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コロナウイルス連作短編その111「ぼくもクラゲのように」

 タマラ・ハルトゥニアンは大手町の丸善で三国武玄と落ちあう。2回目のデートだ。タマラは阿部知二を研究する大学院生で、武玄は小さな古本屋で働いている。1回目のデートでは神保町の古本屋街を練り歩き、古本の威厳ある馨を楽しみながら、古典文学について話した。2回目は大型本屋で新しい日本文学について語ることにする。入口で会った時、灰色のマスクの下で武玄の頬が緩まり、大きな笑顔が浮かぶのが、まずタマラの瞳に見える。その時、何故だか鼻を心地よくくすぐるような甘ったるい匂いがした。遠くから、しかもマスク越しに彼の匂いが届くとは思えない。きっといいことがある、そんな予感がする。
 エレベーターで2階へと赴き、Uの字を描くように進むのならすぐに日本文学の聳えるような鼠色の棚へと辿りつく。本が稠密に設えられた棚が作りだす路地、その入口には文学好きを歓迎するように新刊の数々が置かれている。
「あっ、王谷晶の新刊出てますね。私、とても好きです、彼女の作品」
 今回発売された作品は既に文藝に掲載された時点で読んでいて、その暴力の荒々しさと、それとは真逆の女性同士が紡ぐ息を呑む親密さに心惹かれた。
「俺はまだ読んでないな。面白い?」
「はい、面白いです。文藝で読んだ時に感動して、アルメニアのウェブ雑誌に紹介記事も書きました。いつかアルメニア語に翻訳もしたいなあ」
「翻訳ってホントすごいよね」
「いえ全然、まだまだ」
 こう謙遜すると、日本人は皆笑いながら“タマラはもう日本人だね”と言う。武玄は言わなかった。
「今は何、翻訳してるの?」
「本谷里子をやってますねえ」
「本谷有希子じゃなくて?」
「そう、里子の方。『自滅する条件』という短編を訳していますね。5年くらい前に書かれた作品です。中に阿部知二の『冬の宿』が出てくるので読みました。とても感動して、翻訳したかったですから、チャンス来た!」
 タマラはマスクを押し返すように、笑顔を浮かべる。その後も日本文学の一本路地を歩きながら、2人は小さな声で文学に関する言葉を紡いでいく。最近は、心にドス黒い雲がかかるように気が鬱々としていたが、この細やかな時間にタマラの心が休まる。マスクの奥から聞こえてくる武玄の声は穏やかで、小さくとも朗々と空気を揺らす。目許の皮膚が、それに震わされるのを感じるのは悪くない。そして会話しながら幾つも本を抱えて、とうとう6冊も買うことになってしまう。お金を払いビニール袋のなかの本の群れを見つめると、自分の貪欲ぶりに思わず苦笑してしまうが、それがマスクに隠れて彼には見えないことを願う。
 買い物の後には3階のカフェへ行き、コーヒーを飲みながらゆったりと時間を過ごす。静寂の最中、タマラはおもむろに1冊の本を鞄から取りだす。そこにはアルメニアの文字が記されている。
「これ、日本文学の翻訳ですけど、何か分かりますか?」
 武玄は興味深げにまじまじと本を眺める。表紙の真ん中にいるのは、折り紙で折られたらしい少女のこけしだ。青い着物を纏った彼女の頬は赤く染まっているが、それが日本国旗の日の丸を描きだしている。そんな彼女の姿がある種のポップなキュビズム様式で色とりどりに描かれていた。武玄と少女が見つめあい、それにタマラが目を細める。
「多分……『コンビニ人間』?」
「おっ、正解です。何で分かりました?」
「少女が胸につけてるこの写真つき個人証明書みたいなの、どっかで見たことあるなと思ったんだけど、確か英語版の『コンビニ人間』の表紙がこういう証明書風だった気がするんだよね。それで言ってみた」
「すごい」
 武玄も目を細め、目許にアヒルの足のような皺を浮かべながら、表紙に手を伸ばす。そっと人差し指と中指を当てて、その質感を確かめるように、静かに動かしていく。微かに聞こえてくる触れあいの響き、それは子守唄を歌った後にも、寄り添って眠ってくれた父の寝息を思いだす。タマラはその白く、細い指たちの動きを、しばらく何も言わずに見つめていた。

「俺、恋人できたよ」
 一緒に塩ラーメンを喰らっている時、そんなことを武玄が言うので、ザウル・エフンディイェフは唇の端のスープを拭いながらニヤつく。ザウルが彼と出会ったのは言語留学アプリであるHelloTalkを通じてだ。言語学習が趣味の彼はこのアプリを最大限活用していたが、ある日アゼルバイジャン語を学びたがる日本人を見かけた、それが武玄だった。ザウルが日本語で話しかけると、彼は喜んで返信を送る。アゼルバイジャンのHiphopが好きと言うので好きなアーティストを聞くと、Prangaという返事が返ってきたので驚く。ザウルもPrangaが好きだった。天空で壮絶なまでにしなり雷撃を巻き起こす龍のごときフロウ、途切れることなく炸裂する轟拳のような暴力的ライム、その力強さに脳震盪を起こさない時がない。まさか日本人からその名を聞くとは思わず、彼に興味を抱く。いつかPrangaのリリックを完璧に理解できるようアゼリー語を学びたいのだという。こうして彼らは友人関係になり、時には両者の好物であるラーメンを喰らいに行くようにもなっていた。
「おい、やったな。どんな子だよ?」
「アルメニア人だ」
 思わぬ返答に麺を吹き出しそうになる。それは堪えながら、スープが気道に入り、喉が不愉快なノイズまみれになった心地になる。
「何言ってんだよ、なあ」
 ザウルは横で麺を啜る武玄を睨みつけていた。
「俺の前でそれ言う意味分かってるよな。冗談にしては面白くないぞ」
「いや、冗談じゃあないんだよ。本当なんだよ、これは」
 横を向き、武玄は穏やかな、菩薩のような笑みを浮かべる。だがそれは一瞬で、すぐに前へ向き直して、麺を啜り始める。
「もちろん、こんなことをザウルの前で言うことの意味は分かってる。でも、俺のやりたいことはザウルやアゼルバイジャンを馬鹿にするってことじゃあないんだ」
「じゃあ何だよ」
 武玄はホッと息をつくと、お冷やをゆっくりと唇に運ぶ。ザウルはそうして脈動する首の筋を静かに見据える。
「もし、もしだよ、アルメニアの女が、日本人と付き合って愛するようになって、そいつと一緒にいて幸福感に包まれている時にいきなり、その日本人に実はアゼリー語が分かるアゼルバイジャン贔屓の人間だと明かされて“お前らアルメニア人はアゼルバイジャンの領土を奪って、アゼルバイジャンの兵士を殺し、子供すら血祭りにあげる戦争犯罪人だ”って言われたらどうなると思う?」
 そう言ってから武玄はまたお冷やを飲む。
「アプリで日本に住んでるアルメニア人見つけた時、ふとそんなこと思ったんだよ」
 そして武玄は少しはにかみながら、笑顔を浮かべる。ネギのついた歯茎が少し見えた。
「お前、なかなか最低の人間だな」
 ザウルは言う。
「やってやれよ、おい!」
 そして2人で笑う。内心、目の前にいるこの人間の頭はイカれていると思わざるを得ない。だが武玄の"もし……"とやらの先を知りたいという邪な好奇心を抑えることができない。

 タマラは武玄と一緒に手巻き寿司を作った。2人とも文学の素養はあったが、料理は下手くその極みであり、両手はご飯の粒まみれになってしまう。タマラは武玄の指の粒を、武玄はタマラの指の粒を食べあう。彼の匂いが微かについた粒の数々、それだけで不思議とお腹が膨れて、タマラは笑ってしまう。
 夜になり、やっとのことで手巻き寿司を食べながら、タマラは武玄と話しながら、彼の部屋を緩やかに眺める。小説や漫画、映画のDVDは大量ながら、棚へ綺麗に並べられ、清々しい秩序の存在を感じた。それでいて息苦しさはない。本と本、ソフトとソフト、その微かな隙間から薫りが漂ってくる。古さと新しさが混ざりあう豊かな薫りだ。とても良い気分だった。
 舌に海苔と納豆の風味を感じながら、鼻に文学や映画の薫りを感じながら、タマラは鞄よりまたアルメニア語の本を取り出す。前にアルメニア語版の『コンビニ人間』を見せた時と同じように、武玄の瞳が輝き始める。
「デカく"P/F"って書いてあるね」
「そう、これが本のタイトルですよ。アラム・パチャンという作家が書いたんです」
 武玄が表紙に手を伸ばし、その赤みを誇る紙と一緒に、タマラの指も撫でる。
「これは禅の思想に裏打ちされた断片的な小説ですね。そういういっぱいの断片の中に、エレバンの風景がどんどん浮かびあがってきます。そこにゲダル川という小さな小さな川が出てきて……緑が輝いてる木があって、葉の重みでグウっとお辞儀をしていて、たくさんの葉っぱが棚引いていて、その下を小さな川が流れています」
 タマラは自然と、何度も何度も瞬きをしていた。
「帰れなくて、寂しい?」
 武玄がそう尋ねる。
「……うん」
 タマラがそう言うと、彼が体を抱き寄せてくる。その首筋に顔を埋めて、しばらく匂いを嗅ぐ。そして顔を離すと、喉仏の近くに米粒がついているのに気づく。彼自身が気づくまで、そのままにしておこうと思う。

 ザウルは恋人である小城西都とデートをする。彼は159cmと小柄で、180cmを越えるザウルとはかなりの身長差がある。だが小ささを物ともせず漆黒のスーツを威風堂々と身に纏う。それでいて高級な生地の裏側にいつも秘密を隠しているような、引力を伴う神秘性に心が惹かれてしまう。それでいて1日に3000匹もの蟻を貪るアリクイさながら食欲は旺盛、今日も焼肉を優雅に、かつ恐るべき勢いで平らげていった。恰好いいが、この小さな肉体のどこにここまでの肉を詰め込めるのか謎だ。彼の表情は万華鏡だ、日々見せる異なる魅力の数々に驚かされ、一緒に時間を過ごす度に愛が深まっていく。
 西都の家に行きたいと思うが、明日が早いからとこの日は“健全に”別れることになる。だが駅の片隅で、人目も気にすることなく、堂々と彼が唇にキスをしてくれたので嬉しい。彼の薄く繊細で、向こう見ずな肉の小さな塊が、自分は生きているという感覚を改めて味わさせてくれる。
 家に帰り、ベッドに寝転がり、そこで西都と話したくなり、電話をかける。嬉しそうに、ウンザリげに彼は自分と会話してくれる。そのエロティックなまでに物憂い言い方に、嫌がらせのようにオナニー中に出すような喘ぎ声でもブチ撒けてやろうかと思いながら、ニヤつきを抑える。結局11時頃まで話して、彼が電話を切る。
 寝る前に何か漫画でも読もうかと思い、床に巻き散っている本の中から1冊取り出す。朝田ねむいの「マイリトルインフェルノ」というBL漫画だった。元いじめられっこの元に謎の天才ハッカーという無頼漢が現れ、強制的に同居生活が始まる。そこで繰り広げられるグチャグチャにドエロい騒動を描き出した作品だ。暴力的なまでの体格差から生まれるセックスのグチョグチョな、それでいて何処か仄暗い快楽の構図に心の臓を掴まれる。そしてその裏側に感じる、作者の生へのシビアな視線に背中の細胞が痺れるのを感じた。
 これを勧めてくれたのは武玄だった。彼は文学でも映画でも音楽でも漫画でも何でも知っているように思えた。朝田ねむいの新刊がもうすぐで発売するということも知っていた。

 タマラはイギリスに住むエリツァ・ジェリャスコヴァという女性にビデオ通話をする。ブルガリア系英国人の彼女は本谷里子の作品を多く翻訳している文芸翻訳家であり、里子を通じて友人関係になった。翻訳の際に様々な助言をくれるエリツァをタマラは"先輩"と呼び、タブレットの液晶越しに深く慕っている。今日彼女の横には恋人であるメイヴ・マルムロスという女性もいた。彼女はデンマーク系で、北欧諸語の通訳として活動する人物だという。メイヴも交えて、タマラたちは日本語ではなく英語で会話をする。
 まずは他愛ない会話を繰り広げた後、恋人ができたことを改めて報告すると、エリツァはモシャモシャの髪を揺らしながら祝福してくれる。そんな彼女をメイヴは目を細めながら眺めていた。タマラは武玄の写真を彼女たちに見せる。
「"イケメン"ってヤツだね、これは」
 メイヴは覚えたばかりらしい日本語を披露し、他の2人を笑わせる。
「今はまだ『自滅する条件』の翻訳してるの?」
「翻訳自体は終って、推敲段階ですね。それから次は『銃弾と縫い目』に取り掛かるところです」
「ああ、いい作品だね。いつでも"先輩"を頼っていいからね、私の英語訳も送るからさ」
「ありがとうございます!」
 タマラは鼻を少しだけ掻いてみる。痒みが心地よく増幅していく。
「ねえ"後輩"ちゃん。今、すごく幸せでしょ」
 エリツァがそう聞いてきて、思わず笑みが浮かぶのを抑えられない。頬骨をぬくもりが優しく抱くのを感じた。

 西都の家へ行き、料理を作る。オランダ留学時代に友人から学んだポルトガル料理の数々を、西都は本当に美味しそうに食べてくれるので、料理し甲斐がある。満腹の心地よさのままにソファーで一緒にゴロゴロしながらテレビを観た後、ベッドに行きセックスをする。膨らんだ性欲を互いに、愛おしげに撫であい、キスをする。そうして互いの身体に痺れるような快楽をブチ撒けた後、ベッドに深く沈みこむ。
 微睡んでいるところ、タブレットが震える。武玄からだった。"添削よろしく"という文言とともに、こういった文字列が連なっている。

"Fevralın qətnamə mənim bədənim yumşaltmaqdır. Bədəni yumşaltanda bel və kürəkin ağrı yüngüllətilir. Nəticədə meduza olmaq istəyirəm. Meduzanın bədən yumyumşaq vă ağrını sezməyir. Odur ki, məğlubedilmazdır. Marşadak mən də meduza kimi məğlubedilmaz oləcəyəm.”

 それを読んでザウルは思わず笑う。彼が送ってくるアゼリー語の文章はいつであっても奇妙だった。奇妙というのは間違いが頗る多いゆえに意図せず珍奇な響きの文章が生まれる、ということではない。根本の意味合いがおかしいのだ。アゼリー語の下に意味が記されている。
 "ぼくの2月の抱負は身体を柔らかくすることです。身体が柔らかくなれば、腰や背中の痛みが和らぎます。なので僕はクラゲになりたいです。クラゲの身体はとても柔らかいので痛みを感じません、つまり無敵なのです。3月までにはぼくもクラゲのように無敵になります"
 確かに間違いは多い、どの単語もことごとく間違っている。だがここまで書けるなら上出来だと、ザウルには思える。この文章を見ていると、その真顔のユーモアに笑いを抑えられなくなる。隣の西都に「うるせええ」と寝ぼけた響きで怒られて、またニヤつく。だが武玄が恋人の写真を送ってきた時、それは消え去る。

 朝5時半、心臓がギュッと激しく、心地よく縮んでいくような感覚に突き動かされ、タマラは武玄を求めた。いつも鎖骨にはキスだけするのに、今日は堪らず鎖骨が纏う肉に唇をしたたかに押しつけ、何度も貪った。そうして目覚め、朝食にはおにぎりを作る。互いの部屋に行った時は毎回一緒に料理を作るようになり、その腕がなかなか上達してきた。それでもまだまだご飯粒が指についてしまうが、互いの指についたそれを食べるのが楽しい。今回の具材は明太子だった。もしかすると一番好きな日本の食材かもしれない。米のまるやかな甘やかさに、明太子の火花さながらの辛味が弾ける。美味しかった。
 武玄は仕事に出かけ、タマラは彼の部屋で好きなだけくつろぐ。思わず午後1時まで二度寝してしまう。意識を引き締めるため、彼が勉学に励む机の前に座ってみる。本や筆記用具が乱雑に散らばるなか、タマラの視線はラベンダー色のノートに向かう。それは語学用らしく、様々な文字が踊っている。アルファベット、キリル文字、その他の奇妙な形をした文字たち。これを眺めながら立ちあがり、本棚へと赴く。小説や漫画に紛れ、語学テキストが幾つも並べてある。オランダ語、ブルガリア語、ロマ語、タイ語。それが見つかるたび、ノートのどの文字や文章がどの言語を指しているか確かめる。そうしてノートをパラパラ捲っていると見慣れた文字が現れる、アルメニア文字だった。だが学び始めたばかりなので、当然その字体はひょろひょろで、どう書いていいか未だ途方に暮れているとそんな風だ。不安がる武玄の表情がそこから思い浮かぶ。自分もひらがなやカタカナを学び始めた時はこんな風な文字を書いていたと懐かしくなった。たくさん努力してるのだからすぐ上手くなると思う一方、彼のアルメニア文字がずっとこんな風に可愛らしくあってほしいとも思ってしまう。
 その後、棚から適当に映画のDVDを見繕う。青い表紙にシンプルな黒文字が並ぶ、短編映画集を見つけた。羅列された短編の題名の群れはドイツ語のように思えたが、理解はできない。とりあえずそのDVDを再生することにした。浮かびあがったのは2つの映像だ。左にはゲーム画面が映る、岩山帯を突き抜ける戦闘機の1人称視点のようだ。3D映像は頗る稚拙で、大分昔のゲームと分かる。右にはそれを操作しているらしい若い男が映る、枯葉色の軍服を着ている。彼は無表情でゲームのコントローラーを操作し、戦闘機は縦横無尽に飛翔を遂げ、目前に現れる敵空機を打ち落とす。陸上からも攻撃が行われるゆえ、男は無慈悲に爆撃を行う。大雑把な橙色の光が地上を包み、陸軍は全滅する。男は常に無表情だ。タマラには見えないモニターを凝視し、敵を殲滅していく。映像を止めようとタマラはボタンを押すが、止まらない。男が敵を撃滅する。そして自分がリモコンを持っていないことに気づいた。リモコンは床の上に落ちていた。拾おうとするが、手が震えて上手くいかない。

 ザウルは西都に阿部知二の『冬の宿』の感想を聞く。これも武玄が薦めてくれたものだ。さすがに文学を軽々読みこなせるほどの語学力はないので、まず西都に読んでもらった。
「なかなか良いんじゃないの」
 西都は右目の脂を擦りおとす。
「俺さ、心理描写がクドクド書いてある、湿っぽいやつ嫌いなんだよ。日本のすげえそんな感じじゃねえの? でもこれ何かは心理というか内省と行動のバランスが良くて滑らかに読めるよ。それに文章も、冒頭の季節と映像をめぐる文からそうだけど、叙情性がちょうどいい美しさだな。馴染んでるって感じだ」
 西都はザウルのシャツ襟に手をつっこみ、鬱蒼とした胸毛を撫でる。
「あと面白かったのはキリスト教の描写だな。主人公が居候する一家が日本人には珍しいキリスト教徒なんだよ。そのせいか何つうかみんな歪んでんだよな。父親は裸婦の絵画燃やして興奮してるし、実際勃起してんじゃねえの?」
 肉体を乱雑に撫でられて、ザウルは勃起していた。
 しかしそれを嘲笑うかのように、西都は彼の欲望をのらりくらりとかわし、苦しくなり自分で慰めざるを得なくなる。『冬の宿』の文庫本を適当に捲りながら、その姿を西都は眺めていた。細胞が痛かった。ティッシュの上に射精をし、ウェットティッシュで亀頭を拭いている時も、西都はただただザウルのことを見ているだけだ。
 自身の恋人が言った『冬の宿』の感想を武玄に報告する。
 “その本、彼女が好きな小説なんだよ”
 そんなメッセージが返ってくる。
 “もうそろそろだな”
 ザウルはその、ひらがなだけでできた文章を見つめる。

 大学へ行く途中、タマラはアルメニア語の文章を読む。武玄が送ってきたものだ。
 
 “Իմ փետրվարյան որոշումն է ՝ մեղմացնել մարմինս: Եթե դուք մեղմացնում եք ձեր մարմինը, գոտկատեղի և մեջքի ցավը թեթևանում է: Հետեւաբար, ես ուզում եմ մեդուզա լինել: Մեդուզայի մարմինը այնքան փափուկ է, որ ցավ չի զգում, ուստի անպարտելի է: Մինչև մարտը մեդուզայի պես անպարտելի կլինեմ:”

 武玄によると意味はこうだ。
 "ぼくの2月の抱負は身体を柔らかくすることです。身体が柔らかくなれば、腰や背中の痛みが和らぎます。なので僕はクラゲになりたいです。クラゲの身体はとても柔らかいので痛みを感じません、つまり無敵なのです。3月までにはぼくもクラゲのように無敵になります"
 あまりにも馬鹿げていて、思わず頬が緩んでしまう。一見すればグーグル翻訳で日本語か英語を機械翻訳してできたと分かる支離滅裂で奇妙な文章だが、これを見るたびに笑ってしまう。自分を笑わせるためにこんな文章をこさえたとするなら、彼は大馬鹿者だった。嬉しかった。
 大学に着くが、見知らぬ男性に日本語で声をかけられる。日本人ではない。
「あの、タマラ・ハルトゥニアンさんですよね」
 ザウルの心臓が猜疑の目つきに貫かれる。
「はい、そうですが……何ですか?」
 彼女が唇を神経質に舐めるのをザウルは見る。
「あなたの恋人、三国武玄ってやつは……異常だ。すぐ別れた方がいい」
 タマラは笑った。
「頭おかしいんだよ、あいつは」
 ザウルはわざと汚ならしく言葉を吐き捨てる。
「あいつは本当はアゼルバイジャンが好きなんだ、アゼルバイジャン語だって実際喋れるんだよ。それを全部隠しながらアンタに近づいたんだ、あんたがアルメニア人ってのを知ったうえで関係を持ったんだよ。それでアンタの懐に入りきった最後に、アルメニアへの憎しみをブチ撒けようとしてんだよ」 
 タマラはもう笑っていなかった。
「何言ってるんですか、異常なのはあなたではないでしょうか。そんな荒唐無稽な話を、一体誰が信じますか。私のパートナーを侮辱することは許されません」
 彼女の流暢でありながら、妙に角張った日本語が気に障る。
「だいたい何故そんなことをする必要がありますか。それなら彼は普通に私を罵倒すればいいことではないでしょうか。意味が、意味が分からない」
「そんなの俺だってそうだよ。理由が分からない、だからあいつは異常って言ってんだよ」
「異常なのはあなたです。何なんですか、何なんです? 最低、最低だ。何なんですかこれは、何なんですか? だからあなたたちは……」
 その先を紡ぐ前に、タマラはザウルに背を向け、走り去る。その背中をただ見つめることしかできない。無力だった。帰り道、ザウルは駅に隣接する巨大なブックストアへ赴く。漫画コーナーを見て回ると、朝田ねむいの新刊が発売されていた。しかも2冊もだ。だがザウルは買わなかった。

 タマラは部屋に帰る。合鍵を使って既に入っていた武玄が夕食を作っていた。良い匂いが漂ってくる。鼻の粘膜がビクビクと痙攣するのを感じた。作ってくれたのは肉じゃがだった。用意を済ませ、椅子に座り、手を合わせて「いただきます」と言ってから、それを食べる。ゴロっと肉付きのいいじゃがいも、歯で崩すと噎せるような熱が湧きあがる。その熱についた芳醇なダシの香りが一気に食道を駆けぬける。噛みしめると、味のしったり染みついた、ホロホロの身が口のなかを転がる。美味しかった。だが実を言えば、一番好きなのはだし醤油でヒタヒタになった春雨だった。武玄は当然それを知っており、具のバランスなどお構い無しに春雨が大量に入っている。肉じゃがというより、春雨じゃがといった風だった。その薄く醤油色がかった春雨を一度白米のうえに置いてから、一気呵成に啜る。速度をともなった美味が熱とともに全身を疾駆する。とても良かった。
「今日はどうだった?」
 前に座る武玄がそう尋ねてくる。その表情にはどこも変わったところがない。いつものように謎めいている。黒々しい前髪が、少しだけ瞳に入ってしまいそうで、手を伸ばしたくなる。だが躊躇われた。近づいて、自分の目の赤みを気取られたくないと、そう思った。彼はとても優しかった。
 夕食後、一緒に皿を洗う。武玄の家には食器洗い機があるが、タマラの部屋にはない。何となく買っていない。食器洗いは割りに好きな家事の1つだ。掃除や洗濯といった行為より少し気楽で、食器が軽やかに綺麗になっていく様を見るのはなかなかに気分がいい。横で武玄と一緒にできるのもいい。今日はタマラがスポンジで食器を洗っていく、武玄がピンク色の布巾で食器を拭いていく。使う水は夏でもぬるま湯にすることにしている。その方が肌に優しいと思えたし、拭く際に水の滴が落ちやすくなる。
 武玄の横に立ち、1皿1皿テキパキと洗っていく。蛇口から湯が勢いよく放出される響き、その裏側に紛れてタマラは鼻をひくつかせる。武玄のくぐもった、粘り気ある体臭を肉体に取り入れ、自身の性欲を疼かせようとする。そうして見えなくなるものがあればいいと、タマラは願う。その操作通り、下半身で欲望が渦を巻き始めながら、そこに心を委ねることができない。この肉体の操作を覚めた目で眺めるもう1人の自分が背後にいる。放出の響きの中から、洗っている皿と指が擦れあう不協和音が際立ち始めた。映画だと、こういう時に限って誰かが皿を落とし、不吉な事件の前兆になるとタマラは思う。それならば、いっそ2人のどちらかが皿を落とし、砕け散ればいい。そうすれば、決着をつけられる。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。