コロナウイルス連作短編その28「一緒に生きていこう」

 柿沼宥は深夜になっても眠ることができない。彼は溝に蟠るヘドロのようにしつこい不眠症に冒されていた。彼の横では同性の恋人であるショーン・エルナンデスが眠っている。彼の寝顔はとても安らかなものであり、春の陽気のなかで昼寝をする小鹿を彷彿とさせた。宥はショーンの頬をそっと撫でる。彼の肌は男らしく、山道に転がった岩のように粗いものだ。しかしその堅さがとても愛しかった。それと同時に容易く眠りを貪ることのできるショーンを羨ましくも思った。
 宥は台所へと赴き、冷たい水を飲む。冷ややかさが口の肉を突き刺す感触が刺激的だった。この攻撃的な感覚を味わいながら、宥は深呼吸をする。肺がゆっくりと収縮と拡大を繰りかえすのが分かる。その体内における極端な動きは、自分が生物なのであることを宥に思いださせる。宥は水を全て飲んでから、ソファーに座った。しばらくじっとしていると、心の奥底から名状しがたい感情が込みあげてくるのを感じる。紫色の、溶けた鉄のような暗い感情が血のように彼の身体を駆けめぐる。宥は恐怖を感じて、立ちあがる。そしておもむろにスクワットを始めた。本物の赤い血潮を自分の身体のなかに駆けめぐらせたいと思った。心臓がポンプのように激しく動き、宥の全身を暖めていく。だがあの暗黒の感情は消えることがない。全身の細胞が断末魔の声をあげるのが聞こえる。しかし宥は必死で身体を動かし、身体を動かしつづけ、最後には疲れはてて床に寝転がった。天井は青い色彩に包まれている。宥はこの群青色が砂浜に打ちあげられた鯨の死骸の色だと思った。死骸など見たことがなかったのに。

 宥は恋人であるショーン、そして七歳の娘である柿沼リアナと一緒に朝食を食べる。朝の光に包まれた食卓は何よりも美しいものに見えた。ショーンのかける眼鏡も、リアナの浮かべる笑顔も、切られたトマトの断面も全てが輝いている。彼は不眠症ゆえに疲弊を隠すことができなかったが、それでもこの輝きが心を幸福感で満たしてくれた。宥はしばらくリアナがパンを頬張る姿を眺める。赤い風船のように頬を膨らませながら、彼女は一生懸命パンを食べつづける。そして飲みこんだ後に、笑顔を浮かべる。宥もまた背中を掻きながら、笑顔を見せる。そして自分の顔の筋肉が心地よく緩まるのを感じた。
 と、突然部屋が揺れはじめる。地震がやってきたのだったが、今回のそれはなかなか強く、テーブルに置いた皿が音を立てる。アメリカ出身のショーンは未だに地震に馴れていないので、顔面を真っ青にしながら、机のしたに潜りこむ。だが宥とリアナは地震には馴れており、日常の態度を崩さなかった。そしてリアナはビビりまくっているショーンを見て、笑うんだった。これが地震が起こった時のいつもの風景だった。しかし宥は、最近地震が多いのではないかと思う。何度も起こる小さな地震は大地震の前触れのように思われてならない。だがこのコロナウイルスが蔓延する今に、大地震が起きたとしたら、大災害は避けられないだろう。避難所でパンデミックが起こるかもしれない。それを想像するだけで、宥は不穏な寒さに包まれる。そして彼はリアナを見た。今、彼女は特に恐怖など見せないままにパンを食べている。だが大地震が起きた時に、彼女を守れるのか? そう考えると、とてつもない不安に晒される。

 宥はスーツを着て、電車に乗りこむ。緊急事態宣言は解除されながらも、コロナウイルスの蔓延が終わった訳ではない。それなのに電車には通勤客がいっぱいで、余りにも密な状況が出来上がっていた。身体を他人の肉で潰されながら、宥はこの状況に馬鹿馬鹿しさを覚える。
 緊急事態が終わっても、生活には気をつけてくださいなんてことは簡単に言える。問題はその後なんだ。密な場所を避けろ、外出を控えろと言ったって、政府が金銭面でサポートしてくれなければ、俺たちは生活費を稼ぐために仕事をしなくちゃいけない。この電車内を見てみろ。コロナウイルスに罹かるかもしれない不安を抱えながら、密な電車に乗っている。俺たちは危機に瀕したままだ。何故国は俺たちを助けてくれない?
 彼は淀んだ空気のなかでイライラを募らせる。そして周囲の通勤客の身体によって腕や腹が潰され、怒りすらも湧きあがる。だが宥は唇を強く噛んだ。
 それじゃダメなんだ。それじゃ社会の思う壺だ。社会は俺たち奴隷を敵対させあって、その戦いを高みで見物している。彼らに餌を与えるな。怒るべきはこの人たちじゃない。非人道的な社会なんだよ。
 しかし痛みは彼の脳髄を這いずるマグマのように熱くした。

 日々の障害を乗りこえて、宥は家へと帰ってくる。だがショーンが浮かない顔をしているのに気づいた。リアナに対しては元気そうな表情を見せながらも、ふとした瞬間にその顔には影が宿るのだ。リアナが眠りについた後、宥は彼の背中を擦りながら、理由を尋ねてみる。ショーンは寂しげな笑顔を浮かべてから、話しはじめる。
「兄から電話があったんだ。ぼくの故郷の小さな町でも、ジョージ・フロイドの死を悼むためのデモが行われたらしい。だけども警察官たちは平和的な参加者たちを暴力で捻じふせて、鎮圧したんだそうだ。“Black Lives Matter”という言葉を叫ぶことの何がいけないっていうんだ。アメリカの罪は正されなければならない、そうだろ。そしてぼくの母もこのデモに参加したんだけど、警察官からの催涙弾をモロに喰らって、今、病院にいるらしい。警察はやりたい放題だ、まるで傲慢な暴君だよ。ぼくの国は差別と暴力に呑みこまれようとしている。でもぼくはそれを外から見ていることしかできない……」
 ショーンは苦痛を顔に浮かべながら、宥の身体に寄りかかった。彼はショーンの小さくなった身体を抱きしめることしかできなかった。

 やはり宥は不眠症のせいで眠ることができない。彼の隣でショーンは安らかな眠りを貪っている。シーツに浮かぶ身体の膨らみを宥は優しく撫でる。だが徐々に身体が熱くなってくるのを感じた。原因は分からないが、その熱は宥にとって吐き気のように不愉快なものだった。
 しばらくは部屋のなかで熱が収まるのを待つのだが、むしろそれは膨張を遂げる。自分の肉が内部から燃やされているような錯覚を味わった。彼は時間を確認する。午前四時だった。そして外へと散歩に出ることを決める。真夜中の大気は清冽として、気持ちがいいものだった。夜の闇は花のように芳しい香りと色彩を運んでくれる。宥はしばらくの間、涼しい空気を存分に味わいながら外を歩きつづけた。と、突然目の前に人影が現れる。最初はただ立っているだけだったが、何か嫌な予感を抱いた。それでも身体を動かすことができない。影は宥の方へと近づいてきて、ある時彼は叫び声を聞いた。
「おい、宥!」
 その暴力的な響きには聞き覚えがあった。だがそれを今聞いていることが宥は信じられない。全身から汗が噴きだすのを感じながら、宥は走って逃げた。恐怖が心を満たすなかで、頭にはある笑顔が浮かびあがる。

 宥はリアナを連れて、公園へと赴く。ショーンは今、自分の部屋でオンライン授業を行っている。余計な物音を立てないように、彼はリアナを外へ連れてきたのだった。リアナには元気が有り余っているようで、公園に到着した途端、まるで好奇心旺盛なライオンの赤子のように駆けまわりはじめる。最初は宥もリアナと一緒に公園を走りまわるのだけども、すぐにスタミナが枯れてしまい、最後にはベンチに座ることになる。彼は木材の固さを背中に感じながら、リアナの姿を眺めた。彼女はライオンの赤子のように獰猛な時もあれば、無邪気な妖精のように自由な時もあった。リアナが目まぐるしく成長する様を目にして、宥は泣きたくなる。しかしその代わりに彼は唇を強く噛んだ。
 しばらくの間、リアナの行動を観察していたのだが、不眠症のせいで鈍く暴力的な疲労感が宥を襲う。最初は抵抗しながらも、最後には疲労感に屈してしまい、少しだけ意識を失ってしまう。起きた時、リアナは何者かによって写真を撮られていることに気づく。撮影者は自分と同じくらいの中年男性で、見かけに怪しいところはなかった。だが宥はリアナのもとへ走っていく。
「おい、何してんだよ?」
 そう詰問すると、撮影者は驚きの表情を見せた。
「この子のお父さんですか?」
「そうだよ、何なんだお前は?」
 撮影者は唾を吐いてから、足早にその場を立ち去ろうとする。
「何なんだお前はって聞いてるんだよ、この変態野郎」
 宥は黒煙のような怒りに駆られ、不審者を殴ろうとする。だがその瞬間に頬に焼けつくような痛みを感じ、殴るのを躊躇った。その間に不審者は逃げていきながらも、宥の彼への憎悪は消えることがなかった。

 あいつ、リアナの写真を撮って何しようとしてたんだ?
 帰り道、宥は考える。そうすると彼女の写真が変態たちの慰み物にされる最悪の未来が思いうかんでしまい、宥は吐き気を覚える。
 子供が、リアナが一人で安心して遊ぶこともできないんだ。
 宥は首筋を執拗に掻きむしる。
 こんな醜く汚い世界に、俺たちはリアナを生んでよかったのか?
 宥の頭にはある一人の女性の顔が浮かぶ。リアナを妊娠し出産したのは、宥とショーンの親友である松木恵里菜という女性だった。元々宥と恵里菜は大学時代からの友人であり、後にその関係性に恋人であるショーンが入ってきたという訳だった。宥たちが子供を持ちたいと思った時、最初は養子を取ろうと思いながらも、様々な条件に邪魔されて結局養子を取ることができなかった。そんな時、助けになってくれたのは恵里菜だった。彼女が代理母になることとなった時、宥は三人で子供を育てていこうと決意したのだった。そうしてリアナがこの世に生まれ落ち、三人の心は幸福感と責任感で満たされた。だがリアナが二歳の時、恵里菜は交通事故によって不慮の死を遂げてしまう。絶望にうちひしがれながら、宥は思った。神は醜いこの世界にこれ以上新たな命を生み出すことを禁止したのかもしれないと。恵里菜の死はその決定に背いた罰であり、いつか自分たちも罰されることになる。そして最後にはリアナ一人だけが残る……

 濃厚な闇に支配された部屋のなかで、宥は腕立て伏せをする。彼の腕はとても細く、今にも折れてしまいそうな枯れ木に見える。それでいて皮膚の色は泥の混ざった雪のように汚く、そして白い。宥はこの腕が大嫌いだった。例えばアーノルド・シュワルツェネッガーのように逞しい腕が欲しくて、昔から腕立て伏せをしてきたが、疲れてすぐに床へと倒れてしまう。極太の腕には程遠かった。そして今日もそうだ。最初は軽快に腕を動かすことができる。細胞が快活に爆発するのを感じる。だが急速に疲労が蓄積し、腕と肺が悲鳴を挙げはじめる。しばらくは頑張るのだが、すぐに力が尽き、宥は床に転がってしまう。
 肺が痙攣するのを感じながら、宥はしばらく動かないでいる。頬には床の冷たさが染みわたり、とても心地がよい。少しの運動だけでも、世界は明るくなったような気がした。だが突然、部屋に何者かの叫びが響いた。
「おい、宥!」
 怒気を纏った声は、宥の耳に突き刺さる。彼の身体は震えはじめ、恐怖がまるでヘドロの津波のように心をも呑みこんでいく。宥は立ちあがろうとするのだが、身体が思うように動かない。
「おい、宥! おい、宥!」
 叫び声が徐々に大きくなっていくなかで、宥は前を向いた。そして闇のなかで不気味に蠢く人影を見つけた。黒い肉の塊のような影は、ゆっくりと宥の方へと迫ってくる。彼はこの場から逃げだしたいが、未だに身体が動かせない。そして首筋を一粒の凍てついた汗が這いずるのを感じた時、宥は絶叫する。
「助けてくれ! 助けてくれ! 助けてくれ!」
 宥は夢中になって叫び、叫びつづけ、そしてリビングの床のうえで目覚めることになる。既に朝の光が部屋を満たしている。全てが夢だったと分かった瞬間、宥は途方もない安心感を抱きながらも、心にはあのヘドロのような恐怖が生々しく残っている。

 膝のうえで眠っているリアナを、宥は優しく撫でる。彼女の安らかな顔は針ネズミの赤子のようだった。人差し指で彼女の頬を突いてみても、起きることはない。そんな無邪気さに宥は深く癒される。そして彼の横では、ショーンがノートPCを使って何かを検索している。液晶画面を覗きこんでみたいが、リアナが起きるかもしれないので止めておく。
「最近、仕事の調子はどう?」
 宥はショーンの横顔を眺めながら、そんなことを尋ねる。彼は日本文学を教える准教授として大学に勤めているのだった。
「悪くないね。生徒たちもオンライン授業に慣れてきて、発言する余裕も出てきてる。もしかしたらぼくよりもオンラインに順応してるかもね。それから翻訳の方もなかなか振るってるよ。締切は八月上旬だけど、これなら簡単に間に合いそうだ」
 ショーンは明るい笑顔を見せる。その表情に宥の心が蕩けてしまう。
「君の方はどう?」
 そう尋ねられるが、頭に浮かぶのは昨夜の悍ましい出来事についてだった。あの恐怖について語りたい。恐怖を共有することによって、それを乗り越えていきたい。そんな思いが心のなかを漂いながらも、その経験について語ろうとすると忌まわしい光景がフラッシュバックしてくる。言葉は既に喉にまで上がってきている。だが唇に近づくにつれ、身体がまるで殴られるような痛みに晒されてしまう。それが宥を恐怖の共有から遠ざけた。
「別に普通だよ。いつものように満員電車が辛いね」
 宥は笑い、ショーンも笑う。

 三人で夕食を食べていると、再び地震が彼らを襲う。最初は弱い揺れが続きながらも、それは徐々に不気味なものへと変わっていく。そして最後には食器が悲鳴を上げるほどに大きな揺れとなった。いつもは地震が来ても余裕の表情を浮かべるリアナも、顔に鋭い恐怖の念が浮かんでいた。まずショーンがテーブルの下に隠れ、そして宥とリアナもそれに続いた。リアナは怯えるショーンの背中を優しく撫でる。そして宥はそんなリアナの頭を撫でる。そんな温もりに溢れた雰囲気のなかで、彼らは地震をやりすごした。そして地震が収まった時、リアナは喜ぶのだったが、勢いあまって頭をテーブルにぶつけてしまう。彼女は大袈裟に痛がりながら、床のうえを転がった。宥はそれに笑うのだったが、ショーンは未だに怯えた表情を見せている。
「大丈夫?」
「いや、大丈夫じゃないかな……」
 ショーンの顔は暁の闇のように黝かった。
「あの九年前の最悪の瞬間が頭をよぎったよ」
「それって何のこと?」
 リアナがショーンに尋ねる。
「東日本大震災のことだよ。リアナがまだ生まれてなかった頃に起こった大地震だよ。この地震のせいで多くの人が亡くなったんだ」
「じゃあ今の地震でも死んじゃった人がいるの?」
 リアナは不安げな表情を浮かべた。
「いや、大丈夫だよ。誰も死んでなんかないよ」
 しかしまた地震がやってきた。ショーンの身体は哀れなくらいに小さくなってしまう。

 宥は、何故か自分が元恋人である鈴川麓と一緒にいるのに気づいた。彼の顔はまるで蝋人形のように若々しく、宥は少しだけ不気味に思った。麓は笑顔を浮かべながら、唇を動かしているのだが、何を言っているかは全く伺いしれない。それでも麓の纏う雰囲気はとても快活なものであり、笑顔もダイヤモンドのように明るい。この空間には陽気な空気感が漂っていた。それにつられて、宥も笑顔を浮かべて楽しい時間を過ごす。そんな中で、宥は唇を動かす。自分でも何を言ったのかが分からない。だが麓の表情が険しいものに変わった。明らかに彼の機嫌が悪くなり、危うい雰囲気が流れはじめる。宥は頑張ってそれを取り繕おうとするのだけども、突然麓が宥の頬を殴った。最初何が起こったか宥は理解できなかったが、そんな彼の頭に麓の拳が振りおろされる。宥は床に倒れ、身体を痙攣させる。事態が飲みこめないままに、餌を求める鯉のように唇を動かす。そして麓が歩みよってきたかと思うと、宥の脇腹を思いきり蹴飛ばした。巨大な花火のような痛みに、宥は地面を転げまわる。しかしその苦しみをよそに、麓は眉間に皺を寄せながら、宥の身体を蹴りつづける。
「おい、宥! おい! おい!」
 激痛のなかでも、その言葉は確かに聞きとれた。宥はその激烈な叫びのなかで、ひたすらに蹴られていた。そして激痛が最高潮に達する頃、宥は悪夢から抜けだすことができる。時計を見ると、さっき見た時からたった十分しか経っていなかった。宥はもう眠ることはできないと確信し、台所へと向かう。痛みの幻影は未だに彼の身体のなかで蟠っている。

 宥はリアナに宿題を教える。リアナは恵里菜と同じく算数が苦手であり、その問題を解く時はいつも苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。そんな彼女に宥は根気強く算数を教えるのだが、リアナは宥が教えたことを全く守らずに、問題を次々と間違えてしまう。そんな彼女に思わず宥は苛立ってしまう。彼が声を荒げながら宿題を教えていると、とうとうリアナは「もう止める!」と言い出してしまう。そんな身勝手さに、宥は激昂する。醜い怒声をリアナの小さな身体に浴びせかけ、彼女の頭の悪さを罵る。そしてその苛烈さのせいで最後にはリアナは泣きだし、自分の部屋へと逃げていく。
 ドアの閉まる音が響いた時、宥は我に返ることになる。そして自分のしでかしたことの重大さを苦味とともに味わう。
 俺って最悪な父親だ……
 宥は何度も何度も瞬きをした。そしてリアナの部屋に向かい、ドアを優しく叩く。
「ごめんな、リアナ。父さん、リアナのことを考えずに、酷いこと言っちゃったよ。ごめんな、本当に」
 中からは何も聞こえてこない。彼女が本当に部屋にいるのかさえ分からずに、不安に思う。もう一度ドアを叩いて、リアナに呼びかける。
「ごめんな、リアナ」
「うるさい! 死んじゃえ!」
 そんな返事が返ってきて、宥の心は悲しみと怒りに苛まれる。

 麓の顔が見えた瞬間、ああまたあの暴力だと宥は諦念を感じた。しかし麓の笑顔はとても柔らかく甘美で、それを見ていると安心感すらも抱いてしまう。と、突然宥は激痛に襲われる。下を見てみると、お腹にナイフが刺さっていた。蝶の死骸のような赤みが洋服へと静かに染みわたっていく。そして麓は何度も何度も宥のお腹を刺した。肉を抉られる感覚が真に迫ってくる。だが意識が曖昧になることはなく、時が経つにつれて激痛がより鮮明なものになっていく。まるで無間地獄に迷いこんだかのようだった。宥は思わず床に倒れながらも、麓は甘美な笑顔を浮かべたままに彼の身体を滅多刺しにしていく。
「助けて」
 宥はか細い声でそう呟いた。瞳には麓の笑顔が映っている。
「助けて、助けて……」
「宥、宥!」
 その声は麓の叫びとは違い、切実な響きを持っていた。宥が手を伸ばすと、その手が何者かによって固く握りしめられる。
「宥、大丈夫かい?」
 その手の主はショーンだった。宥の瞳に、彼の涙を流す一歩手前の顔が映る。
「大丈夫だよ」
 その言葉を聞くと、ショーンは一心不乱に宥へキスを始める。その嵐のようなキスはとてもスウィートで暖かいものだった。
「一体どうしたの? すごく苦しそうだったよ」
 ショーンはそう問いかけるが、宥は答えるのに躊躇してしまう。居心地悪い沈黙が二人を包みこんだ。しかしショーンが静かに宥の身体を抱きしめる。
「何も言わなくていいよ、ぼくは君とずっと一緒にいるから」
 そんな言葉に、宥は涙が溢れて止まらなくなる。そして元恋人である麓とその暴力の記憶について全てを吐きだした。そのうちショーンも泣きはじめ、二人とも涙ごと抱きしめあう。
「どうしたの、パパたち?」
 リアナが寝室にやってきた。
「こっちおいで」
 ショーンが彼女を呼んで、三人で抱きあうことになる。
「なあ、リアナ。宿題のことは本当にごめん。パパのこと許してくれるかな?」
 宥は恐る恐るリアナに尋ねてみる。
「うん、いいよ。もう怒らないでね」
「うん、分かった。約束するよ」
 抱擁がだんだんと強く、さらに優しくなっていく。
「三人で、一緒に生きていこう。約束だ」
 宥がそう呟いた後、再び地震が起こった。揺れは徐々に強烈になっていき、家具や壁が悲鳴を上げはじめる。まるで神が地球を缶のように振るかのようだった。それでも三人は互いを抱きしめつづけた。世界が終わろうとも、離れずにいようと願いながら。



私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。