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コロナウイルス連作短編その159「殺しても死ねない」

「すみませんが、そこどいてくれませんか?」
 買い物の後、葛羽佳孝がイートインの席で休んでいると、そんな言葉をかけられた。声の主は灰色髪の老人だった。言葉自体は刺々しい、しかし好好爺というべきまろやかな笑顔に、朗らかで爽やかな声音でそんな印象を受けない。
「そこで昼のご飯を食べたいんですよ」
 佳孝は特に反感を覚えず、むしろ「ああ、すいません」と言いながら、席を立つ。
「ありがとうございます」
 後ろを見るが、席は全て空いている。不気味なほどの空白が広がっている。
「あの、いつもそこ座る席なんですか?」
 荷物を持って真後ろの席に移りながら、佳孝はそう尋ねる。
「いや、席が空いてなくて」
 妙な返事だった。席は全て空いていた、確実に。もしくは老人が彼に声をかけ、彼が後ろを見るまでに全ての客が席を一斉に離れたか、その可能性は極小と言わざるを得ない。しばらく席に座りながら、老人の背中を見据える。腐敗した蘚色の服、丸まった背中。老人は何かを食べているが、後ろからは何か分からない。怒りは抱かない、苛つきもない、ただ納得が行かない。
 立ち上がり、カートを押して地下駐車場へと赴く。途中で床に踞って、泣いている少年を見掛けた。幼稚園児だろうか。周りに親らしき大人はいない。周囲の人間で彼に注意を向けるものもいない。遠くでは妙な音楽を鳴らしながら、全自動のロボットが床を掃除している。佳孝は彼のもとへ行き、しゃがみこむ。
「どうしたの、大丈夫かな?」
 控えめに泣いていた少年は佳孝の方を見る。眼に血が満ちている。赤色立体地図、そこに広がる赤の不気味な濃淡を彷彿とさせた。
「アリさんがしんだの」
 少年はそう言った。意味が分からない。
「どういうこと?」
「ペットのアリさん、みんなしんだの」
 合点がいく。確かに自分も小学生の頃にアリを飼ったことがある。ガラス越しに巣の形成過程を観察して、それを夏休みの宿題にした覚えがある。なかなかいい思い出だった。
「パパがみんなころしたの」
 少年が言った。
「パパがおこって、ビンもって、ちかくのかわまでいって、ぜんぶながしたの。ぜんぶみずんなかなって、アリさんみんなしんだの」
 何か知ってはいけないものを知ってしまったような気がした。不可視の粒子の群れに、精神を轢き逃げされたような気分だった。肩胛骨が痛む。
 そこに1人の男性がやってくる。端正な顔立ちをした、40代くらいの男性だ。不健康な黄緑色の服を着ている。
「マナブ!」
 それはおそらく少年の名前だろう。だが先の少年の告白がちらつき、表情筋が微かに痙攣してしまうのを感じた。右頬の辺りで筋も肉もひきつる。抑えられない。
「いや、すいません。息子が迷惑かけて」
 申し訳なさそうな言葉に、返事が返せない。客観的に見て明らかに挙動不審だと思えるが、静かな動揺を御しきれないでいる。
「パパがアリさんころしたんだ!」
 少年がそう叫び、むしろ佳孝は安堵する。彼は男性の方に視線を向ける、“そうなんですよ、今見るからに僕が動揺している理由は、正にこの言葉なんです”とでも言う風に。すると男性の表情は一瞬に曇り、俯きはじめる。
「いや、あの……」
 男性は口ごもる。だがここまで来たなら、出来事の真相が知りたい、そう佳孝は思う。右腕が奇妙に痛い。
「息子、アリをビンに入れて育ててまして、ですが先日、何かの病気なのか、次々と死んでしまって、最後には……私もいっしょに育てていたんですが、原因不明のまま、それを何とかすることもできず……悪いことをしてしまったと思います」
 男性はそう言った。
「私たちが殺してしまったんです」
 そういえば小学生の頃に育てていたアリを、自分は最後どうしただろう?
「ちがう、パパがころしたの! ぜんぶうそだ! パパがころした! ぼくはころしてない、しんじて、しんじてよ!」
 そこに今度は少女がやってくる。身長が高い、中学生のように佳孝には思えた。
「やっと見つけた、はやく帰ろうよ」
 男性は娘であろう少女に何か言ってから、こちらに向き直す。
「いや、ご迷惑かけて、本当にすみませんでした」
 男性は少年の手をひいて、立ち去る。
「そんないつまでも泣いてんなよ」
 少女がそう言った、弟に振り回され不機嫌な姉といった風だ。
「うるせえ、ババア!」
 そんな大音量の毒物が少年によって突然ブチ撒けられたことに佳孝は動揺する。男性は無言で、少年の頭を上からブン殴った。その勢いのまま少年の首が曲がる。全身が一瞬で圧縮されたように、少年は床に崩れ落ちる。だがすぐに立ちあがり、また歩きだす。3つの背中が遠ざかるなかで、佳孝は急いで地下駐車場へと向かう。
 
 家に帰る。妻の幸子が殺菌のためファブリーズを撒いてから、佳孝をハグする。赤子を健やかに育み、膨らんだお腹がギュッと自分の体に押しつけられ、心が引き締まった。
 今日、佳孝の作った夕食はめかじきの照り焼き風ムニエル、かぼちゃの煮物、そしてポテトサラダだった。全てが幸子の大好物で、それらがテーブルに並べられた様を見ながら、柔らかく微笑んでいる。ぜひたくさん食べてほしかった。もうすぐで出産予定日だ、幸子にも赤ちゃんにも元気でいてほしい。佳孝が今抱く唯一にして、何にも替えがたい願いだ。
 夕食を始める前に、幸子がテレビを点ける。流れるのは泣き叫ぶ女性の姿だった。これだけでウクライナ侵攻のニュースだと分かって、厭な気分になった。そして一瞬でカメラは別の方向に向き、彼女はフレーム内から消え去るが、叫びは聞こえる。よりいっそう悲愴に、残虐に響く。心臓が握り潰されるような痛みを感じた。幸子はチャンネルを変える。ウラジーミル・プーチン大統領が演説内で、戦略的核抑止部隊に特別警戒を命じたと発言していた。幸子がテレビを消した。こちらに振り向く。彼女は何とか笑おうとしていた、一応は笑っていると形容できるような状態にまで表情筋を動かすことができていた。
「あっ、赤ちゃん、中から、蹴ってきたよ」
 機械的にそう言った。
 数時間後、佳孝は眠ろうとする。数分が経ち、幸子もベッドに入ってくる。しばらく静かだったが、彼女が後ろから抱きつき、首筋をキスしてくる。明らかにセックスを求めていた。キスの回数が増えるごとに、体の震えが露骨になる。膨らんだ腹部が背中に押しつけられる。セックスなどしたくなかった。だが股間を撫でられて、ペニスは勃起する。自分の意志ではない。だが2本の陰茎海綿体と1本の尿道海面体へと血液が回り、否応なしに膨張する。自分の意志ではない。結局、佳孝は幸子とセックスをした。なるべく早く終らせる。
 佳孝は夢を見る。
 色彩嫌悪的な真白い空間、彼は椅子に座り、銃を自分の頭部右側面に突きつけている。体は凄まじいまでに震動しているが、死ぬことが怖いからではない。死ねないことが怖いのだ。ガタガタ震えながら、その恐怖のなかで佳孝は引き金を引く。
 鼓膜を破るような爆音が響く。
 佳孝は死んでいない。驚き、予感が的中したことに絶望する。それを否定するために、佳孝はまた引き金を引いた。
 鼓膜を破るような爆音が響く。
 佳孝はやはり死んでいない。
 佳孝は引き金を引き、また爆音が響くが、彼は死んでいない。これを何度も繰り返すが、佳孝は死なない、死ぬことがない。そして最後に、佳孝は目覚める。銃撃の試行回数は締めて22254回、前日比で927回ほど減少している。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。