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コロナウイルス連作短編その108「痕跡としての可能性」

 馬橋霧生は家に帰ってくるが、恋人である座敷伴の“おかえり”という言葉が聞こえてこない。玄関には外界の夕橙があまり入ってこず、暗い。そんな中で壁にかけてある複製画だけが不安のように艶かしく輝いている。何が描いてあるかは全く分からない。ルーマニアのアンドラダ・イオネスクという画家の作品で、キュビズムに影響を受けた作風を持ち味としているそうだ。何が描いてあるか全く分からない。この複製画は伴が買ってきたもので、彼を通じてイオネスクを初めて知ったし、何よりルーマニアという国の文化に初めて触れたかもしれない。
 絵画を見つめながら、伴はいつもこの時間には家にいる筈だと疑問に思う。だが同時に、30を越えた大人なのだから居ないこともあるだろうとも感じる。リビングに行った。伴はいない、代わりにテレビがつけっぱなしで、液晶には“オリンピックありがとう!”というニュース番組の特集が垂れ流されている。ここで初めて、この状況が奇妙なものと思える。

 テーブルの上にはプリンが置いてあった。明らかに食べ掛けであり、テーブルに直に置かれた、ふやけたような蓋にはクリームの付着したプラスチック・スプーンが横たわっている。近隣のスーパーであるマーケットダムで買ってきたものと一瞬で分かる。容器内を覗きこむとプリンと濃厚なクリームが暴力的に混ざりあっている。指を突っ込み、付着した欠片を舐める。旨い。伴はスーパーの安いプリンに理解しがたい執着を持っている。固さと柔らかさの中間地点に蟠るプリンを好み、しかし何よりその上にデロデロと乗せられた不健康そうなクリームを好む。これを喰らう、毎日ではなくとも週に5つは喰らう。例え霧生がどこぞの高級スイーツ店で恍惚さながら滑らかな高級プリン、もしくは東京駅さながら磐石な硬さを纏う高級プリンを買っても、伴は食べない。他のチーズケーキや、それこそ最近流行りのマトリッツォを買ってくるなら、喰らう。だがプリンだけは絶対に喰らわない。霧生は一度、スーパーで買ってきたと嘘をつき、駅高架下のスイーツ店(既にコロナ禍で潰れている)で買ってきた柔らかいプリンを渡したことがある。プリンを買ったという言葉に伴は小学生のようなはしゃぎっぷりを見せながら、スイーツ店の設えられたプリンを渡されると、目から光が消えた。虚無そのものへと変貌した。裏切られた期待によって、一瞬にして彼は老いたのだ。2日ほど彼は霧生と喋ろうとせず、もうこのイタズラはしないと霧生に決心させるほどだった。
 ソファーに座り、スプーンを使ってプリンを食べる。確かに美味しい。クリームが即時食者の健康を刈り取らんとすると錯覚するほど、甘味が濃厚だ。ヌラヌラと皮膚に吸いつく様に堪らなくジャンクな罪悪感を味あわされる。そしてニュースを見る。延々と“オリンピックありがとう!”特集を放映し、現在におけるコロナ禍を報道・解説するようなニュースは流れない。だが突如、ニュース速報が流れて“東京で2884人が感染”と伝えられる。しばらくして映像がスタジオに戻り、キャスターが「東京で2884人の感染が確認されました」と言う。そして“オリンピックありがとう!”特集に戻る。
 プリンの容器をキッチンに捨てにいく。床に黒い粒が落ちていた。韓国のりのカスだった。これはいつもの痕跡だった。伴はスーパーのプリンとともに、韓国のりを愛する。あの塩味と油の豊かな風味を愛する。これもやはり近隣のスーパーであるマーケットダムで買う。彼はマーケットダムのプリンと韓国のりだけ食べれば生きていける人体システムが欲しいと公言して憚らない。料理人を職業とする霧生はそれを聞くたび苦々しい思いを抱く。こうして伴は韓国のりをボリボリと貪る。棚から袋を取り、立ったまま何枚も一気呵成に喰らう。こうしてのりは歯によって裁断され、カスが黒い雪のように床へ落ちる。床へ落ちた瞬間には、ゴキブリの幼体の死骸となる。霧生が叱責することを知りながら、韓国のりを貪ることを彼は止めたことがなかった。
 この屑を掃除するうち、壁の向こうから何かが聞こえてくる。長く濁った音は水の放出を思いださせる。洗面所の蛇口が緩んだままであるがゆえ、水が垂れ流されている。こういった情景が彼の脳裏に浮かぶ。その水はシンクに刻まれたひび割れへと注がれる。霧生がここにタブレットを落としたのだ。何故この場所にまでタブレットを持ってきたかは思い出せない。このひび割れを何となく放置した。そうして亀裂には汚れが少しずつ溜まっていき、潔癖的な白に糞色の切れ目が浮かびあがっていく。2人ともそれに言及しない。だが実際洗面所に行っても、蛇口から水は出ていない。音ももはや聞こえない。
 不思議と今、幻滅を感じていた。次行く場所には何か痕跡があってほしいと思った。寝室へ入る。あった。床にはノートと本が置いてある。ノートは伴が読書をする際に傍らに持っているメモ用のものだ。霧生は本の方を掴みとる、ビアトリス・コロミーナの『マスメディアとしての近代建築』という建築学の書籍だった。自己免疫性肝炎という難病となり、伴はしばらく働けなくなった。そこからより一層読書に耽るようになったが、何故かここで彼は今まで慣れ親しんでいた文学や絵画でなく、建築学に耽溺するようになった。昼も夜も図書館で借りてきた建築学にまつわる本を読んでいる。これもその中の1冊だろう。栞が挟んであるページに目を通すが、内容は全く理解しがたい。だが文章の傍らに写真を見つけた。これはル・コルビュジエという建築家が、パートナーである人物に自身の建築、その内装を撮影させて生まれた写真だと説明されている。無菌的な小綺麗さに包まれた、透明な空間だった。居心地が良さそう、居心地が悪そう、不思議とその両方を感じた。だが霧生の目を惹いたのは部屋のドアだ。空間には人間が1人もいない。だが何故かドアが開いており、それが風に揺れるような音が幻聴として聞こえてくる。ここには何者かが確かに居る、だが何らかの理由で存在を隠蔽されていた。視線を写真から文章へ移す。著者によれば、ル・コルビュジエは自身の建築の写真において人間そのものは排斥しながら、その痕跡を残すことには妙なこだわりを見せたそうだ。
 これを読んで理解した。伴はル・コルビュジエの執念に触発され、面白いイタズラを編み出したという訳だ。伴、伴、伴。快活に彼の名前を呼びながら、霧生は部屋を練り歩く。衣装箪笥の扉を開けてそのまま開けっ放しにし、トイレの扉を開けてそのまま開けっ放しにし、靴棚の扉を開けてそのまま開けっ放しにする。何だかとても楽しくて、少年の頃に楽しんでいたかくれんぼを思わず思い出してしまう。伴、伴、伴、伴!

 するとチャイムが鳴る。玄関に行き、靴棚の扉を閉めてから、玄関のドアを開く。宅配便だった。板のような何かが包装され、霧生に押しつけられる。リビングに行き、封を開く。中身を見た瞬間に吐き気を催した。それはクリスチャン・ラッセンのイルカの絵だった。
 伴という男は裕福な家庭に生まれ、文化資本にも恵まれた、いわゆる趣味のいい人間だった。文学にしろ絵画にしろ、そのセンスに影響を受けてこういった芸術の数々を味わうことは、彼の恋人として至上の喜びだった。だが唯一理解できないのは彼のラッセンへの深い耽溺だった。毒々しいまでの極彩色、網膜を焼ききるような猛烈な輝き。ラッセンが描きだす世界はその暴力性によって、人間の感覚を凄まじい勢いで殲滅していく。彼の芸術家としての存在そのものが、芸術史や人類に対する悪辣な挑戦のように思えた。そんなラッセンに、伴は心から心酔していた。インターネットでラッセンの絵画を検索しては恍惚に耽り、東京で原画展が開催されれば必ず向かう。展示会は毎年日本各地で開催されているゆえに、まるで旅行でもするかのように遠征することもある。特に長崎には何度も足を運んでいた、ラッセンのためだけに。
 それでも、不可解なことに、その絵画を買ったことはなかった。だが彼はとうとう買った訳だ。だが彼の絵画がこんな薄っぺらい包装で届くものなのか、疑問に思わざるをえない。だがそれが一瞬で灰塵に帰すほど、この絵画の悪趣味さに脳髄が蹂躙された。悪趣味な紫、悪趣味な青、悪趣味な赤、悪趣味な山脈、悪趣味な波、悪趣味な海、悪趣味な空、悪趣味な太陽、悪趣味なイルカ、悪趣味なイルカ、悪趣味なイルカ。吐き気を催した。実際に嘔吐したかった。だができない。代わりに頭が痛み始める。脳髄の細胞が爆裂を遂げていき、世界が破り捨てられる。そして目前で悪趣味な世界が膨張していく、その重力に引きずりこまれれていく。全身の痙攣とともに思いだすのは、出会った頃に伴が言った言葉だ。ラッセンの絵画を見ていると、脳髄が蕩けていって、鼻と耳の穴、全身の穴という穴から極彩色の粘った液体が這いずり出てくるような感覚があるんだ。彼の絵は僕にとっては、“美術教育を受けてない”だとか“障害のある人が作った”だとかいう後々に付け加えられた文脈から解き放たれた、字義通りのアールブリュットなんだ、生の芸術なんだよ。あまりに剥き出しすぎている、開かされすぎている。これが可能性なんだ、芸術の、人間の、生の可能性そのものなんだ。君にはそれが分かるか?

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。