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コロナウイルス連作短編その130「眼球の高速回転運動」

 軽部朝坂はソファーに寝転がり本を読んでいる。『消失の惑星』という海外文学だった。ロシアのカムチャッカ半島を舞台に、2人の少女の誘拐事件とその余波を描きだした作品だ。だが作者はセンセーショナルな描写を避け、事件自体は最小限に、それが共同体に起こす余波に紙幅を多く割いている。スラブ系の白人と先住民たちの複雑な軋轢も印象的だ。ロシア、しかもカムチャッカ半島という日本にも程近い土地、この地の文化を描いているというので朝坂は興味を持ったが、予想外だったのは今作を執筆したのはロシア人ではなく、アメリカ人だということだ。あとがきに寄れば何度もその地で調査を行いながら、執筆に10年をかけた労作だということで、精緻な細部から彼女の努力が伺える。だが結局はアメリカ人だ、そんな不信感が首をもたげる。英語という特権的な言語を操る者だけが、物語を世界に対して語る資格があるとでもいう風に。
 リビングに茜鏡子が戻ってくる、娘である真子を寝かしつけてきたところだ。彼女の姿を目にすると、朝坂は本を傍らにおいて、腕を広げてみせる。すると鏡子はくしゃっと笑顔を浮かべて、その胸に飛びこんでいく。ぎゅっと彼女を抱きながら、朝坂は頭のつむじにキスの嵐を浴びせかけ、匂いをくんかと嗅ぎとる。
「くちゃいですねえ」
 そうおどけて言ってみせると、鏡子の笑顔のくちゃくちゃさは更に深まって、もはや泣き顔と見分けがつかない。それがひどく愛しくて、彼女を押し倒してから今度は唇にキスをして、体温を共有しあう。
「鏡子さんとのセックスって“セックス”ってより“エッチ”って感じがする」
「何ですか、そのおじさんみたいな言葉遊び」
 鏡子は朝坂の唇の皺を右の人差し指でしずかになでていく。
「前の恋人とのは、かなり“セックス”って感じだった、しかも良くない類の。テクニック自体は別に悪くなかったし、むしろ最良に近かったんだけども、何というか、私を傷つける類のやつだった。興奮すると、彼、言葉攻めみたいなのしてくるんだけど、自分でも抑えが効かなくなるみたいに私を罵倒しまくってきた。その当時は、何だかすごく興奮して鳥肌がずっと立つみたいな快感を感じてたの覚えてるけど、確実に私は傷ついてた。ある時言ったんだよ、『そんなデカい胸してよく町歩けるな』みたいなね。その時はゾクゾクしたけど、振り返ると最低だね。快感の影で自分が傷ついてるのに気づいてなかった。でも、今は違うな。鏡子さんは優しくて、暖かくて、キスしてる時もすごく安心する。こういうのをね、私は何か“セックス”じゃなくて“エッチ”って言いたくなる、まろやかな感触の言葉が使いたくなる」
 鏡子は恥ずかしげにはにかむので、朝坂の方がその唇を左の人差し指でなでる。
 ソファーでしばらくじゃれあった後、鏡子がねむたげな表情を見せる。
「んー、もうそろそろ寝ますね」
「うん、おやすみなさい。私はネトフリで何かドラマ見てから寝ます」
「……今日、私たちのところで寝ませんか?」
 そんな風に言ってくるので、朝坂は少し驚く。
「真子がね、『あーちゃんとも一緒に寝たいなあ』って言ってるの。あの子、もう朝坂さんのこと受け入れてるのかなって少し思います。優しい子だから、本当に。だからもし私たちと一緒にベッドで寝てくれたら、嬉しいなと」
 朝坂が少しの間何も言えないでいると、その沈黙を取り繕うように、鏡子は小鳥の啄みのようなキスをした後、おやすみも言わずに寝室に行く。朝坂はしばらくソファーに寝転がったまま『消失の惑星』の続きを読もうと思いながら、内容が全く頭に入ってこないことに気づく。結局本を何となく床に投げ出して、電気も消さずに目を閉じるも、眠ることはない。数十分後、意を決して寝室に赴いた。部屋の窓に、カーテンはかかっていない。真子は月の光の青さが好きで、いつも鏡子にカーテンは閉めないでお願いしている。実際、夜にこの部屋にカーテンがかかっているのを朝坂は見たことがない。月光に誘われながら、ベッドの方へと進んでいく。175cmと、日本人女性としては高めの身長を持つ鏡子、その寝姿は何となくカムチャッカ半島の細長さに重なって見える。彼女に寄り添うように、真子が眠っている。胸に抱えているのはぬいぐるみだが、それはクマやウサギのような動物ではなく、ダイオウグソクムシという奇妙な深海生物を象っている。実際の映像で見ると、巨大なダンゴムシといった風でゾッとしないのだが、ぬいぐるみとしてデフォルメされたこの生物はなかなか可愛らしい。そんなキモ可愛さというものを真子は愛しているみたいだった。
 最初、朝坂は鏡子の背中側に寝転がろうと思うが、あまり空間がない。なので鏡子のお腹側、つまり真子の傍らに寝転がるしかないようだった。恐る恐るベッドの端に行き、まず腰を下ろして真子の顔を眺めてみる。青白さというのは顔に浮かぶには歓迎できない色彩だが、そのなかでも真子の寝顔はすこぶる健やかなものに見えた。それに勇気づけられて、朝坂はやっとベッドに身を横たえる。自分の頭の横に、真子の頭が並ぶ。顔は母親の方を向いており、後頭部しか見えないが、何となくそれがあのダイオウグソクムシに見える。カムチャッカ半島とダイオウグソクムシが並んで眠っている、そう考えると何だかおかしい。じゃあその隣でこれから眠る自分は一体何だろうかと思う。突然“巨乳”という言葉が思い浮かんだが、さっき鏡子に過去の厭なセックスについて話したからだろうと苦笑する。だがそのせいで“巨乳”以外の言葉が浮かばなくなり、うんざりした。
 おやすみなさい、朝坂は心のなかでそう言って目を閉じる。

 真夜中、突然に目が覚める。まず目が漠砂さながらに干からびたような、広大な乾きの感覚が鮮やかに浮かぶ。最近はいつもそうだ、起きている時は全く気にならないが、睡眠の途中にはこの乾きがある種の逼迫感を以て朝坂に肉薄するのだ。朝、起きる時が最も酷く、目薬を差さないとまともに目が開けられない状況になる。それでも目薬を1度差すなら、潤いによって乾きは暴力的に駆逐され、さっきまで煩わしかったのは一体何だったのかと思わされる。なので病院に行くなどはせず、スースーする成分が入った安い目薬を定期的にドラッグストアで買いにいくのみだ。
 この時は寝て時間が浅いゆえに、乾きはそこまで酷くない。目をこすって、目脂をこそぎ落としていくと、乾きもまた消え去る。そこで初めて、真子の顔がこちら側に向いているのに気づく。だが様子が変だった。月の微かな明かりに真子の表情がぼやと浮かびあがるが、瞼が開いているような気がした。本能的な恐怖から後ずさってしまうが、むしろ瞼の開きがクッキリと見えるようになる。その中で、真子の眼球が動いていた。闇に溶けこむほどに濃い黒目が、支離滅裂に動き回っている。明らかに、眼球が回転していた。健やかな寝息に祝福されながら、静かに、だが異様な速度で。今まで見たことのない光景に、朝坂は生唾を呑みこむ、正確には呑みこもうとする。だが喉の筋肉が痙攣して、うまく嚥下という動作を行うことができない。それどころか全身がうまく動かせない。必死に念じ、念じ続けて、やっと瞼だけは閉じることができる。寝返りはできず、ゆえに瞼の向こう側では、あの小さな眼窩に包まれた真子の眼球が、グルグルと些かも速度を緩めることなく回転運動を続けている。それが恐ろしくて、肉体が勝手に震える。瞼をかたく閉じて、悪夢なら早く覚めてくれと願う。一方でまるで他人事のように、夢から覚めたいのに目を閉じるなんて間抜けと、自身を嘲笑うような第2の思惟が朝坂を苛む。朝はまだ来そうにない。

 そして朝坂は目覚める。朝が重い、眠気は殺人的だ。だが何よりも目の中の乾きが酷かった。執拗に目をこすり、目脂を撒き散らしていくが、目薬が見つからない。横には真子も鏡子もいない。
「鏡子さん、鏡子さん!」
 そう助けを求めるように叫ぶと、彼女は急いで寝室へやってくる。
「どうしたんですか」
「目薬、目薬がない!」
 鏡子はリビングに行き、また戻ってくると当然のように目薬を持っている。琥珀色の角張った容器が、鏡子の手のなかで輝く。その親指がささくれだっている。
「普通にバッグのなかにあるじゃあないですか」
 朝坂を子供扱いする風にそう言うと、目薬を手渡してくる。容器が生ぬるい。急いで両目に薬を差していく。左目へはスムーズに点眼できたが、右目は何か睫毛に邪魔されて上手くいかない。やっと両方に差すことができたが、今度は薬の量のバランスが気になる。右目には大量の薬が入り、草原が炎に焼き払われるような猛烈さで、あの爽やかな潤いが眼球へ広がる。それに比べると左目の薬量が少ないように思える。特段気にするほどのことでもない筈が、いてもたってもいられずもう1滴薬を点眼し、やっとバランスが取れたような気になる。神経質に瞬きを繰り返して液体を眼球に馴染ませて後、余剰分を布団で拭き取っていく。
「大丈夫ですか?」
 そんな心配を言葉もなく手でそっけなく振り払ってしまう。彼女はリビングへ戻るが、足音を聞きながら朝坂は自分の態度を反省した。
 目の調子が戻ってきたので、やっとリビングへ赴く。テーブルに向かって、真子がもしゃもしゃとトーストを食べているのが見える。今日は幼稚園は休みなので、寝ぼけ眼のまま気楽に朝食を続けていた。朝坂の脳裡にはあの光景が浮かぶ。青白い闇のなかで、真子の眼球が高速で回転していた異様な光景。表情が強ばるのを感じる、大人げない態度と分かりながら表情筋の緊張をほぐすことができない。
「おはよお」
 朝坂はわざと気の抜けたような挨拶をするが、自分でも不自然すぎると思えた。真子はパンを頬張りながら、目をつぶったままで「おはおう」と返事をする。あの瞼の裏側で、そう思うと足の筋肉が一瞬震える。
「どーしたの?」
 真子がそう尋ねてきた。態度の変化を目敏く見透かされたようで、気圧される。心の底から、厭な感情の滓がゆっくりと舞いあがってくるのを感じた。
 鏡子がテレワークで部屋に籠る一方で、朝坂は家に帰る気分にならずにリビングで適当にニュースを見ている。ロンドンでは空港が開き、アメリカからの観光客を受け入れるようになったという報道が流れている。だがこの前は、ドイツとともにイギリスは最悪レベルのコロナ感染が蔓延しているというニュースを見た気がする。何かがおかしい気がした。
 傍らでは真子が動物図鑑を見ながら、白い画用紙にクレヨンで絵を描いている。彼女は海洋生物が好きなのだが、少し不思議なのは綺麗な魚や貝よりも、奇妙な形をした節足動物や軟体動物が特に好きだということだ。ぬいぐるみまで持っているダイオウグソクムシはもちろん、ウミウシやカイメン、イカといった動物たちだ。実際に図鑑で彼らの姿を見つめると“キモ可愛い”というより“キモい”という言葉の方が先立つ。彼女に好きな理由を聞けども「なんか好き!」と要領を得ない、元気ばかりの返事しか聞けない。
 今は海底にへばりついて、カメレオンさながら地表の色に溶けこんだタコを見ながら、その絵を描いている。時々は自分でもタコの動きを追体験するように、床に這いつくばってモゾモゾと動く。その姿は可愛らしいのだが、図鑑のタコ自体は気味が悪い。絵を描いてはモゾモゾ動くのを繰り返すうち、床に這いつくばったまま真子は眠ってしまった。胸がギュッと締めつけられるような愛しさを感じた。ソファーに置いてあった、足を暖める用のタオルケットを持って、彼女の元に行こうとして、あの風景が頭に浮かぶ。思わずソファーに座り直してしまう。何か落ち着かない気分で、しばらく貧乏揺すりを続けた後、携帯で“寝る 眼球 回る”と検索してみた。幾らか精査して分かったのは、眼球が高速で回転するというのは何も珍しいことではないことだ。人が深い眠りに落ちている時間、いわゆるレム睡眠を行っている時間、眼窩において自然と眼球が回転しているのだという。だがそれ以上の詳しい情報はネットに載っていない、少なくとも朝坂にはどう検索すればいいか分からない。
 それでもこの科学的な見地は、あの風景を、自分があの時に感じた本能的な恐怖を説明できないと朝坂は確信していた。そのレム睡眠を行っている際、瞼が開いているというのは有り得るのだろうか。確かに目を開けたまま眠るという人物の話を聞いたことはあるが、今まで朝坂自身がそういった人物を見たことはない。あの出来事を経て、真子という存在が自分の理解の外へ行ってしまったように、朝坂は感じた。
 全身の筋肉を硬直させながら、床で眠る真子へと近づいていく。そしてタオルケットを落とすようにその体へとかけた。罪悪感を抱きながら、朝坂は鏡子の部屋へと行く。

「真子ちゃん、寝ちゃった」
 ベッドの端に座りながらそう言うと、鏡子がその視線をパソコンからこちらへ向ける。
「床で寝てます、寝てる、ます、ソファーに移した方がいいかもって思ったけど、気持ち良さそうだから、あの、そのまま、タオルケットかけてあげて……」
 付け加えた言葉の数々は間延びしている、まるで罪悪感でふやけてしまったようだった。
「うん、大丈夫ですよ。あの子、床にびたあってなりながら、お昼寝するの好きなんですよ」
「へえ……」
 鏡子はパソコンの方を向き直して、仕事を再開する。後ろから抱きしめて、わざとゴールデンレトリーバーさながら、鼻を大袈裟に動かしながらつむじの匂いでも嗅いでやろうと思いながら、実際には何もしない。そしてもはや何もしない時にも、あの光景が思い浮かんで抑えられない。
「あの、鏡子さん……」
「何ですか?」
「何か、あの」
 喉に引っかかる言葉を、何とか吐き出そうとする。
「真子ちゃん、寝る時、なんかちょっと変な時ありませんか?」
 口調がかなり畏まってしまう。
「はは、いきなり何ですか。何か、大きいイビキかいてるとか?」
「まあ、まあ、そんなのとか」
「ううん、全然。いつも本当に気持ち良さそうに寝てて、何の変なところもないですよ。もうこのまま起きないんじゃって怖くなるくらい健やかな感じで」
「そうです、か」
 語と語の間で、不自然な空白が生じたのを朝坂自身が最も感じていた。だが鏡子は特に不審に思うこともなしに、パソコンに向かい続けている。朝坂は自分を奮いたたせて立ちあがり、後ろから彼女を抱きしめると、わざとゴールデンレトリーバーさながら、鼻を大袈裟に動かしながらつむじの匂いでも嗅いだ。
「ちょっと止めてくださいよお」
 そうは言いながら、声色は喜んでいる時のそれだ。朝坂は喜んでいない、必死だった。

 朝坂は少し残酷なことに気づき始めている。好きなのは鏡子であって、真子のことではないと。
 1年半前に彼女は出渕薫という元恋人の男性と最悪な別れを経験した。彼は恋人としてほぼ文句のない性格をしていたが、致命的な欠点があった。まるで息を吐くでもするように、人を傷つけるような卑猥な言葉を連発するのだ。友人である新里舞は、彼は汚言症という精神疾患ではないかと疑っていたが、精神科医に判断を仰いだ訳ではないゆえに、そこは結局ハッキリしていない。しかし度重なる卑猥語や罵倒に耐えかね、不満が爆発した朝坂は薫を何度も殴りつけ、関係性は破綻すると同時に泥沼化した。舞の仲介もあり、最終的には関係を完全に断つことができたが、朝坂はセラピーやアンガーマネジメントの講習を受けることになるほど、深い傷を負った。
 そうして歩くような早さで回復を遂げていくなか、9ヵ月ほど前に会ったのが鏡子だった。Tinderでまず彼女の写真を見た時に、視線が離せなくなるのを感じた。透き通った頬骨を持つ、綺麗な女性だと心を掴まれた。プロフィールを読むとバツイチでシングルマザーであるという情報が正直に記されていた。少し躊躇いながらも、その中で自身がバイセクシャルであることも記されているのを見て、最終的に右にスワイプした。数日後にマッチングして、2人はぎこちなく会話を始める。読書や映画鑑賞など趣味に関する無難な話題で互いを知りあい、1回目のデートに赴く。実際にその頬骨を目にして、好意は早くも固まった。2度目のデートは、バイセクシャルが向けられる偏見を酒の肴に居酒屋で盛りあがり、3回目に彼女の匂いで心を満たしながら、キスをする。そこからは雪崩こむように距離を近づけ、そうして真子とも会うことになる。最初は鏡子の友人として、家に遊びに行った。
 幼稚園年長、長い黒髪、少し不安定な視線。人見知りげな素振りを見せながらも、彼女がお供のように抱えていたダイオウグソクムシのぬいぐるみに反応すると、図鑑で覚えたのだろう豆知識をたくさん朝坂に話し始め、その勢いで自然と彼女の心は開いたようだった。1つの事象へののめりこみは学者肌でありながら、他人にも軽やかに心を開ける少女だと、観察の結果に朝坂はこう結論づけた。そこから何度か友人として家に通い、ある時に2人で自分たちは恋人同士、つまりは互いが好きなのだと告白するが、真子はあっさりと受け入れてくれた。彼女が3人とダイオウグソクムシのグーちゃんが一緒に書かれた絵を渡してくれた時には、思わず泣きそうにもなる。3人の関係性において目立った障壁は意外なほど存在しない風に思えた。
 だがそもそもの話として、朝坂は子供という存在が好きになれなかった。自分もかつては同じく子供であった筈が、彼女らの思考体系や行動動機の数々を全く理解しがたい。彼女たちは、人の形をした存在のなかでは最も隔たった他者だ。それこそ距離は真子の好きな深海生物がいる海底ほどに遠い。常に両手を前に掲げて、子供の心という闇の領域を手探りで進んでいく。学者が持つ類いの好奇心などは存在しない、ただ漠然とした恐怖がある。真子は“いい子”だった。偏見や差別に凝り固まっていない柔軟な心を持ちあわせている。だからこそ予想がつかない。そしてそこにこそ抱く恐怖感が、あの眼球の高速回転として現れた。そんな不穏な予感が朝坂を苛む。何にしろ、真子のことは好きではなかった。そんな自分を残酷だと思った。

 あの風景を見てしまったことを境に、朝坂は不眠症へと陥ることになる。その兆候は鏡子のもとから自分の部屋に帰ってきた夜から始まった。ほとんど眠れなかったゆえに、苦痛にも似た眠気や瞼の重みを感じながら、ベッドに寝転がりながら、真子の眼球が脳裡にちらついて離れない。一時的に眠れはするのだが、深い眠りに落ちることはないままに目覚めてしまう。ナイトブラが相当に汗を吸い、不愉快な感触を宿していく。もう一度眠ろうと試みるが、やはり1時間ほどで目覚める。全く眠れた気がせず、脳髄はコンクリートで塗り固められたように重苦しい。だが何より厭だったのは、自身の目が既に乾ききっていることだった。目薬を差すなら潤いはすぐ戻るが、あの乾きの感触がガムさながら意識にこびりつく。そして何度目かの目覚めの後、恐ろしい予感が朝坂の心に降ってくる。この目の乾きは、自分の眼球もまた高速回転を行っているゆえのものではないか。瞼の裏側、眼窩の内側、そこで眼球が凄まじい勢いで回転を遂げている。そして潤いが掻き消され、一掃されて、漠砂の乾きが広がるようになる。朝坂はぎゅっと目をつぶり、瞼のうえからその眼球を強く押していく。皮膚越しでありながら、眼球という身体部位が、他の部位とは全く異なる質感を持っていることに気づかざるを得ない。これがグルグル、グルグル、グルグルと回っている、それこそ真子の眼球と同じように。
 だが眼球が高速で回転するのは、レム睡眠の状態に入るほど深い眠りについている時だけだとネットで読んだ筈だった。今の自分は明らかに浅い睡眠しかできていない。だから自分の眼球は回転運動を行っていることはない。そう結論づけ、駄目押しに目薬を両目へと差した後、眠ろうとする。だが瞼の裏側に自分の眼球があるという事実、実在感そのものが朝坂を苛むようになる。神経がささくれだち、脳髄の表面を不気味な電流が駆け抜けるのを感じた。もはや浅い眠りすらも朝坂には与えられることはない。そして朝が来る。
 この日から朝坂はほとんど眠ることができなくなる、不眠症という疾患に陥ったと確信せざるを得なかった。心療内科に通い始め、睡眠導入剤を処方してもらいながら、眠気が朝坂を包みこむと同時に、眼球の幻が朝坂に襲いかかる。無数の眼球が闇に浮かびながら回転を遂げる幻影、その1つ1つが発する耳を聾するほどの幻聴。時にはまるで証明写真を撮影するような神妙な顔つきの真子の顔が現れる。最初は目をつぶっているが、目が開くと、そのなかで眼球が回転している。そしてその顔が朝坂自身の時もあった。当然のように、眼球はグルグルと回っていた。どうやってもこの幻影から逃れることができない。精神は磨耗していき、日常生活や仕事にも支障が出始める。
「最近、あんた、完全にヤバいよ」
 久しぶりに新里舞の家に行った時、彼女は朝坂にそう告げる。
「分かってる、分かってるよ」
 そう言いながら、Nintendo Switchでマリオカート64をプレイする。舞も朝坂もNintendo 64世代で、小学生の頃にはそれぞれの友人と相当に遊んだという思い出を共有している。64のソフトが配信されるのを知った時、一緒に遊びまくろうと約束し、その時がとうとう到来しながら、不眠症によって気分は最悪だった。それでもこの経験が憂鬱を吹き飛ばしてくれるのを願いながら、舞とマリオカートで遊び続けている。
「またヤバい恋人引いたの? あの泥沼ん時よりも酷い顔してるよ、クマとか濃厚だし」
「違うよ、全然。鏡子さんはすごい良い人なんだよ。私が、なんか私がいけないんだよ」
「いや、そういう独りで抱えこむのはアカンって、前学ばなかったの? ちゃんとさ、私じゃなくても良いから相談しろって」
「まだ、まだそういう時じゃないんだよ……」
 この言葉は本心と真逆だった。本当は何もかもをブチ撒けて楽になりたいのに、誰にもこの思いを吐露できずにいる、精神科医にもだ。眼球の高速回転、恋人の連れ子への不信感。自分の思いは荒唐無稽かつ人でなし、そんな自己嫌悪が口許へヴェールのようにかかり、言葉が外へと出てこなくなる。出てくるのはマリオカートで負けた際の、悲鳴にも似た小学生のような叫びだけだ。
 と、LINEにメッセージが届く。鏡子からだった。最近は体調不良でデートもメッセージも疎かになり、否応なく心の距離が遠ざかっていっているのを感じる、彼女を愛しているのに。メッセージ内容は、土曜日、緊急の仕事が入ってしまったが、真子は少し体調が悪いので留守番をしてもらうのは心配ゆえ、朝坂に少しの間彼女と一緒にいてほしい、というものだった。読んだ時、胃酸が込みあげてくるような気分になる。できることなら真子と一緒にいたくない、体調が悪いのはむしろ朝坂自身の方だった。だがこれ以上鏡子との距離が遠ざかって欲しくはない。ふと、次のレースで舞に勝ったら鏡子の言うことを聞こうと思える。今日は舞に一度もマリオカートで勝っていない。不眠症よりもレースで負けたことを言い訳にする方が、正当で筋が通っているとすら思えた。だがそういった時に限って、朝坂は舞に勝ち、舞の方が小学生のような叫び声をあげた。まるで自分の心を見透かしたかのような負け方で、今すぐ舞のNintendo Switchに吐瀉物をブチ撒けたくなる。

 土曜日、部屋に赴くと、鏡子はもう既に身支度を整えて、仕事人間といった緊迫の雰囲気を纏っている。だが朝坂に近づくと、すぐに頬を緩めながら、彼女の額にキスをしてくる。唇がなまぬるい。
「今日はありがとうございます。真子、朝坂さんに迷惑かけないでね」
 子供部屋の方から大きな声で返事が聞こえてくる。割に元気そうな声が、不眠症の脳髄にはナイフさながら刺さる。鏡子が部屋から出ようとする時、後ろから抱きしめて、首筋にキスをする。しばらく抱きしめつづける。
「もう、どうしたんですか。甘えん坊さん」
 朝坂の身体を撫で、そう言いながらも、最後には彼女を優しく振り払うと、鏡子は出掛けていく。朝坂はしばらく玄関の床を見ていた。大きな靴と小さな靴が並んでいて、自分の足をその合間に置いてみる。どちらとも似ていない、中途半端な大きさだった。
 子供部屋に向かう。柔らかな水色の壁紙に包まれた部屋、おそらく水族館の色彩を再現しているのではないかと朝坂には思える。ベッドには真子が寝転がっており、いつものように図鑑を読んでいた。横にはダイオウグソクムシのグーちゃんがいて、何も言わずに真子に寄り添っている。特に具合が悪いなどの様子は見られない。朝坂がベッドの端に腰を下ろすと、真子は驚いたように身体をビクンと揺らす、朝坂が来ていたことに全く気づいてなかった風に。
「真子ちゃん、調子はどう?」
「うん、ぜんぜん元気だよ」
 自己申告もこういったもので、調子が悪いというのは鏡子の嘘だったのではないかと思える。だが嘘をついてまで自分を家に呼ぶ理由が分からない。朝坂はバッグが目薬を取り出すと、両目に潤いを差していく。不眠症の余波で、昼間も常に眼球が乾燥するようになっていた。ドライアイ用の目薬を差し始めたが、こちらも一時しのぎ以上の効果がない。
「あーちゃん、大丈夫?」
「ああ、うん、ぜんぜん元気だよ」
 真子の先の言葉を真似してそう言ってみるが、ただの虚勢のように響いた。コンクリート漬けの脳髄に遅々として亀裂が入るような痛みを感じる。
「大丈夫じゃないんじゃない?」
 苦しむ様子を見かねたのか、そう尋ねられて、思わず不愉快になり、その感情の動きに気づいて自分が厭になる。自分よりも20歳以上年下の子供に気遣われ、心配される自分が情けないし、そうして情けなさを感じさせる真子に苛つかされ、これをまた認知せざるを得ず罪悪感を抱く。この繰り返しが、ハムスターの回す車輪さながら高速で繰り広げられ、朝坂の心が疲弊していく。
 昼、ご飯に何かを作ろうと思うが、真子はシリアルが食べたいと言った。自分や家事能力に対する信頼の欠如を露にしているように思えて、奥歯を噛み締める。必死で笑顔を浮かべながら、お皿にミニドーナツ型のシリアルを入れていき、後には牛乳も注ごうとする。だが勢いが良すぎて、かなり牛乳がテーブルに溢れてしまった。布巾を持ってこようとするが、いきなり動いたせいか立ちくらみがして、両手で身体を支えなければいけなくなる。骨も筋も脆い1本の棒になってしまったような気がした。その間に真子は布巾で牛乳を全て拭き取り、水でそれを絞るまでテキパキと行う。だが食べる前に「大丈夫?」と自分に寄り添ってきた。赤子のような甘ったるい体臭が鼻に届いて、眩暈がより酷くなっていくような錯覚を覚える。大丈夫と口では言いながら、かなり危うい動きで自身も椅子に座る。しばらく目頭を押さえてから、自分にもシリアルを用意しようとすると、既に目の前にシリアルがこんもりと盛られた皿が置いてあるのに気づく。真子はスプーンでモシャモシャとシリアルを頬張っている。少しも食べる気にならない。
 朝坂は真子が食事を続けるのをただただ眺める。子供らしくがっつくような勢いでシリアルを食べていくが、食べ物の滓や牛乳の飛沫が周りに飛ぶことはなく、清潔が保たれている。勢いに反して、かなり細心の注意を払いながら食事を行っているのが伺えた。口許が牛乳の滴でびたっと汚れると、舐めるのではなく、鏡子がテーブルを拭く際に使っているウェットティッシュでそれを拭いていく。果たしてこれで口も拭いていいのか、そんな疑問がチラつきながら成分表などを確認する気力もない。そんな中で変化が起きる。食べる勢いが少しずつ弱まるとともに、真子の瞬きが多くなり始めた。多分眠くなってきたんだろう、朝坂はそう思う。当然のように眼球の幻が朝坂を苛みだすが、もう既に振り払うことを諦めている。しばらく我慢すればいい、我慢すれば終る、終るから。
「あーちゃん、こわい」
 真子がそう言った。最初はまともな反応もできず、耳から口へと言葉が素通りする。だがその残滓のような響きが蟠るなかで、自分が良くない状態にあると意識が鮮明になっていく。朝坂は急いで両手で顔をぐちゃぐちゃに動かすと、表情筋の動きを意識しながら笑顔を浮かべる。
「怖い顔してた? 今はもう怖くないでしょ?」
 ははは、唇から這いずりでた笑いは眼球さながら乾いている。
「あーちゃん」
 不信感が声として具現化したような響き、これが紡ぐものが自分のニックネームだという事実に嫌悪感を抱く。
「マコがねむそうにしてると、そういうこわい顔する」
 真子という存在は自分の胸中を完全に見抜いている、朝坂はそう思わざるを得ない。
「そんなことない、そんなことないよ」
 この期に及んで、ぬるい否定の言葉しか言えない自分に呆れる。そんな彼女の目の前に、シリアルのこんもり入った皿が置いてある。正確に言うなら、目の前でありながら、少し手を伸ばす必要のある、微妙な距離感がそこに存在している。手を伸ばし、皿を掴み、そのまま中身を真子に向かってブチ撒けるならどうなるだろう、朝坂は考えた。常軌を逸した考えだとは思いながら、“怒りに駆られている”だとか“興奮している”といった状況でなく、至極冷静で明晰な状態でこれを考えていることに恐怖を抱く。このままなら、心中穏やかなままで一線を越えて、罪悪感をも抱かないまま真子を傷つけるかもしれなかった。そしてこう考えている最中にも、両手が皿へと伸びていく。両手に対して、皮膚の下を流れる神経に対して止まれと念じながら、這いずる油さながらゆっくりと、しかし止まることはない。最後には指が皿の縁を掴む。脳髄が重い。もう抵抗するのも無駄に思えた。1回ブチ撒けてしまえばいい、そうすれば楽になる。こう考えると、何か救われた気がした。
 そして真子の手が、朝坂の手に触れた。驚いた。
「あーちゃん」
 真子だけが自分をそう呼ぶ。それを今、突然、嬉しく思った。
 真子の手は暖かかった。眠い時、彼女の手はとても熱くなると、鏡子が愛しげに言っていたのを思いだす。それはおそらく、真子だけではない。自分も子供の頃、眠くなると手がとても熱くなったと母から聞いたことがある。多分、子供たちはみんなそうなのだ。眠くなると、手が熱くなる。
「しょ、正直、大丈夫じゃないんだ、私」
 震えるような声で、言葉を絞りだす。
「最近、ずっと眠れない。怖い、いや怖いっていうか……やっぱり怖いんだ。すごい怖いものがあるの。あのね、真子ちゃん、笑わないで聞いてほしいんだけど」
「うん」
 真子が朝坂の手をぎゅっと握る。
「目がね、怖い。目玉がこう、眠ってる時にね、回ってるんじゃないかってすごく怖い。寝てる時、自分の目が、顔のところでグルグル回ってるとか、真子ちゃんの目も寝てる時にクルクル回ってるとか、そういうの考えると、すごく、すごく怖くて寝れないんだよ」
 言っていて、何て馬鹿な悩みだと思いながら、身体の震えを抑えられない。
「マコも怖いのあるよ」
 彼女はそう言った。
「セミきらい。だっていきなりバッて飛んできたりして、あぶない。道に落ちてるのも、死んでるかと思ったらまたバッてなる。1回、ビックリして転んで、痛かったから泣いたら、ママが『もう泣かないの!』って言ってきて、もー!ってなった。だって怖いもん。みんな怖いのあるよ。幼稚園のともだち、アイちゃんは赤いピーマン、ケイスケくんは暗いとこ、チアキくんはコオロギビスケット」
 そう言ってから、真子はどこかへ行ってしまうが、すぐ戻ってくる。画用紙とクレヨンを手に持っていた。彼女は椅子に座りなおすと、クレヨンで何か書き始める。促されて、真子の傍らにまで朝坂はやってくるが、画用紙に描かれたのは丸と点だった。
「これ、なに?」
「めだま」
 そう言うので、朝坂は笑った。真子はそれも気にせずに描くのを続ける。シンプルながら大きなめだま、横に描き加えられるのは2人の人物だ。誰かはすぐに分かる。長い黒髪の方が真子で、茶色い短い髪の方が朝坂だ。めだまは朝坂の頭くらい、真子の胴体くらい大きい。そのアンバランスさに頬が緩む。そして真子は2人の足元に幾つもの線を、めだまには丸い身体に寄り添うような短い曲線の数々を描く。
「何描いてるの?」
「あーちゃんとマコとめだまがかけっこしてる。マコたちもすごい走ってるけど、めだまはゴロゴロ転がってるからもっともっと速い!」
 めだまはすごく速い、そう聞くと途端に絵のなかのめだまが可愛く見えてきて、自分でも驚いた。しばらくそれと見つめあった後、朝坂もクレヨンを持ち、画用紙の余白に絵を描いていく。めだまだ。いくつものめだまが空に浮かび、グルグルと回転しながら彗星のように進んでいく。そんな風な光景が描きたかったが、拙い絵心のせいで少しも表現できていない気がする。だが横から真子がさらに多くのめだまを描きこんできて、空には本当に大量のめだまが浮かびだす。それは眠ろうとしていた時に見たあの幻影にも似ていた。だが不思議とグロテスクではなく、むしろ可愛らしい。彼らは敵ではなく、友人のように見える。
 そう思うと、急に眠気が襲ってきた。気圧されるほどに濃厚なもので、シャッターが降りるように瞼が開かなくなる。彼女はよろつきながら、ソファーの方へ行き、その上に倒れこむ。
「あーちゃん、大丈夫?」
 遠くから真子の声が聞こえた。蜃気楼のような響きだ。怖くて、心細い。
「眠い、すごく眠い。でもまためだまがグルグルするかも、どうしよう」
「マコが見ててあげる! あとで絵描いてあげるよ!」
 そんな声に、泣きそうになった。
「マコちゃん、ホント?」
「うん。でも代わりにマコのお願いきいて!」
「いいよ、もちろんだよ」
 意識が遠のいていく、だが彼女の願いだけは聞き漏らさないように、ぎゅっと拳を握る。
「マコといっしょにうんこミュージアムいこ!」

 そして朝坂は目覚める。まず目に入ってきたのは窓から差しこむ夕日だった。眠りに落ちた時間から、そう時間は経っていないようだった。だが枷のように自分を苛んでいた不眠症の苦しみが消えていることに朝坂は気づいた。目を擦るのだが、あれほど頑固だった乾きも薄らいでいる。完全に消えたとは言えないが、劇的なまでにマシになっていた。目脂の量も少ない。
 意識が鮮明になってきて、初めて真子に思い至る。部屋を見渡すが、彼女はいない。心臓がゆっくり縮んでいくような不安を抱く。
「真子ちゃん」
 朝坂は彼女の名前を呟く。
「まーちゃん!」
 そう叫んで、自分が初めて真子を“まーちゃん”と呼んだことに気づく。
「あーちゃん!」
 唐突にドタドタという足音が響き、ドアが勢いよく開いて、真子が現れる。深く、深く安堵する。そして真子が自分をハグしてくるので驚きながら、朝坂もその小さな身体を抱きしめる。
「あーちゃん、すごい寝てた」
「いや、そうだね、久しぶりにぐっすり寝てた」
「いびき、ガーガーってうるさかった!」
「うそ、本当? うわ、恥ずかしいわ」
「大丈夫だよ。でもマコが言ったのおぼえてる?」
「……なんだっけ?」
 そう言うと、真子は大袈裟なまでに愕然といった表情を浮かべるので、笑いを抑えられない。
「覚えてる、覚えてるよ。うんこミュージアム、行きたいんだよね。でもママと一緒にじゃないの?」
「ママはうんちきたないからダメって! でも行きたい!」
「そっかあ……うん、じゃあ行こう。ママには内緒でね」
 真子は満面の笑みを浮かべて、飛んだり跳ねたりする。
「あともう一つおねがい」
「え~、まだあるの?」
「ぬいぐるみ、おっきいタコのぬいぐるみほしいの」
「タコ、タコねえ、まーちゃん本当にタコも好きだね」
「うん、好き! テレビでやってて、可愛いからほしくなったの」
 真子から情報を聞いて、ぬいぐるみについて検索する。Amazonに商品ページがあったが、価格は1万5600円と尋常でない価格で、朝坂は思わず吹きだす。
「買って、あーちゃん」
「ま、まあね、うん買ってあげるけども、あの……」
「買ってくれないと、めだま回ってたか教えてあげない!」
「ええ、そりゃないよ、まーちゃん」
「じゃあ買ってくれる?」
「……うん、買う、買います!」
 そう宣言すると、真子は両腕を大きく開いた、もうぬいぐるみを抱きしめる気満々だった。
「じゃあ、おしえたげる。あーちゃんのめだまはね……」
 と、玄関ドアが開く音がした。
「ただいまあ」
 鏡子の声を聞くと、真子ははしゃぎながら玄関に行こうとする。しかし途中で後ろを振り向いた。
「ママに、あーちゃんがめだま怖いっていうの言っちゃお!」
「ちょ、それはなし!」
 朝坂は急いで立ちあがり、真子を追いかけていく。



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