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コロナウイルス連作短編その33「Japanese Lives Matter」

 教室に朝のチャイムの音が鳴る。伊勢直人はぼうっとその甲高い耳障りな音を聞いていた。ふと窓から外を見ると、一人の生徒が凄まじい勢いで走っているのが見えた。その真っ黒い肌から彼が誰だかはすぐに分かった。高木宣彦だ。セネガル人と日本人のダブルである彼を一瞬認識できない人間は、このクラスにはいないだろうと直人は思う。視界から消えて数十秒が経った後、宣彦が教室に現れた。
「先生、俺遅刻じゃないですよね!」
「完全に遅刻だよ、宣彦!」
 すると宣彦はまるでマグマに放りこまれたリスのような変顔を浮かべ、生徒たちの皆が笑った。だが直人だけは笑おうとはしない。
 おい、ボルトみたいに何かポーズ取れよ。
 心のなかで直人はそう願ったが、宣彦は変顔を浮かべたままに自分の席へと座る。
 休み時間、コロナウイルスにも関わらず、宣彦の周りにはたくさんの生徒たちが集まっている。彼は誇張された身ぶり手振りとともに話を盛りあげ、そして生徒たちは爆笑するのだった。直人はそんな風景を遠くから眺めるだけだ。皆がコロナウイルスに罹かって死ねばいいのに、と彼は思う。その一方で宣彦が同級生たちから人気者であることがとても羨ましかった。ああしてチヤホヤされた経験は直人には一度もなかった。一度くらいはああして男女関係なくチヤホヤされるような経験が欲しいと思う。しかしそう思うことは宣彦への敗北のような気がして、その考えを頭から振り払う。確実に言えることは直人が孤独であることだった。
 学校が終わった後、彼は友人たちとともに“少年の広場”と呼ばれる大きな広場に集まり、任天堂Switchで大乱闘スマッシュブラザーズSpecialを始める。この友人の輪のなかで直人は最強であり、アイクという剣士キャラを使って皆をボコボコにしていた。問答無用で友人たちを殺すのは本当に楽しいことで、学校生活で溜まる鬱憤を簡単に晴らすことができた。
 しかしゲームで遊んでいる最中、その広場にあの宣彦が友人たちとともにやってきた。そして彼らはサッカーを始める。直人と彼の友人たちは何も言わなかったが、それでも軽蔑の視線を宣彦たちに向けた。軽蔑を向ければ、自分たちが彼らの上に立てるように思えたからだ。それでも直人は宣彦の姿に魅了されている自分をも否定できなかった。彼はとても運動が苦手であり、体育の授業は地獄でもあった。だからこそ運動神経が良い者には否応なく憧れを抱いた。宣彦は正にそんな人物であり、彼はまるで豹のように走り、鷲のようにボールを捉え、そしてライオンのようにシュートを放つ。その光景に直人は思わず見とれてしまう。
「死ね、ボケ!」
 だがその隙にゲーム上で友人の一人が直人を殺した。苛つかされた直人は三十秒で二回、その友人を殺した。
 翌朝、彼は道の途中で千代田怜という少女と出会う。彼女は直人の幼なじみであり、一緒の高校に通っていた。
「おはよ」
「おはよう」
 彼女と話そうとすると自然と声が小さくなってしまうのだが、それでも彼女と話せるのはとても嬉しかった。彼女は母親以外で一緒に喋ることのできる唯一の女性だった。
「昨日、フジテレビでやってたお笑い番組見た?」
「ジェラードン出てた奴?」
「そうそう。アレ、マジで面白かった。さすが直人がお勧めするお笑い芸人は違うね。もうゲラゲラ笑ったもん」
 そんな他愛ない話をしながらも、直人は確かな優越感を抱いていた。昨日一緒にゲームをしていた友人のなかで、こうして女子と会話できている男子は一人もいないだろう。だが直人はこんなにも堂々と、晴れやかに女子と話をしていた。そんな自分を直人は誇らしく思った。
 俺はあいつらとは違うんだ!
 数学の授業中、後ろから声が聞こえた。宣彦が新島光という女子とコソコソ話していた。
「ノブ、ここ全然分かんね」
「ヘッヘ、バカじゃねえの」
「次、黒板に答え書かされるからヤバい。教えて」
「分かったよ」
 そう言って宣彦は光に問題について教える。この後、実際に彼女は黒板に答えを書いたが、それは完璧なものだった。直人は唇を強く噛む。この後、宣彦も答えを書かされるのだが、それもやはり完璧で直人は怒りを抱いた。彼は人気者で、運動神経も良い上に、勉強も完璧だった。何もかもが無欠な宣彦に対しては怒りだけが無限に湧いてくる。彼の後頭部を大きな石でカチ割ってやりたいと思う一方で、授業が終わる解放感からか直人は勃起したんだった。
 家で晩御飯を食べながら、家族でニュースを見る。そこではアメリカで黒人たちが起こしているデモが報道されていた。多数の黒人たちが声を大にして、差別の撤廃を訴える姿を見ながら、直人は馬鹿だと思った。何故ならコロナウイルスが世界に蔓延して久しいのに、わざわざウイルスを蔓延させるような真似をしているからだ。
 こいつらはコロナですぐ死ぬな、つーか全員死ねよ。
 直人は唐揚げを食べるのだが、母親の作る唐揚げは本当に美味しくて、頬が蕩けてしまいそうだった。そして次に流れる光景は、黒人たちが暴動を起こす風景だ。彼らはまるで血に飢えた獣のようにスーパーマーケットを破壊していた。
「怖いわあ。やっぱアフリカ人って怖い。いくら差別がひどいからって、こんな色んなもの壊さなくていいのに」
 母親が唐揚げを食べながら言った。
「本当ヤバいよね。この前、ボビー・オロゴンも逮捕されたし、黒人ってやっぱ暴力的でヤバいよ」
 母親の言葉に嬉しくなって、直人もそんなことを言った。頭のなかにはもちろん宣彦の顔が浮かんでいた。そこで彼は怜に対して暴力を振るっていたので、直人が颯爽と現れ、彼を倒したのだった。
 そして彼はベッドに寝転がりながら、Black Lives Matterという言葉について考えた。
 黒人の命も大事だ? 実際はどうだよ。俺の高校じゃ宣彦みたいな黒人野郎が完全に力関係のトップじゃないか。あいつが高校でも町でも一番の人気者だよ。どこが差別されてるんだよ、クソ。そう言うならさ、俺の方がみんなに無視されて、馬鹿にされて、世界の片隅で生きるしかできないじゃないか。差別されてるのは俺だよ、ふざけんな。それならJapanese Lives Matterだろ。
 その後、直人は怜の大きな乳房を想像しながら、オナニーをした。そして射精するのだが、ティッシュの上に蟠る黄色い精子はあまりにも惨めで、直人は泣きたくなる。さらに宣彦が他の日本人の女子高校生とセックスしているのを想像し、酷い気持ちになった。このまま吐き気とともに脳髄を吐き出してしまいそうだった。
 翌日、広場で大乱闘をして遊んだ後、辺りを適当にフラフラした。その時、宣彦と怜が一緒に歩いているのを見つけて驚いた。爆発しそうな心臓を抱えながら、彼らについていくのだが、最後に怜は宣彦の唇にキスをした。それはあまりにも濃厚で、卑猥なキスだった。その時、直人の心臓は爆発してしまった。気づくと彼は、自分がベッドの上で泣いているのに気づいた。傍らには涙の水溜まりができていた。そして頭のなかには死の直前の走馬灯のように怜との思い出が甦った。幼稚園の時、怜が鼻クソを直人の頬につけて、彼が号泣したこと。小学校の入学式、親も交えて二人で写真を撮ろうとしながら、恥ずかしさからそれを拒否したこと。近くの川で家族一緒にバーベキューをして、怜がたくさん肉を食べ、そんな彼女を大食いクイーンになれるぞと揶揄したこと。そういった素敵な思い出が浮かんでは消えて、直人の怒りと悲しみを増長させた。そして彼のペニスが勃起した。昨日オナニーしたことも忘れて、再び彼はオナニーを始めた。だがそれは性欲が原因ではなく、純粋なる憤怒が彼を突き動かしていた。彼は執拗にペニスを擦りつづけた。だが不思議と精子は出なかった。ゆえに彼はずっとペニスを擦りつづけた。ペニスはダイヤモンドのように固かった。
 直人は怒りを抱えながら、学校に行った。宣彦はいつものように教室の人気者だった。彼の姿を見るたびに、怜との卑猥なキスが思いだされる。その光景が直人の脳髄を焼きつくそうとした。今にも暴発しそうな憤怒に包まれながら、彼は一人で弁当を食べる。母親の作ってくれたお弁当はいつだって素晴らしかった。
「なあ、お前が伊勢だよな」
 驚いたことに、宣彦が直人に話しかけてくる。彼の心で驚愕と怒りがまるで絵の具のように入りまじる。
「ちょっと放課後話したいことがあるんだけど、いいか?」
 直人は狼狽してしばらく何も言えなかったが、最後には頷いていた。断ることもできたはずだが、断る勇気すらも直人にはなかった。宣彦が親しみぶかい笑顔を浮かべて去った後、彼は獄炎のような自己嫌悪と憎しみを感じた。
 そして放課後、実際に彼は宣彦と一緒に帰ることになった。しばらくの間、彼らは何も喋ることがなかった。時々、直人は宣彦のことを見た。彼の姿はまるでアフロヘアーを持った黒豹のようであり、直人は畏怖の念を抱く。もし彼が黒豹ならば、自分は新宿の路上に落ちている吐瀉物だと直人は思った。そうして先に口を開いたのは宣彦だった。
「お前さ、俺が千代田怜と付き合ってるって知ってる?」
 その言葉を聞いた時、雷が直人の心臓に突き刺さった。認めたくなかった事実を張本人によって知らされる最悪の状況がここにはあった。
「うん、まあ、知ってるけど……」
 直人はそう言うしかできなかった。
「伊勢って、怜の幼馴染みなんだよな」
「うん……」
「だったら三週間後の日曜日が怜の誕生日だって知ってるだろ?」
「うん、知ってる……」
 だが実際にはその誕生日について、直人は忘れてしまっていた。そして宣彦のおかげで、怜の誕生日を思い出したのだった。彼は恥ずかしさからお尻を掻きむしる。
「俺、付き合ってから初めて怜の誕生日を祝うからさ、何かすごい良いもの買ってやりたいんだよなあ。でも怜自身に“誕生日、何が欲しい?”って聞くのは無粋だろ。だから、幼馴染みのお前が怜の欲しい物知ってないかなあと思って、聞いてみたんだよ。突然呼び出してごめんな」
 宣彦の笑顔は太陽のようだった。裸眼で太陽を直接見るのはあまりにも危険だった。しばらく直人は無言を貫いたが、最後には口を開いた。
「……怜は、映画が好きだよ。特に変な映画、いわゆるカルト映画ってやつ。だから調べてそういう映画のDVDとか買ったら喜ぶかも……あとお笑い芸人も好きだから、ライブのチケットとかも良いかもね。あと食べ物、っていうか肉が好きだから焼き肉連れていったら喜ぶよ」
 こう言いながら、直人は泣きたくて泣きたくてしょうがなかった。勇気がないばかりに彼を殴ることもできず、怜の好きなものについてレクチャーしている自分が惨めだった。今すぐ自殺したいところだったが、それをするにもやはり勇気が足りなかった。一方で直人が話している時、宣彦は携帯で熱心にメモを取っていた。彼の怜への愛は本物だろう。その事実が直人にさらなる痛みをもたらした。すると宣彦の携帯に電話がかかってきた。
「お、怜。どうした?」
 それは怜からの着信で、直人は愕然とした。宣彦の顔は明らかに喜びに蕩け、声にも輝きが満ちていた。直人はその輝きを喉に詰めて、窒息死したかった。そして彼は動くことすらできずに、宣彦と怜の会話を聞きつづけていた。
「えっ、何だよ?」
 そんなことを言ってから、宣彦は直人の方を見つめる。そして人懐こい笑顔を浮かべてから、言った。
「愛してるよ、怜」
 その時、直人は道端に大きな石が落ちているのに気づいた。それはまるでライオンの皮膚のような黄色を纏っており、この世に存在していることを禁じられているようにも思われた。形も非の打ちどころない丸であり、人口の芸術作品がこの自然で完璧な丸を再現できるかは疑問だった。そして直人は目の前にこんなにも美しい、黄色い石が転がっていることの意味を考えた。その時、直人の身体は静かな、しかし途方もない幸福感に包まれた。
「じゃあな。教えてくれてありがとう」
 そう言って宣彦が去っていく。直人は石を拾ってから、宣彦の後頭部にそれを振りおろした。血を撒き散らしながら、宣彦は地面に倒れた。
「え? え?」
 直人は宣彦の後頭部に美しい黄色い石を振りおろしつづけた。例え血にまみれたとしても、美しい黄色い石は美しい黄色い石のままであり、奇跡のようだと直人は思った。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。