コロナウイルス連作短編その19「生きている、生きている」

 久遠ダーグは自宅で仕事をしていた。キーボードを叩きつづける間、外からは騒音が聞こえてくる。六歳である娘の久遠ノオミが家のなかではしゃぎまわっているのである。小学校がコロナウイルスのせいで閉まっており、彼女はずっと家にいるのだ。ノオミは悪戯な妖精さながら、騒音を巻きおこし、時間を過ごしている。ダーグはその音を気にしながら、仕事を続けていた。だが突然、音が聞こえなくなる。それを悟った瞬間に、ダーグの心は牛の死骸のように冷えた。彼の頭のなかにはある情景が浮かんでいる。
 ダーグは部屋から出ていき、ゆっくりとリビングへ向かう。ドアは開いていたのだが、その隙間からノオミの背中が見えた。彼女は床に俯せになって、狂ったように股間を床に押しつけていた。その乱暴な動きはまるで壊れた玩具を彷彿とさせた。ノオミは明らかに自慰行為を行っていた。そしてダーグはそれを無言で見据えていた。彼がこの光景を見たのは初めてではない。実際には幾度となく目撃している。だがこの衝撃は簡単に御せるものではなかった。この光景と対面する度に、ダーグは脳髄を殴られるような衝撃に襲われる。ダーグが吐き気を催す一方で、ノオミは一心不乱に股間を床に擦りつける。彼は身体を震わせながら、洗面所に逃げる。そして冷水で顔を洗うのだが、居たたまれない恐怖は彼の心を包みつづけた。

 ノオミがああやって自慰行為に走りはじめたのはいつからか。一年前、ダーグとノオミにとって最愛の妻であり母親である久遠心咲が乳ガンで亡くなった。その時ダーグは我慢できずに泣きじゃくる一方で、ノオミは驚くほどの無表情と無言を貫いた。まるで母の死が全く理解できていないような素振りだった。涙に暮れながらも、ダーグはノオミに対して死について説明しつづけた。彼女は苦しみから解き放たれて夜空の小さな星になった、もうこの世界には戻ってこないけれど夜空から自分たちを見守ってくれる。その説明をノオミは不気味な沈黙を以て聞いていた。
 それからノオミは狂ったように自慰行為を始めた。彼女は野生の肉食獣が獲物を捕まえるような貪欲さと獰猛さで、自慰行為を行った。机の端に股間を押しつける、床に腰を押しつける。父親であるダーグが不在の時、彼女は一種の解放感のようなものを伴いながら、自慰行為を続けた。ダーグが初めてそれを目撃した時、途方もない衝撃を受けながらも、あまりに居たたまれず無視を決めこんだ。そしてノオミが自慰行為をしていたとしても、無視しつづけた。しかしコロナウイルスで学校が閉鎖になり、ノオミが自宅にずっといるようになってから、自慰の頻度が明らかに増えたことにダーグは気づいた。タブレットでYoutubeを眺めながら自慰行為をする姿を目撃したこともある。彼はいい加減止めなくてはならないと思った。だが言い知れぬ不快感と拒否感がダーグを躊躇わせていた。

 そしてまたダーグはリビングでノオミが自慰行為に耽っている姿を目撃してしまう。恐怖が彼の心を包みこみながらも、ダーグは拳でふとももを叩きつづける。そしてリビングに入った。
「おいノオミ、そんなことするのは止めろ!」
 ノオミはゆっくりとダーグの方を向いた。だが腰を振るのは止めなかった。
「おい、だから腰を振るのは止めろって言ってるだろ!」
 ダーグはノオミの小さな身体を全力で掴まえる。すると彼女はいきなり泣きだすので、ダーグは何をしていいのか分からなくなる。泣き声は徐々に大きくなっていき、ダーグの脳髄を無数の蟻のように苛む。
「止めてくれ、泣くのは止めてくれ……」
 懇願するようにダーグは言葉を絞りだすが、ノオミは泣くのを止めなかった。絶望的な状況に追いやられ、ダーグは心咲がここにいてくれたらと願った。もし心咲がまだ生きていたのなら、この問題は全て彼女が解決してくれただろうと思う。心咲の笑顔はまるで太陽の陽を浴びる向日葵のように輝いていた。心咲の心は、無限の青を輝かせる海のように広かった。それを思いうかべると、ダーグはは涙が止まらなくなった。

 数日後、ダーグはノオミと一緒に近くの公園へと行った。ノオミは遊具で普通に遊んでいるのだが、いつか公然と自慰行為に走るのではないかという疑心暗鬼がダーグの心を苛んだ。その傍らでは児童の母親たちがソーシャル・ディスタンスも気にせずに世間話をしている。ダーグは彼女ら女性たちに乳幼児が自慰行為を行うのは普通であるかを尋ねたかった、自宅で狂人のように腰を振りつづけるのは普通なのかを尋ねたかった。だが今彼女たちにそれを尋ねたのならば、ダーグは変質者として断罪されるだろう。
 ダーグは同世代の女性と親交を結んだことがなかった。どうすれば親交を結べばいいのかが分からなかった。どうやって恋人関係を築けばいいのかは分かっていたが、その範囲外の関係性の結び方がどうしても分からなかった。ダーグにとって女性というのは異性であり、性的な関係を結ぶ相手でしかなかった。ゆえにダーグは母親たちとセックスする自分自身を想像することはできたが、誰もいない公園で乳幼児の自慰行為などデリケートな話をする自分は想像することができなかった。
 ダーグは再びノオミを見る。彼女は同世代の少年たちと楽しそうに遊んでいる。ああして純粋な心で異性に接するやり方を自分はいつ忘れてしまったのかと、ダーグは考えた。頬に生ぬるい風が吹きつけてくる。ダーグの頭のなかに、母親の一人の顔に射精する光景が思いうかび、彼は自然と勃起してしまう。

 そしてダーグはノオミの自慰行為を見つける。それでも彼はネットの情報を読んで、乳幼児の自慰行為について勉強していた。ダーグは笑顔を浮かべながら、そこで学んだ言葉をノオミに伝えようとする。
「ノオミ。ノオミが大人になって結婚したら、赤ちゃんができるだろ。今、触ってるところはさ、その赤ちゃんが生まれてくる、とっても大切なところなんだよ。触って黴菌が入ると痛いし、病院に行かないといけなくなったら大変だろ? かわいそうだよ。パパ、ノオミのことが大切だからすごく心配なんだよ。だけど、ずっとしてたことだから、なかなか止められないだろうし、つい忘れてやっちゃう時もあると思う。そうしたらパパが教えてあげるからさ。止められるように頑張ってみようよ」
 ノオミはダーグを無言で睨みつけた。その異様なまでの冷ややかさにダーグは気圧されてしまう。その眼光の鋭さは、妻である心咲が怒りを覚えた時に見せるものと同じだった。それに晒されると、ダーグは何も言えなくなってしまう。

 ダーグは久しぶりに夢のなかで心咲と会った。彼女は一糸まとわぬ姿をダーグに晒していた。彼女の黄色い肌、石炭のような瞳、官能的な曲線。心咲の身体はこの世で最も美しいものだとダーグは思っていた。彼は固くなったぺニスとともに、心咲に襲いかかる。生々しい体臭をともなった彼女の肉体を貪るのはすこぶる快感だった。心咲も触れられるたびに艶かしい喘ぎ声を響かせるので嬉しくなる。
 彼は心咲の肉を生で味わいたいという欲望に突き動かされ、そのまま挿入を行おうとする。だが最初、心咲はそれを拒んだ。自分の言うことを聞かない心咲に苛つかされる。それでも強引にダーグは生のぺニスを心咲のなかに挿入した。あまりの気持ちよさに口から唾が溢れだすのを彼は感じた。自分のぺニスが心咲の肉体を貫く感覚は何よりも素晴らしいものだった。そして先鋭な快感のなかで、ダーグは射精した。そして心咲のヴァギナを、肉体を精液で汚した。肉に包みこまれながら、快楽の残滓を味わっている時、ダーグは泣き声を聞いた。それは赤子の泣き声であり、最後にはノオミの泣き声だと分かる。その瞬間に心臓がゆっくりと潰れていくような恐怖を味わい、ダーグは思わず絶叫する。彼は夢から目覚めながらも、あの禍々しい泣き声は未だに響きつづける。

 仕事をしている時、ダーグの頭のなかに突然ノオミが自慰行為を行う光景が浮かびあがる。それは殴打のような衝撃を以て、ダーグに迫った。脳髄に痛みを感じながら、彼は洗面所に行く。冷水で顔を洗った時、自分の瞳が腐った糞のような色に包まれていることに気づく。それを擦ると、今度は血尿のような赤に包まれてしまう。ダーグは苛つきを覚えながら、トイレのドアを開ける。そこではノオミが自慰行為をしていた。彼女は左手で激しくクリトリスを刺激していたんだった。顔は汗まみれで、瞳は狂人の血走った眼と共鳴していた。
 ダーグは不快さのあまり、その場に吐瀉物をブチ撒けた。その吐瀉物のなかには今朝食べたレタスが入っていた。ダーグはノオミの腕を掴み、外へ連れていく。そして彼女を外に出したまま、鍵を閉めたんだった。
「開けて! 開けて!」
「うるさい! 汚ならしいことしやがって!」
 ダーグはそう吐き捨てると、号泣するノオミの声が聞こえてくる。彼は既に自分のなかにある怒りを抑えることができなかった。全てを破壊しつくしてやりたかった。ダーグは部屋に籠って、耳を塞ぎながら絶叫した。全てがその絶叫のなかで崩壊してくれることを願った。

 だがある時、ダーグの頭に正気が戻ってくる。自分のしでかしたことの壮絶さを思い返し、恐ろしくなる。彼が玄関のドアを開けると、そこには地面に倒れているノオミがいた。急いでベッドに連れていくのだが、彼女は高熱に苛まれ、深く傷ついていた。
 数日間看病を行うのだが、ノオミの熱は全く下がらず、体調はどんどん悪くなっていく。ダーグは罪悪感に襲われながら必死に彼女を看病するのだが、事態が好転することはない。苦しみ続けるノオミの姿を見ている途中、ある不吉な予感が頭によぎる。もしかしたらノオミはコロナウイルスに罹かったのかもしれない。背筋が凍る思いだった。コロナウイルスはテレビの向こうに広がる光景かと思いきや、もしかすると自分の傍らにいたのかもしれない。それに恐怖を抱いた。そして最悪の結末、つまりはノオミの死を夢想した。だがそれと同時に、ノオミが自慰行為に耽るあの光景すらも思いうかんだ。
 ノオミが死ねば、もうあの忌々しいオナニーを見ずに済む。
 そう思った瞬間、ダーグの心で不気味な欲望が膨れあがる。

 ダーグはノオミを病院に連れていった。幸運にも医師は彼女にPCR検査を施してくれる。だが結果が分かるには数日かかる故に、二人は自宅へと戻らざるを得なかった。自宅で待機している間、ノオミの体調はどんどん悪くなっていった。彼女の身体は熱によって徐々に腐っていった。数日後、PCR検査の結果、ノオミはコロナウイルス陽性だと分かり、病院へと連れていかれた。ダーグはそこに付いていくことを許されなかった。彼は自宅でノオミが良くなるのを待ちつづけた。どうやってもノオミに会うことはできなかった。そして再び数日後、病院から電話がかかってきた。医師によると、ノオミは残念ながらコロナウイルスで死んだのだという。そしてウイルスを拡散させないため、既に死体は火葬されたそうだ。
 ダーグはそれを聞いてから、昼御飯を食べた。塩味のカップラーメンだった。彼はこってりよりもあっさりの方が好きなので、塩ラーメンをよく食べた。このカップラーメンも美味しかった。やはり塩は彼の味覚に合うと思った。それからダーグは洗面所で顔を洗い、トイレで排便をし、部屋に戻った。永遠さながらに引きのばされた時間のなかで、ダーグはじっとしていた。そして突然、ダーグは笑いはじめた。空気を激しく破りすてるような、暴力的な笑いだった。ダーグの口からは唾が噴出した。それでも笑いつづけた。ダーグは笑ったんだった。
 だがそれは全て夢だった。目覚めたダーグの目前には、安らかな寝顔を浮かべるノオミがいた。ノオミは生きている。そして、ダーグは生きている。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。