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コロナウイルス連作短編その114「さわやかさと重苦しさ」

 夜の10時47分、阿笠月子はやっと最寄りの駅に着く。疲れはて、重荷をせおったような体を引きずりながら、駅をはいずって出ていく。そこから歩いて30秒のスーパー、そこでなにか夕食を買いたい。なのに自然と歩みはお菓子コーナーへと向かっていた。パイの実、オレオ、カルビーのポテトチップス、そういったものが網膜にピィンと映りこむのだけども、これじゃあまりに不健康と視線を逸らす。それでも何故だかふと、月子が目をはなせなくなったのがラムネだった。ラムネの瓶を象った妙にボコボコしたプラスチックの容器。最後にラムネを食べたのがいつだか思いだせない。大学時代に妙に懐かしくなって、買って食べたやもしれない。それとももっと前だろうか。月子の手はフラフラと揺れ動いたかと思うと、その容器を掴んでいた。
 帰り道、足は早く家に辿りつこうと必死でありながら、手は余裕ありげに動き、ラムネの容器に興味深く触れている。この切断された動きにはもう馴れている。蓋の封をジリジリと破り、申し訳程度に穴を覆うささやかな蓋を取りさる。そして容器を逆さまにして振ると、ラムネが手のひらにのっかる。記憶のなかのそれより、粒がまるくて、おおきい。しかも目の覚めるような白をしている。とりあえず何も考えずに口に放りこむ。太陽の光さながらブワッと濃厚な甘みが広がり、神経がグラッとゆれた。おいしかった。しかしこのおいしさが、月子の感覚がひらき、頬に鮮烈な寒さを感じた。1週間まえはクーラーすらつけていたのに、この寒さはいったい何なのだろう。夏が秋によって完全に撃滅されたといった風だ。秋というのは人間がおもうよりも暴力的なのかもしれない。
 また疲れが肌ににじみ、思わずためいきをついてしまうが、その時に月子の視線が道のわきにたたずむ電話ボックスをとらえる。わびしい長方体が、さむざむしい街灯にてらされ、ふるえているように見える。それは詩だった。入ってみたくなっていた。
 大地をグッグッと踏みしめながら、電話ボックスへ歩いていき、おそるおそる入ってみる。本当に、何の変哲もない電話ボックスだった。ガラス張りの壁、美意識ばかりがさきだつ建築家が作ったスケスケの風呂場みたいだ。そしてそこに、黄緑色の公衆電話が置いてある。月子はなんとなく0のボタンをドダダダダと連打してから、電話に耳をあてる。
 Youtubeの怪談みたいにどっかの異界につながんないかな。
 月子はそう思うけども、もちろんどこにも繋がらなかった。かわりに見つけたのが、下の棚においてある封筒だった。電話とおなじく黄緑だが、色がより濃い。
 やばいの入ってないかな。
 なかをみると、紙のたばが入っていた。よくよく見ればそれは求人票だ、ハローワークの人が大量にくれる紙だ。イヤな気分になった。パワハラで仕事を辞めざるを得ず、ハローワークで求職していた暗黒時代を思いださざるを得ない。予想外なほど、心臓がちぢんだ。
 でも、私は生き残ったんだよ。
 そう自分に言い聞かせながら、紙を勢いよくやぶりすて、電話ボックスを出ていく。

 家に着く。寒いので激熱のシャワーが浴びたい。その前に裸になってから、体重計に乗る。だがそれは彼女の体重を表示することはない。アナログの矢印が指し示すのは“BEAUTIFUL”という英単語だった。その隣に並ぶのは“RAVISHING” “HOT” “ADORABLE” “PERFECT”という言葉の数々だ。この体重計はそこに乗る人がどんな体重であったとしても素晴らしいと声をかけてくれる。単語の横に“!”は付いていないが、頭にこの言葉が響く時はいつも高らかだ。“うっとりしちゃう!”に “あなたってホット!”に“すっごくかわいい!”に“本当に完璧!”といった風だ。自分の体重は実際80kgほどだと月子は思っていたが、もはやどうでもいい。この体重計に乗る時はいつも、後ろから様々な体型をした女性たち、仲間たちが応援してくれるような気分になる。
 シャワーを浴びたあと、何もする気がなくなり身も心もビジョビジョのままに、ソファーでタブレットをながめる。マーベルの最新作『シャン・チー テン・リングスの伝説』の感想を読みあさっていた。月子はマーベル映画には一家言ある。『ソー』シリーズは一般に評判がかんばしくない2作目『ダークワールド』が一番好きで、3作目の『バトルロイヤル』が評判のいい理由が分からない、あまりに軽薄すぎる。一番好きな作品は『キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー』で初めて観た時には衝撃を受け、見終わってからすぐに次の上映のチケットを買ってしまっていた。だがふと思いだすのは、その横にはいつも恋人である東森鮎子がいたことだ。一緒にTOHOシネマズに行って、シネマイクポップコーンを食べながら観ていた。もう別れていたから、かなしい。
 そんな中で、映画批評家らしい人物のTwitterの呟きが目にはいった。

“「シャン・チー」シム・リュウとオークワフィナへのアジア系アメリカ人の評判の悪さ見ると、今作はアジア系でなくアジア人に向いた作品だったんだなと。レファレンスは武俠もの、トニー・レオンとミシェル・ヨーを印象的に担出し、文化への敬意は確かに感じました。それにかまけ人選を誤ったみたいな”

 こいつはなにを言ってるんだ?と思わざるを得なかった。映画批評家の言葉はまわりくどく、理屈をこねまわして、周りと自分はちがうと証明したがる。“アジア人”と“アジア系”という言葉遊びは、もはや意味がわからない。難解さのための難解さといったふうだ。こういう知的階級気取りのせいで、映画への期待に冷や水をかけられるのは最低だ。

“こんばんは。
シャン・チーを来週観に行く予定です。
シャン・チー批評を拝見しました。
面白かったらしいことは分かりましたが、文化への敬意や理解に濃淡 があるとか、キャストのハマり具合がどうとか、よくある話かなと。
結局、主体的に何がどう面白かったんですか?
モノ書きなんですよね、あなたは?”
 
 イラつきのままに、こんな言葉を映画批評家にブン投げた。最初は“いい気味だ、ばぁか”と悦に浸っていたが、しばらく時間が経つと、何て大人げないことをしたのかと頭を抱える。自己嫌悪が込みあげてきて、自分の体がボコボコとデカくなっていくような錯覚をあじわう。それでいて“だけどもっと映画を純粋に楽しめよ! 自分の思考実験のダシに使うな!”という気持ちも本心だった。後悔はしている。だがメッセージはけさない。このことは忘れることにする。

 月子が最近ハマっているのは焼酎にアールグレイのパックをひたしてできる、彼女にとって新感覚のつけこみ焼酎だ。ちかくの素敵な雑貨屋で買ってきた小瓶に焼酎を500mlほどいれる。そして放置する。このレシピの紹介者は4-8時間のつけこみがベストだというが、月子は朝に仕事へ出かけるまえに漬けこみをはじめ、帰ってきてからそれをのむので10時間以上はつけこむ。これだとかなり渋味が出てきて苦くなるのだが、この苦さによってグッと全身を引きしめられる感覚があって、すきなのだ。月子はそこに豆乳をいれる。今日は寒いので氷は入れず、焼酎1:豆乳2の割合でまぜあわせ、豆乳割りをつくるのだ。
 そしてこれをのみながら、VHSで映画を観る。DVDや配信で映画を観るより、ともすれば映画館で映画を観るより、VHSで映画を観る方が月子はすきだった。彼女は実家からずっと愛用していたMITSUBISHI SUPER WINDER 400を一人暮らしの部屋までもっていき、SHIBUYA TSUTAYAで借りてきたVHSで、夜中まで映画を観るのだ。銀と金の狭間の色彩につつまれたこの機器は、月子に最良の映画体験をもたらしてくれる。時々はわるさもする。『殺人豚』という映画のVHSを借りたとき、テープがブチ切れて弁償するハメになった。それでもおおむね彼女たちの関係は良好だった。今の月子にとって、恋人は長年連れ添ってきたこのMITSUBISHI SUPER WINDER 400だった。
 豆乳割りを飲みながら、今日観る映画は『ダークライド/連続ヒッチハイカー殺人事件』というB級ホラー映画だ。内容はとある異常殺人鬼がヒッチハイカーの女性を次々殺すと邦題通りのものだ。しかし実際の焦点は刑事の捜査模様というわけで、これがまどろっこしく、上映時間水増しの極みとしか思えない。しかし観ていくとこれが効果的と分かる。だからこそ捜査が行われていたかと思うと、唐突な断絶が降って湧き、いきなり殺人が即物的に行われていくのだ。場面自体は少ないが、このえげつないまでの残虐の素っ気なさには月子も思わず恐怖してしまう。つい最近までこのホラー映画に関しては存在する知らなかったが、隠れた傑作と言わざるをえない。まだまだ未知なるホラー映画は数多い、それはVHSの山にたくさん隠されているのかもしれない。ゆえに彼女にとってVHSとは正に映画の秘められた可能性だった。
 残虐の合間合間に豆乳割りをのむ。おいしい。まろやかさと苦さが優雅に混ざりあうなかから、アールグレイの香りがゆたかに湧きたつ。神経がゆるゆるとゆるまる。かと思うと哀れなヒッチハイカーが殺され、神経が緊張せざるをえない。このたえまない極から極への反復横飛びがたのしい。そして自分がラムネを買ってきていたのを思いだす。一気に5粒ほどとりだし、たべる。さわやかで濃厚な甘みがやはりおいしい。これが意外と豆乳割りにも合うのではという嬉しいおどろきもあった。みて、のんで、たべる。みて、のんで、たべる。たのしかった。
 なのにふと、なんの前ぶれもなしに、さびしさが込みあげてきた。じぶんはこの部屋にひとりだという事実が、ものすごく迫ってきた。たしかにMITSUBISHI SUPER WINDER 400はいたけども、無機物ではいやせないさびしさの存在を月子はかんじていた。ひとりだって楽しいやん!と腕をたからかに伸ばし、そんな日々をすごしている。そしてこの生活がなかなか肌になじんでいると、思える。それなのにふとした瞬間、さびしさがギュッと、耳だったり、足の指だったり、肩甲骨だったり、十二指腸だったりをしめつけるんだった。
 くちびるを噛みながら、視線をしたにおとす。自分の左手がラムネの容器をにぎっているのに気づく。その色はあおみどりといった風だった。どこか重苦しい印象をあたえながらも、ラムネの甘さのようにさわやかにも思える。いや、逆だろうか。さわやかなのに、どこか重苦しい印象をあたえるのか。月子は容器を顔のまえまでおもむろに持っていく。さわやかさと重苦しさ。どちらが先で、どちらが後なのだろう。月子はどちらも一緒のタイミングで言えればいいのにと思った。だけどもそれには、口が2つも必要だった。でもそんなのはいらない、口は1つで十分だ。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。