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コロナウイルス連作短編その2「ありがと、忠雄さん」

 今井忠雄はオフィスで仕事をしている途中、咳をした。最初はミミズの呼吸のように小さなものだった。しばらくしてから、再び咳をする。喉に焼けるような痛みを感じていると、咳が止められなくなる。身体の中で心臓が膨張と収縮を暴力的に繰り返しているような感じで、凄まじく不愉快なものだった。周りの同僚たちが生温い軽蔑混じりの視線でこちらを見てくるが、咳を止めることはできない。忠雄は凍てついた死骸のような恥ずかしさを感じた。
「おい何だ、今井ぃ! お前、コロナか?」
 上司である町山澄がそう言いながら、忠雄の元にやってくる。そして彼の背中をダンダンとバスケットボールをドリブルするように叩いた。あまりの苦しさに血を吐くかと思ってしまう。澄という男は若く有能でありながらも、傲慢だった。親密さを嘲笑と履き違えている類いの人間だった。
「コロナはマジでヤベエよなあ。今井みたいなおじいちゃんが罹かったら、死んじまうよ」
 その言葉に同僚たちは笑った。澄は三十代であるが、忠雄は五十代だった。
「でもうるせえから、さっさと咳止めろよな」
 言われなくても、と反発を覚えながら、実際には咳を止めることはできない。部屋の雰囲気が冷たくなっていくのを感じた。
「今井、お前ガチでコロナなんじゃねえの?」
 澄は耳たぶを引っ張りながら言った。不快感を露骨に表しながらも、その一方で台風を前にした小学生のような興奮もその頬には浮かんでいた。
「いいよ。今井、お前帰れや」
「い、いや。帰りませんよ」
「マジで良いって。早く帰れ。どうせお前なんかいなくても、仕事に支障は出ねえよ」
 忠雄は自分の不要さを呪った。五十代も半ばを過ぎて何て惨めな人生を送っているのかと悲しくなる。だが咳は止まらない。
「マジで帰れ。コロナウイルスが会社に蔓延したら、こっちが困るんだよ」
 澄は無慈悲にそう言った。鼻が脂まみれだった。
 俺がコロナな訳ないだろ、だが忠雄はそう言えずに家へ帰った。

 家に帰る途中で咳は収まったが、今度は少し熱っぽさを感じた。早くも自分がコロナウイルスに罹患しているように思えてくる。だが忠雄は否定し続けた。
「ただいま」
 家に帰ってくると、妻である今井真宮子が驚いている。
「何してるの。まだ二時だけど」
「俺が咳してたら、上司が“お前はコロナウイルスだ”とか言ってきたんだ。それで会社で蔓延しないようにと帰された」
「何それ。下らない」
 真宮子はお腹を掻いた。服の上からでも彼女の腹が醜く肥え太っていることが伺える。まるでその腹の中にアルマジロを溜めこんでいるかのようだ。彼はアルマジロが鋭い爪で脂肪を切り裂き、外界へ現れる姿を想像した。真宮子のお腹から現れるアルマジロはおそらく赤色で、醜い鎧を纏っているのだろう。もし本当に出てきたなら踏み潰してやると心に決める。
「あなたがコロナウイルスに罹かってるなんて有り得ない。馬鹿げてる」
「何でだよ。罹かってる可能性はあるだろ」
 苛つきのあまり、忠雄は思っていることと逆のことを言ってしまう。
「近くのライブハウスでコロナウイルスが蔓延したってニュースもあっただろ。いつどこで病人とすれ違ってるか分からないんだ。俺が罹かってる可能性もあるだろ」
「何、そんなムキになってるの」
「なってない。ただお前が馬鹿だから、可能性について話してやってるだけだ。大体、何でお前は俺の言うことに対して、いつも否定から入るんだ? 俺が真剣に話していても、お前は適当にしか聞かずに、俺の言うことを否定する。いちいち不愉快なんだよ。お前は人をムカつかせる天才だなといつも思うよ。吐き気がするんだ、お前と話してると。お願いだから、俺の話を真剣に聞いてくれ」
「……………………」
 真宮子は何も言わずにどこかへ行った。
 このクソボケが。忠雄は心の中でそう毒づく。
 心なしか、熱が上がってきたような気がする。しかし彼は出かけることに決めた。

 外を歩いていると、通行人全員がマスクを装着しているのに気がつく。その姿は正に間抜け以外の何物でもないと思わされる。忠雄は、そのマスクを剥ぎ取って尻の穴に突っこんでやりたいと思う。ケツが黴菌に汚染されればいいのにと願う。そして目の前から、やはりマスクを装着した女性が歩いてくる。瞳は尿の色をしていた。忠雄は、彼女がマスクを取ったなら規格外の不細工な顔が現れるだろうと予想した。その顔について考えていると面白くて、自然と柔らかな笑みがこぼれた。
 忠雄はジムに行った。彼はマシンに座り、周りを眺める。コロナウイルスのせいで人数は減ったとはいえ、まだまだ人はたくさんいた。この逼迫した状況であるからこそ、身体を動かしたい人は多いのだろう。ある一人の女性が、ランニングマシンで走っていた。忠雄は彼女の姿をじっと見据える。彼女の乳房は大きく、走る度に乳房が揺れていた。それを見ていると、自然と心に晴れやかな雰囲気が広がる。臀部も大きく、乳房と臀部の揺れはシンクロしていた。それでいて、女性の表情は真剣そのものなのが滑稽に思える。女性は乳房にヴァギナという、すこぶる猥褻な部位を持ちながら、どうしてあんなにも何もない風を装えるのか。忠雄には疑問だった。そしてそれらを真宮子も持っていることに思い至り、吐き気がした。
 その時、忠雄は咳をする。すると周りの人々が怯えたような、苛ついたような視線を向けてきた。会社で繰り広げられた光景と同じでウンザリした。だが忠雄は開き直ってみようと思える。わざと咳をしてみる。人々の顔では苛つきより怯えが勝っているように思えた。マスクをしていた女性の怯えようなどあまりに間抜けだ。
 ジムでマスクしてんじゃねえよ、クソボケババアが。
 心の中で毒づきながら、咳を続ける。そして一度手で口を覆った後、彼はマシンに触る。人々は信じられないといった風に忠雄を見てから、そしてそそくさと逃げていく。忠雄は笑いを抑えきれなくなる。自分が日本における重要人物になったようで気分がいい。そして忠雄は悠々と筋トレを始めるんだった。

 その後、会社の後輩である牧茂人と合流して、近くのルーマニアパブ“Dragoste”に行った。“Dragoste”とはルーマニア語で“愛”という意味と聞いたことがあった。ドラゴンのように雄々しく勇大な愛、それは美しいもののように思えた。パブに入るとプリマヴァラという金髪の女性が迎えてくれる。彼女の日本語は明らかに片言であるが、それが三歳児を思わせて可愛かった。他にもヤルナやアルバストラが迎えてくれて、嬉しかった。
 ソファーに座り、酒を飲みながら、堂々と自慢話を始める。だがそれらは全て嘘だった。真宮子が眠った後、彼は小説家のように話を作り上げているのだ。だがその虚構を話すと、プリマヴァラたちは大袈裟なまでに喜んでくれる。彼女たちの表情は死人のような日本人女性よりも色とりどりだ。プリマヴァラはルーマニア語で“春”という意味らしいが、正にその春が彼女たちの顔の上で咲き誇っている。それを見ると心が洗われるとともに、真宮子の顔に唾を吐きかけてやりたくなった。
 そして茂人の上手い胡麻すりを背景に自慢話を続けていたところ、忠雄は咳をする。
「忠雄さん、コロナウイルスですかあ!」
 プリマヴァラが大仰な驚き顔とともにそう言った。
「そうなんだよ。俺、コロナウイルスなんだ!」
 忠雄がそう叫ぶと、プリマヴァラたちは笑いながら悲鳴を上げた。茂人も爆笑している。
「こわい! ちかよんないでえ」
 プリマヴァラが下手くそな日本語で言うが、忠雄は咳を続けながら彼女に近づく。そして頬にキスをした。忠雄は金払いが良いので、これくらいは店側から許されていた。さらに彼はプリマヴァラの尻を触る。彼女の表情がひきつるが、それが快感を増幅させた。
「俺はコロナウイルスに罹かってる! 俺はコロナウイルスに罹かってるぞ!」
 そう叫びながら、忠雄は店の中を走り回る。その姿はまるで幼稚園児のようで、彼は笑ったしプリマヴァラたちも笑った。ただ中華系の店員だけが露骨に不愉快な顔をしていた。
「俺がコロナウイルスだ!」

 帰り道、忠雄はプリマヴァラと一緒にホテルへと向かう。
「セックスの後、お金いっぱいあげるからな。待ってろよ」
「ありがと、忠雄さん」
 プリマヴァラは笑った。
「お前のオマンコはめちゃくちゃ締まってて、最高の名器だよなあ。お前のオマンコに精子ドピュドピュするのはもう絶頂だよ」
「ありがと、忠雄さん」
 プリマヴァラは笑った。明らかに忠雄の言っていることの意味は分かっていなかった。
「でもお前のおっぱいに挟まれるのもいいなあ。お前は本当に淫乱なくらい巨乳だよ。デカイ爆弾みたいだ。ルーマニア人ってみんなお前みたいに巨乳で美人なのかな? 俺、ルーマニアじゃ射精しまくりだろうな。町や美人が全部俺の精子まみれになるんだ。嬉しいだろ、プリマヴァラ」
「ありがと、忠雄さん」
「この能無しアマが。眼球をぺニスで突かれたいのか?」
「ありがと、忠雄さん」
「後で精子飲ませてやるからな、アバズレ」
「ありがと、忠雄さん」
 忠雄は再びを咳をし始める。止めようとするが、咳は酷くなるばかりだ。
「忠雄さん、大丈夫?」
 プリマヴァラは彼を心配する。だが咳は止まらない。
「ねえ、ほんとにコロナウイルスなの?」
 彼女は怯え始める。そして忠雄は咳に集中しすぎて、思わず転んでしまう。プリマヴァラは寄り添おうとしながら、忠雄は彼に咳をブチ撒ける。
「うわ!」
 プリマヴァラは怒りの表情を浮かべて、走り去ってしまう。
「プリマヴァラ! プリマヴァラ!」
 叫んでも、彼女は止まらなかった。そして咳は酷くなっていく。内臓が紙ヤスリで削られるような鋭い痛みを感じる。濃厚な苦しみに首を絞められていき、息すらも絶え絶えになっていく。忠雄は視界が霞んでいくのが分かった。
「クソ……クソボケ……」
 痛みを引きずりながら、忠雄は床を芋虫のように這いまわる。
「クソ…………クソ……」
 忠雄は地面にゲロをブチ撒けた。忠雄の顔はそのゲロ溜まりに落ちていき、彼はしばらくの間その中で溺れた。ゲロが口を満たし、忠雄は息ができなくなる。独りでに身体が痙攣を始める。それでも何とか這いずり続け、彼はゲロから脱出した。忠雄はゲロまみれの身体で、掠れた声で叫んだ。
「助けてくれ
「助けてくれ……助けてくれ!
「助けてくれ!
「助けてくれえ……お願いだから助けてくれ
「助けてくれよおおおおお……
「助けてくれ、助けてくれ……
「助けてくれ、助けてくれよおおおおおおおお…………
「助けて

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。