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コロナウイルス連作短編その155「もうこのままでいよう」

 しかも宇田川沙梨は独りでショッピングモールを歩いている。鞄とカート、カゴだけを伴い、彼女は歩く。最後には惣菜ブースに差し掛かり、何を買おうか吟味していると、妙におちゃらけた音楽が流れてくる。美しさもへったくれもない、1つ1つの音が耳障りなサイレンのような音楽だ。その方向を振り向くと、やはり妙な物体が目に入る。微かに黒みがかった白い長方体が音楽を轟かせ、動いているのだ。しばらく見るうち、それが自動で掃除を行う機械だと気づく。お掃除ロボットだ、沙梨はそう思った。ロボットは周りの客も気にせず、マイペースでゆっくりと進んでいる。その平穏さとは裏腹に、客に注意を促す音楽は爆発的なまでに耳障りだ。それでもロボットの能天気さを見ていると音楽も許せるようになるのだから不思議だ。
 沙梨はお掃除ロボットに少し興味を抱く。無論、ルンバのような全自動掃除機には何度もお目にかかったことがある、自分で買ったことはないが。それでも小学校低学年の子供くらいの背丈があるロボットが、一切人間の手を借りずに掃除を行っている様は、漫画か映画でしか見たことがない。今が未来のような気分だったが、それはつまり未来は現在ということになる。何だかそれが可笑しかった。
 何となく近づいてみようと思うと、彼女よりも早く駆け寄ってくる影がある。少年と少女、背丈はロボットと同じくらいだ。少年はカーキの服を着ている、少女の髪型はお下げだ。2人もまたこういったロボットを初めて見かけるらしく、興味深げにロボットを見ている。その全部を目に焼きつけたいとばかり、忙しなくグルグル回っているが、ロボットは一切気にせずゆぅーっくりと床のホコリを吸い取っている。可愛らしくて、ただ遠くから眺めてしまう。2人と1体の時間を邪魔したくなくて、今はロボットに近づこうという気はなくなっている。そしていつしか、彼らのかなり後ろで、並びたちながらこの光景を眺めている2人の女性を見つける。沙梨と同い年ほどだ、おそらく2人の母親だろう。子供たちの無邪気さ、好奇心を目を細めながら眺めていた。その全てが微笑ましかった。
 いつしか、少女がロボットの駆体を触り始める。見覚えのない物体を見たタコさながら、ペタペタといじっていく。最初は進行を邪魔しないほどの勢いだったが、触れるうち興味も好奇心も膨らんでいき、ペタペタがベタベタになり、ベタベタがベッタベッタベッタに変わる。少年の方も、少女ほどではないがベタベタとロボットを触る。母親たちを含めて、周りは誰も注意しない。ロボットを監視する従業員も居ないようだ。何か曖昧な不安を抱えはじめながら、沙梨はその視線が動くばかりで、足は動かない。
 と、沙梨の横にダウンジャケットを着た男が現れ、鶏肉の照り焼きステーキが入ったケースを鷲掴みにした。少し視線がそちらへ逸れて、瞬間にノイズのような爆音が一瞬響く。眼球を先の位置に戻すと、2人と1体がいる。だがしばらく経ってもどちらも一切動かない。またしばらく経って、やっと少女が動きだし、ロボットの撫で始める。ロボットは動かない。最初は人間の認識を越えるほどの遅さで進んでいるかと思えたが、実際にはただ動いていないだけだ。完全に動かなくなっているだけだ。壊れたと、沙梨は直感的に思う。だが2人はよく状況が飲み込めていないといった風に、ロボットの周りをウロチョロする。それでも徐々に現状を理解していき、不安げな表情で、互いを見やる。脳髄と頭蓋骨の間に火花が散るような感覚を、沙梨は味わう。
 少女が動かないロボットに触れて、ゆっくりと抱きしめ始める。小さい手、小さい腕でロボットの白い駆体を抱いて、マスクに包まれた顔をそこにつける。慈愛だった、これが人間の慈愛だった。吐き気がこみあげてきて、沙梨はその場を足早に去る。
 エコバッグを突き破ろうとする程の荷物を、自転車のカゴにブチこみ、ショッピングモールから出ていく。自転車を漕ぐ足に、いつもよりも過剰な力がこもる。沙梨は筋肉の存在を感じた。だが頭に浮かぶ筋肉の具体名は大腿筋だけで、後はただただ筋肉だった。足は名前も知らない無数の筋肉の集合体だった。全てを振り払おうとすると、自然と力がさらに入り、筋肉の重苦しい幻影が沙梨を苛むことになる。だがその意識を空に向けたのは、皮膚に落ちてきた水だった。ポタポタと垂れてきたと思うと、凄まじい勢いで沙梨と自転車に降り注いでくる。雨だった、豪雨だった。地球が反転し、海の水全てが空を突き抜け、力学関係を無視し尽くしながら宇宙を落下していき、そして沙梨の体を殴りつける、そんな衝撃だった。ありがたいと思った。そして意識的に足へと力を込めると、足裏がずるりと滑る。何かを思う間すらなく、沙梨は自転車ごと地面に倒れた。
 意識は鮮明なままだ。自転車に潰されずにはすんだが、その傍らで彼女は惨めに倒れている。そして荷物は銃撃された脳髄さながらブチ撒けられている。片付けようと思いながら、立てない、動けもしない。もはや何かする気がない。もうこのままでいようと思った。豪雨に晒されたままで、ずっとこのままで居ようと。
「大丈夫ですか」
 声がしたので上を向く。女性がいた。だがまず真っ先に背が高いと思った。180cmほどはあるのではないか。彼女は沙梨を見下ろし、沙梨は彼女を仰いでいた。返事をする前に、両腕が不自然に宙を舞った、何の光も持たないまま暗闇に捨て置かれたように。
「ああ」
 その微かな声は、豪雨の轟きの奥からでも何故か聞こえた。彼女は路上にブチ撒けられた荷物の数々を拾っていき、エコバッグにテキパキと詰め直していく。そういうことじゃない、沙梨は思った、そういうことじゃないのに。その光景を見ながら、女性が自分と同じくずぶ濡れなのに気づく。自分を助けるために傘を放棄したのか、それとも最初から傘を持っていなかったのか。女性は荷物を拾い終わると、自転車をいとも容易く立たせた後、沙梨に手を貸そうとする。彼女の姿がただの影の塊のように見える。腕はよりしなやかで異様な塊だ。沙梨は彼女の手を掴む。濡れていた。当然のことだ、だが“濡れていた”という感覚が異様な迫真性を以て迫ってきた。沙梨は自分でも驚くほど手を強く握りしめる。反発するように少しだけ女性の手が震えるが、そのまま沙梨を立たせた。彼女は自分よりもずっと大きいと、実際に分かる。20cmは違う、沙梨はそう思う。
「それじゃ」
 彼女はそう言うと、道を走っていく。雨は延々と彼女の体を打つ、沙梨の体も打つ。
 沙梨はサドルに股がり、ペダルを踏みこもうとする。少し前に進んだが、バランスを崩して自転車ごと倒れる。自転車に潰されずにはすんだが、その傍らで彼女は惨めに倒れている。そして荷物は銃撃された脳髄さながらブチ撒けられている。片付けようと思いながら、立てない、動けもしない。もはや何かする気がない。もうこのままでいよう、沙梨は思った、もう無意味だ。無意味。優しさも無意味、悲しさも無意味、怒りも無意味。無意味だった、完全に、全てが無意味だった。無意味だ、無意味なのだ。無意味、無意味、無意味、無意味、無意味。無意味だ、何もかもがただ過ぎ去っていき、そして潰える。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。