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コロナウイルス連作短編その197「とってもしあわせな1日」

 高速道路をまたぐ歩道橋の上のほう、友子はそこから、妻の春香が階段を下っていくすがたをながめている。タッタッタ、彼女はけっこう大きな声でそんなことを言いながら、軽やかにステップを踏んでいってる。そのたびにコートが風にゆれて、なんだか風情っていうものがあった。彼女はとてもお転婆ってかんじだった。
 と、すこし広い踊り場にたどりついたとき、そこで友子は止まって、こっちへ振りむく。自分をみあげる視線がちょっとこそばゆい。
「ほら、友子も早くきて。じゃないと遅れちゃうわよ」
 それとほとんどおんなじような言葉を、たしか彼女と出会ったときにも聞いたと、友子はなぜだかおもった。それはもう10何年くらいも前で、まだ2人とも大学生だったころだ。どういう状況だったっけ、忘れた。でもたしかにそんな言葉を聞いたおぼえがある。
「何でそんな話し方するの? わよ、みたいな。古臭い女言葉」
 友子がそんな返事をすると、彼女はからからと、星と星がぶつかってあらわれるっていう風な、本当に明るげな笑いをひびかせるのでおどろいた。
「もう、かんぜんにクセになっちゃってるのよねえ」
 その語尾が、なんだか急に艶っぽく聞こえてくるので、すこしドギマギする。
 そのあと春香がかたるには、祖母も母もこういう風な、古風な女言葉を、まるで息をすったりはいたりするように使うものだから、こんな話しかたがむしろ当然とばかりに、自分も話すようになったんだっていう。そしてそのみなもとは、家にたくさん置いてある古い外国の小説なんだっていう。そこに出てくる女性たちはみんな、わよ、とか、だわ、なんて言ったりして、自分の人生ってものを謳歌したりしていて。
 こどものころから、こういう本を家にあったからって理由だけで、それを自然と読んでいて、キャラメル色にそまった紙と、なんとも鼻の粘膜がつまりそうなまでのホコリくささに祝福されながら、彼女たちの人生を追体験していく。そりゃあこんな話しかたにもなりますよね、なんて、春香は友子にかたったんだった。
「女言葉って罪深いとおもう? いいえ、罪なんかないわ!」
 そんなセリフがかった言葉を、またからからと笑いながら春香は言ったんだった。おそらくこのセリフは、何かの小説に出てきたセリフのパロディだって、そう直感したのを、友子はいまでもおぼえてる。

 友子は、春香をまねして、タッタッタと階段をくだってみる。だけども軽やかにやってみせようとすると、膝がかなり痛んで、動きが自然とぎごちなくなる。“ぎこちなく”より“ぎごちなく”って、そういうかんじだ。関節であるとか、骨であるとかが、あきらかに錆ついていて、そのせいで悲鳴をあげているように、友子にはおもえた。
「ほら、ほら、もうちょっと頑張って!」
 自分の気もしらずに、春香がそんな言葉をかけてくるので、彼女はすこし、ほんのすこしだけイラッとする。
「うるさいわよ」
 そう返事をするんだけども、その瞬間に自分が、わよ、だなんて女言葉を使ったことに気づく。春香とずっといっしょに暮らしてきて、やっぱりどこかで彼女の影響をうけているわけなんだけども、その1つが自分も女言葉を使ってるってことだった。でもそれをいつの間に言ってしまうたびに“自分が女言葉を使った”っていうのをどうしても意識してしまって、そこはかとない恥ずかしさがこみあげてくる。春香みたいに、女言葉が彼女のいきかたに自然になじんでいるって、そういう境地ではぜんぜんない。それがなんだかさびしい。
 それで、やっとのことで歩道橋をわたりおわって、下で待っていた春香においついた。黒いコートからのびる、すこし赤らんだその左手に自分の右手をのばして、手をつなごうとするんだけども、手と手がふれた瞬間には、それがするっと抜けていって、春香はそのまま歩きだしてしまった。
 それで、なんだかまたさびしくなった。誇張だっていうのはぜんぜん分かってるんだけども、母親に置いてかれてしまったちいさな女の子っていう、そういう比喩表現が、いまの自分のシチュエーションにぴったりだとおもえた。
 ふと横をむくと、フェンスのむこうがわに、名前なんかいっさいわからない雑草がたくさんあって、それが高速道路の騒音を遮断するって、ばかでかい湾曲した壁のほうまでずっと続いているっていうのが、なぜだか見えた。ぜんぶ、秋の風にさびしく揺れている。たぶん、もうすぐ全部枯れていなくなるんだろう。

 ショッピングモールのこぶりな広場、ここで知がブラスバンド部の演奏会に出るんだった。近隣の中学や高校から音楽部があつまって、かわるがわる演奏していくっていう、そんなちいさなお祭りがいまやっているわけである。
 広場のまえにはモールへと続いていく大きな、しろい階段があって、こんかいはここが観客や保護者がすわるための席として活躍しているんだった。でもどちらかといえば、自分たちのこどもの出番をまっているってそういう保護者のひとのほうがおおいように、友子にはおもえた。あのなんともいえず、そわそわとからだを揺りうごかしているって感覚は、友子にもかなりおぼえがあるっていうことだ。
 だがちょっと気圧されるのは、みなキチンとマスクはつけているが、かなりの数の観客が階段にひしめいているってところだ。どうしてもコロナウイルスに関しては心配してしまうんだった。それでも春香は、そんなのどこ吹く風だっていうふうに、ずかずかと歩いていって、いいかんじの空間を見つけて、そこに腰をすえて友子に、来い来い、とやったりする。この大胆さが、彼女を愛する理由の1つなのであった。
「知の出番っていつだったかしら」
「……1時半くらいだから、あと10分くらいだね」
 そんなことを言っていると、コーンで区切られた区画に、みなれた制服のこどもたちがあつまりはじめ、そして楽器だっていろいろとあつまってくる。そんなたのしげなひしめきのなかに、知もいるのに友子はきづいた。ともだちといっしょにしゃべっているのが見えるんだった。
「おーい!」
 なかなかにおおきな声で、春香がそう知に声をかけるので友子はちょっとあせった。いまのご時世、こういうのはしろい目で見られざるをえない。
「ちょっと声、おおきすぎるって」
 春香はこっちを向くと、わざとらしく目をみひらいてみせる。その面構えがちょっとボラっぽい。
 だが春香の声をきいてか、広場の知がこちらに気づいて、両手で手をふってくれたんだった。みぶりの大きさは春香ゆずりなんだろう。

 それから数分がたって、準備がととのったあとに、演奏がはじまる。
 聞いたことがあるような、ないような、そんなリズミカルな曲が、管楽器のとても快活なひびきとともに演奏される。それに舞台のまえでは、おおきな旗をもった女の子たちがバトンでもふるみたいなかんじで、優雅におどっていて楽しげだ。聞いてても見ていても、なかなか心もおどるかんじだ。じっさい、よこにいる春香はけっこうからだを揺らしまくっていて、肩がこっちになんどもぶつかる。うれしい。
 いっぽうで知はバンド後方で、すわってドラムを叩いている。旗の子たちは主役として華麗にうごきまわり、管楽器をかかえた子たちは演奏と同時に、かるくおどけたようにマーチングなどもして、かなり目だっている。そんななかで知のやってることは地味だった。ハードロックってかんじでバンバン叩きまくるでもなく、ジャズってかんじで洒落た技巧を見せるわけでもなく、音楽のリズムをささえるため、つねにひかえめな形で、ドラムを叩いている。
 友子はむかしみた、あるバンドのPVをおもいだしている。ボーカルやギタリスト、ベーシストは空間をはげしく、好きなように練りまわり、ときにはカメラに迫るようにおのれの技巧を見せつける。しかしドラマーはドラムのある場所から一歩たりともうごけずに、ずっとそこにいる。ほかのメンバーはいろいろな場所でポーズをとってるのに、ドラマーだけはもうほぼ定位置でポーズを取るってときもそんなにない。そういう、ずっと一ヶ所にとどまって叩いてるって光景に、仲間外れ感をどこまでも感じて、なんだかびみょうな気分になってしまったんだった。
 それとおなじことを、じぶんのこどもである知に感じてしまっているのに友子はとまどった。でもじっさい、知はじぶんの役割を“縁の下の力持ち”と形容していたりと、これをちゃんと誇りにおもってるっていうのは伝わってくる。親であるじぶんがそれを誇りにおもえないで、いったい何なのだろう。そうは感じながら、それでもさびしかった。
 横では春香がきゃっきゃとはしゃぎながら、スマートフォンで知やバンドの写真をとっている。

 そうして演奏がおわって、みながパチパチと拍手をする。春香ももちろん、ひときわおおきくパチパチと拍手をする。友子も拍手をするんだけども、その音はパチパチじゃあなく、ベチャベチャというふうだった。じぶんだけが、なにかべつの世界にいるような気分だった。
「とっても素晴らしかったわね」
 そんな春香の声をきいたとき、あの語尾が鼓膜に噛みかけのガムみたいにへばりついた。
 と、彼女が両手で、いきなりじぶんの左手をにぎってきたので、すこしおどろく。
「うわ、すっごく冷たい」
 そこではじめて、じぶんの手が冷たくなっていたことにきづく。
「手袋つけてくればよかったじゃない」
「いや、べつに、さむくないし……」
 そういうと、春香は、マスクからすこしはみだしている友子のほおをさわる。
「ほら、ほおっぺたも冷たい。たぶん、からだ全体が冷たくなってるんだわ」
 春香はまた友子の左手をにぎったのだけど、その親指が手のひらをこしょくるようになでるので、なかなかくすぐったい。
「ねえ、知ってる?」
 春香が言った。
「手のひらのまんなかはね、動脈と静脈がまじわる場所なのだそうよ。ここにね、からだじゅうの血液が集まるの。それで……夏の甲子園球場で、おじさんたちが凍らせたペットボトルをずっと手でにぎってるなんていうの、あるでしょう? それってこの場所をひやすと、あつまった血液ぜんぶがひやされて、それがからだじゅうをまためぐっていくから、全身がひやされていくのだって」
 春香はすこしだけ、目をほそめる。
「それを読んだとき、こうおもったの。じゃあ逆に手のひらをあっためたら、そのあったまった血がからだじゅうに行きわたって、からだぜんぶポカポカするんじゃないかしら、って」
 そしてじぶんの右手を、友子の手のひらに押しつける。
「ほら、私の手にぎってて。いま、とーってもあたたかいでしょ? コンビニのあったかいお茶にはかなわないけれど」
 そういって、春香はわらってみせる。
 友子はおずおずと彼女の右手をにぎってみる。たしかに、とってもあたたかい。ねむいってグズる赤ちゃんの手みたいにあったかい。その熱がじわーっと、じぶんの皮膚に染みこんできて、ここちよい。ときどきは春香の手がもぞもぞうごくから、くすぐったくなる。
 そのまま、しばらく時間がたつ。
 だが,友子の手は暖かくならない.
 そして突然,彼女の手が自分の手を暖めてくれている,というよりも,自分の手が彼女の手から熱を奪っている,という風に状況が認識されていく.自分の手が暖まる以上に,春香の手が徐々に,徐々に冷えていく.
 ふと,袖から露出する自分の手首に視線が移る.そこには大地に座す大樹の根のように大きく,太い血管が浮かび上がっていた.少なくとも友子には浮かび上がっているように見えた.
思わず春香の顔を見てしまう.その瞳が,自分が今見ている血管を映してはいないかと恐ろしくなる.これは幻想だ,幻想のはずだと自分に言い聞かせる.だがそう言い聞かせるたび,今度は自分の手そのものが巨大になっていくように見える.春香の小さな手など,いとも容易く捻り潰せるように大きく.
また更に大きく.
「ママたち!」
 そんな声がいきなりひびいたから、そっちのほうをむくと、知が階段の手すりにもたれかかって、こっちに手を振っているのがみえたんだった。そして春香は、友子にゆだねていないほうの手をふって、知にこたえる。
「はるかあさん!」
 友子も春香もどちらも知の母親というわけで、春香をよぶときは“はるかあさん”なんてよんでいるっていうことだ。
 そして春香は知のところに行こうとするんだけども、そこで友子がじぶんのもう片方の手をにぎっているのをおもいだした。彼女はその手ごとひっぱって、いっしょに立とうとしたけれど、とても自然に、するっと友子の手が離れてしまったので,ほんの少しだけ怪訝に思った.

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。