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コロナウイルス連作短編その148「おっきい川、もっとおっきい川」

 夜、洗井游子は雨の音を聞く。食卓テーブルに腰掛け、独りの時間を楽しむなかで、そのいつもより騒々しい雨音は気楽な友人となってくれる。だが今日はより荒々しい響きで家の壁を貫き、平穏よりもむしろ高揚を游子の心に届けてくれる。そして頭蓋骨が微睡みに蕩けていくなかで、勢いは加速度的に増していく。冬なのに珍しいと彼女は思う。量や勢い以上に、家や大地を打ちつける滴そのものがいつもより大きいのではないか、そんなことを考えさせる音だ。
「ちょっと前、雪降ったばっかじゃん」
 何とはなしにそれを口に出して言ってみる。すると自分が思っている以上に、今の雨が尋常ではないもののように思え高揚が増していく。一方では頭に、初雪にはしゃいでいた娘の千百合と夫の譜賢の姿が思い浮かび、頬が緩んでしまう。娘は今ベッドですやすやと眠っているが、夫は残業でまだ帰ってこない。10時過ぎには帰ってくるだろうとは思っている。
 先週のことを思いだしていると、不思議と游子の思惟は過去へと導かれていく。網膜をなぜるように浮かぶのは、子供の頃の豪雨の記憶だった。実家は一軒家で、庭などは猫の額ほどしかないが、1階と2階をいつだってドダダダとはしゃぎ回るくらいの広さはあった。大学生になり実家を出るまで、その広さを思う存分楽しんでいた。游子の部屋は2階の東側にあり、朝には弾けるほどの陽光に祝福されながら目覚めていたことを今でも思いだせる。他にも部屋にクーラーを設置してもらいながら、湿外器の位置で隣人と両親がひと悶着を起こしたという記憶が悪戯なニヤつきさながら、心の端っこに現れる時もあった。
 だが今、游子の頭に浮かんだその記憶は、幼稚園児だった頃のものだ。ある梅雨の時期、豪雨によって近隣が洪水に見舞われることになった。側溝からは抑えきれなくなった泥水が噴出し、游子の家もその庭すら水に浸るほどになった。門の外は完全に水没し、小さな河が現れるほどだった。
 今まで体験したことのない豪雨に、游子は縮みあがり、震えあがっていた。だが父である純は泰然として、彼女の前で折り紙を折っていた。手先がよかったという記憶はないのだが、折り紙だけは人並み以上であり鶴や風船といった基本的なものはもちろん、雛祭りに飾られる雛人形やお内裏様などを全て折り紙で折ることができるという特技すら持っていた。折り紙を折る時の父の指はことさらに繊細で、美しいものだった。
「イカみたいだろお」
 ある時、彼が笑いながらそう言ったことがある。それから彼は出来上がった兜を見せてくれた。図書館のタイルのように青い兜だ。その時からイカという言葉は寿司やスミといった通り一遍のものでなく“繊細”や“美”といった概念、そして指という世にも奇妙な身体の一部と繋がるようになった。譜賢の指もその意味で正にイカのような指だったが、未だにその誉め言葉には馴れていないようだった。
 洪水の日、純が折っていたのは船だった。掌にちょこんと乗るほどに小さな船が、幾艘も彼の手のなかで生まれていく。その魔術は家の外から聞こえてくる轟音を忘れさせてくれた、自然という脅威から守ってくれていた。游子も彼といっしょに船を折ることになる。だが彼女は全てにおいて手先が不器用だった。図画工作は劣等感を刺激するものでしか、ついぞなかった。数字の複雑なチャートを見ている方が、ずっと心が安らかだった。折り紙もうまく折れることはなかったし、今でもそういう経験を千百合に教えるのは譜賢の役目のようになっている。人には向き不向きが確かにある。だが父がしてくれたことを、自分の娘にしてあげられないのは、少しだけ寂しい。頭に思い浮かぶ折り紙の船は、汚ならしい。血管のようなひびわれが幾つも紫の船体にきざしている。
 映画のようにいきなりカットが変わり、いつの間にか純が居間の窓から外へと出ている。見る間にずぶ濡れになりながら、雨粒の轟音を縫って父の笑い声が聞こえてくる。彼は門のあたりでしゃがむと、外に広がる泥水の川に何艘も折り紙の船を浮かべてみせた。そしてカットが切り替わり、船が河を行く姿が頭に浮かぶ。こんな風景を実際に見た訳がないのに、不思議だった。降りしきる豪雨にも関わらず船は流れに沿って楽天的に進んでいく。紙で出来ていながらも、確かに河を進んでいるのだ。もちろんいつしか紙が水に濡れて、ひしゃげたようになり、沈んでいくものもあるが、中でも緑色の船だけはただ静かに、泥の河を浮かんでいた。そこでカットが切り替わり、游子の視点に戻ると、濡れそぼつ純がこちらを向いて笑みを浮かべる。
「早く戻ってきてよ!」
 いきなり母である里果の声が響いてきて、驚いた。そうだ、この風景を思い出す時はいつも驚くのだ。母はフレームの外から、ずっと自分と父を見守ってくれていた。
「わたしもやりたい!」
 そう叫んだのは幼い游子だった。父は手招きをする、母は何か言うが豪雨に掻き消されて聞こえない。游子は紫の船を手に取って、窓からしゃにむに外へと出ていく。雨避けの対策など何もしていないので、一瞬にして体がずぶ濡れになってしまうが、それが最高だった。首筋や、半袖から覗いた腕を雨粒が打つ。それは部屋にいる母の声にも似て、暖かく思いやりに満ちている。游子はすぐ父のもとにまで行き、雨から守っていた船を河へと解き放つ。自分の手のなかから、水の上へ。前へと進んでくれるか心配だったが、それを他所に紫の船はゆらゆらと河を進んでいく。やはり豪雨など気にも留めていないようだった。それでも船体は雨に濡れていきながら、沈没する素振りも見せることがない。雨にも負けず、飛沫にも負けず、ただただプカプカと浮かびながら、少しずつ前へと進んでいく。そしていつしか紫の船は、父が浮かべた緑の船に追いついていた。まるで緑の船は待ってくれていたようだった。游子は寄り添いあいながら河を漂う二艘 の船の後ろ姿をただただ眺めていた。だけども突然、純に体を抱えあげられる。そのまま窓ではなく、玄関の方へと連れていかれた。水でひたひたになった庭を自分でも歩きたいと思った。玄関ドアの向こう側では里果が待っており、バスタオルで全身を揉みくちゃになるまで拭いてくれる。だがその後、体を暖めるためにすぐお風呂に入った。父も母もいっしょ、3人でお風呂に入った。とても狭い風呂釜へとわざと3人みんなで入って、お湯のなかでギチギチになる感覚を楽しんだ。とても嬉しかった。

 いきなり、泣き声が聞こえる。加速度的に大きくなっていき、まるで隕石が全てを突き破ってくるかのように、部屋に千百合が雪崩こんでくる。顔を真っ赤にして、泣きわめいていた。
「どうしたの、なんかこわい夢でも見たの?」
 千百合を抱きしめ、頭を撫でながらそう尋ねる。
「雨、こわい!」
 そう言ったので、少し驚く。寝る前は千百合も、游子と同じくこの異様な冬の雨にワクワクしているようだった。その興奮のせいで、むしろ眠るまでに時間がかかるほどだった。やっと眠りに落ちた彼女の安らかな寝顔を見ると、夢の中では游子の思い出よりもさらにファンタジーめいた風景が広がっていて、娘はそれを楽しんでいるのだとそう思えた。今の真っ赤な顔は予想外だった。
「雨、雨ぜんぜんだいじょうぶだよ、こわくない、こわくないよ」
 こう言ってから、例え母親はそう思っていても、娘の恐怖に寄り添う必要があるのでは?と思った。
「怖かった、怖かったね、でももう大丈夫だよ、ママが一緒にいるから」
 自分の言葉がどこか他人事めいている風に感じた。
「こうずい、こうずいとかなったらどうしよう」
「洪水、ううんならないよ、ならないからね」
「でもあっちにおっきい川あって、あっちにはもっと大きい川あって、こんないっぱい雨ふったら、水がいっぱいんなっちゃうよ! いっぱいの水にはさまれたらおぼれて死んじゃう!」
 “死んじゃう!”という言葉が妙に迫真めいているので背中に寒気が走る。ぎこちなくなった笑顔が意識されると、游子は必死に表情筋を緩めて、母性愛というものを己に言い聞かせ、それが顔に現れるよう願う。娘を抱きかかえ子供部屋に向かいながら、游子は2つの川について考える。
 “おっきい川”というのは游子たちの住む住宅街から20分ほど離れた場所にある川のことだろう。住宅街の中心を突っ切るように走る川は、大きさや長さよりまず汚さばかりが先立つものだった。水そのものが半固形のヘドロさながらの色彩や感触を宿しており、住民たちからは当然嫌われながらも、何がどうして川がこの状態に陥っているかを理解する者は一人もいない。明らかに異様な状況が広がりながら、誰もが根底において無視を決めこんでいるようだ。
 游子は千百合を連れ、時々車で近隣の巨大ショッピングモールへ赴く時があるが、川はそこに隣接している。正確に言うならモールの建物を避けるように、その面前で右へと蛇行し、そこからはほぼ直線的に進んでいる。モールへと赴くなら、必然的にこの“おっきい川”と、その妙な蛇行を目にすることになる。一度だけ千百合に請われて川を見に行ったことがある。近くで見るなら見るほど、汚さ以外は平凡の極みたる川と思える。千百合の背よりも少し大きいくらいの壁越しに中を覗きこむなら、5-10mほど眼下に汚水がのたうつのが見える。それ以外には本当に何もない。これが氾濫するには相当の雨量が必要だと思えるが、実際にこれを目にする時に思うことは“これが生活用水として使われているのか?”という嫌悪感だった。だがそういった生活用水云々の話や浄水などの仕組みを、游子は一切知らない、というか知り方が分からない。ただ水道代を払って、何の疑問も持たずに水道水を使っているだけだった。だが知りたいと少し思えど、実際に川の真逆に位置する、モールの隣の図書館に行って何かを調べようとは不思議と思わない。怠惰のせいであるかもしれない、パンドラの箱を開けてしまうかもという不吉な予感のせいであるかもしれない。游子には分からない。
 2つ目の“もっとおっきい川”というのは家から歩いて10分ほどの場所にある川のことだろう。単純な観察だけでも“おっきい川”より数倍の大きさを誇ると思える、ここ一帯で最も大きな河川だった。おそらく一帯の水資源の要地でもあるのではないか。ここに住むうえで、この川を意識しないということはないだろう。町や家に寄り添うというより、抱きしめるという方が相応しい。母なる川、游子の頭にそんな言葉が浮かぶ、それとも父なる川?
 游子は地下鉄に乗って勤め先の会社へと赴くことになる。その際には必ずこの“もっとおっきい川”の上を通るのだ。何の変哲もない住宅街、時間のあるランナーや散歩者がちらほら見える土手沿い、そこからしばらく川が続く。水色の鉄橋を轟音とともに駆け抜ける地下鉄、その窓からはたゆたう水面が見えてくる。肉の群れに押し潰され、顔面をガラスに押しつけられながらも、朝日が天使の砕け散った光輪さながら川に煌めく様を目にするなら、一瞬でも苦痛を忘れることができる。だがこの祝福を受けられるのは30-40秒ほどだけだった。
 川の傍らには住宅街や道路は勿論のこと、広々とした校庭を備える学校もあった。そこで運動をする子供たちを見かけたことは指では数えられないほどだ。その何人もが隣接する住宅街で家族と暮らしているのだろう。いや子供たちだけでなく、教師たちや給食を作る栄養士たち、用務員たちにもここに住む人は少なくないはずだ。この“もっとおっきい川”を中心として人の波、生のさざ波が広がっている。そしてこれはまた遠くの海へとも通じているのだ。
 だがこの“もっとおっきい川”に大量の雨が流れこみ、水が大量に増えた後、氾濫してしまったとするなら?
 そう考えると、爆裂的な奔流が川から住宅街へと雪崩こむ光景が想像され、游子は思わず体を震わせる。そのまま指が震えて、止まらなくなる。ベッドに横たわり泣きわめく千百合がそれを認識していないことを願う。本流によって住宅街が、学校が、ショッピングモールが、図書館が、そして何より自分たちの住むアパートが呑みこまれていく。この考えを振り払おうとも、まるでウイルスさながら増殖し、脳髄を、游子の知覚そのものを苛んでいく。彼女がここに家族とともに移り住んでそう長くはない、数年といったところだろう。その最中、梅雨の時期に豪雨に見舞われ“もっとおっきい川”が氾濫しないか心配することは何度もあった。これに関して游子はあまり気にしない一方で、譜賢が妙な手際のよさで災害対策のセットを用意するというのがお約束だった。千百合はその準備を手伝いながら、異常事態に胸の高鳴りを抑えられないというのが端からでも分かった。游子はただ、梅雨の時期なのだからこれくらいは当然だろうと思っていた。だが1月という冬ただ中の今、梅雨の時期と同じ、もしくはそれ以上の豪雨が地域を襲っている。これは普通なのか、それとも異常なのか。冷静に考えようと思えども、答えが全く出ない。
 不安から目を背けようと、游子は千百合を何とか寝かしつけようとする。
「大丈夫、大丈夫だよ、大丈夫だから」
 その声は娘でなく、自分自身に向けられているようだと気づいた時、もう既に千百合は眠っていた。違和感がある、まるで時間を幾秒、幾分か吹っ飛ばされたようだった。千百合の寝顔は安らかで、自分の指はもはや不安に震えてはいない。ただ外からの騒音だけはそのまま凄まじく喧しい。游子は息を整えてから、ポケットに入っていた携帯を見る。液晶には23:28と現れている。また違和感があった。もう既に午後11時を越えているとは信じられない、やはり時間が何者かに吹っ飛ばされたとしか思えない。だがそれより重要なのはもう既に午後11時を越えているのに、譜賢が家に帰ってきていないということだった。
 リビングに戻って携帯を確認するが、彼からの連絡は一切ない。こちらから連絡しようと試みるが、電話が繋がらない。手の震えがまた戻ってきていた。そして頭のなかに、いとも容易く最悪のシナリオが思い浮かぶことに自分でも驚いた。
 人は突然死ぬ、この世から消え去る。
 游子はコロナ禍のここ2年でこれを厭でも認識せざるを得なかった。仕事で見知った人物が死んだし、千百合の友人の祖父母が死に、昔からの友人も死んだ。それから父も死んだ、コロナに罹かり4日ほどで息の根を止められた。人が死ぬというのは本当に簡単なことだった。もしかすると夫も、そんな考えが首をもたげ、皮膚のしたで恐怖が膨張していくのを游子は感じた。
「ただいま、うおおお、ただいま!」
 雨の轟音を引き裂くように、そんな声が聞こえた。玄関に行くと、びしょ濡れの譜賢が立っていた。
「あ……」
 他にも何か言わないといけないと思った。
「おか、おかえ、お、おかえ、お」
 “おかえり”という4文字がうまく発音できない。喉も、舌も、唇もちゃんと動かせない。というより体全体が制御を失い、糸を切られた操り人形のようになっている。だが瞬きだけが超高速で成されている。
「いや、本当にゴメン、携帯が水没して連絡できなかった! 雨のせいで電車も動かんし、動いてもちょっと進んでは止まるし、駅着いてもマジで帰るのに支障出てホントやばかった。でも心配だったのは游子の方だよな、こんな時に千百合と二人きりにさせて、ホントごめん……」
 游子は動けなかった。瞬きだけが超高速で成されている。
「おい、游子、大丈夫か?」
 彼女は夫の瞳を見た。その黒みに引きこまれて、あるものを見る。
 折り紙でできた緑色の船と紫色の船。2つは寄り添いあいながら、泥の川を進んでいく。豪雨に晒されてもなお、進んでいく。だが雨粒が大きくなっていき、船体はボコボコに潰れていく。それでも進むことはやめない。だが大きな泥濤がやってきて、一瞬で二艘を呑みこんだ。後には紫色の船が残る。ボロボロになった紫色の船だけが残る。もう前には進まない。流されるがままだ。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。