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コロナウイルス連作短編その169「ゴキブリみたいに生きてる」

 富美山真奈子が部屋のドアを開けると、そこには料理の入った皿の数々がプレートとともに置かれている。嗚咽でもするように、肺から淀んだ呼気をブチ撒けてから、彼女はプレートを部屋に持ちこむ。ドアの閉音は暴力的なまでに大きく響かせる、もちろんわざとだ。
 プレートには幾つもの料理が並んでいる。だがどれが一体何だか分からない、もしくは真奈子の感覚器官がそれらが何であるか認識するのを拒んでいる。相貌失認という人の顔を認識できなくなるという病がある。患者の認識において顔のパーツが統合性を失い、それらを見分けられなくなるのだという。自分の症状は料理に対する相貌失認みたいなものだと真奈子は思っている。目前に見える料理には全て濃密なモザイクがかかっている。形状どころか色彩も判別できない。周りの書籍や家具、ともすれば皿ですらいつもと同じく見えるのに、料理だけがこうだ。これがもうずっと続いている。実際、失貌症の患者には顔がこう見えているのかは知らない。しかしそう見えていると信じて、自身の孤独を日々紛らわす。
 真奈子はカーキ色の皿に乗った料理を食べる。変な味だった。ことさらセラミック感が際立つ白い皿に乗った料理を食べる。変な味だ。底の深いお椀に入った料理を食べる。これはご飯であると認識が可能となっているが、それはこのお椀に入ってるのが常にご飯であるからだ。やはり変な味だった。
 彼女は無心で料理を胃にブチこんでいく。残念だが生きるのには栄養を摂取することが不可欠だ。栄養の欠乏に伴い、空腹感も抱かざるを得ない。正体不明の料理でも、母親の作った料理であるのは間違いないゆえ、摂取していると腹は確かに膨れる。しかし餓えがある。食事ではもはや満たせない餓えがある。それをいつから感じ始めたかは既に忘れた。
 10分ほどで夕食を終わらせる。空腹感はもう一切ない。惨めだった。コップの横に置かれた5錠の薬を手に取る。小指の爪ほどの大きさをした錠剤が3粒、もっと小さく平べったい錠剤が2粒、どちらも白い。これに関しては形状も色彩もハッキリと判別できる。それらを口にブチこんで、水で一気に飲みくだす。気道に入りこんで窒息できればいいのだが、そう上手くは行かない。
 プレートをドアにまで持っていき、一瞬だけ開いて床に置いたかと思うと、すぐにドアを閉める。そしてベッドに寝転がってタブレットでYoutubeを観る。最近よく観るのは動物の動画だ。子供の頃にTBSで放送していた「どうぶつ奇想天外」という作品を両親とよく観ていたが、それがYoutubeで復活していたのを知ったのだ。以前放送された10分ほどのVTRを、ナレーションは新録したうえでアップロードしていたのだ。今日観たのは砂漠に生きる生き物特集だ。サソリやトカゲなどが過酷な状況で独自の進化を遂げている様を見るのは、とても楽しい。中でも驚いたのはあるヘビの姿だ。それは砂のうえで体をうねらせながら、しかし前に進むのではなく横にスライドするように進んでいく。進むというより滑るの方が正しいかもしれない。マイケル・ジャクソンのムーンウォークさながらの奇妙な滑らかさに、真奈子は目を見開いた。
 と、ドアの前でガタガタと音が聞こえる。おそらく母親が食器を回収しに来たのだろう。食器同士が触れあい神経質な音を響かせるが、その奥から溜め息のような音が聞こえた。母親が自分に罪悪感を抱かせるための常套手段だと、彼女は理解している。聞くだけで吐き気を催すような響きだ。真奈子は左足で壁を蹴りあげて、地鳴りのような音を響かせる。小指が変な風に当たり、少し痛い。ドアの方からの物音が劇的に小さくなり、母親がそそくさと立ち去ろうとするのを気配として感じる。下に降りていく時は、しかし階段の軋みが鼓膜に擦りつけられる。
 いつものことだが不愉快だった。空気がぬるく、ぬめるように感じる。歯はもちろん磨かないままに、Youtubeで動物動画を見続ける。今日はいつもより早く眠くなる。だが自ら眠ろうとはしない。動画を観たままでいつしか寝落ちしてしまう、この時の心地よさをいつだって味わいたい。

 右足に妙なかゆみを感じ、真奈子は目を覚ます。眼球が砂漠さながら乾き切っている。激しく目をこすりながらかゆみの方を見ると、ゴキブリが足のうえを歩いているのに気づいた。
 うわっと、間抜けな大声を出しながら後退り、背中が窓際の壁にぶつかる。肩甲骨が衝撃でブルブルと震える。そんな激動を尻目に、ゴキブリはシーツの上をカサカサ動いていた。顔面のパーツが中央に寄っていくのを感じながら、しかし体自体は動かすこともできず、真奈子はただその姿を眺めている。ゴキブリの動きは、何とものほほんとしていた。どこへ進むかゆっくりと吟味しながら、少しずつ少しずつベッドを行く。思慮深いというよりも、お気楽といった印象だ。記憶のなかのゴキブリとは全く違う。例えば母親が絶叫とともにブチ撒ける殺虫剤から逃げ惑うゴキブリ、深夜にトイレへ行こうとしたら橙の照明に浮かびあがり逃げ去ったゴキブリ。彼らとは全く違う、ゆるい雰囲気を纏っていた。そうしてゴキブリはベッドの端に着いたかと思うと、側面の方へと消えて、真奈子の視界からは見えなくなる。
 呆然としながらも、不思議な好奇心すら感じ始めた自分に気づく。目の前に広がっているのはあの「どうぶつ奇想天外」のVTRに似た光景だ。もちろんこれは引きこもりの視点であり、あれほどの壮大さは望むべくもない。それでも自分の瞳がカメラになっている気もした。彼女はゆっくり前のめりになり、ベッドの側面をどうゴキブリが這っているか確認しようとする。とはいえ動きは相当に遅い、ゴキブリのあのお気楽な歩みより遅い。やはり恐怖がある、ゴキブリに対する嫌悪感がある。それでも確かに体は動く。今確かに真奈子の心には好奇心が宿っている。
 だが側面を確認する前に、ゴキブリが視界へぬっと現れる。もう既に床へと降りたち、そこを進んでいこうとする。その動きはまだまだお気楽だ。より広い場所に出たからか、お気楽さに拍車がかかっているようにすら見える。少し進んでは、床の冷たさを味わうように数秒止まった後、また進む。そうして足先やお腹で床の堅さを感じた後、またまた進む。呑気な動きだった。ちゃんと今生きていることを、余裕を以て噛み締めながら、行く先を見据えているとそんな風だ。
 ゴキブリみたいに生きてる。
 引きこもり生活を続けるなかで、そんな言葉が何度頭に去来したか、真奈子は覚えていない。数えきれないほどというのは間違いない。そしてこの言葉が示すのは、何かに寄生しながら惨めに生き続けているという恥だった。
 私の生き方、ゴキブリよりひどい。
 ゴキブリのこの呑気ぶりを見るなら、しかしそんなことを思わざるを得ない。自分の人生があまりにも馬鹿げているものに感じて、真奈子は笑った。最初は小さかったのに、すぐに抑えられないくらい大きなものになっていく。自然と涙が出た。これもすぐ号泣へと変わる。特に鼻水の噴出ぶりが凄まじい。拭っても拭っても、止めどなくとんでもない量の粘液がダラダラ流れる。だがゴキブリは真奈子を少しも気にかけないまま、床を進んでいき、最後には本棚の隙間に入ってもう全く見えなくなった。
 真奈子は独りになって、そして泣き続ける。

 気がつくと、真奈子は奇妙な空間で体操座りをしていた。
 くすんだ白が本当にどこまでも広がっていて終わりが見えない。だだっ広さで言えば屋外という感じだのに、厭な閉塞感がある。壁のない部屋なんてそんな言葉が思いつく。だが実際、自分の人生自体そういう類いのものだと真奈子には思える。
 これはすぐに夢だと分かった。だが何もする気はない。膝に顔を埋めて、時が過ぎるのを待つ。
「ねえちょっとアンタ、何してんのよ?」
 そんなハツラツで、反抗的な声が聞こえた。
「ねえ、聞いてんの。ちょっと!」
 口調は90年代の洋画に出てくる太った中年女性といった風だ、正確に言えば日本語吹き替え版だが。声質も頭にキンキンと響く誇張された女声といった印象で、かなり耳障りだった。
「うるさい、だまれ」
 真奈子がそうボソッと言う。
「んもう、だらしない子だわ。ちょっとこっち見なさい」
「うっさい」
「こっち見なさい!」
 大音量でそう言ってくるので、堪らなくなって顔をあげる。だが何も見えない。
「こっちよ、こっち!」
 声の方向を反射的に見る。目線が急激に下にいく。そこにいたのはゴキブリだった。
「うっわ」
 真奈子は思わぬ速度で後退りする。だがその速さはゴキブリのそれで、自分で自分が厭になる。
「なに驚いてんだい」
「いや、だって、ゴキブリ!」
「そうだよ、あたしゃゴキブリだよ。何か文句あんのかい?」
 目の前でゴキブリはほとんど微動だにしていない。しかし彼女のものらしき言葉が頭のなかに直接響いてきて、困惑するしかない。
「そんなことより、何そんなにウジウジしてんのさ。もうずっとそんなんなのかい?」
 そう問われて、ふと今までの人生について考えてしまう。だがほとんど思い出すべきことがない。
「いつからってさあ……もう忘れたよ。いつからウジウジしてんのかも、いつから引きこもってんのかも、いつから人生クソになったかも、もう完全に忘れたわ」
 するとお腹から惨めな音がする。夢のなかですら腹が減るのにウンザリする。
「お腹空いてんのかい」
「まあ、そうなんじゃないの。もうどうでもいいよ」
「何言ってんの、お腹空いてんならちゃんと食べなさい!」
「うっさいな……もう何食っても遺灰みたいにしか感じないし、意味ないよ。もう何も食べたくない、何の味もしない、全部クソ」
「アンタ、ちゃんとさ、味わって食べてるの?」
「は、そういう問題じゃないし。母親みたいなこと言うなよ」
 真奈子はゴキブリを睨みつけるが、その体は微動だにしない。ムカムカして、ことさら強く睨みつけようと眉間に力を入れる。
 と、その小さな体が震え始める。動いたら動いたで不気味で、後退りしそうになる。それでも頭のなかにンンンンンという、まるで便秘に苦しむような声が聞こえてきて、もはや困惑しかなくなり動くこともできない。そしてただただ震えるゴキブリを眺める末、爆発するような声とともに、ゴキブリのお尻らしきところから、半透明の液体が出てきた。すわオシッコかウンコかと思うが、黄色がかった青白い液体はどちらでもないような気がした。顔面を歪ませる真奈子を尻目に、ゴキブリは便秘から解放されたように快哉の声をあげる。そして真奈子に言った。
「アンタ、これちょっと飲んでみな!」
 ゴキブリの言葉が信じられず、瞬きを異様な速さで繰り返してしまう。瞼がブッ壊れてしまったみたいだった。
「意味分からん、意味分からん」
「アタシが今尻から出したの飲めって言ってんのよ!」
「いや、その意味は分かる、けど……やっぱり意味分からん!」
「よく聞きな。これはね、ミルクよ」
「はあ?」
「アタシはこのミルクでね、お腹にいっぱいいる子供たちを育ててんのよ。もう栄養満点、地球上のどんな生き物の母乳より栄養たっぷりよ。それをアンタに分けてあげるって言ってんの」
「何でゴキブリがミルクで子供育てんの、哺乳類じゃないじゃん! 虫じゃん!」
「人間風情がゴキブリなめんじゃないよ! 四の五の言わずになめな!」
 彼女の言葉に脳髄を殴りつけられるくらいの気分だ。なおもなめろと強情を張るので、真奈子の右手が少し動いてしまう。いややばいだろ、でも試すくらいなら、マジでゴキブリ以下の人生、夢なんだから大胆に行ってみろ。そんな思いが浮かんでは消える一方、右手は床に落ちている滴に伸びていく。
「ほら、一発なめてみな!」
 真奈子は覚悟を決めて、手をあらんかぎり素早く動かして、滴をなめた。
 一瞬、無だった。だが直後、凄まじい感覚が、文字通り舌のうえで爆発する。今まで味わったことのないものがそこに存在している。甘くて、苦くて、辛くて、酸っぱくて、しかし何よりも旨すぎる! 小さな滴からこんなにも巨大で複雑な何かが現れるなんて予想外も予想外で、真奈子の頭はクラクラした。思わず指を伸ばして、滴をまた舐めとろうとしてしまう。
「ダメだよ!」
 ゴキブリが彼女を叱りつける。
「ちゃんと味わってからにしな!」
 真奈子は手を引っこめ、言われた通りに滴を味わおうとする。自分が感じたものを詳しく感じていこうと思う。その甘み……少し重さがあり、濃厚とも感じた。舌に小さな拳が押しつけられるような感覚だ。苦みに関してはそれと真逆、軽やかなものだ。こういう苦みを味わったことが今までない、ゆえに似た味の食材が全く思いつかない。
 意識的に味わおうとすると、自分の頭で言葉がどんどん溢れていくことに、真奈子は気づいた。
 辛みは切れ味の鋭いもので、この感覚自体は激辛ラーメンを食べた時などに味わったことがある気がする。だがそれよりも更に鋭敏だ。激辛ラーメンが包丁なら、この滴は忍者の持つ小刀だ。細やかな斬創を目にも止まらぬ早さで刻まれる、もはた痛いを通り越して爽快なまでの感覚だ。酸っぱさについては、凝縮としか言いようがない。いつも感じていた顔がギュッと縮むというような感覚が強烈になり、世界そのものが真奈子の口を中心点として凝縮すると、そんな鮮烈な感覚がある。
 このそれぞれに個性的すぎる味覚が舌で溶け合う、これがあり得るのか?と思わざるを得ないが、実際これが完遂され、舌のうえに何にも似ていない旨味が爆誕していることに真奈子は呆然としている。ただただ旨い、旨すぎた。自分の口のなかに宇宙が広がっていた。
「どうだい、アタシのミルクの味は?」
 声の裏側から誇りそのものが響いてくるように真奈子は思う。
「おいしいよ、すっごいおいしい。意味わかんないけど、おいしい」
 そう言わざるを得ない。
「これがね、味わって食べるってことだよ」
 ゴキブリがそう言った。
「アンタの好きなものは何?」
「えっ」
「好きなもんは何かって聞いてんのよ」
「えっと……」
 真奈子はしばらく考える。不思議と頭のなかには様々な料理が浮かんでいた。激辛ラーメン、唐揚げ、サーティワンのアイスクリーム、焼き肉、シーザーサラダ、焼きのり、ポテトチップス……
「納豆が好き、だった」
 真奈子は自分でそう言って驚いた。
「病気のせいで色んなもの食べられなくなったけど、納豆はほとんど唯一、別に食べてもいいってやつだった。でも食べても全然おいしく感じられなくなった。他のといっしょでさ、やっぱ遺灰みたいな感じ。あんなネバネバしたのを遺灰みたいって変かもしれないけど、でもマジでそういうのも全然感じなくなった。母親が出してくるから今でも喰ってるけど、実際は何も感じてない。でも納豆とか好きだったよ。青のりかけたり、パルメザンチーズかけたり、何か色々して喰ってたな、昔は……」
 そう言いながら、真奈子は泣きそうになる。
「じゃあさ、納豆を、今みたいに味わって食べなよ、ちゃんと味わって食べんのよ」
 ゴキブリがそう語りかけてくる。
「でもこの滴に比べたら……」
「そういう問題じゃないんだよ! とにかく味わうんだよ。味覚だけじゃなくて五感をフルに使って味わって、それで食べるのさ」
「…………」
 何か言葉を言おうとするが、舌がもつれてしまう。まだ曖昧な困惑や不安がある。それに心を絡め取られている。ゴキブリにもう一言何か言ってほしかった。自分の背中を押してくれる一言を。だけど気づくと、もうゴキブリは居なかった。あの滴もなかった。ただ空間が少しずつ暗くなってきている。おそらく目覚める時間が来ていた。それでも真奈子は、また体操座りで俯き始めている。


 真奈子の目の前には冷蔵庫がある。すこぶる古い型だ。家族がこれを使い始めてからと、自分が引きこもり始めてからとはどちらの方が長いだろう。扉を開くと、いつもの光景が広がっている。扉部分の裏側、その下部にはケースに入った麦茶やカロリー45%カットの豆乳、蕎麦つゆなどが、上部にはマヨネーズやケチャップ、わさびやニンニクのチューブなどが置いてある。そして冷蔵庫内部には豆腐や味噌、パックの漬物やハムなどがあるが、すこぶる殺風景だった。その中に納豆のパックもある、あの発泡スチロールでできたパックが。
 真奈子はそれを1つ取り出してから、テーブルに向かう。心臓が早鐘をついている。椅子に座って、先に置いていた箸とパックを交互に見つめる。彼女はゆっくりとパックを開けようとする。パキッと快活な音が響き、薄いビニールで覆われた納豆が露になる。
 落胆したのはあのモザイクが当然のようにかかっていたからだ。カラシやタレの袋も状況は同じだった。納豆が“露になった”と分かったのは、パックのおかげであって、実際に納豆を確認したからではない。
 ここからいつもの通り、流れ作業のように食べる準備をしてしまう。これはもう指に染みついた加速主義的な癖だった。そして速攻で、すぐに納豆を食べられる状態にまで準備してしまい、それを認識した瞬間に真奈子は厭な気分になる。前と何ら変わることがない。夢はしょせん夢でしかなかったらしい。
 幻滅のなかで何の期待もなく、納豆を口にした。予想通り遺灰なのは変わらない。ザラザラして、味もない。他の感覚もあるにはあるが、微かなノイズのようなものでしかない。早々と飲みくだそうとする。
 “ちゃんと味わってからにしな!”
 あのゴキブリの声が花火のように響き渡る。反射的に“無駄だろ!”と声をあげそうになるが、それでも努力して“味わう”という行為を行おうとする。延々と遺灰を噛んだり、なめたりするのは苦痛以外の何物でもない。だがどこかに可能性があることを願いながら、まるでクレバスに落とした縄を手繰り寄せるように、納豆を味わい続ける。それでも、不毛だった。何か感じることはほとんどない。やはり無駄だった。真奈子は怒りをぶつけるように、納豆をぐちゃぐちゃ噛み散らかしてから、そっけなく飲みくだし、そして溜め息をつく。
 一気に込みあげてくるものがあった。
 あの納豆独特の、濃密なまでに濁った、癖のある匂いが、喉元から鼻へと逆流するように雪崩こんできたのだ。思わず真奈子は噎せる。同時に、一気呵成に感覚を抉じ開けられたとそんな目覚めるような思いに駆られる。
 急いで納豆を食べて、ぐちゃぐちゃ噛み散らかす。
 遺灰の乾きの奥に、肉にへばりつく微かなねばつきを感じた。
 どんどんどんどん、ぐっちゃぐっちゃと噛みまくる。
 歯が豆を擦り潰していく。“歯が豆を擦り潰していく”という感覚が口のなかにある。
 もう一度納豆を飲みくだして、大袈裟なまでに息をブチ撒ける。
 鼻があの異臭で満たされて、体が震えてしまった。
 そして納豆を頬張る。今度感じたのはタレの風味だ。昆布だしの艶のある風味が口に広がっていった。
 口のなかに昆布が生える、そして豊穣なる生態系を宿す海そのものになる。
 彼女は急いでタレの袋を確認する。そこには“風味豊かな昆布ダレ!”と記してある。そう、真奈子は鰹だしのタレより、鰹と昆布をブレンドしたタレより、純粋な昆布だしのタレが好きだった。
 真奈子は、泣いた。昨日に続いて、また泣いた。だけども、その意味は全然違ったんだった。そして泣きながら真奈子は納豆を食べた。今はただシンプルにこう思いたかった。納豆はおいしい。
 “やっと分かったみたいだね”
 頭のなかにまた声が響いた。真奈子はリビングの床を見るが、姿は見えない。だがそこに彼女がいると、確かに感じる。
 “アンタも色んなもん味わい尽くして、しぶとく生きていきな!”
 真奈子は鼻をじゅるると啜る。
 “それがゴキブリみたいに生きるってことさ!”

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。