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コロナウイルス連作短編その143「名前はひらがなで」

 この後、大学の授業が終わり、覚田英冴は家へと帰る。最寄り駅に着いたとき、しかし彼は思わず近くにあるラーメン屋に入ってしまう。これはもはや癖だった。自炊すべきだとは思いながら、ラーメンの誘惑に勝てない。脂で艶々とする焦げ茶色の内装、ラーメン屋の常として猥雑な雰囲気が空気の粒子1粒1粒に織りこまれている、これが好きなのだ、何故だか落ち着く。注文して5分後には、英冴の前に料理が運ばれる。味噌とんこつラーメン。大盛り、麺かため、脂おおめ、白ネギトッピングつき。割り箸をパキリと勢いよく割ったかと思うと、間髪いれずに麺を啜る、白ネギをたくさん巻きこみながら啜るのだ。濃厚な脂と深みある塩辛さを纏った麺が、口のなかに雪崩こみ、その旨味に圧倒される。だがこちらも負けじと、麺を一切噛まずにそのまま呑みこむ。これが五臓六腑にガツンとくる。旨かった。麺、白ネギ、チャーシュー、味玉。何もかもをガツガツと喰らいまくる。途中にはテーブル備えつけのお冷やをゴクゴクと嚥下しながら、またもラーメンを喰らいまくる。モワモワと鬱勃するけぶりは、味噌とんこつの粒子を濃厚に宿しており、味覚や嗅覚とともに、さらに顔全体の触覚にもブワッと作用する。これを味わうのは正に至福のひとときなのだ。そうしていると、本当にあっという間にラーメンはなくなってしまう、もうスープと具材の破片しかない。悲しかった。なのにそれすらも凄まじい勢いで喰らってしまい、すぐにどんぶりは空っぽになる。悲しかった、同時に満足していた。英冴は救われていた。

 数日後、今度は自分の町にやってきた恋人の井出上柚良といっしょにラーメンを喰らう。英冴は相も変わらず味噌とんこつ、辛いものが好きな柚良は激辛味噌だ。前に座る柚良はいつもの通り「うりうりぃ」と言いながら、激辛の水蒸気をこちらに向けてくるが、英冴は辛いのが苦手で、激辛味噌の凄絶な赤みを見るだけで、眩暈を起こす。彼女のいたずらも洒落にならない。だが楽しかった。
 店の天井隅にある台、そこには小さなテレビが置いてあり、常に何かが流れている。夕方ゆえに今はニュースが流されており、英冴も何となしにそれを横目に見ている。音は聞こえない代わりに、字幕つきだ。特集しているのはコロナ禍の日本における外国人住民の苦境だった。まず総理大臣である岸田の采配によって国境が封鎖され、留学生が日本に来られないという現実が報道されている。英冴にも、このせいで留学が叶わずに泣く泣く諦めざるを得なくなったタイの友人がいるゆえ、怒りもひとしおだった。そして東南アジアからやってくる技能実習生など移民労働者の扱いは未だ改善されず、コロナ禍においてむしろその待遇は悪化の一途を辿っている。岸田も日本政府も全くの無能だとしか思えない。
「ごちそうさまあ。はあ食った、食った」
 そんな柚良の満足げな声を聞くと、そんな苛つきもほどけていくが。
 レジで代金を払おうとする。応対した店員は、英冴は好きではない人物だった。常に態度が悪く、陰険な雰囲気を漂わせている。彼の姿を見たり、低くぬるい不愉快な響きの声を聞いていると、ラーメンが不味く感じるのだ。レジ応対もどこか陰険だった。眼鏡の奥の視線が、ふてぶてしく下劣だ。後ろにいる柚良のことを性的に見ているのではないかと思えて、背中の毛が逆立つ。
「ゴチになりますわ」
 ラーメン屋の外に出て、夕焼けの道をいっしょにぷらぷらと歩く。自身の家に至るまでの10分間、こうして柚良の隣で歩いていると“ささやかな幸せ”という言葉が頭に思いうかび、胸がぬくもりで満たされる。だが突然、あの店員の視線が甦り、気分が台無しになった。そして何となく財布を確認すると、もらったお釣りが明らかに少ないことに気づく。
「あいつに釣り銭盗まれたわ、くっそ」
「えー、じゃあ戻る?」
「いや、いいよ、別に、めんどくさいし」
 英冴は柚良の右手を掴んで、駆け出していく。

 次にラーメン屋へ来た時、あの眼鏡店員がいないので安心する。代わりにいた店員は外国人で初めて見る顔だ、しかもアラブ系に見えた。東アジア系や東南アジア系はこの町では珍しくないが、褐色の肌をした彫りの相当深いアラブ系は初めて見た気がした。こちらに注文を聞きにくるが、発音は頭にカタカナが浮かぶ類の片言ぶりだった。おそらく文章の意義を理解しないまま、暗記したものをそのまま発音しているといった印象だ。いつものように味噌とんこつを頼むが、麺のかたさなどについては聞かないままだった。おそらく忘れたのだろう。英冴は新人だろう彼の間違いを気にしない。
 そしてラーメンが運ばれてくるが、それは明らかに味噌しょうゆだった。スープの透明度が全く違うので一瞬で分かる。最初は、この間違いを指摘しようか迷ってしまう。だが味噌とんこつと味噌しょうゆの違いは許容するには大きすぎるような気がした。
「あのー、これ頼んだやつではないんですが」
 そう言うのだが、店員はきょとんとした顔をしている。顔立ち自体は、本で読んだ“ベドウィン人”そのままの精悍なものだったが、今の表情は、公園で転んで泣きはじめる数秒前、事態が呑み込めずにきょとんとする幼稚園児と同じものだった。どうすればいいか迷っていると、他の店員がやってくるので、英冴は彼女に料理が間違っている旨を伝える。彼女が平謝りする一方で、アラブ系の店員はただ型通りの謝罪を行う。これもやはり自分が言っている日本語を理解していない風だ。2人は店の奥へと行くが、料理を作っている店長らしき中年男性が店員を叱りだす。大きな声は出さない、彼の顔を睨みつけながら日本語でネチネチと無能さを指摘している。微かに漏れ聞こえる言葉が、英冴の食欲を減退させる。おそらく店員は店長の日本語を理解してはいないだろう。それを承知のうえで、彼はあの泥流のように淀んだ罵詈雑言を、店員の鼓膜に塗りつけているのだ、少なくとも英冴はそう思う。彼が可哀想だった。そして店長は説教を終わらせて、彼を業務に戻らせる。店員はレジ辺りに立つのだが、口を動かして何か言った。それは日本語ではなかった、英冴にはそれが“Merde”というフランス語に聞こえた。

 ラーメン屋に行くたび、英冴は2人の店員と交互に顔を合わせることになり、自然と彼らを“眼鏡”と“ベドウィン人”と呼びはじめていた。その印象は全く二分されている。眼鏡の態度の悪さたるや時を経るごとに悪化していき、彼が店にいるだけでも空気が腐るように感じる。ラーメンを食べていても不愉快な気分になる。その反感を目敏く察知してなのか、いちどは味噌とんこつのスープに親指が浸っているのを目撃したこともある。錯覚であるはずだと思いながら、頭からこのイメージを排撃できずにいる。英冴はラーメン屋に入るたびに“今日は眼鏡いないでくれ”と願うようになった。だがもしいても、彼のためにラーメンを食べないというのは癪なので、意地でも退出はしない。
 そして気づきはじめたのは、眼鏡は自分以外の客からもあまり歓迎されていないことだった。この店には近くの工事現場で働く作業員や、スーツ姿のサラリーマンたちも足繁く通っているが、彼らの眼鏡への視線は、少なくとも英冴にはひどく辛辣なものに思える。しめった不信、そこはかとない敵愾心。彼らも自分と同じく眼鏡がいるとラーメンが不味くなると感じている、そう考えると妙な連帯感を抱いてしまう。だが眼鏡は勤続が長いらしい、店におけるベテラン店員なのだ。ゆえの権力を傘に被りながら、あの無礼な態度を貫いているのだと、英冴はそう確信している。
 いっぽうでベドウィン人は日本語の拙さは勿論のこと、接客マナーも色々と間違えるなど、明らかに日本での生活そのものに馴れていないという印象を受ける。だが彼が熱心に努力して、様々なことを学び、覚えようとしているのが伺えて、こちらとしても応援したくなる。店に入るとき、真っ先に「いらっしゃいませ!」と言うのは彼だ。最初は声も小さく、発音もカタカナ表記の片言でありながら、何度も何度も復唱するごとに彼の「イラッシャイマセ!」が「いらっしゃいませ!」に変わっていくのを、英冴は鼓膜で確かに感じていた。それも本当に歩くような速さであり、他の日本語、例えば注文応対や支払いに使用する日本語は未だ片言として響く。だが英冴は心のなかでベドウィン人を応援していた。彼が完璧な日本人店員になって、眼鏡が専有する座に収まってほしいと心の底から思っていた。

 英冴は散歩をする。その途中で公園に行き当たった時、ベドウィン人を見かけた。ベンチに座り、日差しを浴びながらぼーっと時間を過ごしている。好奇心が湧く、彼に興味があったし、話しかけてみたい。公園に入っていき、両の手首をクルクルと回しながら、彼に近づいていく。指の先が氷柱のように凍てついている。ベドウィン人がこちらに視線を向けてくる。
「あー……Pardonnez-moi si je me trompe, maine vous êtes française?」
 もしかしたら間違えかもしれないですが、あなたってフランス人の方ですま?
 英冴がそうフランス語で話しかけると、彼は目を見開く。白眼は英冴の皮膚のように黄色かった。
「えっ、アンタ誰だ、フランス語……何で分かるんだ?」
 英冴は自分が大学でフランス文学を学んでいること、フランス語は高校時代から学んでいること、そして彼が働いているラーメン屋の常連であることを話す。話を聞き終わった後、男はマスクをずらして笑顔を見せる。カサカサしている彼の唇を初めて見た。
「そうか、いやまさかそういうやつがラーメン屋に来てるとはね。何で、俺がフランス語喋るって分かった? 日本語のアクセントか?」
「いや、君、店長に怒られてた。その時に“merde”って言ったのが聞こえた、たぶん。それで君がフランス人だと思った」
「そりゃ、やべえな。誰がどこで何聞いてんのか分かったもんじゃない」
 そう言って彼は爆笑した。そこから自分について話し始める。名前はアズーズ・ダウド、アルジェリア人、少し前のまだ国境が閉鎖されていない時期に日本へ“忍びこんで”きた。だが明かしたのはそれだけで、話は終わった。英冴はもっと知りたいことがあった。“アルジェリア人”と聞いて興奮したのは、最近彼が現代のアルジェリア文学を読んでいるからだ。カウテル・アディミ、ブアレム・サンサール、ムハンマッド・ディブ。ダウドという名字はカメル・ダウドと同じだが、縁戚関係にあるのか。興味は尽きない。だがこういうことを不躾に聞くのは非礼だとも分かっているので、言葉を抑える。代わりに日本での生活について聞いてみる。
「日本語が覚えられん」
 アズーズはそう言った。
「俺はいつも言語を学ぶ時は、文字を完璧に覚えてから文法を始めたい。文字は語学の地盤だから、それを固めないとうまく覚えられないんだ。だが日本語はひらがな、カタカナ、漢字って字が多すぎるだろ。しかもひらがなとカタカナが似ていて、見分けがつかん。途方に暮れてるよ。だから文字を覚えながら、ローマ字で文法の方も学んでるが、頭に入らん」
 それからアズーズは英冴の横で“merde”とパフォーマティブに言ってみせる、これを求めているんだろうと。実際、英冴はその言葉を求めていた。

 それからラーメン屋以外でも、アズーズと会うようになった。コンビニで安い酒を買い、いっしょに飲みながら適当に話す。ほとんどがフランス語だ。大学外でフランス語をほぼ喋ったことがないので、この経験はすこぶる刺激的だった。舌が肉体的に疲労するという状態を、今初めて味わっている。時々はアズーズのために日本語で喋ることもあるが、やはり習得に苦労しているようで、会話のキャッチボールを円滑に行うことはほぼできていない。それを見て、日本語ネイティブとして、どうアズーズに日本語を教えられるかについて英冴は日々考えるようになった。
「アズーズ、習字って知ってる?」
 ある時、公園のベンチで英冴は言った。
「あー……黒い墨で、紙に文字を書くアレだ」
「そう、これやってみないか? こうやって日本の文字に、日本人のやり方で親しんでいくんだよ」
「やるって、どうやんだよ」
「紙も墨汁も近くの100円ショップに売ってるんだな」
 公園からその100円ショップまでは歩いて20秒もかからない。スーパーと店舗が結合しており、手前側に食品群、奥に100円商品が犇めいている。ポケットに手を突っこみ、アズーズは少しソワソワしている。その理由はよく分からない。文房具コーナーで簡単に半紙と墨汁、そして筆が見つかった。それを抱え、ついでにコカコーラ700mlボトルも買って、スーパーを出る。
 そして英冴は自身の部屋にアズーズを招待する。そういえば柚良以外の親しい人物をここに迎え入れるのは初めてだ。ほとんど英冴の方が友人の部屋に行く形で、ここまでやってくる人物は少ない。
「お前もコンマリ信者か? スパークジョイの成れの果てみてーな感じだ」
 そう言われ、英冴は笑う。確かに部屋には必要最低限のものしか置いていない。部屋自体は狭いのだが、物のなさによって“妙に広い”という感覚がこの空間には満ちている。部屋がゴチャゴチャしている柚良は“ブキミ”とここを評する。だがここの床に寝転がり、英冴と長い間キスしているのが彼女は好きだとも言う。
 早速、床にゴミ捨て場から拝借した新聞を敷いていき、習字を始める。
「まず、手本見せるよ」
 そう言ってから、自分の名前である英冴を“ひでさえ”とひらがなで書いていく。習字をやるのは中学生以来だった。その時は鉛筆を使うよりも、手が奇妙なまでに震えて、うまく書けなかった。“肥ったヒルの死体”と友人に言われたが馬鹿にされたとは思わない、納得の比喩だった。そして今、やはり手が震える。何故か筆を持った途端に腕が制御を失ってしまうのだ。震えはとても軽いものだが、それを敏感に感じとるように“ひでさえ”という字は、惨めなふやけ具合を見せる。
「いや、久しぶりだからうまく書けないわ」
 これは嘘だ、この墨の字はあの頃と全く変わっていない。
「じゃあ、アズーズの名前も書いてみるよ」
 そう言って、英冴は“アズーズ”とカタカナで書いてみせる。人の名前ゆえに先よりも体裁が整っているように思えた。横を見ると、しかしアズーズは納得いかないといった表情を浮かべていた。
「どうした? 俺の字、ダメかな」
「いや……こういうカタカナってさ、アレだろ、“ガイジン”の名前書く時のやつだろ。まあもちろん俺は“ガイジン”なんだが、露骨にそう扱われるとそれはそれで何か微妙なんだよ」
「ああ」
 英冴は今、そうとしか言えなかった。初めて触れる考えだったからだ。名前における、ひらがなとカタカナの使い分けなど考えたこともなかった。確かに外国人の名前はほとんどカタカナで書く。だが思考を巡らせるなら、日本人の名前も漢字が分からない時はひらがなよりカタカナで書くことが多いのではないか。とはいえ日本人の名前は、元はほとんど漢字が前提としても、ひらがなとカタカナならひらがなで書いた方がしっくりくるようには思う。カタカナには、何か距離感がある。ひらがなはここより内側のものを示し、カタカナはここより外側のものを示すとでもいった風に。
「分かった、じゃあこう書こう」
 英冴は半紙に“あずーず”と書く。
 そしてしばらくあずーずはこの文字を見据えていた。
「今度はヘタクソすぎ?」
 英冴がおどけて言ってみせると、あずーずは突然筆を持って、自分の前の半紙に“あずーず”と書いてみせた。これが驚くほど端正で、美しいものだった。自分の“あずーず”は相当丸っこく、ひらがなの生来的な曲線的性質が、悪い意味で誇張されたような滑稽さがある。だが彼の“あずーず”はまるで山間をうねるように流れる清流のような、洗練がある。初めて筆で字を書いたとは思えない。ビギナーズラックだろうか。いや、その偶然性など越えている美がここには在るとそう英冴は思った。
「何か……いい感じじゃないか?」
 あずーずが不敵な笑みを浮かべるが、それが調子に乗っているとは思えないほど、その字は堂に入っていた。
「いい感じだよ、マジで。いや冗談じゃなく、すごい上手い」
「ウツクシイ!」
 あずーずは日本語でそう言ってみせる。今、この言葉が英冴の鼓膜を震わせた時、カタカナがその頭に浮かんだが、この分ならすぐにひらがなとして響き、そして普段日本人が表記するような“美しい”として現れることになる、そう彼は確信したんだった。

 この時から、英冴はあずーずと会うだけでなく、頻繁に部屋で会って、習字をやるようになった。酒を飲んで会話したり、Netflixを観たりする代わりに、墨で文字を書いて楽しんだ。英冴がわざと“鬱”だとか“龍”のような、相当画数の多い、墨で書くには難しすぎる漢字を書いていくと、あずーずは様々なフランス語の文章を半紙にブチ撒けていった。ほとんど意味が分からないが、意味を聞いた後にはあずーずの背中を叩いて爆笑する。
 そして習字で日本の字に親しみ始めたからか、あずーずの日本語は加速度的にうまくなっていく。それは接客や挨拶がうまくなったという意味だけではない。ラーメン屋に寄ると、彼が常連客たちと仲良さげに話す場面を何度も目撃するのだ。
「いやいや、そこまでではありませんよ」
 これは英冴が彼に教えたものだ。“日本語、上手だね”と言われた際にこの謙遜の言葉を口にするなら、今度は“ほら、それもう日本人だよ”という言葉が嬉々として返ってくると彼に教えたのだ。これは外国人に対する日本人の習性だと、英冴は思っていた。日本語の改善と同時にミスなども少なくなり、その生来の陽気な気質からあずーずは客たちから人気を獲得していく。英冴との関係性もより深まっていき、頻繁に日本語で話すようにもなった。
 一方、今でも眼鏡と鉢合わせすることはあり、態度の悪さも変わることがない。だがあずーずのミスが減るのと反比例して、眼鏡の手際は錆びていき、ミスも徐々に増加する。ある時、英冴は彼が初めて客に文句を言われる場面に遭遇した。その謝罪はそっけない、唾を吐き捨てるようなものであり、食べていた味噌とんこつにそれが入ったような気分にすらなる。だが眼鏡が叱責されたことには、素直に喜びを感じた。彼の態度は老人の関節さながら硬化していき、態度の悪さもエスカレートしていく。その最中、英冴はむしろラーメン屋で彼と鉢合わせしたいとすら願うようになる。客たちの不信に満ちた視線を眼鏡が喰らわされる風景は、もはや無料のトッピングのようだった。
 いや、こいつ絶対クビにされるだろ。
 ラーメンを勢いよく啜りながら、英冴はそう思う。
 この予測通り、ある時点から眼鏡をパッタリ見かけなくなる。あずーずに聞いてみるが、彼のことについては知らないという。だが数日間全く見かけない故、実際にクビになったのだと溜飲をさげ、内心ほくそえむ。代わりに店にやってきたのが、あずーずの友人だというアラブ人あてぃだった。店で彼に紹介されるのだが、やってきた頃のあずーず自身を彷彿とさせる片言の日本語が微笑ましい。しかし元気や陽気さは彼以上のもので、あずーずを通じて客と仲良くなると、すぐに友情を深めていくのだ。コロナ禍で喋ることを躊躇わざるを得ない状況で、それでもあずーずとあてぃのおかげで、店には活気が舞い戻ってきたようだった。常連客の1人として、英冴はこれを心から嬉しく思う。

 英冴とあずーずはラーメン屋から30分ほど歩いた場所にあるショッピングモールへ足を運ぶ。ここの屋内広場で習字フェスが行われていると聞いたからだ。
 天窓から冬の日差しが差しこむ空間、そこに様々な文字が所狭しと並んでいる。中学生の字はなかなか微笑ましいもので“希望”や“よろこび”、“輝き”といった未来への言葉が、少しの拙さを感じさせる形で描かれている。それを見ている時のあずーずの眼差しは、彼らの父親のようだった。だが書道部の字となると話が変わってくる。縦長の半紙に規則正しく漢字が並ぶ。それはうねるような字の時もあれば、土を潜航する草の根のような字の時もある。英冴の頭には“楷書体”だとか“草書体”という言葉が浮かびながら、どれがどれであるかは全く判別がつかない。
 中でも圧巻だったのは近隣の女子学院の書道部が書いた巨大な書だ。真っ黒な紙をはみ出さんとするほど、黄金の墨で“飛翔”と書かれているのだ。勇猛果敢とは正にこの字であり、実際に今にも飛翔し、天窓を突き破って空へと旅立つ様が自然と頭に浮かぶ。あずーずも魅了されたようで、この字の前で10分もの間、立ち続けていた。
 そして社会人の部というコーナーも存在したが、目を引いたのは外国人が書いたらしい書だった。半紙の墨にたおやかな文字で“マルギタ・グロゼヴァ”というカタカナが書いてある、名字に“ヴァ”がつくのでおそらくロシア人女性だろうと、英冴は何となく思った。彼女の“愛”という漢字は強靭であり、弩迫なまでに太い。だが線の流れはむしろ刃の一閃さながらに鋭いものだ。この字は相反する要素を抱きながら、それらを1つに纏めあげる、そんな剛の力を持ち合わせたような字だと英冴は思わず魅了された。
「おれ、これ一番好き」
 あずーずが言った、日本語でだ。
「さっきの飛翔じゃなくて?」
「ひしょうってどれ」
「あの金色のデカいやつ」
「ああ、あれもデカい、カッコいいね。だがこっちがいいよ。美しいね」
 あずーずは“愛”の写真をスマートフォンで撮影する。
「おれも、こういう字が書けるようになるたい」
「なりたい、だよ」
「おお、ありがとう」
「なれるよ、ずっと日本語勉強して、書き続ければさ」
 英冴はそう言ってから、あずーずと肩を組む。

 家に帰る。柚良がベッドで、安らかな寝息をたてながら眠っている。この空間にいるだけで彼女のかすかな匂いを感じ、嬉しくなって叫びたくなる。だが彼女を起こしたくないので、もちろんやらない。
 座椅子に腰を落ち着け、適当にニュースを見ていると、ある記事を見つけた。ある中年男性がコンビニに押し入り、立て籠っているという。場所は隣町なのでかなり驚いた。あのショッピングモールから歩いて10分もすれば辿りつく位置だ。記事についていたニュース動画を観てみる。外からガラス越しに、店内の様子が隠し撮りされている。不安定なカメラワークで切り取られる風景、そこで男が小さなナイフをやたらめったらに降り回していた。彼は眼鏡をかけていた、眼鏡。心臓を握り潰されるような衝撃を受ける。英冴には、彼があのラーメン屋の店員にしか見えなかった。具体的にどこが似ているだとか、それを説明できる訳ではない。だが直感で、この男が眼鏡だと既に確信している。厭な気分になって、スマートフォンの電源を切って、鞄に突っこみ、自分の目から見えないようにする。そして顔をあげると、部屋がいつもより広いように思える、徐々に拡大しているような錯覚を覚える。柚良の横たわるベッドが少しずつ遠ざかるような気分になる。英冴は急いで洗面所へ行き、冷水を顔に何度も何度もブチ撒ける。
 いや、見間違えだろ。あれは完全に見間違えだ。俺は眼鏡かけた男が全員あいつに見えてるだけだ。ソウニキマッテルダロ。
 何故か最後の言葉だけが片言に響いた。
 英冴が部屋に戻ると、いつの間にか柚良が目覚めている。彼の姿を認めると、立ちあがって、頬にキスしてくる。
「おかえり、冴っち」
 キスの感触も、鼓膜を揺らす響きにも違和感がある。
「なに、どうしたの、様子へんだよ」
「えっ、いや、いやいや、別に何でもない」
「ラーメンいっしょ食べにいく?」
 柚良がそう言うので、体が震えた。
「そういえば、あのラーメン屋、ガイジンの店員さん増えたね」
 そんな言葉が不穏に響いた。
「は? 何だよ、別にいいだろ。何かアレか?」
 軽さを装いながら、英冴はそう尋ねる。
「ううん、別にそういう訳じゃないけど」
 その後、少しの沈黙を経て、柚良が言葉を続ける。
「冴っちの家行く時さ、駅の近く通ってる時、店の裏の道で、あのラーメン屋の店長が誰かと話してるの見かけたんだよ。なーんかいやな雰囲気でさ、いやな笑顔浮かべてんの、だから気になって、すごいゆっくり歩きながら話聞いてやろうと思ったんだよ。そしたら何て言ってたと思う? ガイジンは日本の金銭感覚が分からんから、最低賃金以下で雇ってもバレないから得してる、東南アジア人は最近知恵つけはじめてるけど、あいつらはまだまだ大丈夫だな……そういうこと言ってたんだよ。何か、やばくない?」


 友人の家に行こうと、駅へ向かう。途中でラーメン屋の前を通る、定休日なのに中には人で溢れていた。そこではささやかなパーティが開かれている、数人がサンタの赤い帽子をかぶり、マスクもなしにはしゃいでいた。そのなかに、あずーずがいた。あてぃもいた。他にも彼らと顔立ちの似た人々がいた。クリスマスだった、だがアルジェリアの人々はこういう風にクリスマスを祝うのか? そう思った。祝わされているのではないか? いや、そもそも“とんこつ”は大丈夫なのか? 急に全身から冷や汗が吹き出す。そこに男が現れる、店長だった。彼はラーメンで満たされたどんぶりをあずーずの前に持っていく。彼は席に座って、そのラーメンをズルズルと食べる。彼がラーメンを食べるのを見るのは初めてだった。勢いよく啜った後、あずーずは目をこする。泣いているのか、泣いているのか? 横で店長があずーずの肩を叩く。そして握手をする。
 英冴はそれを密かに見ていた。というより、ただその場から動けないだけだった。あずーず、英冴はそう思う、俺は。だがその先が続かない。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。