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コロナウイルス連作短編その167「ヴィマラ・モレイラと」

 ヴィマラ・モレイラは散歩している途中、急に焦げ臭いにおいを嗅ぎとったんだった。鼻の粘膜を妙なかんじでなでてくる。なぜだか悪い気分ではない。もっと深く吸いこむと、まるで心のすきまにするっと入ってくるように、体がブルッと震えてしまった。いま、そのにおいは背徳的なものだった。ヴィマラは周りをキョロキョロと見渡しながら、誰もいないのを確認し、そうしてマスクをずらして鼻だけ出してみる。柔らかな春のなかで丸っこい鼻を動かすと、目には見えないのに、確かにどこかで揺らめいている、そんな火のにおいを嗅いでいるような気分になった。肩甲骨のあたりがピクピクと動いてしまう。なんとなく、好奇心みたいなものを抱いた。ヴィマラはにおいに導かれるように、散歩を再開する。

 春がきたって、そんな感じだった。もう長袖シャツを着ていれば、外では事足りるっていう陽気だった。しばらく歩くと近くの、けっこう大きめな広場に行きつく。四方には柵がめぐらされ、頭上にはこまやかな緑の網がかけられている。外側には小ぶりな斜面があり、そこではモウレツなまでに数々の植物たちがひしめきあっているんだけども、そこを幼稚園児くらいの少年少女がダダダと駆けのぼったり、駆けおりたりしている。とても楽しそうだ。植物たちはすごい勢いで踏まれていくので楽しいとは思えないだろうけども、心なしか彼らはぜんぜん動じてないという風に見える。むしろ踏まれるたび、その緑色の輝きは増していくのだ。その彩りが自分の瞳に心地よさの種を埋めてくれるって、そんな清々しい気分になった。

 またしばらく歩いて、電信柱に看板が張られているのに気がつく。“下水道工事”と書かれていた。“工事”の意味は分かりながら“下水道”の意味が分からない、もしくは度忘れしてしまったか。その漢字の羅列をぼーっと眺めているうちに、“下”にある“水”の“道”なんて感じの文章が頭にふわっと浮かぶ。ヴィマラは地面に視線をおとしてみる。渋い色味をした、横長の岩の板って感じのものが歩道に敷きつめられている。この下を通っていく水の道、そう考えるとイメージが浮かぶ。『第三の男』でオーソン・ウェルズが逃亡する場所だ。おそらくそれよりは小ぢんまりとして、より暗くて、そして何より美しくない場所だろう。まあ、そんなことはどうでもよくて、頭にイメージが浮かんだ時点で、いい感じだ。ここでもうすぐ工事が始まるわけだ。

 ふと、またにおいが鼻をなでてくる。よそ見しないで、ほらこっちだよ、そうヴィマラを呼びつけるようだった。彼女は短く切ったばかりの髪を掻きながら、横断歩道を渡っていく。それから少し歩くと、自動販売機があるので、そこで麦茶の500mlペットボトルを買って、また歩く。その途中で麦茶を飲んで、すっごい爽やかってヴィマラは思う。そうしたら空をそこまで爽やかじゃない色のカラスが飛んでいくのを見かける。ちょっと不穏だった。でもあの不思議なにおいに鼻をくすぐられると、それが自分を春へと誘ってくれているような感じで、散歩をするのが楽しく思える。となったそばから、えげつない量の虫の大群がひとところに集まってブンブン飛んでる場所に行きついて、うげとなってしまう。時々見かけるやつだ。蚊っぽいが、よく分からない。ヴィマラはペットボトルを握りしめて、急いで逃げたんだった。

 それで、止まって息を整えた後に、気を取り直して前を歩こうと思う。前を見ると通行人が歩いてくる。黄緑色のシャツを着た人物だった。こちらも彼にとっての通行人Aとして映っているんだろう。ヴィマラは普通に歩き、通行人も歩き、距離は当然縮まっていく。だけども奇妙なことに、あの焦げ臭いにおいが濃厚になっていくのだ。ソワソワしながら、通行人の顔、正確にいえばマスクから上の目許に視線を向ける。瞬間、色々なことが腑に落ちて、驚きで立ち止まってしまった。がつっと妙に大きな擦過音が響いてしまった。そして彼もヴィマラの方を見て、瞬間、目を見開いた。
「まど」
 端から聞いたら、何をそんなに驚いて、光を取り入れたり空気を遮断したりする建築物のパーツ名を言うのかと思う人もいるだろう。でもそれは彼の名前だった。遠藤まどというのが、彼の名前だった。
「ヴィマラ」
 彼も自分の、割合珍しい名前を覚えていた。不思議だった。何にしろ、悪くない記憶力だった。
 一応は再会というものだったけども、ロマンティックではなくて、ただただ戸惑いばかりが先だった。
「えーっと……」
 まどがそう口ごもる。
「いつぶり?」
 やっとそんな問いの言葉を口にした。
「コロナ始まった頃に会った。だから2年くらい、ぶり」
 最後に付け加えた日本語が魚の“ブリ”みたいに聞こえていないかと心配になる。
「そっか、マジか……というか日本語上手くなったね」
「皮肉ですか?」
「いや、いやいやそういう訳じゃなくて」
「2年日本にまた住んで、ずっと勉強するば、上手くなります。ナメますな」
 そうしたらまどが突然吹き出す。また日本語を間違えたと思う、だけどもこれが自分なりの日本語なんだから誇りを持っていきたい。

 それで何となく歩きながら、何となくいっしょに話す。春の陽気がちょっと暑く感じる。
「ここ2年、何してた?」
 まどが日本語で尋ねてくる。
「英語を教える、動画を編集するでお金作ってた。他にも翻訳もやる、やり始めた。ポルトガル語、スペイン語、英語から日本語にする。時おり逆もやる。君は?」
 そう聞くと、妙にゆっくりと瞬きを始める。猫がゆっくり瞬きをしているというのは飼い主への愛情の証と聞いたことがある。いや、それは間違いという研究結果が出ていたか。どっちにしろヴィマラは猫を飼っていない。
「実は今度、本を出すことになったんだ」
「本、すごいね」
「うん、小説出すんだよ。昔から小説家とかなりたいなとか思って、ずっと小説の新人賞とかに作品を送ってたんだけど、それが評価されてさ、今度出版っていうことになった」
「じゃあ私のこと書いた?」
 そう意地悪で聞いてみると、苦笑という風に目を細めた。
「コンビニで会う、道でアイス食べる、家に行ってファックをする、ファックしながら泣きはじめるガイジンの女の人。小説にいい!」
 ヴィマラは彼の顔を覗きこんでみせる。
「いや、書いてない、書いてないよ」
 まどはそう言った。
「まあ小説の題材としてうってつけというか、そういうテーマの小説がよくあるのは認めるよ。でもこれに関しては何か、不思議な思い出だったから、小説とかにする気分じゃなかった。このことを覚えているのは君とぼくだけでいいって、そう思ったんだ」
「ふうん」
 “ふうん”の使い方はこれで合っているだろうか、まどにそうは聞かない。

 それでまたあの虫の大群を見かけた。
「あれ、キモいよ」
 指を指しながらヴィマラが言った。
「ポルトガルにはああいうのいないの?」
「分からん、虫には興味がありません」
「ふうん」
 日本人は“ふうん”をこういう風に使うらしい。生きた実例だ。
「あれ、蚊の群れなんだよ」
「蚊……夏?」
「いや、ああいう血を吸うやつじゃない。あれはユスリカって蚊の大群なんだ。それで集まってるのはほぼオスなんだよ。繁殖するために集まってるらしい。それで羽の音とかでメスを誘って、そこにメスが来る訳なんだけど、どのオスの子供を持つべきかをしっかり吟味したうえで、そのオスと交尾して子供を生むんだってさ」
「あれは蚊のファック現場」
 まどは吹きだしながら、勢いよくうつむく。
「メスにとってはよりどりみどり」
「よくそんな日本語知ってるね」
「あれから2年勉強してた、ナメるな!」
 笑わせようと思ってその日本語を使ったけども実際にまどは笑っていたので、よかった。

「あの後、何をしていましたか」
 ヴィマラはまどに問いかける。
「私はあの後に恋人ができた、南という日本の女の子。でも1年で別れた。今は自由ですね」
「ぼくも、まあ恋人いたけど1年3ヶ月くらいで終わっちゃったな」
 期間の長さに関して妙に競おうとしている感じがあって、今度はヴィマラが笑った。
「日本での愛は分からない。Tinderでファックは時々ある、でも微妙というものですよね、ビミョー」
 “微妙”の言葉尻を変に長く伸ばして、まどの頭にカタカナが浮かぶように仕向ける。もちろん結果はどうか分からないけども。
「Tinderとかやるんだ」
「Tinderなどは普通にやる。やらない?」
「ああいうのには興味ないな、あんまり」
「でも私という未知の生物とはファックする」
「いや、何その言い方……まあ確かにしたけど、あれは本当、最初で最後のやつだったよ。何でああいうことが起こったのかよく分かってない。今でも何でか全然分からん」
 そう言って、まどはヴィマラを見つめる。
「ワタシニモワカリマセン」
 そんなふやけた言葉で逃げてみせる。

「結局、この2年、私の家に来ませんでした……ね。まど、場所を知っていたのに」
 ヴィマラが言う。唇がすこし湿っている。
「そうだね。まあ、これに関してもよく分からないまま2年過ぎたな」
 まどは首筋を左手でかいた。
「来てほしかった?」
 少し、ドキッとする。
「分かりません、分からない。分かっても、君には言いません」
「ははは、君って本当によく分かんない人だな」
「君もよく分かんない人だ、です」
「でも、セックスの後にいきなりゴムのなかの精子飲む分、君の方が変だよ」
 そう言われ、そういえばそんなこともしたなと思いだし、不思議と笑いが込みあげてきた。
「超覚えてますけど、私もそれは意味分かんねえ」
 ヴィマラは大爆笑し、それからまどまで大爆笑を始めた。
「何か分かんないことばっかだな、ぼくたち」
 ヴィマラとまどは笑いあう。

 それで行き着いたのはとあるアパートだった。無難な灰褐色に覆われた建物で、真正面から見据えても今度印象に残りそうにない。
「ここがぼくの住んでるところ」
 という訳で、あの日の再来ということだった。だけど違うのは、あの日はヴィマラのアパートで、今日はまどのアパートに行き着いたってことだ。
「夕食食べたい、いっしょに食べよう」
 ヴィマラがそう唐突に言うと、まどは笑った。
「麦茶も飲みたい」
「君、結構厚かましくくるね」
「“厚かましく”とは」
「あー……reckless?」
「ぷっ、はい、そうですね」
 どこが部屋かも知らないのに、ヴィマラが先にアパートへ突き進む。まどの方が急いでそれについていく。
 そして部屋に入ったら、まずくぐもったにおいがした。重苦しい肉のにおい、男臭いにおい。こんな細い子からも、こんなにおいが漂って部屋にこびりつくのかとヴィマラは思う。それに刺激されて、あの日の記憶が少しずつ色や光を取りもどしていくみたいだった。そうだ、彼は見た目は細いけども、脱ぐと結構だらしない体をしている。
 こじんまりした部屋、物がひかえめに散乱している部屋、その床に何となく座った。床の冷たさが今の季節にここちよい。そうしたらまどがお茶を持ってきてくれた。飲んだら、あんまり冷えてない。でもおいしい。散歩して暖まった体に、ぬるめのお茶がいい感じに染みわたる。おいしかった。

「覚えていますか?」
 隣でいっしょにお茶を飲むまどに尋ねる。そこで、彼の唇が見えていることを意識した、かすれた赤茶色だ。
「『コロナウイルスに罹かったら、病院で会えるよ』って最後に言ったことを」
 まどは少し目を見開くけども、すぐに普通の細さにもどる。
「そうだっけ。覚えてないな」
「英語で言いましたよ」
「だったら、より覚えてない」
「そうですか」
 ヴィマラはお茶を啜る。
「あの後にポルトガルに住む叔父がコロナで死にました。友達も何人も罹かりました、ポルトガルとか日本とか他の国とか。後遺症もありました。ですが、私は結局は罹かるませんでした。将来、罹かります」
「いや、断言するには早いでしょ」
 まどが少し笑う。
「ぼくは新潟に住んでる親が罹かったんだけど、無症状だったからよかった。友達も何人か罹かったけど、無事だったね。この前、3回目のワクチン打ったんだ。今回の副作用は、悪寒と筋肉痛のうすいヴェールに包まれてるような、曖昧で変なやつだった。まあ1日で収まったから、有り難かったけど」
 まどもお茶を飲む。
「2年経ちました、でもまだまだコロナが続いてる。あの時に予想してましたか?」
「……ぶっちゃけ、まだまだ続くだろうなとは思ってた。でもさすがにこんなに長く続くとは思わなかったよ。だからさ、今じゃこれが更に2年、いやそれ以上続くんじゃないかって、何か諦めてるよ。これは悲観とかじゃなくて、それが当然だろって感じで」
「その間に、私たちもコロナに罹かります」
 そう言ってヴィマラは笑う。
「まあ、そうだろうね」
 まどは笑う。
 そういえば自分も唇をさらけ出している、ヴィマラはそれに気づいた。まどにはその色がどう見えているだろう?

 ヴィマラはまどとセックスをする。前よりも、自然な流れだと思った。前はどこかやけになった末のセックスだったけども、今は特にそういう訳じゃない。だから泣くこともない。
 このセックスで何かが決定的に変わる訳でもないと、ヴィマラは思った。これでまどと一生の別れになるということはない。でも恋人になるということもない。じゃあセックスフレンドになるかと言えばそうでもない。ただの友達って、そういう感じだ。敢えて言うなら“セックスもする友達”っていう風だけども、それも“映画をいっしょに観に行く友達”とか“近所の肉バルで時々酒をいっしょに飲む友達”って、そういうのと同じものだ。
 セックスが終わった後、適当に、外に広がる夕焼けを眺める。治りかけのアザみたいな色でいとしい。
「なんか酒とか飲む?」
 後ろからそう聞かれる。
「なにですか?」
「赤ワインだけど」
「飲みます」
 肩をまわしながら後ろを向くと、まどが冷蔵庫から馬鹿でかい紙パックを取りだしていたので、思わず笑ってしまう。笑いながら立って、まどのところへ押しかける。
「なにですか、これは?」
「ワインだよ」
「それは分かるし」
「近くのスーパーで売ってるやつ。めっちゃ安いし、ポリフェノールめっちゃ入ってて健康だし、一石二鳥」
 大きめのコップにワインをなみなみと注ぎ、それをヴィマラに手渡してくる。恐る恐るそれを飲んでみると、えげつないまでに甘い。砂糖を大量にブチこんだって風に甘い。
「あんめえ」
 あまりの甘さに、全身の骨からカルシウムが失われて、へにょへにょになってしまった気分だ。テーブルに手をつかざるを得ない。
「今度、私がおいしいポルトガルワインを持ってきます。覚悟しろ!」
 しかしもう一度、そのワインを飲んでしまう。信じられないくらい甘い。
 横を見ると、それをまどが旨そうに飲んでいる。その笑顔はもっと信じられないもので、ヴィマラも笑わざるを得なかった。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。