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コロナウイルス連作短編その192「トイレ行きたいなら行けよ」

 図書館.提橋木羽は弟の提橋穂希が本を立ち読みしているのを眺めている.落ちつかなげに足踏みをしている.数日前,テレビでイギリスの女王の国葬を見たが,制服の男たちが一糸乱れぬ行進をする際にも,確かに足踏みをしていた.それとは全くの大違いの,乱れだけで構成された,無様な足踏みだった.だがこちらの方が生物みがある.制服の男たちはまるで不死の何かを崇め奉るようで,すこぶる不気味だった.穂希のそれは死にゆく命にしかできないだろう,生々しく,馬鹿げ,派手なまでに乱れを露にしており,好ましい.
 これは穂希が排尿したい時のクセであると,兄の木羽は知っている.8年もともに住んでいるなら当然だろう.足踏みへの評価にそれゆえの愛着があることは,認める必要がある.
「そんなにトイレ行きてーんなら行けよ」
 なおも立ち読みを続ける穂希にそう言う.
「トイレ行きたくないし」
 折れた歯でも吐き捨てるように,穂希は返事する.
「嘘つくなよ.めっちゃ我慢してんじゃん」
 木羽は右足で穂希の揺れる左足を小突いてみせる.
「行けよ.そんな本,面白いの」
「そういうんじゃない.トイレ行きたくない」
 こういった問答が延々と,永遠と続き,埒があかないと思えてくる.最初はこの禅問答を楽しむ節があったが,こうまで続くとただ面倒臭いだけだ.
「図書館のトイレ行きたくない」
 だが急にそんなことを呟くので,木羽は驚いた.
「何でだよ,汚いから?」
「違うし」
「ショッピングセンターの方がいいの? じゃあなおさら早く行こうぜ」
「違うし」
 “違うし”という短い言葉が何度も繰り返され,蜂の群れの刺突さながら鼓膜に刺さる.足踏みしながら体をうねらせる弟の卑屈な姿からは“ウジウジ”というあのオノマトペが聞こえてくる気がする.何故このような状態を“ウジウジ”と形容するか,木羽は不思議と今理解する.つまりは“蛆”だ.死体に引っつき屍肉を喰らう“蛆”の姿,それを“ウジウジ”と古人は形容したのだ.
 木羽は苛つきの挙げ句に,弟の手から本を取り上げる.表紙には何匹もの動物と一緒に『ぼくたちの骨』という題名が書かれていた.これを本棚に戻すかと思うと,穂希の手を引いて,歩き出す.
「いやだ,トイレ行かんよ!」
 図書館にはそぐわない声で叫び始めるので,木羽は少し気圧された.いつもは大人しいのだが,年相応の煩さも持ち合わせているのかと新鮮な気持ちになった.だがその発露が“トイレに行きたくない”という欲望としてなのが,よく理解できない.
「おい静かにしろって! おしっこ漏らしたいのか?」
 2つの文章の間に明確な論理的繋がりはないはずなのに,木羽は思わずそう言ってしまった.図書館にそぐう声量ではあったが.
「漏らしたくない」
「じゃあ,トイレ行くぞ」
「いやだ!」
 木羽に対して,穂希は叫びで反抗するのだが,身体的な抵抗は驚くほど少ない.基本的にはほぼ兄に引かれるがままで,かなりしっかりと自分で歩みを進めている.この言葉と動作の不可解な矛盾に,神経が紙ヤスリで削られるようなムカつきを覚える.それでいて弟の態度は“自分でもこの矛盾を理解していないが,このまま貫き通せば事態は落ち着くだろう”とでもいう風な生ぬるい開き直りを感じさせ,さらに不愉快だ.“弟”という立場に居直り調子に乗っているのが許せない.両親はこういう態度を許容し,穂希を甘やかしてきたし,これからもそれは続くだろう.自分がしっかりする必要がある.
 木羽は穂希の左手を握る右手に,より力を込める.ボディビルダーが新鮮な林檎を握り潰す時のように,親指と小指を基礎として穂希の皮膚に食いこませ,残りの指で彼の小さな手を覆い尽くす.
「行きたくない!」
 そんな叫びとともに,とうとう穂希が足を止めた.
「だからおしっこ漏らしていいのかよ?」
 前よりも強く叱責する.
「やだけど,行きたくない! 図書館のトイレやだ!」
「じゃあメルチー行くぞ!」
「メルチーのトイレもやだ! 外のトイレはやだ!」
 叫びの音量が加速度的に大きくなっていき,図書館の来場客,例えば穂希と同年代の子供を連れた母親たち,一人で大量の本を抱えている中年男性,野球帽を被っている少年のグループが木羽たちを眼差す.視線が突き刺さり,心のなかで恥が膨らんでいく.思わず考えてしまうのは,同級生の上田美佳が来場客に混じりこの光景を見てしまったら?ということだ.好きな相手に弟すら満足にあやせない場面を見られるのが,一番の恥だ.
「何で嫌なんだよ!」
 なるべく冷静に言おうとした.だが叫んだ瞬間に巨大な反響が耳の骨を揺らす.試みは無駄だったと一瞬で悟る.
「ちんちん,人に見られるからやだ!」
 そんな叫びが図書館へさらに大きく響いた.
 しばらく沈黙があった.木羽は何も言えなかった.
 だが鉄パイプに熱が伝導するように体が熱くなる.
 恥をかかされた,どこまでも恥をかかされた.
 怒りが込みあげてくる.
 だが側頭部で骨が,耳の骨が揺れている.そうしてたった数刻前に,冷静を装おうとして無様に失敗したのを思い出した.木羽は意識的に,目にも止まらぬ早さで瞬きを行い,自分を落ち着けようとする.
 そうして頭に浮かぶ母親である秋尾の姿だった.彼女は,例えば木羽がYシャツや靴下を床に脱ぎ捨てたままだと,あらん限りに彼を叱りつける.これに関しては自分の責任だということに異論はない.しかし叱った後も彼女は機嫌の悪さをそのまま保ち続け,夕食を用意する時などで何か失敗すると「クソ!」や「ふざけんなよ!」などという罵詈雑言を,眉間に皺を寄せながら誰にでもなく吐き散らかす.そして実際に食べる際にも不機嫌な表情や態度をとり,いかに自分が機嫌が悪いかを明示し続けることで木羽に罪悪感を与えようとする.これは穂希や父である惇に対しても同様だ.これは母親にとって家族の心を支配し,操作するための手法なのだ.これに巻き込まれそうになった時は,すぐ自分の部屋に逃げ,母親から感覚を遮断する必要がある.だがあまりにも頻繁に過ぎ,この“不機嫌さの露骨な明示”を自分もまた継承しているかもしれないという恐怖が,何度も何度も心に去来する.
 ネットとかに書いてあるだろ,女はいつまでも感情の生き物なんだ.
 木羽は鼻から息を吸い,口から息を吐きながら自分にそう言い聞かせる.
 女は年取ってもいつまでも中学生のメスガキみたいな態度取り続けるんだよ.でもぼくはそうなっちゃいけない.本当に重要なのは理性なんだよ.男はそういう理性の生き物なんだ.冷静になる,冷静になるんだよ.ぼくはもう手遅れかもしれないけど,弟はちゃんとした生き物にならなくちゃいけないんだ.
 木羽は口から大きく息を吐きながら,ゆっくりと穂希の視線まで体をかがめていく.
「そっか,そうだったんだ.ごめん,穂希.確かに小さい便器だと横とかから見られるかもしれない.そういうちんちん見られるの恥ずかしかったってめっちゃ言いにくいよな.いや,本当ごめん」
 木羽は弟の目を見ながら,そう話しかける.彼はまた足踏みを始めるが,そこに先までの激しさはない.
「じゃあさ,個室に入っておしっこすればいいんよ.そうすれば誰にも見られないままおしっこできるだろ?」
「えっ,個室ってうんこじゃなくてもいいの?」
 そんな言葉に木羽は吹き出しそうになる.“は? 大丈夫に決まってんだろ,バカか?”と言いたくなる.だが弟にとっては重要ごとなのだと瞬間に思い直し,それを押し留める.
「そう,全然大丈夫だよ.個室でゆっくりおしっこするのもいいんだよ」
「…………」
 穂希は少し俯いた後に,また兄の方を見る.
「ドアの前で待っててくれる?」
 そんなことを言うので,弟への愛着がまた込みあげる.

 男子トイレは濃厚な橙色に満たされている.一方,壁を覆うタイルは重苦しい灰色をしている.もしショッピングモールのトイレと比べるなら,古びていて湿っているという印象は正直拭えない.だが逆に言えば,味があった.立ち並ぶ小便器が埋め込まれた壁,それは段々構造になっており上に大きな消臭剤が置かれている.ケースには黒い油性マジックで図書館の名前が記してあるのだ.もしかすると,その字を書いた司書か清掃員の人と今日既にスレ違っているかもしれない.そうするとその丸っこい字がより身近に思える.
 トイレに入ると,真っ先に穂希が駆けだし,手洗い場を横目に個室へと飛びこんでいった.木羽はゆったりとした足取りでガタゴト音の鳴る個室の前に立ち,そのドアに少しばかり凭れかかる.
 視線の先には5つの小便器が並んでいる.こう改めて観察するなら,それは底が浅い丸木船を壁に立て掛けたような形をしている.表面は白で覆われており,橙灯のもとでは当然その色に染まっている.だが凝視してみるなら,その白には“白樺のような”という比喩が想起される.一方でその質感は当然だが陶器の冷ややかさを宿している.この2つの感覚が,少なくとも自分の網膜が写す小便器には同居しているのが木羽には不思議に思えた.
 そしてこの小便器はすこぶる細長く,ぺニスから排泄される尿を受けとめるがためだけに,こんな形である必要があるのか?と疑問に思えた.そういえば近くの公園にある公共トイレ,そこの小便器は4分の1ほど開かれた小さな球体のようだったと思いだす.こちらの方が無駄がない.さらにその形は祖父が好きな,パックマンというゲームキャラクターに似ていた.黄色く染まった円に口のような切れ込みが入っており,色とりどりの敵キャラを捕食するのだ.ここにおいてはその口に尿をブチ撒けるというわけだ.
 と,トイレに野球帽を被った少年たちが大挙して駆けこんでくる.彼らは喚きながら,律儀に小便器の前へと並んでいく.その途中でこちらに不審げな視線を向けてくるゆえ,木羽は背後のドアをノックする.自分は変質者ではない.
「終わったか?」
「まだ!」
 排尿にしては長すぎる.実は排便も行っているのではないか?という考えが首をもたげる.それならあれほど我儘を言わずとも,素直に個室に入って排泄を行えばよかったのではないか? 整合性が全くとれない.
 少年たちが気持ちよさげに,大袈裟なまでに歓声をあげる.つまりは排尿を行っているということなのだろう.
 その奥からは,放出された尿が小便器の表面に当たる時の独特の音が響く.もし文字で表現するなら“ピーーーーー”だろうと思えた.
 だが,このたった1つの“ー”という間で,膨大な量の水分子が陶器へ追突し死んでいくような響きがあるのを,木羽の頬の皮膚が感じ取った.あまりの多くの“ピ”がそこで爆ぜている.実際は地球上の蟻の総数よりも多くの“ピ”がそこに存在する.それは無数の点なのだ.だが人間の聴覚はそれを感知できるほど鋭敏でない.であるからして1本の線としての“ピーーーーー”という表現に落ち着くしかないのだ.そんな考えが浮かび,木羽は怖くなる.
 ふと視線を横に向けると,その角度からちょうど1人の少年のぺニスが見えた.先から尿の筋が放出されている.
 居心地が悪くなり,体を動かしながら視線を逆方向に向ける.すると別の少年のぺニスが見えた.年相応に小さい.
 何かが奇妙だった.何故少年たちのぺニスが自分の視界に入るのか理解できない.
「ちんちん,人に見られるからやだ!」
 頭蓋のうちで,あの叫びが聞こえた.
 今まで意識したことはなかった.だが確かに,他人のぺニスが普通に,気軽なまでに見えてしまう.後ろからでもこうなのだ.もしその横に立つならより簡単にそれは見えるだろう.これは普通のことなのか? ぺニスがこんな簡単に見れてしまっていいのか?
 木羽は思わずまごつき,頭をドアに打ちつける.
 思いだしてしまうことがある.中学の頃,校舎近くの宿舎で1週間の寮生活を行ったことがあった.当然,風呂の時間があった.ぺニスの包皮が完全に剥けていることを自慢する少年がいた.逆にどうしても下着を脱ごうとしない少年がいた.クラスの調子者が彼から強引に下着を脱がせると,凄まじいまでの剛毛に包まれたぺニスが露になった.それから彼は1年間“陰毛けっけ”という渾名で呼ばれ,馬鹿にされつづけた.
 また思いだしてしまうことがある.かなり小さな頃だ,物心すらつくかつかないかの頃だ.木羽のぺニスを洗うのは母親の役目だった.自分にもぺニスがついている惇はその役目を一切担わなかった.この風景は具象として明確に思いだされるわけではない.全てが水彩画のようにぼやけている.だがそれでも木羽は確信している.母親はどこまでも不愉快げな顔をしていた.何故自分が息子のぺニスを洗わなければならないのか?と,あの眉間に皺の寄った不機嫌な表情を浮かべていた.その不機嫌さは,木羽のぺニスへと向けられていた.
 木羽は首をゆっくりと動かして,己の股間を見る.表だって何かが起こっているわけではない.だが薄汚い何かがこの空間で行われているような気がした.吐き気が込みあげ,洗面台へと思わず走りこむ.
 鏡に映る自分の首筋,そこで肉が蠢いている.眉間にもだ.
「終わった!」
 弟のそんな声が後ろから聞こえた.だが響きはすこぶる遠い.
 後ろを見る.穂希が晴れやかな顔で個室から出てきて,そのまま走ってトイレから飛び出していく.それに続くように野球棒の少年たちも駆けていく.
 1人だけ,洗面台の前で止まった.
「おめーらきったねーよ!」
 そう叫ぶ.
「デケー鼻くそ取れた!」
 だが外から響く歓声につられ,彼も手を洗わずにトイレを出ていく.
 残されたのは木羽だけだった.彼は手洗い台に両手を掲げる.センサーに反応して,水が出てくる.皮膚に触れるそれは冷たくも温くもない.今,外に満ちる湿った空気に,温度だけは似ている.

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。