ今、アイデア書かないか」
「えっ、何か急すぎね」
「思い立ったら吉日だろ」
 最初は躊躇っていたが、八柱は右頬のニキビをいじりながらアイデアを話し始める。
「東京で吸血鬼と人間が戦うんだ、新宿とか渋谷とかで。でも主人公は吸血鬼の方なんだよ。いきなり人間が異分子の吸血鬼を邪魔だと思い始めて、抹殺を始めるんだ。主人公は人間と吸血鬼のダブルで、彼も人間に狙われるけど、吸血鬼のレジスタンスに助けられて戦いに身を投じる、みたいな」
「人間の方が敵っていうのが面白いな」
「トランプとか見てると、人間の方がヤベーって感じするからね」
「で、人間と吸血鬼のハーフの……」
「いや、ダブルだよ。ハーフって言葉、あんま良くないって。ほら、俺の友達、ボグダンって日本とルーマニアのダブルで、ハーフって言葉嫌いなんだって」
「そうか、ごめん。こういうことを教えてもらえるっていうのは有難いな。ありがとう、八柱」
 感謝の言葉を口にしながら、これに関しても八柱はメモを取る。
「1つアイデアを思いついたんだが、いいか」
「うん」
「主人公に対して悪の方はハーフと呼んでくる、忌々しげにね。それで善の方は誇り高き名称としてダブルと呼ぶみたいな趣向はどうだ?」
「ふうん、悪くないかも」
「それからただハーフとダブルじゃ他と一緒だ。だからこれをルーマニア語にしてみるっていうのはどうだろう。ボグダン君や彼の家族にルーマニア語について聞いてみるんだ」
「へえ、いいかもね」
「外国語を使うのは少年漫画やライトノベルの常套手段だろ。『BLEACH』だってドイツ語やスペイン語を使ってた」
 突然、八柱が吹きだす。
「いや『BLEACH』って例えが古すぎでしょ」
 寝室に行き、大知は仕事を始める。今、彼はフェレナ・メアマーというオーストリア人小説家の長編『最後の希望という名のバス』を翻訳している。今作はオーストリアからルーマニアへ向かう長距離夜行バスを舞台として、そこに乗りこんだルーマニア移民たちの人生を描きだすという物語だ。今まで殆ど知ることのなかったルーマニア移民の人生を知れる意味で貴重な1作であり、翻訳にも精が出る。今よりいっそう翻訳が進むのは、息子の友人に日本とルーマニアのダブルである青年がいると知ったからだ。この翻訳のために彼や彼の家族に会うのも良いかもしれないと、大知は思った。
 運転手の1人であるフロリンという男が初めて国境を越えた時を思いだす下りを翻訳する途中、メールが来る。オーストリア映画コミッションのヤニス・クサーファーからだ。大知は彼とともに、オーストリアの映画作家マンスール・マダヴィの作品上映会を日本で計画していた。小説翻訳にあたりフェレナ・メアマーとメールのやり取りをしていた際、彼女が大知にこの監督の作品を勧めたのだ。メアマーはアゼルバイジャンにも留学経験があり、その経験を生かして初長編『屋根を越えていく声』を執筆したが、このための調査の最中にマンスール・マダヴィというアゼルバイジャン系オーストリア人の映画監督を知ったという。彼の長編デビュー作『ゲオルク・ハウザーの幸福な数分間』は正に傑作だと、初めて観た時は衝撃を受けた。資本主義に生きる虚無をこれほど鮮烈に描いた作品はないと。この映画作家を日本に紹介しなくてはならないと天命を授かったような気がした。2月後半からはマダヴィ作品の字幕作業も平行して行う予定だった。
 夜12時を回る。息抜きにタブレットでオーストリア映画について調べている時、今日が2月14日だと気づく。リビングに行き、冷蔵庫や棚のなかを調べるがそこにチョコレートはない。何か物足りなさを感じ、コンビニに行くことを決める。
 夜の闇のなかに不思議と温もりを感じる。もう春だった。柔らかな風が首筋をそっと撫でてくれる。大知は右手で股間をしばらく掻き毟ってから、乾いた唇を強く拭った。街灯は天使の輪のようだ、祝福を受ける空間の奥から人影が現れる。犬を連れた老婆だった。今犬の散歩をするのか、大知は怪訝に思うが実際に老婆は犬の散歩を粛々と行っていた。突然、犬が走りだそうとする。老婆は強くリードを引っ張り、犬の身体が後方へとビグンと吹っ飛び、痙攣する。
 ローソン内は吐き気を催すほど白く輝いている。まるで性病啓蒙映画で梅毒患者が収容されている病室のようだった。脇目は振らずにお菓子コーナーへ赴く。当然、チョコレートの種類は多様だ。だが否応なく黄土色のパッケージが目に入る。ガーナローストミルクだ。智里が一番好きだったチョコレートだった。他のチョコに少し目移りしながら、最後にはローストミルクを手に取り、レジへ持っていく。119円だ。100円玉1枚と10円玉2枚をトレイに置き、レシートとお釣りの1円をもらう。店員の初老女性が直接その1円を手渡してきたので驚いた。大知は1円玉を募金箱に入れる。
 マスクを顎までずらし、夜風を味わいながら銀紙を開ける。チョコを食べるのは久しぶりの経験だ。銀紙を切り裂く行為ですら、何か新鮮さを感じる。露になったチョコレートの白い表面は、モーリス・ターナーのモノクロ映画の白のように美しい。口に入れた瞬間、凄まじいまでに濃密な甘みが口腔に広がり、思わず苦笑してしまう。そう、智里は強烈なまでに甘さを生涯愛していた。智里のことを考えながらチョコを食べていく。細胞に滲みこんでいく甘やかさの1粒1粒が彼女との想出だった。だが年齢もあるのか、チョコを一気に食べきれない自分に驚いてしまう。今や肉体全体が甘みへと同化してしまったかのようで、少しずつしかチョコを体内に取りこめない。結局、家に帰るまでに全て食べられなかった。
 左手にチョコレートを持ちながら、大知は八柱の寝室へと赴く。手も洗っていなければ、口も濯いではいない。ドアの隙間から橙色の光が差しこみ、息子の顔を照らすのが大知には見える。一線の刻まれた彼の顔、その鼻筋を大知はゆっくりと撫でる。頬骨の丸さは大地に似たが、鼻筋のしなやかさは智里に似たと思える。その肌の温もりが大地の乾いた皮膚に潤いを再び宿していく。大知は右手で八柱に触れることを抑えることができなかった。チョコを食べる。甘い、甘すぎる。拳のなかで白いチョコレートが砕ける。破片が布団の上に落ちた。
 震える身体を抱きしめながら、自身の寝室へ行く。そして引き出しのなかから取り出したのは、シューベルトが描かれた小さな、小さな箱だ。大知はそれを胸に押さえつけ、眼が砕け散るのではと思えるほど強く瞼を閉じる。
 14歳の時、千葉大知は中学校の同級生たちとともに、千葉大知は、千葉大知は確かに学校近くのショッピングモールを、千葉大知は歩いていた、千葉大知は……

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。