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コロナウイルス連作短編その166「やわらかなるこころで」

 妹の江嵜フェルナンダがコーラサワーを一気に飲む。兄の江嵜優弥が少しずつ日本酒を啜るなかで、彼女はゲップをした。空気を抉ったかのような派手な響きだった。
「いや、ほんと兄さんと会うの久しぶりだね」
 フェルナンダが感慨深げにそう言うが、優弥はそこまでの思いは抱いていない。確かに実際に会うのは久しぶりだ。2019年に1回会って、その後はコロナ禍で自然と距離が離れた、肉体的にも精神的にも。LINEを通じては何度か話していたが、それだけだった。優弥としてはそれで十分だった。しかしフェルナンダの方はそうでなかったかもしれないと今思う。久しぶりに会いたいと言ってきたのもそれが原因かもしれない。罪悪感が込みあげてきた。親指が痛み始める、まるで罪悪感と疼痛に相関関係でもあるように。
 フェルナンダは焼鳥を頬張りながら、大量の酒を口に、胃に、腸にブチこんでいく。明らかにペースが早い。優弥は少し宥めようとするが、彼女は半笑いでその忠告をかわしていく。そして一方的な近況報告が始まるが、それはただただ介護士としての日々への呪詛だった。重労働、セクハラ、人種差別、そして糞便。老人の尻穴から垂れ流される糞便、部屋の床にブチ撒けられた糞便。彼女は介護士という職業と糞便を優弥のイメージにおいて紐付けしたいという風に、延々と糞便について話していた。
「おい、メシ食ってる時にそういう話止めろよ」
 優弥はそう言うが、フェルナンダは本当に親しみ深い笑顔を浮かべながら、糞便について話し続けた。自然と彼は耳から侵入してくる言葉を遮断して、他のことを考え始めている。パリについてだ。
 コロナ禍のこの2年間、まともに東京と千葉以外を出たことがない。彼は税理士として、妻の藍はロボット工学者として忙しのない日々を過ごしており、首都圏外へと旅行に行く余裕すらもあまりなかった。更に少し前に妻の妊娠が発覚し、今や旅行をする気もなくなった。
 幸せだった。それでもどこかへ旅行に行きたいと妄想するだけなら、罰当たりではないだろう。今はシンプルにパリへ行きたい。旅行客にとってお馴染みの観光地を堂々とめぐりたい。エッフェル塔を見に行きたい。凱旋門を見に行きたい。ポンピドゥーセンターを見に行きたい。そういう素朴な欲望を叶えたい。
 だが糞便の話が否応なく耳に入るうち思い出すのは、昔のパリでは窓から排泄物を路上へ投げるのが当たり前だったという、下らないバラエティ番組で見た情報だ。町が排泄物で悪臭を放っていたなら、絢爛たるヴェルサイユ宮殿は更にひどい状況で、便器から染みだした糞穢が壁を伝って他の部屋にまで侵入し、無惨な状況が広がっていたそうだ。トイレの設備も耐え難いもので、時には貴族や使用人たちは庭で排泄を行わなくてはならなかったらしい。そんな情報が脳髄で細菌さながら増殖を遂げ、優弥は厭な気分になる。
 自棄になって焼鳥を一気に喰らうが、瞬間には脂がボディブローのように効いてくる。八方塞がりという気分だ。
「そういえばさっき読んでた本、なに?」
 フェルナンダがそう尋ねてきて、我に返る。
「さっき読んでた本ってどれだ?」
「ボケてんの、待ち合わせ場所にいる時読んでたやつ」
 嗚呼と優弥は自身の鞄から本を取りだす。少し大きめの、色使いが豊かな本だ。
「これ、藍が書いた本なんだよ」
 そう言うと自然と笑みが込みあげてきてしまった。
「子供向けのさ、ロボット工学の本だよ。児童書とか出してる出版社から依頼されて、書いてたんだ。まあ、だからロボット工学の入門書みたいなもんだよ」
 優弥は本をフェルナンダに渡すと、彼女は酔いで震える指で受け取ってくる。
「お願いだから、ゲロとか上に吐くなよ」
「へいへい」
 フェルナンダが気の抜けた返事をする。瞼が鈍重に吊りさがっており、吐瀉物ではなく頭を本に埋めてしまいそうだった。その姿が、子供の頃の彼女を彷彿とさせて懐かしい。彼女は確かに自分の妹だと優弥は思う。例え母親が違っても自分の妹だ、その文章の後へいつものようにそう付け加える。
「これ書いてる前後、俺たち子供が欲しいと思ってたんだよ。でも……こういうコロナ禍で、世界中で人が死んでる時、そういう時代に子供生むってアリなのか?とか色々考えてたんだ。その時に藍のところに執筆の依頼が来て、子供向けの本書き始めたんだ。その間に色々話したよ、子供を作るべきか否かみたいな。彼女は最初子供が欲しいけど作るべきじゃないって考えで、でも書いてるうちに少しずつ考えが変わってきて、それで作ることにしたんだ。そしたら、本の発売日に妊娠が発覚して……何か感動しちゃったよな」
 鼻が少しつーんとする。自分でこう言って自分で感動していると気づいて、思わず苦笑する。
「兄さんも丸くなったね」
 フェルナンダが言った。視線は本に注がれたままだ。
「何だっけ、パンセクシャルとか何とか。男と付き合ったり、女と付き合ったり、よく分かんないやつと付き合ったり、そういうカッコいい生き方してたのに、今じゃ1人の女とくっついて子供まで生むんだね。つまんねー」
 フェルナンダはしゃっくりするように笑った。そして焼酎の水割りを飲む。
「お前、妹じゃなかったら殴ってたぞ?」
 かなりの部分、本心だ。俺の気持ちも知らない癖に、そうは言えない。
「殴りゃいいじゃん、ムカついたなら。別に殴られても仕方ないこと言ってんのは分かってるしね、今の時代なら特に」
 またしゃっくりのような笑いを響かせる。
「ねえ、このソフトロボットって何?」
 先の発言などすっかり忘れたように、こちらに本のページを見せながらフェルナンダがそう尋ねてくる。
「……ああ、ロボットって鉄とか硬い物質でできてて、だから硬くて精密で、人間にはできない精密作業やら、人間は立ち入れない場所での災害救助やらに特化してるだろ。だけど人間とか動物みたいな柔軟な、臨機応変な動きができないっていう欠点がある。ソフトロボットは今までとは逆にそういう柔らかさに着目したロボットなんだよ。関節がゴムとか、他にもしなやかな化学物質とかでできてて、だから緩やかに曲がったり、タコの足みたいに巻きついて物を掴んだり、あと人間を受け止めて抱きしめて、そういう優しい動きができるようになる。ほら、ディズニーでも『ベイマックス』ってモチみたいなロボットの映画あったろ、れだい。藍の研究もこれがメインなんだよ、実は。まあ、まだ発展途上の技術だけどね」
 頭には、このソフトロボットについて唾を飛ばしながら力説する藍の姿が浮かぶ。彼女の視線の先には自分がいて、いてもたってもいられずに、ベイマックスのように彼女を抱きしめる。藍は恥ずかしげに笑う。
「そう、ソフトロボットって将来は介護業界にも導入されるのが期待されてるんだ。介護って体の存在がすごい重要になってくる職業だろ、何というか触れあうことがケアって感じのやつだ。そういうのロボットにはできないって言われてたけど、でもソフトロボットはそういう不可能も乗り越えるポテンシャルがあるロボットなんだよ。実現すればお前の仕事も楽になるよ」
 藍がまだ笑っている。
「じゃあ、あたしはお役御免で無職なわけだ」
 フェルナンダは笑った、しゃっくりのようではない。
「えっ、いや別にそういうことじゃない。ロボットと人間で共存するんだよ」
「前さあ、AIの本、立ち読みしたんだよ。何でだっけ、忘れたわ。そこに将来にAIとかロボットの台頭で無くなる職業のリストがあって、読んだ。兄さんの税理士は筆頭で無くなる候補らしくて、ぷぷーってなったんだ。いや、兄さんの不幸を喜んでるとかじゃないよ。でもぷぷーって。それで介護士の仕事について見たら、ロボットには難しいからすぐにはロボットに奪われないって書いてあって、やった!とか思った。何か初めて兄さんに勝った気がしたよね」
 フェルナンダはまた一気に酒を飲み干す。
「でもそのソフトロボットとやらが実現したら、介護士の仕事も取られちゃうわけだね。じゃあもう全部じゃん、まあ風俗とかは肉喰いたいとか、ロボットじゃなくて生身の女傷つけたいとかあるし変わらないかもだけど、でもそれ以外は全部ってことだね。もう人間いらないじゃん。兄さんは仕事なくなっても、他ならぬロボット工学者が奥さんだから主夫になっても大丈夫だろうけど、じゃああたしどうなんのかな、ははは」
 フェルナンダはそう言って、こちらに手を伸ばしてグラスを掴み、日本酒を一気に飲んだ。
「そりゃ誤解だよ。そんなん、人工知能がシュワちゃんみたいに襲ってくるってターミネーター馬鹿の戯れ言と同じだ。そうはならない、ならないよ。人間とロボットはもっといい関係を築いていける。大丈夫だ」
「どうしてそう言い切れるの?」
 この質問が来るのは分かっていたが、答えられるほどの知識を持っていないとも言わざるを得なかった。
 所詮、優弥は妻に影響されてロボットに興味を持った初学者でしかなかった。それでも“そうはならない”と言ってしまったのは、藍のあの笑顔を汚されたくなかったからだ。
「ま、答えられんよな」
 フェルナンダの顔は真っ赤だった。泣いてはいない。
「じゃあね」
 彼女は唾を吐くようにそう言うと、立ち上がり店を出ようとする。
「おい、ちょっと待てよ」
 優弥も立ち上がり、引き留めようとその肩を掴む。
「さわんなよ、あたしの気も知らないくせに」
 優弥を振り払おうとする手の甲が、彼の手でなく、頬に当たる。
 瞬間、自分は右手で妹の頬を殴るだろうと思った。
 かなり脊髄反射的な反応で殴るだろうと。
 しかし不思議と物事について考える余裕がある。何故だか時間が過ぎていかない、まるで時間が噛んでグニャグニャになったガムのように伸びているようだ。優弥は時間を無数の点の集積だと感じていたが、今はひとつづきの長い空間のように感じた、だがこの空間は1つの点と変わらない、つまりより明晰な感覚によって点を観察する時、点はこういった空間のように感じられるということだ、であるからしてフェルナンダが点として感じている時間の一瞬を、優弥は空間というより延長されたものとして体感している、そうか、ドラゴンボールに出てくる精神と時の部屋みたいなもんか、優弥はそう思った、だが不思議なのは、もう既に自分が右手で妹の頬を殴るということは確定事項として定まっており、時間がそれに向かって収斂していくように感じているということだ、ある種の未来予知であり、それでいてここに至るまでにこの確定事項に関して思考することを何者かに許されていた、奇妙な特権が与えられたと、優弥は思った、この特権の拠り所とは一体何か、彼はしばらく考える、すぐに、とても凡庸なものが思い浮かぶ、自分は男性だからだということだ、男性は、やはり社会において特権を持っている、より高位の存在として生きる特権を持っている、これが分かっていない人間には、分からせる必要がある、そのお達しを受けたと優弥は理解した、妹に対してこの使命を果たすことを何者かに任じられたと、社会において男性にはこれこそが望まれている、言葉で説明することは無駄だ、剥き身の肉によって理解させることこそが望まれている。暴力はもはや避けがたい。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。