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コロナウイルス連作短編その134「辞書で調べてみよう」

 だけども美谷ひかるは母親の美谷亜子に呼びとめられる。
「散歩、いくの?」
 重そうなお腹、その位置を整えるように、クイックイッと何度も体を動かす。
「うん」
「スーパーのラカルーズの近く?」
「たぶん」
「じゃ、これ持っていきなさい」
 そうして亜子が渡してくるのは3枚のくじ引きチケットだった。
「今日、閉店までくじ引きやってんだって。これで3回できるよ」
「なにが当たるの?」
「うーん、分からん。ただくじ引きができるってしか知らん」
「じゃあお菓子とか当たったら、食べて帰っていい?」
「いいよ、でも夕飯のことは考えてよ」
 もう1度、亜子は体を大きく動かす。その動作が何だかいやだ。

 ここ1週間で世界がいっそう冷えこんでしまった。風も横殴りの噴水という感じで、外を歩くひかるを打ちつける。もう相当着込まないと、骨まで凍ってしまうような気がする。それでも体を防寒着のなかで縮こめながら、外を散歩するのがどうしてかキライじゃない。小学生なのにおじいちゃんおばあちゃんのようだと自分でも思う。確かにSwitchで遊んだり、友人の芽衣の家で、ボードゲームマニアの彼女の父親が持っている見たこともないゲームで遊ぶのも好きだ。それでも黙々と、姉である美麻の国語の教科書に載っている文学、その主人公みたいに外を歩きながら、ずっと何かを考えているというのも好きだ。とはいえ、考えることは年相応の小さな楽しみについてで、死だとか生きる意味とかいうことではない。今も髪が荒風にもめくちゃにされるのを感じながら、くじ引きでもらえるかもしれないお菓子について考える。
 ひかるは坂に差し掛かる。ここはいつも「気をつけて!」と亜子に注意される場所だ。坂の両端に白線が引いてあり、その内側、人1人しか通れないほどの道だけが歩道と呼べる場所だ。車はそれ以外を占有しながら、ひかるの家側、そしてスーパーのラカルーズ側の両方からブンブンとやってくる。横断歩道を渡って、右の歩道を歩く。この細い空間を歩くのは、まるで綱渡りでもしている風だ。ひかるはわざと手を広げて、サーカスの曲芸死がやるみたいに、バランスをとる、フリをする。歩くうちに下には、高速道路が見え始める。巨大な遮音板に区切られた内側、日曜日でも大量の車が轟音をあげながら走っている、坂を通る車はいない。疾走する鉄の塊の数々を上から見ていると、カミサマにでもなった気分で鼻が高くなる。そして坂の頂点までくると、高速道路と一緒に、向こう側に広がる街並みそのものが見えてくる。だがひしめく建築といえばちっぽけな家ばかりで、しかも屋根も焦げ茶に紺色など、地味なことこの上ない。そんな中でひかるが好きな建築がある。高さ自体は他の住宅と同じほどの、小さなビルだ。しかし屋上に看板が置いてあり、目に悪い蛍光色のグリーンを背景に“世界のバナナ! 世界のクルミ!”と書いてある。たぶん、バナナとクルミを売っている会社のビルなんだろう。だけども文字の勢いが面白い。これをお笑い芸人が全力で叫んでいたら、思わず笑ってしまうだろうとも思える。
 坂を歩いているうち、結局1台の車も通らない。なので下る時は、タッタカと走っていった。こうすると母はいつも叱ってくるので、多くはやらないのだけども、誰の目もないので、ひかるは自分がやりたいようにする。風よりもはやく走ってやるのだ。

 坂から3分のところに、スーパーマーケットのラカルーズがある。ここは不思議な場所だとひかるはいつも思っている。基本はかなり大型の駐車場で、いつもたくさんの車が停まっている。それを取り囲むようにして様々なお店が連なっているのだ。円錐型の建物をしたサイゼリア、かなり大きな古本・中古ゲーム屋(ここでひかるはSwitchを買ってもらった)、これよりも更に巨大なオートバックス、そしてその横に建ったビルの1階がラカルーズだ。ここに行くまでに30秒かけて駐車場を突っ切っていく必要がある。車の停車位置が奇妙に入り組んでいるので、壁などは一切存在しないのに迷路を歩いているような気分になる。車のひしめきや交通量によって行ける場所が変わるので、一度として同じ道を通ったことがない、少なくともひかるにはそう思える。今回は古本屋前の短い歩道を通った後、右に続く横断歩道を渡っていき、今度は左の駐車場スペースに入りこむ。意外と車が多いのでその隙間をヌルヌルと縫うように歩いていき、横断歩道のない道を、左右と車が来ないのを確認してから通っていく。するとオートバックスに続くベージュ色の歩道に入るので、その上をずっと歩いていき、横のビル、そしてラカルーズに辿りつく訳だった。
 着いた瞬間、入り口に人だかりができていることに気づいた。そこでくじ引きをやっているらしい。しかし近づいてみると、景品を選ぶ人の方が多いのに気づいた。お菓子やジュースが景品だったのでうれしかった。ひかるは眼鏡をかけた女性店員の方へ近づいていって、チケットを渡す。
「ここでできるんですよね」
 それは明らかなのに、わざわざそんな質問をしてしまう自分がダサいと思った。しかし店員は眼鏡の奥の細い目を、またさらに細めて笑う。
「はーい、そうですよ。じゃ、3枚だから、ここから棒を3本引いてね」
 テーブルには割り箸のような棒がたくさん入ったケースが置いてある。その横には紙が張ってあり、何の色が何等かというのが記されている。だけども特に確認せず、ひかるは棒を引こうとする。
「1本……2本……3本!」
 そう実況中継でもするみたいに、女性が喋るので恥ずかしかった。2本はそれぞれ先端が黄色と桃色で塗られていたが、残りの1本は木が剥き出しだった。
「じゃあそこの箱の駄菓子が5等、ドリンクが4等、お菓子の方が3等ね」
 そう言われたので、ありがたくもらおうと思う。景品の前ではたくさんの人々が押しあいへしあいしている。臭かった。
 駄菓子はうまい棒のたこ焼き味、ドリンクは三ツ矢サイダーの小さな缶、それはすぐに決まる。だが3等でコアラのマーチを選ぶか、コンソメ味のポテトチップスかで迷ってしまう。少しの間、前で立っていると、後ろから軽く突き飛ばされる。振り返ると、ダウンを着こんだ30代くらいの男性と目が合う。チッ、と聞こえた。当然マスクをしているので口の動きは分からないけども、確かにひかりにはチッと聞こえた。彼はコンソメ味のポテトチップスを持っていた。なのでコアラのマーチを持っていくことにした。

 坂をまた越えた後、ひかるは近くの少年の広場と呼ばれるだだっ広い広場に行った。ここの隅にある古びたベンチに座るのが好きだった。友人とSwitchで遊ぶこともあれば、独りでお菓子を食べるという時もある。今も座った瞬間にはうまい棒の封を切って、バクバクと食べ始める。おいしい。たこ焼き、というか多分ソースの味なのだけども、濃厚な塩辛さで、とても不健康だ。健康志向の亜子がよく作る薄味の料理なんかよりも全然いい。父親の彬が糖尿病予備軍なのだが、彼の食事だけでなく皆の食事がそういう健康志向になってしまった。美麻は「これは虐待だ!」といつも言っている。ひかるはそう言わないが、内心姉に賛成している。
 ボリボリとうまい棒を食べていると、3人の男性がやってきた。高校生より全然大人びた、大学生か社会人かみたいな風貌の3人だった。彼らは一度だけこちらを見て、ひかるよりそう遠くない場所で遊び始める。サッカーボールほどの青いゴムボールを軽く蹴って、相手に渡す、そんなこぢんまりとした遊びだった。ひかるはしばらくうまい棒を食べながらそれを見ていた。
「ヤリマン、“チューゼツ”させたわ」
 黄緑色のパーカーを着た男が言った。
「何、自慢かよ」
 そうニット帽をかぶった男が言った。
「ちげえし。何かヤッた相手が妊娠したとかほざくから、俺の財力見せるために“チューゼツ”費用出してやった訳よ、男として責任とったなあ感ある」
「それくらいでかよ、ダセ。俺なんか女、2人も“チューゼツ”させたわ」
「嘘だろ」
 パーカー男の蹴ったボールが変な方向に飛んでいく。それを無口な男が取りにいく。
「ウソじゃねー、お前のが実際“チューゼツ”なんかしてないで、ただヤリマンに金騙しとられただけじゃねえの」
「それはねえわ」
「何でねえんだよ。俺はちゃんと2回とも病院行ったからマジで確実」
「そっちも女と病院のやつが口裏合わせてただけじゃねえの」
「そこまで寿司女の知能が発達してるかよ」
 2人は笑った。
「俺は3回“チューゼツ”させたよ」
 無口だった男がそう口を開いた。
「ウソやん」
「しかも同じ女を3回」
「ヤバ」
「30のババア。子供なんか育てたくねえから、妊娠したら毎回“チューゼツ”させた。謝りながら俺に金くれたよ。こういう時はいつもより多めにくれる。俺はそれ使ってるフリして、全部自分の口座に貯金してた。それで3回目の後、500万くらい貯まったからババアは捨てて、大学生と付き合ってる」
「おい、マジかよ。あの子の前に、そんな波乱万丈かよ」
「全然知らんかったんだが」
「言う気なかったからな。だけどお前らがダセエ“チューゼツ”自慢してるから、俺が本当の“チューゼツ”自慢を見せてやるよって思ったんだわ」
 ひかるはコアラのマーチも食べたかった。3人がボール遊びをするのを見ながら、食べるか食べないかしばらく考える。夕飯が待ってるとなると、うまい棒に加えてコアラのマーチまで食べると、お腹一杯で全然食べれないかもしれない。そうなるとやっぱり母親には怒られてしまう。なので食べたいけども、食べないように決めた。そしてひかるは帰ろうとする。
「グレタ・トゥーンベリ、マジでウゼェ、犯してえ」
「脱炭素とか言ってるやつらさ、じゃあそれで電力とかどう賄おうとか思ってんだろうな。脱炭素したら、必然的に行き着く先は原子力だぜ? アベガーゲンパツガーって言ってるやつら、マジ頭お花畑、現実見ろよ」

 家に帰ると、亜子がソファーに座ってテレビを見ている。紅茶を飲みながら、いとしげに膨らんだお腹をなでていた。
 ひかるは父の部屋に行って、本棚から辞書を取り出す。父が昔から使っているものであり、いつも焦げくさい臭いがしている。ひかるは構わずにその薄いページを捲っていき、そして見つける。

“ちゅうぜつ【中絶】《名・ス自他》中途で、途絶えること。また、途中で止めさせること。”

 とても難しい文章に、ひかるはしばらく考えてしまう。だがある時、金平糖でも降ってくるようにひらめきが訪れた。自分がずっと思っていたのは“ママのお腹を中絶させたい”ということだったのだ。それが分かって、ひかるは何だかうれしくなってしまう。やっぱりコアラのマーチが食べたい。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。