コロナウイルス連作短編その175「男ってのをもっと楽しんでこうぜ」
セックスの後、前橋近江は横に寝転がる早稲田ニーナの背中を見ている。彼女は自分に背を向けながら、スマートフォンを操作している。少し腰を浮かせれば、液晶画面に何が映るか確認することはできるだろう。
その気は全くない。
「この前、おじいちゃんとZoomで話したんだよね」
唐突にそう言い出すので、近江は少し怪訝に思う。
「おじいちゃん、もう90過ぎなんだけどネットとか使いまくってて、時々孫にテレビ電話かけてくんの。それで私もおじいちゃんと話してた。最初は普通に『調子どう?』みたいな話してたのに、急に昔のこと話し始めたんだよ」
シーツから覗く肩甲骨が痙攣するのを、近江は目敏く捉える。
「おじいちゃん、ニジェールってアフリカの国出身なんだけど、若い頃はまだフランスの植民地だったらしくて……いや、もう独立してたんだっけ、忘れた……それで何かインドシナ戦争っていうのに参加して、ベトナム、だっけ、東南アジアの方で戦ってたとか、何とか……」
近江には、何故そんなにも唐突に私的な家族史をニーナから共有されている理由がハッキリしない。セックスの後の会話としてこれほど似つかわしいものはないと思える。それでいて話し方は曖昧で、いっこうに要領を得ない。この内容と形式の乖離が、妙に鼓膜へこびりつく。
こいつ、俺の恋人面か?
そう思うと、少し苛立つ。少なくとも、こうした個人的な話を打ち明けていいと感じるほど自分との距離感を詰めたと、ニーナがそう認識していることに敗北感を抱く。これは恥だ。
そしてまた突然、ニーナが立ち上がる。動くと、濃厚な匂いが埃のように湧きあがる。黒人は体臭がキツい、このステレオタイプにはそれ相応の理由があると近江は思い始めている。火のないところに煙は立たない、と。
彼女は脱ぎ散らかした服を身につけていく。ショーツを履いたと思うと、ブラを着ける。不思議なのは装着するとなると、明らかにニーナの胸部が小さくなったいう印象を抱くからだ。“巨乳”という近江にとってニーナの要素の1つが、一瞬にして雲散霧消する。なにか奇妙だ。
とはいえ理由は分かっている。ニーナが身につけるミニマイザーブラと呼ばれるブラは、胸部を物理的に小さくする機能を持っている。大きな胸は様々な意味で日常において邪魔になり、ファッションにおいても調和を乱す。ゆえに胸を小さく形成し直すミニマイザーブラを重宝する女性たちがいる。ニーナもその1人らしい。
だがその力学的な原理はよく知らない。胸の脂肪を背中に受け流すなどの説明をニーナから聞いたことはあるが、よく覚えていない。正確に言えば覚えようとしていなかった。“おっぱい”であるとか“巨乳”という概念を無邪気に楽しむために、そういった知識はむしろ邪魔だ。
だが近江にとって滑稽なのは、セックスの際に大きな乳房を平手打ちにされて喘いでいる人間がそういった大きさなどを気にしていることだ。
黒人なんか巨乳見せつけまくって、男の視線浴びまくって悦に浸るタイプの人種じゃねえの? セックス・ポジティブだとか何とか。
納得のいかなさが、彼の口許にせせら笑いを浮かばせる。
シャツを着た後に、ニーナが電気を点けようとする。一度明かりがつくのだが、すぐに明滅を始める。電球の寿命が近いらしい。
「ねえ、これ変えてよ」
ニーナが電灯を見ながら言った。近江の方は見ていない。
「は、何で俺」
「電球変えんのは男の仕事でしょ」
「は? お前の部屋だろ、自分でやれよ」
「“電球 女”でググると“女は電球も変えられない”って出るよ、はは」
「それがどうやって“電球変えるのは男の仕事”になるんだよ?」
黒人女性とのセックスはレアゆえ深く入りこみすぎた、そう近江は思う。
もう潮時だ。
近江は地下鉄に乗り、自身の家ではなくバイト先のコンビニへ向かう。
最初は適当にスマートフォンを眺めている。カンヌ国際映画祭で日本の監督の作った韓国映画が何らかの賞を受賞したというニュースを見掛ける。どうでもいい。ヨーロッパから送られた新しい武器でウクライナ軍が、ロシア軍へと反撃に打ってでるらしい。どうでもいい。
だがイーロン・マスクが元恋人のアンバー・ハードとその夫ジョニー・デップのDV裁判に言及というニュースは見逃せない。マスクはどうでもいいが、裁判の進行からは目が離せない。
多大なるDVを受けながら皆からむしろ加害者として扱われてきたジョニー・デップがあまりにも可哀想だと、近江は同情せざるを得ない。斯く思う近江自身も最初はデップもハリウッド俳優によくいるDV加害者の1人と断じ、子供の頃に楽しんだ「チャーリーとチョコレート工場」や「パイレーツ・オブ・カリビアン」の思い出すら汚されたと反感を抱いていた。だが真相が明らかになっていき、デップがむしろ被害者であると分かってきて、近江はメディアに乗せられデップを軽蔑してきた自分を反省せざるを得なかった。男性もDV被害者になりうる、この単純な事実に思い至らなかった自分は軽薄な人間だと。
だが他のニュースはどうでもいい。映画版「呪術廻戦」の興業収入が137億円を達成。どうでもいい。ゲーム開発の長期化が生み出した弊害。どうでもいい。
並んだ情報のくだらなさに辟易し、顔をあげる。周りには、当然マスクをした乗客たちが静かに座りながら、思い思いのことをしている。男女比は1:1ほどだろう。老婆、スーツ姿の若い女性、茶髪の中年女性……
ふと、彼女たちもニーナのようにミニマイザーブラを装着し、胸を小さく見せているかもしれないという可能性に思い至り、自分でも少し驚く。女性乗客の胸部を1つずつ凝視していくが、もちろんどんなブラを着けているかなど判別は不可能だった。
メイクで顔をごまかすに飽きたらず、胸の大きさまでごまかしてんだな。
そんな言葉が頭に思いうかびながら、我ながら荒唐無稽に過ぎる被害妄想だと嗤わざるを得ない。だがこの被害妄想が、逆にブラで胸部を大きく見せているという時には抱くことはなかったと気づく。少なくとも“ごまかしている”などと思ったことはなかった。
もちろん、セックスにあたって服を脱がせると胸部が見た目や予想に反して小さかったということは何度もある。それでも落胆はしながら騙されていると感じたことはなかった。それは当然あることとして受理していた。
だが今は確かに“ごまかされている”と、妄想とは分かっていながら、周囲の女性乗客に対して感じている。かなり、不思議な心地だ。
それでも、しばらくしてまた別のことを思った。
いや、でも逆に脱がせたら巨乳でした、みたいなのが増えれば、それはそれでおいしいよな。
しかし当のミニマイザーブラ当事者であるニーナに対し、そんなことを思った覚えはない。自分の知覚が、自分自身でもよく理解できていない。
結局、深入りするのは面倒ゆえ、近江はまたスマートフォンに視線を向ける。
バイト先のコンビニに着く。まず会ったのは後輩店員である橋本奉賀だった。
「よっ」
こう挨拶すると、彼は小さめの声で「こんちわっす」と言ってきた。
近江は奉賀のことを気味が悪い人間だと思っている。
今流行りのトランスジェンダー、しかもトランス男性。そういった認識だ。
チヤホヤされる女性から、何を好き好んで男になりたいかが全く理解しがたい。ジョニー・デップの事件を見てもそうだ。例え夫に暴力を振るえども“多くの女性は男性からのDVに苦しんでいる”という社会通念を利用し、悲劇のヒロインを気取れば、ある程度までは人を騙し通せる。ハードはあまりにも邪悪すぎるがゆえ結局悪事が白日の下に晒されながら、他にハードのように男性を搾取し、苦しめる存在は多くいるはずだ。そういう社会における被害者にむしろ自分がなりたいと思う元女性がいるのが、近江には理解しがたい。
奉賀はその理解しがたい存在の1人らしい。そして近江は、彼の姿には明らかに、それゆえの中途半端な女っぽさを感じ、背中にゾワゾワするものを感じる。気味が悪いのだ。だがその源がどこであるかを明確に説明することができない。短い髪、小綺麗な顔立ち、矮小な体躯。判断の理由としてこういった要素を取り敢えず挙げることができるが、しかしその先を説明しようとしても、言葉が出てこない。これで余計に背中がゾワゾワと怖気で震えるのだ。視界に入ると、不愉快になる。
それでいて奉賀は、後輩とするにはすこぶる都合のいい存在だった。
例えば重いものを運ぶ必要がある、例えば機械が不具合を起こしている。そういった時にちょうど奉賀がいるならば、彼を呼びつけて、ある程度冗談であることを匂わせながら、こう言えばいい。
「男なんだから、こういう重いもん持ってってくれ」
「機械いじりは男の嗜みだから、ぜひ直しといてくれ」
こういう風に仕事を押しつけると、奉賀は文句も言わず、勤勉にそれを担ってくれるので、都合がいい。そういう時の、妙にテンパりながらも、内心少し興奮しているといった落ち着きのなさは、何度目の当たりにしても傑作だと、そう思える。スマートフォンのビデオに残しておきたいほどだ。酒の肴にちょうどいい。
そういう内心での弄りを知ってか知らずか、奉賀も時折楯突いてくる時がある。
「いや、先輩も男なんだから、先輩がやってくださいよ!」
この言葉のトーンも、やはり冗談めいている。こういった時はあまり食い下がらず、自分で仕事を行う。それでも毎回、心のなかではこう言うことにしている。
ああ、まあ結局女なんだな、お前は。
とはいえ、絶対に内心に留めなくてはならない言葉だとも理解している。これは冗談として見なされることはない、“ミスジェンダリング”などという軽薄な横文字として批難されることは目に見えている。
これも今の流行りだ。先日もどこかでトランス女性がセクハラされた際に“男なんだからこれくらい大丈夫だろう”と言われたというニュースを見た覚えがある。これで更なる批判が巻き起こった。実際は記事の見出しとTwitterの反応しか見ていないので、詳しくは知らないが。
近江はこういった旧態依然の人間とは違うと、一線を引いている。こういう時代遅れの無能を反面教師として、もっとスマートに差別をしていかなくてはいけないと彼は野心を抱いている。時代の趨勢を読みながら行使する差別こそが、新しいクールネスなのだと。
近江はレジに立ち適当にダラダラとしながら、逆に勤勉に働く奉賀の姿を眺めている。
ふと、奉賀は男性として生きるにあたって胸部をどう扱っているかを疑問に思う。そして必然的に、あのミニマイザーブラが思いだされた。
そうか、もしかしたらアイツも胸を潰すとかそういうののために、さらしを巻くんじゃなくてミニマイザーブラなんか着けてるかもしんないんだな。
今、奉賀は小さなフードコートの床をモップで拭き掃除している。腰を曲げ、グッと力を入れながら、もはや床の汚れをこそぎ落とすといった勢いで、熱心に掃除を行っている。
奉賀は勤勉な人間だった。
おっぱいつけながら男やるなんて、いやはや涙ぐましいよ、泣かせるねえ。
そして掃除を終えた奉賀がレジにやってきて、近江の隣に立つ。しばらく無言の時間が続く。
と、客が入ってくる。2人でいらっしゃいませと言う。彼女はすぐにレジにまでやってきた。右手にコーラを持っている。近江がレジを担当し、一瞬で彼女はコンビニから出ていく。
「あの客」
近江が言った。
「めっちゃおっぱいデカかったな」
そう続けると、奉賀は「えっ」と間の抜けた声をあげる。動揺していた。
「いや、そういう話とかは……」
滑稽なまでの動揺の色に染まりながら、奉賀はそう口ごもる。
「なに、お前も女性のこと性的に見るのは女性差別とかいう派のやつか?」
「えっ、えっと……」
まあ、本当はお前も女だしな。
これは当然、近江の頭にだけ響く言葉だ。実際に発してはいない。
「いや、でもさ、性的な何かって、そりゃアセクシャルとかもいるから皆じゃないけど、抱いちゃうの割りとあるだろ。性的に見ちゃうのなんか避けられるわけないし、むしろそういうの自分でダメとか思っちゃうと、犯罪に走るとかあるあるだろ」
近江は奉賀にそう言う。
「あんま表に出すべきじゃないっていうのはまあ分かるけどさ、時々こういう“おっぱい大きかったよな”とか言ってもよくないか? しかも今は俺とお前だけじゃん、ちょっとくらい男の話をするってのダメか?」
近江は奉賀にそう問いかける。
「腹割って話すとかじゃねーけど、こういうくだんねーこと共有すんのが絆深めるっていうのも、時々あると思わん? 何て言うか、男子校のノリ、みたいな」
近江は中高一貫して共学に通っていた。男子校出身の友人は1人もいない。
「今なんか、男であることは悪だとか呪いだとかさ、そういうの流行ってるけど、意味分かんねーよな。俺もそうだけど、そういうの、お前が一番思ってない?」
近江はもう一度、奉賀にそう問いかける。
「いいだろ、ちょっとくらい男であることに開き直っても、罰は当たらねえよ、なあ?」
近江は奉賀の黒い、短い髪を凝視する。違和感の塊だ。
「俺は……」
奉賀が口を開く。
「……小さいおっぱいとか好きです」
奉賀がそう言ってくれて、近江は嬉しくなる。
「おいさっき『いや、そういうのは』とか言ったの、もしかしたら貧乳好きだからだったの? 俺、シリアスな発言して、バカすぎんだろ!」
そうして爆笑しながら、奉賀の肩を叩きまくる。
バン!
バン!
バン!
「よっしゃ、これからもっと男ってのを楽しんでこうぜ」
こう言うと、奉賀は笑いながら頷く。今まで語尾に“ぜ”なんてつけたことがあったか思い出せないが、それはそれとして、近江はもちろん、この後に心のなかでこれを付け加えるのを忘れない。
まあ、お前は女だけどな。
私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。