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コロナウイルス連作短編その40「幸福」

 自転車に乗って黄昏の街を駆ける途中、足立斎は歩いている女性を見つけたので、横を通り過ぎる際にその胸を触った。下着のせいで感触は明らかに固かった。おそらく夜空に手を伸ばして、実際に星を触ったとしたらこんな感触を味わうのだろう。斎は全速力で彼女から逃げ去る。
 いい気味だな、クソマンコが。
 しばらく走っていると、横に帽子を被った小学生が現れた。帽子に書かれている英語を斎は読めなかった。
「兄ちゃん、さっきおっぱい触ってたよね!」
 その言葉に驚いたが、斎は堂々とした態度を崩さないままに返事をする。
「ああ触ったよ、すごいだろ?」
「うん、マジですげえ。俺、あんな勇気ねえわ」
「だろ、でも俺は結構勇気あるんだよなぁ」
「どんな感触だった?」
「すっげー柔らかかったよ、プリン触ってるみてえな感じ」
 嘘をついたのは、少年を幻滅させたくなかったからだ。
「俺もおっぱい触りてえ」
「同級生のおっぱい触ればいいだろ」
「でも小学生のおっぱいなんて石みたいにかってーって感じで、何も面白くないよ」
「じゃあお前の母親のおっぱい触れや」
「馬鹿、そんなことする訳ねーだろ、キモ!」
 そして笑いながら、少年は去っていった。
 家に帰り、斎は寝室へと赴く。そこには斎の恋人である木勢健太がいた。彼はトランス男性で、現在は生理中だった。
「大丈夫か?」
「うん、ぶっちゃけ大丈夫じゃないな」
 健太は弱弱しく笑顔を浮かべた。その時に細まる彼の瞳はまるで力なく輝く三日月だ。斎の心は掻き毟られる。リビングに行った彼は買ってきた牛乳を温めて、ココアを作る。そして健太のもとに持ってきた。
「今から夕ご飯作るからさ、もうちょっと待っててくれ」
「うん、分かった」
 斎は彼のお腹を優しく撫でる。健太は赤ちゃんキツネのような無邪気な笑顔を浮かべた。
「くすぐったい、やめろよ」
 斎は健太のためにスープを作りはじめる。ひよこのように可愛らしい黄色いムング豆を水のなかに入れる。水が沸騰して豆がご機嫌に見え始めたら、ターメリックを加える。その辛辣な香りが、斎の鼻を楽しませる。アクを取った後に、弱火で数十分間、ムング豆の姿が見えなくなるまで煮込んでいく。そして微塵切りにしたトマトを塩を加えて、再び煮るのだ。少しずつ形を成していくスープに、斎の心も躍りだす。鍋の傍らで、彼はフライパンに微塵切りにしたショウガや鷹の爪、ローリエやクミンシードを入れて炒めていく。今度の匂いはもっと複雑で、まるでジャクソン・ポロックの描いた抽象画のように謎めいている。その馨しさを楽しみながら、斎はコリアンダーとヒングを入れて炒め、それらを鍋に入れた。こうして完成したスープを器に盛り、彼は健太のもとへ向かう。
 斎と健太はベッドに座って、一緒にスープを飲む。スープの温もりは深く優しく、血潮に乗って全身を駆けめぐるかのようだった。
「美味しい、やっぱ斎の料理は最高」
 そう言う健太の口の周りが黄色くなっていた。斎は人差し指でそれを綺麗にした後、彼の額にキスをした。
「何で唇じゃないんだよ」
 健太はそう言いながら、怒りを誇張してみせる。
「はは、ごめんごめん」
 そう言って頬にキスをすると、健太は斎の顎を持って、キスをしてくる。身体は小さいながら、健太のキスは勇大で、まるでモンゴルの野を駆ける大将軍のように大胆なものだった。
 斎はトイレに行き、便器に座る。そしてトランクスに付けていたナプキンを外し、膿で泥々になった表面を見据える。彼は痔瘻ゆえに尻穴からとめどなく膿が出ており、それをケアするために常時健太の持っているナプキンを付けていた。手術をするくらいなら、激痛と膿に一生苛まれる方がマシであると彼は考えていた。もしそれが原因で人工肛門をつけなければならない状況に陥ろうと、渡哲也も人工肛門をつけながら勇ましく人生を生きていたことを考えると気が楽になった。
 膿で汚れたナプキンはあまりにも醜かった。吐き気を催す類の茶色に汚染され、そこからは悪臭が無限に湧きでてくる。レイテ島で戦死した日本兵の尻はこういう風に汚れていたのではないか?と、斎はそんな想像を抑えられなかった。そして斎はナプキンを鼻に近づけて、その悪臭を肺一杯に嗅ぎとる。
 本当に、本当に良い匂いだ。
 斎はそう思いながら、激しい呼吸を続ける。斎にとって膿の匂いは何にも勝る生の匂いだった。この匂いを嗅ぐ時、斎は本当に生きていると感じた。花の毛穴に膿が滲みこんでくるのを感じる。膿が再び彼の身体へと戻ってくる。斎は心の底から幸福を感じた。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。