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コロナウイルス連作短編その135「資本主義は生きていく意思を失う」

 それでいて菅見萌は本屋で詩集を立ち読みする。パラパラと中身を確認する訳ではなく、内容全てを読む。1ページに1秒ほど目を通したなら、ページを捲り、それを10分ほど続けると、萌は既に詩集を読み終わっている。彼女は同じ階にあるトイレへ向かうと、個室に籠り、ズボンは履いたままで便座に腰を据えると、鞄から青色のノートとシャープペンシルを取り出す。そして怒濤のように書き進めるのは先に読んだ詩集の感想だった。“ハイドンだとか印象派だとか、読者でも当然知ってるような文化を引用して、読者のスノビズムを甘やかす詩集、吐き気がする”、もしくは“結構な大御所がこんなゴミで誉められて祭りあげられるんだから、詩人っていうのはマジで楽なご職業だな”など。これを紙を殴りつけるような勢いで書いている途中、頭のなかに鮮烈な詩のアイデアが浮かぶ。萌は急いでそれをノートの余白に書き留めていく。想像力が/人間の秀でた点/なんて嘘/過大評価/(一行空ける)/実際は/お人好し/責任の押しつけ/面倒くさがり/(一行空ける)/これが/生存のための/作業分担/暗黙の了解文化へと/(一行空ける)/社会が/形成/後/止めどなく膨張/(一行空ける)/信頼っていうのは/つまり/3つの悪魔合体/みたいな。悪くない詩だと思う。これが書けただけでも、精神的な産業廃棄物のような詩集を出版した詩人に感謝する必要があると萌は思う。トイレから出ると彼女は詩集が詰まった本棚の前に戻り、適当に1冊を取り出すとそれを猛烈な勢いで読み始める。萌自身はこれを資本主義への反逆だと信じていた。詩というのは資本主義から最も遠ざかるべき芸術である筈だ。しかしむざむざと書籍化、つまりは資本化されるという醜態を今や日本の詩人は晒し続けている。詩を発表しお金になれば、本物の詩人という訳だ。萌は本というものの存在自体を嫌悪し始めている。芸術と金、知識と金について考え始めたのは、コロナ禍以降のことだ。彼女はある時、アナーキズムを学びたいと思う。だが本屋でアナーキズムに関する書籍を探していた時、何かが間違っていると感じた。情報が本になって値段がつけられる、この時点でもはや万人に対しては開かれているとは言えないだろう。これはアナーキズムから最も程遠いのでは?と、そんな疑問が溢れ始めた。そして抱くのは、本という存在に対する猜疑心だ。情報が本になった時点でもはや万人には開かれないこと、万人に対して開かれないことこそが権威に繋がること、これが資本主義と密接に関係していること。萌は本と資本主義の距離を考えざるを得なくなった。もちろん、自分の集めた情報、もしくは自分が書いた詩の数々が本になるのは、名誉とか虚栄の問題として気分がいいと想像できる。彼女自身、自分の詩集が実際に出版されたなら喜びを抱くだろうというのを否定することができない(であるからして、自分を反権威主義者とかアナーキストと呼称する資格は一生ないという結論にも萌は辿りついている)しかしそれでも、自身の創りあげた芸術が、本になり値段の付与と万人への開かれなさで権威になる、これを簡単に受け入れるべきなのかそしてこの思惟はいつしか本屋に自身の詩集が並び、それで満足する詩人たちへの不信感と憎悪へと転じる。彼らの詩集を金を払うことなく、立ち読みによって全て読破するということは詩人たちへの復讐、そして資本主義への反逆である萌は固く信じている。その確信は“資本主義”のなかに“本”という漢字が入っていることに気づいた時、決定的なものになった。この時に読んだ詩集も塵芥にも劣るものだと思ったので、罵詈雑言をノートに連ねようと、急いでトイレに向かう。だがある風景が彼女の瞳に浮かぶ。2人の女性が小さな少女の手を両側から繋ぎながら、本屋の中を歩いていた。萌は彼女らがレズビアンカップルだと直感する。自分もレズビアンゆえかどうかは分からないが、雰囲気や風貌で何となくレズビアンか否かはアタリがつけられる。だがこの予想はいつもよりも確固たるものだ、言葉でその理由を説明しがたいが。トイレまでの途中には本屋とは別の店舗があるのだが、3人はそこへ入っていく。この店は有名な絵本を売買する店舗であるが、メイン商品はその絵本の数々とタイアップしたぬいぐるみや文房具だった。少女が歓声をあげて店舗内を駆け回りだし、その響きが萌の鼓膜だけでなく、胃腑すらも刺激する。兆の針によって臓腑の至るところを刺されるような痛みを味わいながら、その楽しげな状況から目が離せなくなる。そして少女がある絵本の前に辿りつくと、2人を手招きした。片方の少し年上らしき女性が鞄から何か小さなぬいぐるみを取り出し、彼女に手渡す。奇形のダンゴムシのような風貌に、思わず嫌悪感を催した。だが少女は愛おしげにそれを抱きしめたかと思うと、絵本の横にある熊や兎のぬいぐるみにそれを見せびらかし始める。いや、紹介しているのか。そう思うと虫酸が走る。そして目を細めながら少女を眺めている、2人の母親をブチ殺したくて仕様がなくなる。しばらく少女はダンゴムシを動かし続けていたが、若い方の母親に駆けよって何か言い始める。彼女は困ったような表情を浮かべながら、最後には絵本と2体のぬいぐるみを持って、レジへと向かう。買った訳だ、萌は思った、買った訳だ。袋を抱えた若い女性は、妻や少女とともに本屋を後にしようとする。萌は少しも躊躇うことなく彼女たちを追尾しようとし、己の足取りに驚かされる、だが止める気はなかった。エスカレーターで地下へと降りていき、しばらく歩いていくと駅の改札に辿りつく。少女がバタバタと改札を通り、2人がそれに付いていき、最後には萌がそこを通過していく。右の手首が痛む。再びエスカレーターを降りていき気づくのは、家族と萌が目指す場所はちょうど真逆であるということだ。萌は東京の内奥へ、家族はその外縁、もしくは千葉県方面へと向かうと。家族が、萌が実際に立つべきホームとは逆に立った時、ちょうど電車がやってくる。考える必要もなしに、彼女は一緒に電車へと乗りこむ。萌は家族の目前に座り、監視を続ける。少女は興奮しているようでマスクを吹っ飛ばすほどの生命力を発散させながら、肉体をしきりに動かしている。年上の女性の方が少女をいなす一方で、若い女性は少女と一緒にふざけて肉体をやたらに駆動させている。不愉快だった。萌は監視の合間にスマートフォンに視線を向けて、マッチング・アプリを見る。マッチした女性からメッセージが届いていないか確認するが、何もない。彼女は東京に住むルーマニア人の建築家だそうだ。萌は大学生だが、ほぼ授業には出ずに、図書館で本を貪る用に読んでいる。住んでいるのは実家であり、学費を払っているのも親だ。バイトも一切していない。ただただ本を読み続けている。最初に読んでいたのは小説か詩集だった。室生犀星、鮎川信夫、吉増剛三、谷川俊太郎、とにかく無差別的に読みまくる。中でも萌が好きだったのは、しかし高校の頃から読んでいる立原道造の詩だ。読んでいると草々の爽やかな匂いが漂ってくる詩を愛した。大学の図書館で、加速する脳髄の勢いのまま大量の詩集を読みながらも、最後に戻るのは立原の詩だった。そんななか、戯れに文学批評の本を探している時、立原の研究本を見つけたが、それは詩よりも彼の建築を主眼とした書籍だった。立原が詩人であると同時に建築家でもあったのは知識として知っていたが、どんな建築に関与したかは全く知らなかった。建築に興味などなかった。実際にその書籍を読んでも、立原が建築家として何が傑出していたのかも、知識不足ゆえによく分からない。だがあるデザイン画に目が止まる。鬱蒼たる自然のなかに佇む邸宅、そのさりげなさに目を惹かれた。建築のデザイン画である筈なのに、むしろ自然こそが主人公に思える。それでもずっと眺めるうち、そう思えるのは建築が自然に深く根づいているからだと分かる。そして悟ったのは、先に自分が“自然こそが主人公”と言った際、その自然は建築を除外する言葉として機能していた。しかし立原は“自然こそが主人公”と言う時でも、その自然から建築を除外しない、つまり建築もまた自然であると信じている、少なくとも萌はそう思った。そしてこのスタンスは彼の詩と全く同じではないかと思い至り、静かな衝撃を味わうことになる。萌は何か建築についての本が読みたいとそう思った。彼女は図書館の検索用パソコンに“建築”と打ちこむのだが、その検索結果の1番上に『小さな建築』という本が出てきた。それを読み再び驚いたのは、この本を執筆した隈研吾という建築家の姿勢が立原道造と瓜二つであったからだ。彼は建築が持つモニュメント性、つまりは建てられた場所から建築がオブジェクトとして際立ち、2つの間に断絶が生まれることを批判する。ゆえに彼はむしろその場所に埋没するような建築を建てることを目指す。それはそこにずっと存在してきた大地、そして自然に根づく建築を作るということを意味している。『小さな建築』という本はどうすればそういった建築を創造できるかの試行錯誤を記した書でもあった。読みながら萌は、自分は何か自分の人生を変えるような本を読んでいるのではないかという予感に震えた。そして建築こそが、自分の創作の、本物の核となる存在だと確信したのだ。建築家こそが最も尊敬すべき芸術家なのだ。それから萌は詩集よりも建築にまつわる本を次から次へと読んでいくことになる。隈研吾の著作は元より、そこに現れた建築家たちの著作、例えばブルーノ・タウト、辰野金吾、藤森照信、ル・コルビュジエ、アドルフ・ロースといった、建築史における偉人たちの本を読み、その知識を育んでいった。しかし歴史だけではなく、現在進行形の建築をも知る必要がある。萌は新建築や建築雑誌、a+uといった建築にまつわる雑誌も図書館に所蔵されていることを知り、それもとにかく読み漁っていく。彼女は実際の建築には興味がない、それを語る言葉にしか興味がない。ゆえに彼女は東京にも多く存在する隈研吾の建築に足を運ぶことは一切なしに、ただ本だけを読んでいた。そうして建築の過去と現在をとめどなしに学んでいく中で気づくことが1つあった。建築という存在は、都市の形成において重要な役割を果たす。建築がなければ、都市などそもそも存在しない。ル・コルビュジエなどのモダニズムという時代の建築家たちは建築を以て名声を博した後、都市建設を夢見ることになる。そして自身の建築の延長線上にこそ都市を幻視するのだ。そして彼らは建築家から都市をデザインするアーバニストとなっていく、一線を越えるのだ。だがここで殆どの者たちが凄まじい挫折を果たす。建築と都市のスケールの違い、これを完全に見誤るゆえだ。だがその弩迫の敗北、夢の残骸を眺めている時、禍々しい官能に萌は圧倒されるばかりだった。芸術としてここまで壮大な規模の失敗を、彼女は見たことがなかった。だがこれを見た後に、現在の建築家、特に日本の建築家を見るなら急激なまでの落胆を覚える。彼らは建築家であると同時に、既にアーバニストである。この2つが最初から無理なく溶け合っているゆえに、モダニズム建築家とは違い一線を越える必要すらなく、両方を同時にデザインすることができる。都市について考えながら建築を作り、建築を考えながら都市をデザインする。スケールへの認識の誤差も少なく、無理のない物を作ることができる。人が住むであるとか人が生きるという意味では、建築家として全く正しい発展であると萌にも理解できる。だが納得が行かない。何故なら萌にとって建築家こそが最も偉大であるべき芸術家であり、日常に埋没するべき存在であって欲しくはなかったからだ。そしてこの不信に拍車をかけるのは、現代の建築家が紡ぐ言葉の数々だ。人々の幸福、志を1つにする仲間たち、スタートアップ、そういった白々しい言葉が並ぶ様は芸術家でなく起業家だ。無知な大学生が連ねる“意識の高い”言葉と、その空虚さにおいては全く同じだ。モダニズム以降において特に、建築は資本主義と表裏一体の危うい関係性を築いてきたというのは、萌でも認めざるを得ない。だがここまで露骨に、まるでその尻穴でも舐めるように資本主義との癒着に耽っているとは思いもしなかった。そして萌は、隈研吾は建築家が芸術家であった最後の世代であったのかもしれないと気づく。これ以降は全て資本主義の奴隷だ、少なくとも日本の建築家は。そして萌は誰かに愛されたかった。彼女は必然的にマッチング・アプリに登録し、自分を愛してくれる女性を探した。だが誰にも愛されなかった、少なくとも今まで親以外から愛と呼べる類のものを感じたことはなかった。アプリにいるレズビアンは皆輝いているように見えた。そして同じように輝いている人間を求め、あからさまなまでに肉体的な美と精神的な健康を求めていた。萌には彼女たちに受ける自己紹介をどう書けばいいのか分からない、彼女たちを魅了する写真をどう撮っていいか分からない。ネットに転がるアドバイスには“他の人に撮ってもらおう!”と書いてあるが、友達はいないので自撮りしかできない。もちろん親に撮影してもらうなど無理だ、カムアウトすらしていない。代わりに彼らからもらった金をここに注ぎ込んだ。“この人があなたとマッチしたがっています”という情報を相手に送ることができる特別なメッセージを1回270円で買うことができる。それに1万円以上注ぎ込んだが、実際にマッチしたことはない。萌は夢を見る。ぎこちなく他愛ない会話をする、冷たい左手と右手を繋ぎあう、親密にセックスをする、一緒に焼き肉を食べにいく、別れた後にたくさん泣きじゃくる、また新しい女性とキスをする。今まで1度もそんなことをしたことがない。そんな中で気づくことがある。当然、日本在住の外国人もアプリに登録しているが、その職業として建築家が異様に多いのだ。フランス、イタリア、アルゼンチン、ギリシャ、インドネシア、チュニジア、世界のあらゆる場所から東京へ建築家が集結しているような錯覚を覚える。彼女たちはご丁寧にも職業欄にarchitectと記しており、事務所名まで記してあることも少なくない。ある時、萌はイタリア人建築家をアプリ上で見つけたが、その職業欄にKengo Kumaと書かれていた。彼女の名前とKengo Kumaで検索すると事務所ページが出てくるのだが、驚いたのは実際に彼女の名前がそこに記されていたことではなく、他に膨大なまでの外国人の名前が明記されていたことだ。純粋に、何故?という疑問が首をもたげる。海外の建築家が日本や東京を礼賛する言葉は何度も読んだことがあるが、いわゆるテレビで流れるような“日本スゴイ!”の一種としか思っていなかった。だがこんなにも多くの建築家が日本にやってきて、建築を学んでいると、あの礼賛は実際に世界的な現象であるのではないかと思ってしまう。萌は焦燥に突き動かされるように他の有名建築家の事務所ページを検索したが、さも当然のように東京の事務所で働いているという外国人の名前が無数に掲載されている。恐ろしかった。何故こんなにも多くの外国人建築家が日本の建築、いや何より東京という都市を目指すのか理解しがたい。だがその事実が厳然としてここにある、そして些か捻れた形でマッチング・アプリ上に存在している。萌は何度も何度も270円を払って特別なメッセージを送るが、返事は返ってこない。だがある時、“Hi, thank you”というメッセージが返ってきて、心臓が肉を突き抜けるような衝撃を受けた。メッセージの主はユリアナという東京在住らしいルーマニア人建築家だった。長い黒髪、だがその先は赤く染められ、官能的な血の色彩が浮かんでいる。有頂天になり、その勢いで萌は英語でメッセージを送る。“こんにちは、ユリアナ。私の名前は萌です、宜しくね。ルーマニアの建築家の人が日本にいるなんて想像もしてなかった。私、ルーマニアの建築がすごい好きなんだ。イヨン・ミンクってモダニズムの巨匠がいるけど、彼の建築って本当にすごい。崇高で荘厳で、写真を見ていてすら何だか目眩を起こしそうな気分になるんだ。でも最近の建築家もすごいと思う。例えば今年のヴェネチア・ビエンナーレの代表だったイリーナ・メリツァとシュテファン・シミオン、あれは感動したな。ルーマニア移民の歴史っていうものが建築として顕現しているって風で、本当に圧倒された。だからもしあなたとルーマニアの建築、もちろん日本建築についても話せたらいいなって思います。宜しくね”。返事は一切返ってこない。1日後、3日後、そして1週間後の今も彼女からのメッセージは来ない。頭では常に自分が送ったメッセージの何が行けなかったかについての反省会が繰り広げられながら、答えは全く見えてこない。死にたくなるほどに惨めだ。嘲笑うように目前の家族は幸福に浸っている。惨めさが暴力的に深まる。自分は誰にも愛されない、どんな女性にも愛されることがない、脳髄がそんな自己嫌悪で絞めつけられていく。この苦痛のなか自分が、愛への渇望を拗らせた挙げ句、アメリカの学校かどこかでで銃を乱射し、無差別的に虐殺を行う白人男と同じように思えて吐き気を催す。だけどあれは悲惨なヘテロ男どもの末路、レズビアンの私はああなることはない、あいつらとは違う、あいつらとは違うんだ。だが目前のカップルへの僻みや嫉妬は捨てがたい。どうせこいつらも、渋谷区かどこかのパートナーシップ制度で関係を結んで、大量の金を注ぎこみ結婚式を盛大にあげて、自分の幸福を他人に見せびらかして楽しむ、資本主義の奴隷に成り下がったレズビアンの豚どもだ、萌は思う、名誉ヘテロでしかないんだ、私は違うんだよ、私は孤高のレズビアンなんだ、私はヘテロの尻穴は舐めない。でも違うんだよ、萌は拳を握りしめる。レズビアン同士で争っちゃいけないんだよ。彼女は分かっている、レズビアン・カップルはヘテロやゲイのカップルに比べても貧困に陥る確率が著しく高い、というのも日本は男女の賃金格差が大きく、女性の賃金は男性よりも約30%低い。カップルに男性が含まれないレズビアン・カップルはこの状況ゆえに2人集まっても生計が成り立たないことがあまりに多い。自分が目の前にいる家族に対して敵意を抱くのは社会によって仕組まれたことだ、こうして弱者同士の分断を煽ることで統治しやすくしている。ここで彼女たちに嫉妬を抱いては社会の、為政者の思う壺だった。駄目なんだよ、萌は両の拳を握りしめる。憤怒だけが込みあげる。電車がある駅に着き、家族が電車から降りていくので、萌は急いで彼女たちを追いかけていく。ホームは狭く、殺風景だ。階段を下り、通路を歩いていき、また階段を下り、改札を通り抜けていく。高架下には店が犇めいているように見えるが、幾つもシャッターが閉まっており、活気づいているのは新しげな雰囲気を醸す唐揚げ屋と老婦人が続いて入っていく整体院くらいだった。家族は右に曲がる、萌も右に曲がる。ある程度は距離を保ちながらも、3つの背中を凝視する。若い方の女性が年上の女性に喋りかける。あのですね、iPhoneのCMでしたっけ、結婚するカップルが、友達と一緒に山登って頂上行って、そこで皆に手伝ってもらってウェディング・ドレスが棚引く写真を撮るみたいな、でその後に写真から手伝ってる友人の姿を消して、そういう特殊効果が思うままのiPhoneの機能すごいみたいな、それでCMの反応見てたらですね、めっちゃ批判されてるんですよ、そこまでして友達の姿を消したいのか、それを含めての写真じゃないのかみたいな、私は驚いたっていうか、でも逆にそういう綺麗な写真があっても良くないかな、友達消すなって批判されてるけど、友達を消した後、その画面を新郎新婦と一緒に友達も見ていて、おーって言ってる場面が映るじゃないですか、だから事前に“何枚か、あなたの姿を消す写真も作るから、これだけは許してね”って言って同意をもらったからああいう場面が成立する訳ですよね、だから批判されすぎって私は思うんです、まあ確かにあの場面が挿入されなかったら批判も分かりますけど。そして年上の女性が言った、皆そこまで考えてないですよ。夕陽が美しい。柔らかな橙色のなか、3人が並んで歩いている、その姿に萌は懐かしいという感情を抱いた。しかし子供の頃にこんな風景を自分で実際に味わったかどうか思い出せない、思い出せない時点で経験がないのと同じだ。あの少女のいる位置に自分はいたことがない、萌は思う。そして3人はあるアパートに辿りつく、若い方の女性から鍵を渡されると、小さな階段を少女が駆けのぼり、1階に連なるドアの群れ、その2番目にまで走っていく。そして何度も何度も、何度もガチャガチャと鍵穴を回した後、ドアがふわっと開いて、ただいまあ、少女は部屋のなかへと勢いよく入っていく。それに続き、2人の女性がドアの前に立ち、そしてどちらからともなく、キスをする、一瞬だけ。脳髄をブン殴られるような衝撃を受けて、我に返る。萌は知らないアパートの前に立っていた、知らない道に立っていた、知らない町に立っていた、漠砂の真ん中に打ち捨てられたような戦慄を覚えた。自分が今、どこにいるのか全く分からなかった。前から人がやってくる。トートバッグの中に犬を携えた男性だった。優しそうで、道を聞くにはうってつけそうな人物だった。口を開いたが、奥から声が込みあげてこない。喉は震えながらも、音が一切伴わない。そのまま男性は萌の横を通りすぎ、犬がワフワフというくぐもった声を響かせる。何も言えなかった、後ろに振り向くこともできない。喉の震えが身体中に伝染していき、怖くなって萌は走りだす。全てから逃げるために走っていく、
走る
走る
走る
走る走る走る走る走る走る走る走る
走る走る走る走る走る
走る走る
走る走る走る
走る
走る
走る
そして止まる。肩で激しく息をしながら、萌は自分が歩道橋の下にいることに気がつく。高速道路に隣接しているらしい歩道橋、その下にはだだっ広い空間がある、バスケの練習も容易にできるだろうという開けた空間だ。道路の巨大な遮音板に寄り添うように極太の柱が立っているが、その根本は剥き出しのコンクリートに包まれており、不思議と人が座れるような状態になっている。萌はよろつきながらコンクリートへ歩みより、ドスンと腰を据える。息を整えている間、彼女は目前に現れる風景をぼうと眺めていた、痣のように陰鬱な夕暮れの空、遮音板では御しきれない疾走の轟音、黄土色と赤茶色が外壁で交わりあうマンション、長方体の質素な建築、その開かれた入り口から伺える車の整備工場、水色のトタン材で作られた工場、その奥にもまたもう少し大柄な工場、風の爽やかな匂い。そしてふと気づくのは、自分の傍らに文庫本が置いてあることだった、薄く脆そうな本。萌はそれを手に取り、少し眺める。表紙には幾何学的図形で構成された奇妙な絵画と、日本人からすると滑稽にも響くカタカナの言葉が描かれている。裏表紙を確認すると、カタカナは人名であるらしく、本はその人物の伝記であるらしかった。“企業者精神”、“イノヴェーション”、“創造的破壊”と不愉快な言葉が並ぶ。その人間は経済学者らしかった。胃に淀んだ毒気が溜まるのを感じながら、しかし萌は本を読み始める。その男は天才であったという、世紀末ウィーンに生を受け、成長するとともにコスモポリタン的な価値観や教養を身につけた後、大学では経済学を学び、25歳の若さで“理論と政策の峻別”を指向する純粋経済学の書を出版した。“「すべてを理解するとはすべてをゆるすことである」という格言には、もっともな意味がある。一層適切にはなお次のように言うことができよう。すべてを理解する人には、ゆるすべきものは何もない、ということが分る、と。そして、このことはまた知識の世界にも妥当する”。男の経済学者としての道行きはこの文言から始まったと言える。様々な書を通じて、男は資本主義について語り続ける。ある経済学者は徹底的な自由競争の果てに経済は均衡へと落ち着くことになると論じるが、男はこれを“静態的過程”と呼び、机上の空論ではない実際の経済は“動態的過程”であると宣言する。“経済発展の本質は、以前には定められた静態的用途に充てられていた生産手段が、この経路から引き抜かれ、新しい目的に役立つように転用されることにある。この過程を、われわれは、新結合の遂行と呼ぶ。そして、これらの新結合は、静態における慣行の結合にように、いわば自ずからそれ自身を貫徹するものではない。それらは、少数の経済主体のみに備わっている知力と精力を必要とする。こうした新結合を遂行することにこそ、企業者の真の機能がある”。カリスマ性を持つ天才的な企業者、彼らによる抜本的なイノヴェーションによって因習は破壊され、経済は新たに生まれ変わり、この“創造的破壊”によって全ては発展するのだと、男は資本主義を祝福する。だが第1次世界大戦、世界恐慌、第2次世界大戦、その中で資本主義が異常なる膨張を遂げていくなかで、男は資本主義の死を幻視し始める。男の友人が語るには、彼は“病人が死んでいくことを、むしろ陽気な感じで認めている(彼の恋人「古い資本主義」は、すでに一九一四年に死んでおり、涙はずっと前に涸れ果てている)”、そして資本主義という“病人は精神身体症によって死に至る。ガンではなく、ノイローゼがこの病気なのである。病人は自己嫌悪のかたまりとなり、生きてゆく意思を失う”。そして1950年1月7日夜、男は動脈硬化症によって眠りの中で死に絶えた。
じゃあ、どうなった?
じゃあ、資本主義は今どうなった?
言ってみろよ
どうなったか言ってみろよ
お前言ってみろよ
資本主義はどうなったかをさ
言えよ
なあ
言えよ
資本主義は今どうなってる?
どうなってるんだ?
言ってみろよ!
萌は自分の体が、さっきよりも震えているのに気づいた。悲しかった、悔しかった、世界の全てを呪ってやりたかった。それでも、立たなくてはいけないという思いが、萌の奥底から込みあげた。ゆっくりと、ゆっくりとコンクリートから立ちあがる。生まれたての小鹿のような震えに、自分で笑えてきた。立ち上がっても、このまま立ったままでいられるのか、前に歩んでいけるのか、それすらも分からなかった。歩道橋の階段、そこから降りてくる人物が見えた。真っ黒い学ランを纏った、中学生くらいの少年だった。空はもう既に暗い。萌は歩いた、体を震わせながら歩いて、少年のもとに行った。そして頑張って、頑張って声を絞りだす。駅ってどこにありますか? 自然と涙が込みあげて、目から止めどなくこぼれ落ちていく。少年は萌の方をポカンと見ていた、何も言わなかった、だからもう一度、萌は尋ねた。駅、どうやって行けばいいですか?

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。