コロナウイルス連作短編その44「紫の光線」

 鍋潟民城は窓から殺風景な街並を眺めていた。コロナによって人影は掻き消され、その影響は民城がバイトしている喫茶店"Le Rayon vert"にも及んだ。明らかに客の数は減り、それでも常連客たちが店を支えてくれている故に存続はできているが、いつ閉店してもおかしくない。店主の千堂麻美は楽天的な態度を崩さないが、民城は紫色の吐き気のような不安を抱え、今も大腸の辺りでそれが蠢いているのが分かった。唇を舐めながら麻美の方を見ると、彼女は慈しみを以てコーヒーカップを磨いている。その指は一本一本が雪豹のようで、いつものように惚れ惚れとしてしまう。
 と、喫茶店に女性が入ってくる。緑色のドレスを着ていたけれども、何故だか無色で半透明の存在に見えた。
「いらっしゃいませえ」
 民城はそう言うが、女性はこちらも向かないでゆっくりと歩いていき、椅子に座った。その木材から異様な、肺を握り潰すような音がした。民城は右の耳を掻きながら、テーブルへ向かう。近くで女性を見ると、不気味な実体のなさが際立った。彼女は皮膚も、臓器も、血液も、脳髄も、肉も持っていないような表情をしている。彼女は飲みかけのコーラに入った小さな氷が組み合わさってできたようだった。しかし彼女が着けているマスクの端が血に染まっているのを見た瞬間、彼女の体臭が洪水さながら鼻に流れこんできて、民城は驚いてしまう。その淀んだ、憎々しい匂いは鼻から一気に脳髄へ突き抜け、脳髄をぬらぬらした紫煙で覆いつくしてしまう。
「あのお」
 思わずそんな言葉が口からゆっくりと転がり落ちてくる。優しさを湛えた無表情のままで、女性は民城の方を見た。脳髄を覆う紫煙がより濃厚になるのを、民城は感じた。今すぐ脳髄を頭蓋骨のなかから取り出したいとそう思った。
「何か、マスクに血ついてますけど、大丈夫ですか?」
 そう言った時、もしかしたらそれは血ではなく口紅ではないかと思い、急に恥ずかしくなる。しかし彼女を慰めるように、女性は慈しみ深く目を細めた。
「今、私の娘を自殺させた子を殺してきたんです」
 民城は何度も瞬きをした。彼女はアイスコーヒーを頼んできたので、それを持っていった。カップを持つ女性の手は震えていて、まるで寒さに凍え死ぬ寸前の犬の口から響くような音を、民城は聞いたんだった。
 秋の黄昏のなかを、自転車で駆けるのは気持ちがいいものだったけれども、女性の言葉が足の指の間に溜まる垢のように心を苛んだ。ハンドルを強く握り、その不愉快なゴムの感触で垢から目を背けようとしながら、それはむしろ血潮に乗って全身へと巡っていく。
 遠くの方に人だかりが見える。
 みんな、コロナ罹かんの怖くないんかな。
 そんなことを思うと、まるで彼女を待ち構えていたかのように人だかりの間に隙間が生まれる。地面には髪の長い少女が倒れていて、傍らには血の条が描かれていた。心臓がギュッと縮まって、民城は急いで人だかりの横を通りすぎる。彼女は何故だかハンドルを握る右手の甲から目が離せなくなった。黒い産毛の奥には、紫色の小さな流れが存在した。それが先に脳髄を覆っていた紫煙の色と重なった。
 家に帰り、民城はとりあえず椅子に座ってホッと息をついた。横では母である鍋潟芳がパソコンでネットサーフィンをしながら、テレビでニュースも見ている。
 どっちかにすりゃあいいのに。
 民城は心のなかで悪態をつく。しばらく民城はぼうっとテレビを見ていたけども、芳が食レポをしている女子アナを指さしてこう言った。
「この子なんかアンタのタイプじゃないの?」
 そして民城に対してニヤついた笑顔を向ける。民城が両親にレズビアンだとカミングアウトした後、芳が彼女に対してこういったことを言ってくることが多くなった。まるで無二の親友といった風に振る舞ってくる彼女は耐え難く、自分への対応の仕方が分からず必要最低限のことしか言わなくなった父親の鍋潟升の方がまだマシな人間に思えた。
 いつも女を性的に見てる発情期の雌犬だと思ってんのかよ、なあ。
 民城はそう母親に言いたかったけども、言う勇気がなかった。代わりに、民城は自分の部屋に逃げていく。
 民城はタブレットで友人であるTanukiと話す。彼はカンボジアに住むという日本語堪能な少年だった。高校生の民城はソク・ヴィサルというカンボジアからの転校生と友人になった後、カンボジアの文化に興味を持ちはじめた。そして言語交流アプリのHelloTalkでTanukiと出会ったのだ。彼はその日本語を通じてジャンプの漫画を日本語に訳したり、日本の友人のためにカンボジアのドラマや映画に日本語の字幕をつけていて、民城もそれを楽しんでいたんだった。
"『ヤング・ラブ』観たよ。すごい良かった!"
"マジか。そりゃ嬉しいわ~"
"何か日本の少女漫画っぽくて面白いなって思ったし、カンボジアの音楽が爽やかでよかった!"
"音楽、気に入ってくれたんだ。いいよね、俺も好きだよ"
 そしてTanukiは映画に出てきた楽曲のSpotifyリンクを民城に送ってくれた。彼女はベッドに寝転がりながら、その曲を聞いていた。軽快なアコースティックギターの音にクメール語の愛おしい響きが乗る。それは妄想のなかのキスのように甘いものだった。しかしふとした瞬間、あの紫色の煙が瞼の裏側に現れて、民城を苛む。その色彩はどんどん濃厚になっていて、もしかすると一生乗り越えられないような気すらして怖くなった。
 起き上がると窓の向こうの夕陽が目に入るけども、その色彩が紫煙よりも更に残酷な紫色で驚いてしまう。しかし民城は貝の美しい死骸のような色の空から目が離せなくなってしまう。この紫は空であり、海であり、宇宙だった。あまりにも切ない大きさに民城の身体が震えてしまう。ふとその広大さのなかに何か小さな欠片が見えた。最初、それは自分の脳髄だと民城は思った。頭蓋骨に包まれ、そして紫の煙によって息の根を止められる脳髄。しかし欠片が少しずつ大きくなるうち、それが脳髄ではなく羽ばたく鳥だと分かる。鳥は何かに縋るように羽をばたつかせて進む、こちらへと向かってくる。脳髄になり、雨粒になり、黒豆になり、隕石になり、光線になり、まるで民城の網膜に凄まじい重力が渦巻いているかのように、鳥は民城の瞳へ一直線に突っ込んでくる。
 鳥が窓に激突した時、その身体にめぐる全ての骨が爆裂したかのような音が響いた。そして鳥の白い眼球が血とともに窓にへばりつく。民城はその中に、あの女性が少女の頭を何かで粉砕する光景を見た。少女の髪の1本がビチャビチャになった頭皮から吹っ飛んでいき、ゆっくりと宙を舞う。透明な空気を優しく撫でるように髪の毛は落ちていき、最後にはアスファルトの上に落ちた。
「民城、夕飯できたよ!」

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。