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コロナウイルス連作短編その1「コロナウイルス」

 動物園にいた時、伊達在人に向かってゴリラが糞を投げた。それは彼の顔面に直撃し、在人は思わずうずくまる。
「大丈夫?」
 恋人である瀬々玲美は彼をいたわるが、明らかに笑うのを我慢していた。彼女の頬が少しだけ紫色になっていた。
「大丈夫だよ、大丈夫」
「本当? ウンコ完全に当たってたよ?」
「マジ最低だけど、大丈夫。珍しい経験したって思うしかないわ」
 在人はトイレに行って、顔を洗う。目が充血していることに気づいた。まるで血の混じった尿のような有り様だ。在人は唾を吐き出す。
 その後、何事もなかったかのように、在人たちは動物園を廻った。特に印象的なのはカバだった。子供たちの視線を一身に浴びながら、カバが水の中から出てくる。そして飼育員が合図をすると、口を大きく開けた。まるで地獄の門が開いたかのような姿で、在人はもしあの顎に噛まれたらと想像する。おそらく一瞬で脳髄が爆砕するだろう。その予想はある意味で叶えられた。飼育員がカバに鉄球のようなキャベツを与えると、カバは一瞬にしてそれを噛み砕いてしまった。
「うわ、凶悪だ」
 そんなことを言いながら、玲美はとても喜んでいた。そして帰りにはお土産にカバのキーホルダーを買ったんだった。
 朝、テレビを観ていると、コロナウィルスのせいで動物園が二週間閉園になるというニュースが流れた。
「おととい、遊びに行けてよかったね」
 玲美がパンを食べながらそう言う。小さな屑が彼女の唇の端からこぼれおちた。
「うん、そうだね」
「二週間、あのカバさんが見られないのは日本にとって損失だなあ」
「はは、それは大袈裟すぎでしょ」
「あっ、そうだ。明日、マスク買いにマツモトキヨシ行ってきてね。十時前には行ってね。並んでると思うからさ」
「オッケ、分かった」
「マスク入荷してるかな」
「さあね。馬鹿が買い占めてるから、ないんじゃない?」
「うーん、そうじゃないといいなあ」
 玲美は仕事に出掛けるが、在人は会社から自宅での勤務を命じられていた。何日か経つが、この状態にはあまり慣れない。自宅だと仕事場にあった緊張感が感じられず、ただただ怠惰に時間を過ごしてしまうのだ。彼は無意味にパソコンの液晶を眺める。そして牛乳を飲んでから、パソコンのEnterキーを押す。本当に、その行為には全く意味がなかった。
 だが昼になって、玲美から電話がかかってくる。昼休みの間、玲美はダラダラ在人に他愛ないことを話し続けた。同僚の斎藤さんが痔になった話、自身の勤めるケーキ屋で妙にチーズケーキが売れる話、通勤途中に出会った黒い猫の話。それはまるでお湯でふやけた指の皮膚のように退屈なものだったが、在人は玲美の声を聞けるだけで嬉しかった。
 在人は近くのマツモトキヨシに行く。店の前には誰も並んでいなかった。代わりに“マスク、入荷していません”という張り紙があった。落胆しながら、同時に苛つきも感じた。どこかの馬鹿どもがマスクを買い占めたせいで、こんな面倒なことさせられてると彼は思った。しかし、彼はマツモトキヨシに入っていく。鼻の洗浄液を買うようにも、玲美に言われていたからだ。入り口付近にあった洗浄液を手に取った後、奥の食料品コーナーに行く。在人はコカコーラが大好きだった。コカコーラがあれば何もいらない、実際にコカコーラ以外の食物を必要としないサイボーグになれればいい、そんなことを思っていた。
 在人はコカコーラ二本と鼻の洗浄液を持って、レジに向かう。店員は鼻が鷹の顔のような中年女性だった。
「すいません、マスクがいつ入荷するっていうのは分かりますか?」
 在人は彼女にそう尋ねてみる。
「いやあ、それが全然分かんないんですよね。取りあえず保健所から“この一週間はマスクの供給はありません”ってお達しが来たので、ああやってポスター張ってるんですよ。この先はどうなるか全く分からないです。すみません」
 彼女はこちらが申し訳なくなるほどに悲壮な表情を浮かべた。
「いやいや、本当に大変ですね。無理はなさらず、頑張ってください」
「はい、ありがとうございます」
 女性が満面の笑みを浮かべたので、在人も嬉しくなった。
 在人は近くの小さな映画館に行った。今日は映画料金が安い日なのに、人が全くおらず驚かされる。この状態が長く続いたなら、こういった小さな映画館の未来はどうなってしまうのだろうか。在人はコロナウィルスを恨んだ。
 スクリーンを独占しながら観た映画は、十八世紀のフランスを舞台にした女性同士の恋愛映画だった。画家である女性とモデルである女性、彼女たちが社会から隠れながらも密やかに、親密に愛を紡ぐ物語だ。現れる風景の全てがまるで絵画のようで、在人は何度も息を呑んでしまう。そして紡がれる愛のあまりの美しさに、彼は涙すら流してしまう。その涙は最初小川のようだったが、最後には感情の激流のようになった。涙が全く止めることのできない自分に、在人は驚いてしまう。頬を激しく流れる涙を感じながら、彼は恥ずかしさをも抱いてしまう。今回は映画館に一人しかいないから泣くことができているが、もしここに他の客がいたらそうは行かなかっただろう。そして友人や玲美の前でも、泣くことはないだろう。泣きたくなったとしても、延々と我慢し続けるはずだ。
 夕方、在人が映画を観ていると、電話がかかってきた。同僚の絹田正親からだった。何日か会っていなかったので、他愛ない話をする。そのうち話題はコロナウィルスについてになった。
「なあ知ってるか。中国人がマスク買い占めてるらしいぞ。こりゃやべえよ」
「知ってる知ってる。俺もそのせいでマツモトキヨシでマスク買えなかったんだよ。玲美が花粉症なのにさ。マジで、あのボケども最低だよ」
「あと何か、割り箸も日本から無くなるらしい。中国が輸入をストップしたせいで、届かないんだってよ」
「マジか。本当、中国人ブチ殺してやりてえ」
 気づくと、玲美がこっちを見ていた。顔には彼を咎めるような表情が浮かんでいた。在人は舌を出す。
「ぼくは人種差別主義者だよ。ごめんね、玲美」
 電話の後、在人は謝った。
「ああいうこと言っちゃダメだよ」
「ごめん、でもただの冗談だよ。俺が人殺すわけないじゃん」
「それでもダメ、冗談でも言っちゃいけない」
 在人は玲美にキスをする。そうして彼女から言葉を奪い去った。
「もう! 都合悪くなるとすぐにキスする」
「だって玲美が可愛いから」
「うっさいよ、馬鹿」
 玲美は笑っていた。
「でもアルくんのキス、大好き」
 夕食の後、在人は玲美とセックスをした。彼女に何度もキスをしていると、頬が大気圏を疾走する隕石のようにどんどん赤くなっていく。それが可愛くて、キスを止められなくなってしまう。玲美の身体は卵の黄身のように黄色い。日本人は白い肌を美しいと思うが、在人は黄色い彼女の肌こそが最も美しいものだと確信していた。そしてその清らかな黄色が満ち渡る肌はとても柔らかく、触っていると今にもそこに沈みこんでいってしまうようになった。
 大学時代、在人は激しいセックスを好んでいた。自身の固くなったぺニスで女性の身体を粉砕し、その熱烈さに彼女たちは喘ぎ声をあげるとそんなセックスを愛していた。だが玲美と出会って、彼の価値観は一変した。在人が激しく暴力的に腰を振ると、玲美は躊躇することなく「痛い!」と叫んだ。そんな言葉を女性から聞いたのは初めてだった。
「もっと優しくして」
 その言葉に自分の傲慢さを思い知ったのだった。自分はぺニスが気持ちよくなることしか考えていなかったのだと。それから在人は優しくスローなセックスをするようになった。
 玲美は大蛇がギリシャ彫刻に巻きつくように、艶かしく在人の身体を愛撫する。在人は確かに興奮しながらも、そのぺニスが固くなることはなかった。頭の中で勃起しろと念じても、ぺニスが震えることはない。在人は裸にされた後、玲美はフェラチオを始める。粘った唾液が在人の肉に吸いついた。それでも勃起することはなかった。居たたまれなくなり「もういいよ」と玲美に言う。彼女は寂しげな顔をした。頬は未だに赤く染まっている。
 在人は指を、玲美のヴァギナの中に忍ばせる。優しく肉壁を撫でるうち、玲美の息遣いは早くなっていく。そして彼女は切ない声をあげながら、絶頂に至る。少なくとも在人にはそう見えた。
「ありがと、アルくん」
「うん」
 自分が全くの無能であるような気がして、在人は自身にムカつきを覚えた。
 玲美はすぐに眠りに落ちる。彼女の寝顔は、小川の囁きを聞くカワセミのように安らかだった。
 ニュース番組で、海外での日本人への差別が報道されていた。ある大学生はベルギーに留学していたが、道を歩いている時、車椅子に乗った白人女性が近づいてきた。すると、彼女は大学生に「コロナウィルスはこの国から出ていけ!」とわめき散らし始める。その時、彼は恐怖を感じたが、周りの白人たちは誰も助けてくれなかったという。彼は今までで一番衝撃的な差別体験だったと語り、落胆していた。
 白人どもは差別に厳しい、政治的正しさが徹底してる。そんなことをパヨクやフェミどもは言うけどさ、実際はこんなもんだろ。日本人以下じゃねえか。日本人はそんな路上で、中国人に「コロナウィルス出てけ!」とか言うか? 言わねえだろ。所詮、白人の意識なんてこんなもの。実際はアジア人を見下してる野蛮な奴らだ。
 そう思いながら、在人は鼻をほじった。
 次はスマートフォンで撮られた動画が放映される。ある男が血走った目をしながら、携帯に向かって「コロナ! コロナ!」と叫び、さらには殴りかかってくる。悲鳴が聞こえるが、それで撮影者が女性だと分かる。動画の激しいブレに在人は恐怖を覚える。そしてこの動画がパレスチナで撮影されたと聞いて、驚いた。
 こいつら、馬鹿なのか? 散々、イスラエル人やアメリカ人にテロリスト扱いされて差別されてる癖に、日本人に対して同じことしてやがる。差別から学ばない、チンパンジー以下の間抜けだな、こいつら。そりゃイスラエルの軍隊に虐殺されるわな。
 在人は自分の考えたことが面白くて、笑った。そして何故だか笑いが止まらなくなった。
 その後、楽しみにしていた映画の公開が延期されたことを知って怒りを覚えた。
「ふざけんなよ、俺マジで今月楽しみにしてたのに!」
 すると、玲美が首筋を撫でてきた。
「私だって、自分の好きなバンドのライブが中止になったんだよ。延期じゃなくて、中止。それに比べたら、別にいいじゃん。私の方が可哀想!」
 いや、そういう悲しみは比べられるものじゃないだろ。
 そう言いたかったが、在人は我慢した。
 在人と玲美は近くの大きな本屋に行った。いつもなら客が犇めいているのに、今日はとても空いている。まるで神の力によって人口が半分に減らされたかのようだった。在人はワクワクした。
 適当に本屋の中をブラついていると、ある本を見つけた。少し前、コロナウィルスを初めて発見した中国人医師が、正にそのコロナウィルスによって命を落とした。その本は彼の天国からのメッセージを記したものであるという。在人は思わず笑った。カルト宗教の教祖がこうして金を稼いでる。そうしてこれを買う能無しが実際に存在する。この事実が滑稽でしょうがなかった。
「玲美、これ買いなよ」
「えっ? 買うわけないじゃん」
「何で。ベストセラーだよ」
「こういうの最低だから。買うわけないし!」
 そんな玲美が買ったのは海外文学だった。カルメン・マリア・マチャドの『彼女の体とその他の断片』という作品だった。
「これずっと欲しかったの」
「へえ、どんな本なの」
「えーっと、レズビアンの作者が身体についての奇妙な話を書いた短編集。アメリカですごく人気で、すごいクィアでフェミニスト的な作品なんだって」
「へえ、つまんなそ。俺は絶対読まないよ」
「もう! 別にいいよ。後で読みたくなっても貸さないから」
 帰り道、いつもは異常に混んでいる中華屋が空いているのに気づいた。またとない機会なので、ここで夕食を食べることにする。在人は麻婆豆腐が好きなので、四川風の麻婆豆腐を頼んだ。食べてみると、山椒が濃厚に効いていて、すこぶる旨い。今まで食べていた麻婆豆腐は豆腐を生で食べていただけだと思わされるほどだった。熱烈な辛さを楽しみながら、在人は心を踊らせる。
「やっぱ、中華料理が一番旨いわ!」
 在人はいつも以上にニュースをよく観るようになっていた。今度はトイレットペーパーの買い占め問題について報道していた。コロナウィルスとトイレットペーパーは何の関係もないながら、Twitterで“トイレットペーパーの買い占めが始まっている!”と誤った情報が流れた結果、日本中でトイレットペーパーが不足しているのだ。そんな中、ある巨大スーパーマーケットが大量のトイレットペーパーを入荷した。そして人々はそれを買うために雪崩のごとく殺到する。
 それを見ながら、日本人は何て愚鈍な人種なんだと在人は思った。彼らはゴキブリにも劣る存在であり、生きている価値すらない。今すぐコロナウィルスに罹って、苦しみのうちで死ぬべきだ。在人は心の中で呪詛を吐いた。
 そんな時に思い出したのが、アメリカのニュースだった。アメリカではコロナウィルスの感染が拡大する中で、銃や銃弾の売上が倍増したらしい。そこで在人は納得した。アメリカ人はこういうゴミ人間どもを抹殺するために銃を買っているのだと。そして彼は目を閉じて、ある風景を妄想する。日本人たちがトイレットペーパーに殺到している一方で、自分は巨大なマシンガンを持っている。引き金を引くと、凄まじい勢いで銃弾が発射されていき、日本人たちの肉をブチ抜いていく。彼らはまるでゾンビのように虐殺されていき、死骸の山が築かれる。在人はとても爽やかな気分を味わった。
 突然、ブリブリブリィという大きな音が響いた。在人は急いでトイレに行った。そこでは玲美が排便をしていた。彼は玲美を強引にどかして、トイレに手を突っこむ。そして糞を食べた。玲美の糞はとても美味しかった。まるで新鮮な刺身のように輝いてる味だった。糞が柔らかく舌の上で溶けていくのを味わうのは格別だ。在人は特に脂がたっぷり乗った鮭の刺身を思い出した。そして次は便器の底に溜まった水を飲もうとする。糞と尿が混ざりあったその色彩はまるで芳醇な麦茶だった。彼はそれを手で掬って飲んでみる。素晴らしく清い味だ。まるで富士山から流れ出す湧き水を飲むような感覚、正に今この瞬間、身体が浄化されているような気分を味わう。最後に在人は糞と水を一緒に食べることにした。口に入れた瞬間、凄絶な旨みが在人の身体を襲った。彼はエクスタシーの中にいた。禅僧が悟りに入る時、こんな巨大な感情を味わうのだろうと在人は思った。全てを飲みこんだ後、彼はリビングに戻り、テレビを見た。そこでは女子アナがエクササイズをしていた。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。