見出し画像

コロナウイルス連作短編その183「価値観のアップデート」

 佐川景は同僚の野口赤日や上司の苗場俊夫とともに百貨店にいる。先方との打ち合わせのためだった。
「彼は佐川です」
 そして景は軽くお辞儀をする。首の後ろが痒い。
「そして彼女は……あっ」
 そう言った後、俊夫は明らかに動揺し始める。景は赤日の方を見るが、特に表情は変わっていないように思える。おそらくこういう事態にはかなり馴れている、もしくは馴れざるを得ないか。だが何も言わずに直立不動でいるので、やはり実際は狼狽しているのかと考え直す。
「彼は野口です。3人のなかで一番あんこを愛している男です」
 俊夫の動揺を尻目に、景がそう赤日を紹介すると目の前の人間たちは、はははと笑い始める。マスクによってその響きはくぐもっている。そして横の俊夫が笑う。赤日も笑う。景も笑顔を浮かべる。だが目は笑っているのに、喉は震えることがない。

「いや、すまん。本当に済まなかった」
「いえ、別に全然気にしてないですから……」
 帰路、俊夫と赤日がそんな会話を繰り広げるのを、景は後ろで眺めている。いつものように黒い日傘を差していた。東京の太陽光は殺人的だ。
 野口赤日はいわゆるトランス男性で、コロナ禍の第何派が収まった頃に職場でこれをカムアウトし、男性として会社勤めを始めた。この状況はもはや短くはないが、俊夫は時々赤日を“彼女”と呼称してしまう時があった。女性という体裁で勤めてた時期を知ってるゆえ認識が混線する時があるという言い訳を、酒の席で聞いた覚えがある。それはある種、無能であることの言い訳にも景には聞こえた。
 彼がある時読んだ職場環境にまつわる書籍には、トランスジェンダーもしくはノンバイナリー当事者の人称を間違えた際にその場で謝ることは推奨されないと記してあった。特に職場という環境はマイノリティが相手に“いや、大丈夫です”と言わせてしまう構造、もしくは空気感が既に形成されている。この謝罪の過程が免罪符となって、差別をしてしまった者が反省しない恐れがある。ここにおいては適切な人称を言い直した後、再発防止を徹底するためのワークショップなどを行うことが重要である、云々。
 これが適切であるのか景には判断がつかない。だが少なくとも、俊夫が何度も言い間違えるというのを鑑みる限り、書籍が推奨する通り、会社でこうした考えを根本から是正するための試みが行われているとは思えない。実際、仕事において彼は無能ではないが、間違いなく性的多様性の時代に追随できてはいない。こうして部下の扱いに苦心し、萎縮している様を見ているとこちらまで情けなくなる。
 それでいて景の目には、赤日の煮え切らない態度にも苛つかされる。俊夫の度重なる間違いに対して“まあ、しょうがない”といったなあなあの態度を、彼は取り続けている。一応勇ましく告白したはいいが、その後は偏見へと受動的に堪え忍ぶという陳腐な美徳を固持しているようだった。
 お前も男ならもっと毅然とした態度とってみろよ。
 この言葉を、もちろん唇を動かし喉を震わせて実際に言うということはない。ただ己の心のなかにのみ響かせる。
 言ったら僕がキャンセルされるからな。
 決まり文句を、また心のなかだけに響かせる。
 しかし暑い。蝉の声も喧騒の度合いを増している。死ぬほど不愉快だ。

 夜、景は「反緊縮の経済学」という経済書を読む。最近、彼はMMTという経済理論に興味を持っているのだが、中でも「財政赤字の神話」を読んでいた際、解説にこの書の名前が掲載されていたのだ。読んでみるならばその理由が明確に分かる。ケインズ、ポストケインジアン経済学派、そしてMMTという反緊縮経済学の流れが、難解ながらも詳細に解説されており、経済学は未だ初学者である景にもいかにしてMMTが勃興を遂げたかが分かってくる。
 そして読書の狭間、彼は集中力が途切れるとスマートフォンを起動させ、Tinderを始める。彼はほとんど1枚目の写真のみで女性を判断し、左スワイプと右スワイプを瞬間に何度も行っていく。画像加工で顔全体に光の粒がビッシリ浮かんでいる女性は全員左スワイプ、旅行で東京に来ているらしい白人女性は全員右スワイプ。彼はスワイプごとに数を数え、これが100に達するとスマートフォンの電源をオフにして、再び「反緊縮の経済学」を読み始める。
 景はこの世には真に新しいものは存在せず、少なくとも現在新しいと思われているものは全てが組み合わせの斬新さであると確信している。彼はこの理論を日常にこそ取り入れているが、こうして“「反緊縮の経済学」という分厚い経済書を読む”と“Tinderでセックス相手を探す”を同時平行で行っていることは、自身の美学の実践でもあった。彼は何となくこの2つの行為が本質として凄まじくかけ離れているように思っている。例えば“デスメタルを聞きながら瞑想を行う”や“萌えアニメを見ながらウェイトリフティングを行う”のように。このギャップと、それにより生まれる奇妙さを景は愛している。
 そしておととい、世間話のネタの1つとして実際にこれを赤日にも話した。
「いや何ですか、それ。変すぎじゃないですか」
 正に求めていた反応を彼がしてくれたので、景は背中にゾクゾクするような快感を味わった。つまり、彼は“誰もしていないようなことしてる孤高な変人の俺、カッケェ……”と常に思いたがっていた。そういった自己を演出するために、趣味の域における組み合わせの創出に余念がない。そして今の趣味が“分厚く難解な経済書を読む合間にデーティングアプリでセックスする相手を漁る”だった。

 景は再びTinderを見る。少し気になる女性が目に入った際、彼は手をとめて他の写真やプロフィールを確認する。最近、この欄がアップデートされたことに彼は気づいている。プロフィール文章の上に性別や血液型などの情報を明記する欄が現れたのだ。他にも運動を行う頻度、酒を飲む頻度、そして自身の宗教の項まで存在している。少しは参考にする一方で、景は反感を感じている。女性についてそんなことまで知る必要はない、邪魔だ。彼自身はこの項に情報を記載することを拒み続けている。
 唇が何度目かの78をカウントする頃、再び目を惹く女性が現れた。makiという名前、黒髪ボブ、角張った眼鏡、鳥居に撒き散らされた塗料のように赤い唇。ぺニスをブチ込むに悪くないものであると思い、景は写真とプロフィールを確認する。写真は友人に撮ってもらったと思わしき旅行中の写真が多い。綺麗な海、輝くような笑顔、美味しそうなステーキ。凡庸な人生と凡庸な人間性だと彼は判断する。それはセックスに些かも関係しない。プロフィールは何の文章もない代わりに、基本情報が羅列されている。A型、お酒は時々、運動は毎日、無宗教、リベラル派、トランスジェンダー女性。
 最後の項を見た時、騙されたような気分になる。トランス女性をTinderで見掛けたことがないわけではない。むしろこういった存在は頗る多く、目にしない日がない。だが彼女たちは必ずプロフィール欄に“トランス女性/ニューハーフ/オカマ”などの情報を明記しかつ自分の現状を長々と説明している。これを分かったうえでスワイプしてほしいということを、キチンとこちら側に明示しているのだ。トランス女性に全く興味がない景は、もし彼女らを魅力的と思ったとしてもこの説明に目を通した後には、安堵しながら右スワイプを行い視界から消し去る。誠実に警告を行い、住み分けを徹底している彼女たちに感謝をしている。
 だがこのmakiという存在はこういった厳守すべきマナーを無視し、自分のような男性を騙くらかそうとしていると景は思った。自分がトランス女性であることについての説明責任を放棄し、自分たちの居場所に土足で踏み入ってきていると。もし写真を見て可愛いと思い、右スワイプしてマッチしたはいいが、実はトランス女性だったということが自分に起こってしまったらと想像するだけでも不愉快だ。事故以外の何物でもない。
「こいつ、マジでふざけるなよ」
 この言葉を実際口にしながら、景は左スワイプを行う。こうした無思慮で卑劣な存在を一度でも気になると思ってしまった自分が情けない。

 翌日の土曜日、景は最寄りの図書館へ行く。
 建物内は強烈な冷気に満たされており、濃密な日差しと激湿に晒されていた景にはオアシスのように感じられた。入り口に消毒液が設置してあるのでそれで手を洗浄していると、股間に尿意が兆すのを感じた。景は本館のある左ではなく、右へと進んでいく。しばらくするとトイレへの通路が見えてきたので、そこに歩みを進めていく。
 迷路のように狭く、カクカクとうねる通路を越え、そして公衆トイレに入る。瞬間、だが違和感を感じた。このトイレには何度も来ているはずが、内部に見覚えがない。妙な空間の広さだ、しかも洗面台や壁の配置がいつもと違う。しばらく心臓を下から熱されるような厭な気分に襲われ、そして違和感の正体に気づくと景は急いでトイレから出る。出てすぐ壁を確認するとピンク色のピクトグラムが設置されている。そこは女子トイレだった。
 吐き気のような恥を感じながら、早歩きで通路を戻るが、突然左側から男が現れる。マスクのうえの瞳はこちらを怪訝に見つめたかと思うと、顔を背けて前へ歩き去る。景は彼が来た道を覗きこむ。そうだった、こちらの通路が男子トイレへ続く道だ。今回、景は何故かトイレへの通路をずっとまっすぐ行ってしまったゆえ女子トイレに辿りついてしまったのだ。本当は右に曲がる必要があったのに。
 違和感は全て氷解した。だが景はさきの男の視線をどうしても思いだしてしまう。汚物を見るような目だった。男にしか見えない人間が女子トイレに入っていくのを見ればそんな目つきにもなるだろう。彼にとって自分は盗撮用のカメラを設置しようとしていた変態、もしくは今流行りのトランス女性。景は昨日、むげに扱ったmakiに復讐されているような気分になった。
 何にしろ、排尿がしたい。景は男子トイレへの道を歩いていく。今度は間違いない。彼が空間に足を踏み入れると、だが違和感がある。ここは男子トイレのはずなのに既視感が全くない。いや、既視感が新しすぎる。洗面台や壁の配置、立っている場所から見えない男性用小便器。
 ここは女子トイレだった。景は急いでトイレから出て壁を確認すると、ピンク色のピクトグラムが設置してある。ここは女子トイレだった。早歩きで元の場所に戻ると、やはり左側に通路がある。1度ここ通りすぎて通路の入り口に立つ。ここは図書館だ。目の前にはよく分からない、とても芸術的な壁画がある。誰が作ったのかに興味が全く持てない。
 景は後ろを向く。尿意が膨れあがる。排尿がしたい、排尿を行う必要がある。3秒道なりに歩き、右に曲がって2秒歩くならそこが男子トイレだ。景は歩き始める。筋肉が軽く痙攣してうまく歩けない。唇が数を数える。何故か進んでいる気がしない。通路は何も変わらずにそこに存在しているのに、己の意識や感覚が変容を遂げているのか。そして道が2つに分岐する。ここまで8秒かかった。今までの経験から判断するならまっすぐ行けば女子トイレ、右に曲がれば間違いなく男子トイレがある。間違いない。景は右に曲がる。2秒うねる道を進めばいい。それだけだ。そして2秒歩いた、当然だがトイレが見える。排尿がしたい。膀胱が筋肉に共鳴するように痙攣を始めている。景はそこに入る。そこは男子トイレではなく、女子トイレである。通路を戻る。分岐路を確認し、また男子トイレへの道を行く。入るがそこは女子トイレだった。通路を戻る。また図書館にまで戻り、壁画を確認する。そこから5秒歩いて右に曲がって2秒歩く。トイレに入ったが、そこは女子トイレだった。トイレから飛び出し、壁を確認するとピンク色のピクトグラムが設置してある。通路を戻り、今度は自分から女子トイレに向かう。3秒歩いてトイレに入る。そこは女子トイレだった。
 もう個室に入っておしっこをすればいい。どこからかそんな声が聞こえてきた。それでもいいのではないかと景は思った。だが足は動かない。靴が床に厳然と接着してしまっている、まるで足裏から無数の根が現れ、既に大地の奥深く体を伸ばしてしまったかのようだ。
 じゃあ漏らせばいい。
 そんな声がした。床を見つめ冷静に吟味するなら、確かに女子トイレの個室に入って排尿を行うよりも、漏らす方が潔いという風に思えた。
 なので景はその場で排尿を始めた。股間へとぬるさが広がっていく。昔、当時の恋人とスペインへ行った時、名前の思い出せない海に彼女と一緒に入った。とても気持ちよかった。それと同じぬるさだ。
 心地よく、救われている。 
 そこで、景は目覚める。あれは全て夢だったらしい。
 急いで股間を確認するが濡れてはいない。夢での排尿は現実の失禁とはよく聞いた話だが、今回は違ったことに安堵する。
 が、安堵の後に加速度的に尿意が込みあげてきたので、彼は急いで自宅のトイレへと駆けていく。流れるように個室へ飛びこみ、ズボンと下着を脱ぎ、便座に座りながら右手でぺニスを便器の底へむけ、そして尿をブチ撒ける。
 最高の気分だった。
 現実の排尿に勝る快感はない。
 しかし排尿はすぐ終わる。名残惜しい。
 ふと床を見ると、ズボンの傍らにスマートフォンが落ちている。右手でぺニスを揺らし、先端の残滓を振り払いながら、腰をかがめて左手でスマートフォンを取る。
 電源をつけロックを解除しようとすると、何かをアップデートしているとの旨が表示される。邪魔臭い。
 それが終ると元の画面に戻るのだが、まず3:35という時刻が表示される。もう既に“翌日”になっているらしかった。今から8時間ほど後には図書館へ行くだろう。くれぐれも、今度はトイレを間違えないようにしたい。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。