コロナウイルス連作短編その25「ノエはワガママ」

 赤迫広恵は恋人である瀬戸ノエの首の上にのしかかる。その強烈な重さに、ノエは息ができなくなる。
「何かさ、今日ニュースで見たんだよね。アメリカで白人の警官が黒人をこうやって圧迫してたんだよ。すごく苦しそうだったんだ。実際その後、黒人は死んじゃったんだって。日本でそんな事件あり得ると思う? 例えば日本人の警官が韓国人を殺すみたいなさ。そりゃないよね。アメリカってやっぱ野蛮な国だよ。トランプが大統領になるだけあるね」
 広恵のそんな言葉を、ノエは朦朧とした意識のなかで聞いていた。
「携帯であなたの顔が撮りたいな。傑作だよ」
 しかし自分の口から、死にかけた河豚の断末魔のような声が漏れていることには気づいた。それでも突然、広恵が立ちあがったので、ノエは濃厚な苦しみから解放される。彼女は肺が痙攣するのを感じながら、吐瀉物を床にブチ撒けた。
「ああもう! ノエはワガママなんだから!」
 そう言いながら、広恵は雑巾とビニール袋を持ってきて、吐瀉物の掃除を始める。ノエは冷たい床に横たわりながら、その光景を眺めていた。広恵は甲斐甲斐しい母親のような勤勉さで吐瀉物を掃除していく。ノエは自分自身の母親を思いだすことになる。昔、豚カツを食べすぎて思わず吐いてしまったことがあった。それでも母親は文句を言いながらも、それを掃除してくれたんだった。そんな思い出がノエの心を暖める一方で、広恵が微笑みとともにノエの頬を撫でたんだった。
 ノエはソファーに横たわっていた。何もしたくない気分だった。彼女はコロナウイルスによって旅行会社をクビにされ、無職になった。そのショックで鬱病のような症状に陥り、毎日の殺人的な倦怠感から逃れられなくなったんだった。それでも今家計を支える存在である広恵のために、専業主婦的な役割を果たす必要があった。しかし今、彼女はソファーに横たわり、道端に落ちた蚯蚓の死骸のように微動だにすることがなかった。ノエの感情は、広恵の度重なる暴力によって死に瀕していた。
 ソファーの上、ノエは微かな騒音が響くのを聞き取る。それはおそらく広恵がキーボードを叩く音だった。彼女はテレワーク中でずっと家にいる。つまりは彼女からは逃げられないことを意味していた。頻繁に響くその先鋭な音に、ノエの脳髄が苛つかされる。まるで生の指を脳髄の肉に突っこまれているような心地だった。ふと、広恵を殺したいという殺意が湧いてくる。だがそれは実現不可能な夢のように思われて、すぐに心の奥底に仕舞いこむ。
 そして広恵がやってくる。彼女の表情には疲れが見えた。ノエの前でしゃがみこむと、その頬を撫でる。
「大丈夫? 体調悪い?」
「うん、ちょっとね」
 広恵は慈愛深い女神のような笑顔を浮かべる。
「じゃあ、あたしが昼御飯作ってあげるからね」
 広恵はスパゲッティ・ミートソースを作り、ノエはそれを食べた。広恵もそれを携帯で撮影してから、食べはじめる。とても簡単な料理であったけども、それはある種の平和な温もりを以てノエの心に沁みこんだ。こんな時間がずっと続けばいいと思ったけれども、それはありえないと彼女自身が一番わかっていた。
 ノエは散歩と買い物の時だけ、広恵から外出を許されていた。この時彼女は散歩のために部屋の外へと出た。と、ちょうど横の部屋からも住人が現れた。ノエはその女性の風貌にいつも驚かされてしまう。身長は百九十センチほどもあり、肩幅も凄まじく広い。彼女の肉体はまるで脂肪を纏った巨大な冷蔵庫のようだった。女性は柔道でもやっているのではないかとノエは予想する。そして顔つきはとても凛々しく、武者の顔立ちを彷彿とさせた。女性はノエが今まで会ったことのないタイプの人間だった。
「こんにちは」
「……こんにちは」
 ノエは女性と挨拶しか交わしたことがなかった。いつか会話をしてみたいと思っていた。
 ノエはしばらく外を歩きまわる。部屋に閉じこめられているゆえの鬱屈が消えていくような気がした。コロナウイルスが蔓延した今でも、町の風景はほとんど変わらない。もし人間が死滅したとしても、この光景は変わらないのでは?と思わされる。何にしろ、この空から降ってくる黄昏の色に染まった風景がいつまでも残っていることを願った。
 そして公園へと辿りつく。ここは広恵と最初のデートを果たした場所だった。夜に一緒にベンチに座って、他愛ないことばかり喋った。広恵が唐揚げが好きだと言うので、唐揚げを作って持っていくと、彼女は小学生のような笑顔を浮かべながらそれを食べたんだった。ノエは心臓が蕩けるほどの喜びを味わった。それから一緒に滑り台を何回も滑って遊んだ。最後にはお尻が痛くなったんだった。
 広恵は右手でノエの首を絞めながら、左手ではノエのクリトリスを刺激した。
「どう、気持ちいい?」
 ノエは何も言えないままに、身体を痙攣させた。圧倒的な苦しみに苛まれながら、神に今すぐ殺して欲しいと願った。だが苦しみは終わることがなかった。広恵の指がどんどん強く首の肉に食いこんでいく。そのまま指と首が一体化するグロテスクな未来が思い浮かんだけれども、必死でそれを否定する。最悪なのはこの苦しみがある意味で快楽でもあることだった。広恵はクリトリスの刺激法を熟知していた。快楽が苦しみと交わりあうことで、中毒性のある吐き気が彼女の心を握りしめる。ノエは直射日光に晒される烏賊のように身体を痙攣させた。そして乱暴な形で絶頂に到達させられた。ノエは力を失い、ベッドへ沈みこんでいくけれども、それを見た広恵は両腕でノエの首を絞めはじめる。
 深夜、広恵の横で、ノエは眠ることができない。自分の感情と細胞が徐々に死滅しているのを感じていた。広恵の体臭は、ノエにとって野生のハイエナのように強烈で鼻の粘膜を掻きみだされてしまう。ノエは別のことについて考えようとする。例えば隣に住んでいる大きな女性について。彼女がまるで白馬に乗った王子様のように、暴力に苦しむ自分を助けにくる未来を想像する。彼女の身体は逞しくも、しなやかで、まるで男性と女性の最良の部分を両方とも持ちあわせているかのようだ。ノエは女性の胸のなかで猫のように丸まる。そして首筋に何度もキスをするのだ。
 朝、広恵の泣き声で目を覚ました。
「どうしたの?」
 ノエは彼女にそう尋ねる。
「あたし、ノエに酷いことしてる」
 広恵はそう言った。
「あなたを傷つけてる。あなたの心をずっと傷つけてる。それなのに自分で被害者ぶって、自分の罪を認めようとしないで、あなたを傷つけつづける。あたしは最低の人間だよ。生きる資格がない」
 そんな言葉にノエは広恵の身体を抱きしめる。
「そんなことない。あなたはいい人だよ。時々、恐ろしい心を抑えられなくなる時はあるけれど、でも抑えようと努力してる。私もずっとあなたと一緒にいるから、頑張っていこう。いつかこの時間は乗りこえられるよ」
「本当にそう思う?」
「思う。思うよ」
 広恵は大きな声で泣いてしまう。彼女の背中を、ノエは優しく撫でる。
 朝、ノエと広恵はニュースを見ていた。広恵の頬は熟した林檎のようで、それがとても可愛らしく思えたので、人差し指で突いてみる。
「ちょっと、何?」
 広恵は笑いながら、そう言った。
「別に。何でもないよ」
 ノエは無表情を装いながら、返事をする。
「ねえ、ブルーインパルスが空を飛ぶんだって。ここから見えるかな」
「うーん、分かんない」
 ニュースではコロナウイルスと戦う医療従事者を応援するために、戦闘機部隊であるブルーインパルスが空を飛ぶのだと報道していた。広恵は興奮しながら、パンを持ったままにベランダへと出ていく。渋々ながらノエも彼女に付いていく。しばらく抜けるような青空を眺めていたのだが、空気が震えるような感覚を味わった後、小さな隕石のような戦闘機が空を飛んでいくのが見えた。そして戦闘機は空に白く輝ける線を描いていった。
「すごい、すごい!」
 広恵は大興奮とばかりに、ブルーインパルスにはしゃぎまわる。そして携帯で、何度も何度もその風景の写真を撮る。しかしノエは何か厭な気分を味わう。彼女はそれを言葉にして説明できないのだが、今この世の中で戦闘機が東京の空を飛びまわり、それに人々が興奮するという構図がグロテスクなように思えた。広恵がここに居なければ、今すぐ空に向かって唾を吐いてやりたかった。例えそれは戦闘機に届かず、自分の顔に落ちてくるとしても。
 馬鹿じゃないの。
 ノエは心のなかでそう思う。
 突然、広恵がケーキを持ってきたので驚かされる。
「ねえ、自分の誕生日を忘れたの?」
 広恵が苦笑するが、本当にノエは自分の誕生日を忘れていた。彼女が『ハッピー・バースデー』を歌った後、彼女たちはケーキを食べはじめる。もちろん広恵はケーキの写真を携帯で撮影した。まずノエは上に乗っかった苺を食べることにする。口に入れた瞬間、殺人的なまでの甘さが舌を包みこむので驚いてしまう。しかしそれは嬉しい喜びだった。そのまま甘さが赤い火花のようにパチパチと弾けていく。ノエは久しぶりに幸せを味わう。死滅した感情と細胞が一気に生き返っていった。だがケーキの中にアーモンドが入ってると知った時、ノエの喜びはすぐに萎んだ。彼女はアーモンドが大嫌いで、それが入ったケーキも嫌いだと何度も広恵に言っていた。彼女は忘れているようだった。それでもこの多幸感溢れる雰囲気を壊さないために、笑顔を浮かべながらケーキを食べつづけた。だがアーモンドは不愉快な石のようにノエを苛む。
「どうしたの?」
 広恵が尋ねてくるので、ノエは恐怖を感じる。
「別に。何でもないけど」
「何か変だよ」
 そう言いながら、広恵はケーキを食べつづける。
「何か隠してるでしょ」
 その言葉からは、ノエがアーモンドが嫌いなことを忘れているのは明らかで、ノエは落胆を感じる。
「何もない。何もないから。ケーキおいしいよ」
「言ってよ。別に怒らないから」
「だから何もないから」
「嘘だよ。ノエの顔、何か不愉快そうだもん」
「だから、何もないから!」
「あるだろ、言えよ!」
 そう叫んだ後、広恵は拳でケーキを破壊しはじめた。見る間にケーキは白い死骸のような有り様に変わってしまった。そして白い血潮が部屋全体に飛び散りわたる。ノエは恐怖で動けなくなる一方、広恵は意味不明な言葉を喚きながら、ケーキを破壊しつづける。そして彼女はケーキの塊をノエに投げつけた。頬には白い血潮が広がる。広恵は延々とケーキの塊を投げつづける。ノエは避けることも逃げることもできないまま、血潮を浴びつづける。
 近くの“いつみ”というスーパーマーケットに行った時、ノエはあの女性を見つけた。彼女は自分と同じく買い物をしていた。ノエは女性を追跡することを決める。彼女が買っているものは何か。長ねぎ、トマト、エリンギ、豆腐、納豆、ヨーグルト、鶏の胸肉、牛の肩ロース、お酢、ミートソース、ポテトチップス、ビール、菓子パン。その量はなかなか多かった。その大量の食材で以て、彼女のあの巨大な身体が培われているかと思うと、その事実が深く愛しく思える。
 帰った後に、ソファーの上で彼女について考えた。女性に助けられた後、二人は近くの大きな洞穴に隠れる。そのなかで身を寄せあいながら、時間を過ごす。見た目の逞しさに反して、彼女の体臭は以前に食べた苺のように甘やかなものだ。鼻のなかに入る時、赤い火花のように刺激的に皮膚を撫でるのだ。その甘美な匂いに導かれて、ノエは女性の凛々しい顔を眺める。黒曜石のような瞳、高貴な紫色の唇、彫像のように鋭い鼻梁、黒く力強い眉毛。全てが魅力的で、その魅力にノエの心は優しく抱かれる。そして自然と、彼女は女性の唇にキスをしていた。唇は木苺のように甘さと酸っぱさが交わりあっている。それもまた素晴らしいものだった。
 彼女の全てをケーキみたいに食べてしまいたい。彼女の中にはきっとアーモンドも存在してはいないだろう。ノエは女性の身体を貪りながら思う。女性はセックスに慣れていないようで、ノエの唇に完全に攻めこまれ、幼く可愛らしい喘ぎ声を出すことしかできないでいる。彼女の頬、彼女の鎖骨、彼女の肩甲骨、彼女の腰、彼女の乳房、彼女の膝、彼女の女性器、彼女の産毛、彼女の臍。全てが芳醇な味わいを持っていて、ノエは死にたくなるほどの快楽を味わった。
 そんな妄想をめぐらせながら、ソファーの上でノエはオナニーを続けていた。
「何してるの?」
 気がつくと、ドアの前には広恵が立っていた。
 広恵は腰につけたディルドをノエのアナルに突き刺した。ノエは鈍い悲鳴をあげながらも、広恵は腰を振るのを止めなかった。そのリズムはどんどん暴力的になり、アナルの肉が破壊されていく。ノエは筆舌に尽くしがたい激痛に泣きわめき、彼女の唇からは粘った涎が大量に流れていった。この残酷な行為は、広恵が満足するまで行われた。その頃にはノエの心はボロボロになっていた。ディルドがノエのアナルから引きぬかれた後、彼女はよろつきながらトイレへと向かう。排尿をしてから便器の底を確認すると、それは血に染まっていた。まるで殺人現場のような有り様に、ノエの心は震える。だが時が経つにつれて、その震えは別の何かへと姿を変えた。
 ノエは台所から包丁を持ってきた後、寝室に行った。それから広恵の腹に包丁を突き刺した。彼女は最初何が起こったのか分からず、ヘラヘラと笑っていた。しかし激痛に襲われたのか、悲鳴を上げはじめる。立ちあがろうとするが、彼女は無惨な形で床に倒れた。なのでノエは広恵の背中に包丁を何度も突き刺した。
「助けて、助けてえええええ」
 広恵は床を這いずりまわり、その背中をノエは眺める。彼女は赤いペンキを浴びたムカデのようだった。ノエは彼女のズボンを脱がして、アナルにナイフを突き刺す。すると玄関のドアが開いた。そこに立っていたのはあの隣人の女性だったので驚かされる。それと同時に嬉しくなった。彼女と一緒に新しい場所へ行こう、そう思えた。
 女性はノエのところまで来た後、凄まじい勢いで彼女の頬を殴りつけ、床に組み伏せた。膝で完全に首を抑えられて、息がまともにできなかった。意識が混濁するなかで、ノエが見たのは広恵が携帯で自分の写真を撮影しているところだった。
「あはははあ」

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。