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コロナウイルス連作短編その161「どうして世界は」

 だが世界は寒い。
 そして東岳三城の足の甲は痛み続ける。
 それは数日前からだ。読んでいた本に奇妙な描写が出てきた。
 演奏に使われる指揮棒、数百年前それは金属でできた巨大な杖のような形状をしていたのだという。指揮者はこれを使って演奏を統制していたが、ある高名な指揮者が演奏中にその指揮棒で自身の足の甲を突き刺してしまう。そしてこの傷が原因で命を落としたのだという。
 この逸話は地政学についての本に書かれていた。なぜ地政学の本にこの逸話が書かれていたのか、三城は既に思いだせないでいる。しかし文章を読んだと同時に、左の足の甲を貫かれる幻痛に苛まれたかと思うと、そこからちょっとした拷問が幕を開けたのだった。
 三城は今、外を歩いている。
 3月も終りに近いが、凄まじいまでに寒い。空気の微細な粒子が全て死に絶え、その死骸の冷たさが人間へ復讐を果たしているかのようだ。
 訳が分からない。数日前まで春めいた陽気が町に広がっていたはずだが、それらは影も形もない。今や悉く撃滅されている。
 そこに追い討ちをかけるように、雪が降ってくる。空を見上げるなら、どこまでも灰塵色の世界が広がっているのが見える。つまり雪は灰だ、人間だけでなく地球そのものが死に向かっている。手が冷たい、そこに血が駆けるのを感じられない。
 前から女性が歩いてくるのに、三城は気づいた。
 目許だけで彼女が外国人だと分かる、もっと言えば白人だった。何故だか直感として、彼女がロシア人だと思った。今や彼らは世界の敵だ、世界で起こっている悪しき出来事は彼らが原因だ、三城はそう思おうとする。
 ウクライナで虐殺が起こっている、ロシア人のせいだ。日本で電力が逼迫している、ロシア人のせいだ。三城がバイトを馘になった、ロシア人のせいだ。町が破滅的な凍てつきに包まれている、ロシア人のせいだ。コンビニでたらこおにぎりが売り切れている、ロシア人のせいだ。地球がもうすぐで滅亡する、ロシア人のせいだ。
 女性と三城はもうすぐでスレ違う。彼は彼女の瞳を見る、深く蒼い。白人の蒼い瞳を見ると、マイナスドライバーで滅多刺しにしたくなるのが三城の癖だった。スレ違った後、三城は方向転換をし、女性の背中を追う。それはニスを塗られた木材の焦げ茶に包まれている。白人の濃厚な体臭をその色彩が覆い隠しているように、三城に思われた。
 ふと、自分が左足の甲に幻痛を感じていないことに気づく。こうして自分が気づいたということを認識した後にも、幻痛が復活することはない。数日ぶりの解放感がある。三城は嬉しくなって、ポケットに突っ込んだ両手の指を支離滅裂に蠢かせる。そうして女性に危害を加える風景を想像する。彼女自身は後ろを歩く日本人男性がそんな妄想を巡らせていることを全く知らない、そう考えると背中がゾクゾクした。
 突然、女性が地面に倒れた。
 三城はその事態をとっさに理解できず、混乱に陥った。
 だがその肉体は重力に引っ張られるがごとく、女性の方へ疾走する。
 彼我の距離は瞬に消え去り、三城の腕が倒れた女性をすぐさま抱きかかえる。
「大丈夫ですか、大丈夫ですか?」
 三城の喉は大きくそう叫ぶが、女性から反応はない。
 三城の右腕は自身の鞄から携帯を取り出し、三城の親指は何の躊躇もなく電話番号を打ちこむ。
「もしもし、すみません、突然目の前で人が倒れたんです」
 三城の喉と舌と唇が相互に作用しながら滑らかに駆動し、現在の状況を電話の向こう側にいる救急隊員へと迅速に伝えていく。
 隊員に現在地を聞かれ、三城の首と頭が驚くべき速度で回転した。
 三城の網膜が近くにある公園、遠くに微かに見えるショッピングモールを認識する。
 三城の脳髄でその情報が瞬時に処理されたかと思うと、三城の喉が震えて、三城の唇から言葉が放たれる。
 三城は、肉体に置き去りにされていた。この肉体の動きに彼が介在する余地がなかった。彼は左の足の甲に意識を向けようとする。そこにまだ幻の痛みは在ってくれるか、せめて確認したい。
 何でなんだよ。
 三城は思う。
 どうして世界は俺の憎しみを邪魔するんだ?

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。