コロナウイルス連作短編その21「五月の蚊」

 動物園から巨大なニホンザルが逃げたというニュースを聞いてから、菅沼大典は寝室に行く。最初は心地のよい沈黙を楽しんでいたのだが、甲高い耳障りな音が部屋に響きはじめる。それは明らかに蚊の羽音だった。まるで鼓膜へめちゃくちゃに落書きを描かれるような不快さに、大典は苛立つ。しかも今はまだ五月だというのに、蚊は元気に部屋を飛びまわっている。それは吐き気を催すほどの悪であると、大典は思った。最初は羽音が聞こえた瞬間に耳を叩いて、蚊を殺そうとするのだがいっこうに上手くいかない。無駄に自分の身体を殴打するばかりで、意味がなかった。その次には眠れるまで我慢しようとする。だが耳元を回りつづけるあの音が大典を寝かしはしなかった。
 最終的に彼はベッドから出て、クローゼットから蚊を殺す装置を出した。まるで汚れた乳首のような有り様の装置は頼りなさげに見える。取り敢えずスイッチをつけて、しばらく待った。すると不思議とあの羽音が聞こえなくなった。大典は安心する。大典は妻である祝の部屋へと行った。彼女は息子である善に読み聞かせをしていた。
「どうしたの?」
「いや、蚊がいたんだよ、俺の部屋に」
「もう蚊とか出てきたの?」
「そうらしい」
「分かった。気をつけとく」
 善は身体を縮こまらせて、祝にピタリとくっついていた。その密接な距離感に大典はムカつきを覚える。大典は祝を愛していたし、ずっと一緒に居たかった。それはコロナウイルスの時代に更に濃厚なものになっている。しかし祝は何故だか大典と距離を取ろうとしつづける。本当は寝室も一緒にしたかったのに、強制的に分けたのは祝なのだ。彼女の嘆願を大典は拒むことができなかった。しかし祝は善を愛し、自分の側にいることを許している。善は彼女の匂いや柔らかさを気のむくままに享受しているのだ。いつかは自分があの場所にいたはずなのに。彼は確かに善に嫉妬していた。そして自分の忌まわしき精子を呪った。
 大典は部屋に戻って眠ろうとするのだが、あの羽音が再び聞こえてきた。更なる不愉快さを伴って、羽音は傲慢に響きわたるのである。大典のなかで蚊への大いなる殺意が芽生える。彼の耳を汚す蚊という存在を何としてでも殺してやりたかった。彼は羽音が聞こえた瞬間、その場所を叩いた、叩きつづけた。それでも蚊は死なない。それでも大典は殺害を常に試みつづけた。
 だが左手に痒みを感じる。触ってみるとそこには膨らみが存在している。つまりは蚊に刺されたという訳だ。彼のなかで猛烈な怒りが膨れあがる。そして獄炎さながらに大典の身体を燃やしつくしていく。彼は電気をつけて、部屋の真ん中に立った。羽音が聞こえた瞬間に、その場所を叩く。羽音が聞こえた瞬間にその場所を叩く。これを延々と繰り返していった。蚊は殺せない。だが大典は身体を動かしつづける。それでも中年太りを隠せない大典の身体には疲労が溜まっていき、彼は全身が鉛になったような錯覚に陥る。もはや蚊を殺したいのか、部屋を破壊したいのかさえ彼自身には分からなくなっていた。彼は少し休もうとベッドに横たわった。そしてそのまま眠ってしまった。
 夢のなかで、大典は善を殺したんだった。その後、彼は善の身体を包丁で切ってバラバラの肉の塊にした。それをレンジに入れて一分ほど待つ。すると美味しそうに焼けた肉が現れた。肉を皿に並べてから、彼は妻を呼ぶ。祝は料理を見た時、満面の笑みを浮かべたんだった。一緒に善の肉を食べながら、時おりキスをする。善の肉は頬が蕩けてしまうほどに美味しかったんだった。そして大典は祝の顔を眺める。彼女の瞳はまるで黒くかがやく石油のように美しかった。その瞳のなかには壮絶なほど美しい石油の海が広がっていた。大典はその眼球を舐めた。見た目に反して、それは虹色の飴玉のように甘いものだった。すると祝は発情しながら、大典にキスしてくる。それを受けとめながら、大典は善の肉を食べる。力が湧いてきて、自然とぺニスが勃起した。だがセックスしても子供は作りたくなかった。大典は善の肉を切ったナイフで、今度は自分の睾丸を切りとった。これで精子ができる心配はなくなった。そして大典と祝はセックスを始めたんだった。その傍らで善の肉塊は急速に腐っていった。
 汗まみれになりながら、大典は急いで起きあがる。悍ましい夢を見たと吐き気を催した。時計を見てみると今は午前五時だった。だいぶ長く眠っていたらしい。だが再び蚊の羽音が聞こえてきた。もう戦う気力は残されていなかったので、彼は散歩することにした。紫色の世界は不気味で、コロナウイルスによって世界は変貌を遂げてしまったのではないかと思わされる。だが大典の場合も、仕事がテレワークになり息子である善がずっと家にいる。これだけでも大きな変化だった。大典は頬に涼しい風を感じる。まるで女神の愛撫のような優しさに、蚊によって燃えていた大典の心も安らいでいく。だが老人ホームの前まで来た時、奇妙な影が見えた。大きな闇のような物体がゆっくりと大典に接近してくる。彼は恐怖を覚えながらも、目を凝らしてみる。それはニホンザルだった。ニュースで報道されていた、あの巨大なニホンザルだった。確かに彼は巨大だ。テレビで見る類いのペットのようなニホンザルとは違う。全身から野生の殺気を漲らせる本物のニホンザルだった。
 大典はその絶対的な雰囲気に気圧されて、動けなくなってしまう。人間は猿よりも強く賢いとは一体誰が言ったか。この状況において、王者はニホンザルであり、奴隷は大典であった。ニホンザルは威風堂々と彼に近づいてくる一方で、大典は指一本たりとも動かすことができない。そしてニホンザルは大典の目前に立った。彼の背丈は大典の腰ほどもあり、ニホンザルというよりも茶色いゴリラという方が適切に思える。その匂いは猛烈なまでに刺激的で、野生の毒薬を嗅がされているような感じだった。しばらく圧倒的な沈黙が彼らを包みこんだ。しかし突然、ニホンザルが大口を開けて、絶叫を始める。
 ウキイイイイイイイイイイイイイ!
 それは空気を切り裂く鎌鼬のようで、そのあまりの勢いに大典は吹っとんだ。唖然としながら見つめてくる大典に、ニホンザルは詰めよる。そして再びの絶叫を遂げ、大典の左頬をブン殴った。激烈な痛みを感じさせられる。さらにニホンザルは絶叫し、大典の右頬をブン殴る。その時、まるで天啓が降りてくるかのように、大典は自分がやるべきことを悟った。彼は唾を呑みこみながら、ニホンザルを見据え、そして絶叫したんだった。
 ウキイイイイイイイイイイイイイ!
 限界まで絶叫をし、声が潰えても回復してから、また絶叫を始めた。彼は絶叫を繰りかえすなかで、自分のなかの何かが解放されていくのを感じた。この時、彼は全く以て自由だった。そして気がつくと、ニホンザルは消えていた。だが大典は走った。絶叫とともに走った。
 ウキイイイイイイイイイイイイイ!
 家に着くと倉庫からハンマーを持って、自分の部屋に入った。まずベッドをブッ壊す。木材が爆裂する音が世界に響きわたった。その次に本棚をブッ壊す。中から漫画本が雪崩のように落下してきたが、彼は気にしなかった。さらに洋服棚をブッ壊す。中に入っている洋服には少しの愛着すらなかった。そして窓をブッ壊す。その破壊音は壮絶なものであり、まるで世界の終りがやってきたかのようだった。さらには床をブッ壊した。ハンマーによってクレーターのような穴がいくつも開いていく。最後に壁をブッ壊す。白い壁は白い藻屑となって砕け散っていく。気がつくと、ドアの辺りには祝と善が立っていた。彼らの顔からは明確な恐怖が見てとれた。
 ウキイイイイイイイイイイイイイ!
 絶叫とともに、壊された壁を見据える。まだ残っている綺麗な場所に小さな埃のような何かが止まった。それは蚊だった。そして大典はハンマーを握りしめる。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。