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コロナウイルス連作短編その66「今日は帰るよ」

 間宮城星は日比谷公園の入り口に立っている。ポケットのなかに突っこんだ両手は凍てつきに苦しみ、孤独な氷柱と化している。そこにルース・レオポルドがやってきた。日本の灰色の冬で、短い髪が黄金の輝きを放っている。星の姿を認めると、彼女はマスクを外して手を振ってくる。クリームつきのプリンさながら柔らかな笑顔は無邪気で、とても可愛いと思える。
「はじめまして」
 覚束ない日本語でそう言った。オランダ人は背が高いと聞いていたが、事前に言っていた通り彼女は150cmしかなく頗る小さい。むしろ星の身長は日本人女性としては高い182cmで、友人にはよくからかわれた。だがルースは身長に一切触れることはない。片言の日本語でゆっくりと挨拶をする。コロコロと響くそれがとても愛おしく思えるが、これを口にするのはマイクロアグレッションの類と確信していたので、心のなかだけに秘める。
 日比谷公園を歩きながら、星はルースと少しずつ距離を深めたいと思う。だが挨拶の後、気軽に話題を振ることができない。心臓がピリピリと痺れているのを感じた。濃密な緊張が星の思惟を搔き乱していく。
「あー……日本人とデートしたことある?」
 ルースは少し驚いたような表情を浮かべた後、納豆のような粘った苦笑を浮かべる。
「まぁ、日本に住んでるからね。デートする相手は日本人の方が多いよ、そりゃ外国人ともデートするけどね。でもアジア人フェチとかそういうのじゃないよ、私は"ヘンタイ"じゃないし」
 ルースは変態という言葉だけ日本語で言った。
「へ、へえ……」
 ここに沈黙が続くので、急いで言葉を紡がなくてはと思う。
「私も外国人とデートしたことある、外国人の方が多いかも。日本のレズビアンって結構保守的でルッキズムとか酷いし、だから外国人の方がいいって感じ。後ね、私はヨーロッパの文学とか映画とかが好きだからかな、ヨーロッパの人と価値観が合うっていうかさ……」
 白人フェチとかそういうのじゃないよ。
 先のルースの発言を踏まえて、こんな冗談を言うべきだろうか。しばらく考えたが、何か憚られるので言うのを止めた。
「ねえ"何で日本に来たの?"とか聞かないの」
 ルースはニヤニヤしながら言った。
「えっ、いや何か……」
「"日本人とデートしたことある?"とは聞くのに?」
「…………イヤだったらゴメン」
「別にいいよ」
 ルースは笑っていたが、響きは何か酷薄だった。
「最初に日本の文化に触れたのは桜の花見かなあ。本でね、そういう文化があるのを知って何だか綺麗だなって思った。その後、家族でベルギーのオーステンデって所に旅行に行ったんだけど、そこに桜の花見ができる公園があって、そこでお花を見ながら近くの日本料理屋で買えた緑茶を飲んで、それから餅を食べたの。美味しかったなあ。今思えば、これが"風流だなあ"ってヤツだよね。それで日本に行きたいなっていう漠然な思いが膨らんでいったって感じ。で日本に来て、大学の友達と念願の花見に行って楽しかったけど、花粉症になっちゃったよね。今はもうマジに春が憂鬱だよ」
 ルースは鼻をこする。
「それから『新機動戦記ガンダムW』が超好き」
 思わぬ名前が出てくるので、星は吹き出してしまう。彼女も『新機動戦記ガンダムW』が好きだった、特にガンダム・エピオンが好きで、そういう個人的な思いや嗜好をブチ撒けると予期せぬほど会話が弾んだ。
「私もオランダの文化が好きだよ」
 話がひと段落した後、星はそんなことを言った。
「この前、オランダ映画を観たの。最近のヤツ。ゲイの農夫が、こう自分の欲望みたいなものを隠しながら、寡黙に仕事をこなしたり、半身不随の父親を介護したりするの。ただそれだけを描いた作品なんだけど、彼の身振り手振りからさ、切実な欲望が現れる姿をすごく、すごく繊細に描きだした。それがものすごく悲しくてね、本当に泣けた。主人公が野原に寝転がって空を見る場面とか、何てことないけど感動がバアーッて込みあげてくる感じだよね」
 ルースは頷きながら、星の話を聞く。
「その映画は観たことないんだけど、たぶん私、原作の小説は読んだことあると思う」
「えっ、原作なんてあるの」
「うん、ストーリーとか同じだから、たぶん。ヘルブラント・バッケルっていう小説家の『全てが静けさ』っていう作品なんだけどね。私も読んだ時、感動したの覚えてるよ。話聞く限り、すごい良い映画化みたいだね。私も観てみようと思う。バッケルの本って日本語に翻訳されてる?」
「えっ、いや分かんない。でも最近のオランダ文学とかって訳されないよ、日本じゃ」
「ふうん、じゃあ私が翻訳しようかな、はは」
「私も応援するよ」

 次に会った時、ルースの日本語は格段に上手くなっていた。
「またデートしたいなって思って、もしそん時日本語じょずになってったら、嬉しく思われるかなって思った」
 聞いた瞬間に間違いは明らかだが、これをスムーズに表現できているので驚かされる。そして彼女の言葉は実際嬉しかった。彼女たちはまず近くにあるセブンイレブンに行き、コンビニスイーツを探す。
「生ちょこ餅、これ美味しいんだよ。すっごいホワホワしてる。ルース、餅好きだよね。オススメ」
「これ! モンブラン、前に友達に勧められて食べた! 栗の味がすごいから、小さいけどお腹いっぱいになるよ。もう1回食べようかな」
「もっちりクレープのシリーズもいいよね。私はこの苺ソースが入ったのが好き。苺とミルクの味がクレープ生地のなかで溶けてる感じが、何か食べてて気持ちいいんだよね」
「私はこのクッキーサンドが1番好きだな。苺とレアチーズが入ってて、クッキーも柔らかくて崩れやすいのがちょうどいいよ。セブンイレブン来たら、これいつも買ってる」
 星はルースと顔を見合わせて、笑った。
「私、コンビニスイーツ大好き。オランダのスイーツ、高いのはすごい美味しいけど、安いのはあんま良くない。だから安くて美味しいコンビニスイーツは最高だなあ」
 大好き大好きと日本語で言いながら、スイーツを選ぶルースが可愛くて、ほっぺたにキスをしたくて堪らなくなる。
 幾つかのスイーツを買った後、星たちは近くの小さな公園に行く。ベンチに隣あって座り、スイーツを食べ始める。しばらくは何も喋らない。だがこうして沈黙を共有する時もまた気分が良くなるのは素敵な傾向だと思える。相手もそう思ってくれていることを願いたかった。彼女たちの目前では、幼稚園児たちが鬼ごっこをして遊んでいる。手をパタパタと羽ばたかせながら走る少年少女は、コロナウイルスなど何も気にしていないように思える。
「あーあ、マーニャに会いたいな」
「マーニャって誰?」
「姪だよ、お姉ちゃんの娘。今は5歳ですっごく可愛いよ。毎日Zoomとかで色々喋ってる。表情がコロコロ変わって虹色にピカピカしてる。もう心が蕩けるよね、見てると。でも直接ギュウってハグできないの、寂しいよね。でもすごく可愛いからいいの」
 そう話すルースの頬はポカポカと温まり、ほんのり赤く染まっているので、今度はそこに甘いクリームの滴をつけてあげたくなる。
 スイーツを食べ終わった後、星とルースは街中をフラフラと歩く。ここには、ルースがある記事で読んだというのでやってきた。東京メトロに属する1駅ながらも駅の周りは完全に閑散としており、それはコロナだけが原因ではなさそうだった。だがその閑散ぶりは麗しい静謐をもたらし、これは素朴な街並みにも現れている。色彩は灰を中心とした淡泊さを極めながら、網膜を優しく撫でるような感触があった。実際、ルースはこの街並みを感嘆を以て、眺めていた。
「ガイジン!」
 小さな少女がルースを指さしながら言った。保護者である男性が即座に謝り、ルースも何ともないといった風に笑顔を浮かべる。最後には互いに手を振りながら和やかに別れるのだが、その家族が消えた後、ルースは口に梅干しを猛烈に注ぎこまれたような変顔を浮かべる。
「何かこういう時、どう反応していいか分からないよね。ここ日本だし、子供だから目くじら立てるべきじゃないと思うけど、何かさあ……」
 ルースは煮え切らないようだったが、星は正直にどう声をかけていいか全く分からない。

 次に会った時、空は既に痣のような黒みがかった紫色に包まれている。一方でルースの日本語は更に上達し、コロコロと小石が転がるようだった響きは音符の優雅な連なりに変わっていた。再び彼女たちはコンビニ、今度はファミリーマートに行くが、今度買おうとしていたのは酒だった。
「日本、お店のお酒のラインナップヤバいよねえ。私、お酒好き、最高やあ」
 そんなことをスラスラと日本語で言うので驚かされる。星は軽いコーラサワーを2本だけ買ったが、ルースはチャミスルやだし入りの日本酒など色々買っており、星は苦笑してしまう。
 空は闇に満たされているが、夜の街には全く活気がない。人の肉を伴った視線も存在しない。春の未だに寒々しい風に晒されながら、星は酒を唇に注ぐ。コーラの甘みの奥から酩酊が込みあげてくるのを感じた。そしてその揺らぎが脳髄をふやけさせていく。横では、ルースがなかなかの勢いでチャミスルを飲んでいた。
「これは焼酎よりまろい、なめらかで美味しい」
 また日本語で言った後、その小さな身体をクルクルと回す。可憐さは木々の合間を自由に駆け抜ける妖精といった風だった。彼女の楽しそうな様子が、星の脳髄をさらに甘やかす。彼女たちは2人でクルクルと回る。誰も気にしない、そもそも人々がそこには存在しない。自由だった。
 ふと、ルースがバランスを崩して星の方へと倒れこんでくる。余裕を持って受け止め、抱きしめた瞬間、髪の生々しい脂の匂いやワックスの果実のような甘い香りが鼻に届いてくる。堪えきれなくなって、鼻をピクピクと動かしてしまう。自分は変態だと思った。しかしルースの蕩けた笑顔を見た時、別に自分は変態でもいいと思い直す。
 最後には公園に辿りつき、ふやけたティッシュペーパーのようにベンチにしなだれる。酩酊の熱を伴う頬を風で冷ますうち、星の頭にはある話題が浮かぶ。
「そういえば最近、オランダのニュース読んだよ」
「へえ、どんなの」
「バイデンの大統領就任式に作品を読んでたアマンダ・ゴーマンっていう詩人の詩集を、オランダではマリーケ・ルカス・レイネフェルトって小説家が翻訳するって最初はなってた。でも彼女は白人で、黒人であるゴーマンの作品を訳す資格はないって非難されて、とうとう翻訳を辞退したみたいな。知ってる?」
「うん、勿論知ってる。それについてどう思う?」
「えっ」
 割合真剣なトーンでそう尋ねられたので、星は少し狼狽える。
「……私はそれを訳す資格っていうのは、やっぱり作風が合ってるかとかその言語への理解力があるかだと思う。彼女って翻訳された作品がブッカー賞を受賞するくらいすごい、しかもゴーマンと同世代の小説家で詩人なんでしょ。その資格はあると思うんだけど」
「まあ、確かに力はあると思うよ。でも私はそれじゃいけないと思ってる」
 ルースは控えめで、厳粛な声色の英語で言葉を紡ぎはじめる。
「でもオランダは多様だよ。アフリカ系もアジア系もアラブ系の人々もたくさんいる。特にオランダはインドネシアやスリナムみたいな国を植民地化していた酷い過去があって、その関係でこの国にルーツを持つっていうオランダ人は多いよ。スリナムって国はオランダ人が奴隷として連れてきたアフリカ系の人々の子孫が沢山いて、その上オランダ語が公用語くらいにオランダ文化が馴染んでるからこっちに留学して、移住してくる人もやっぱり多いし。で、そういう人々は労働問題という観点で見過ごされてきたんだよ、それは芸術の分野でもそう。だから彼らに仕事を任せるのは労働問題、それから当事者性の問題として重要なんだよ」
 星は何も言えなかった。
 別れ際、ルースは首筋を神経質そうに掻いた。
「ねえ、ハグしていい?」
 その時のルースは恋に馴れていない少女といった風で、愛おしかった。
「そんなハグするのに許可なんか要らないよ」
「でも日本人ってあまりそういうことしないでしょ。日本の文化とか尊重しなきゃね」
 それからルースはぎこちなく星をハグする。さっき偶然ルースを抱きしめた時とは全く違う心地よさを感じた。彼女のぬくもりが自分の身体に沁みわたってくる。
「いい匂いだね」
 そう言ってくれて嬉しかった。

 実際に会わない時も星とルースはZoomで会話をする。最近また『新機動戦記ガンダムW』を観始めたこと。少し前に買った猫柄の可愛らしいベストのこと。次に買いたいのはハローキティ柄のドクターマーチンであること。東京オリンピックは中止すべきだということ。
「私、最近K=POPとか聞き始めたな。BTSとかは勿論だけど、SUPER JUNIORとかBLACK PINKとかいいよね。聞いてると毛穴がパッパッて炸裂するみたいに元気になる」
「私はK-POPとか日本のアイドルとかそういうのはあんまり好きじゃない」
 ルースが不機嫌そうな顔でそう言うので少し気圧される。
「どっちも労働問題とか女性差別とかそういう人を抑圧するシステムを温存するようなものだよね。それがまるで素晴らしいものみたいに喧伝されて、若者がこれに憧れて非人道的な扱いを受けて、力がなければ捨てられて、生き残った者だけが有名になるけど、時期が来れば捨てられる訳でしょ。特に日本ではさ、秋元康が酷い人間だと思われてるのに、J.Y. Parkが親しみやすい人格者みたいな扱いをされてるのは納得いかない。彼がアジアの若者を洗脳してる諸悪の根源だよ。秋元より狡猾で、卑怯。BTSが祭り上げられてる理由もよく分からない。アメリカの何かのベストに入れば、もうそれが素晴らしいの? アメリカ中心主義に陥りすぎじゃない? 馬鹿みたいだよ、本当。それでさっき言った労働問題みたいなのが覆い隠される、最悪だね」
 そういうことをのべつ幕なしに言うので、星は不信感を抱く。
 そういうルースの言ってることだってNew York TimesとかWashington Postとかの受け売りっぽいじゃん。
 だが本心は隠した。
「分かるよ、まあ分かるけど。でもBTSや他のK-POPグループが海外のアジア人差別と戦ってくれるし、外国の人のリスペクトを勝ち取ってくれるっていうのは私たちがこれから生きるにあたって有難いことだと思うけど」
「でもそれで他の差別が温存されてしまうのは良くないよ」
 不服を抱きながら、星はこの親密な雰囲気を壊したくはなかった。
 2人はZoomをする前に、それぞれ近くのスーパーで最近流行りのバターアイスを買ってきていた。それを観ながらAmazonでレンタルした『YUMMY ヤミー』というゾンビ映画を観た。乳房が大きいことがコンプレックスの少女が整形外科で減乳手術を行おうとするが、そこでゾンビパンデミックが起こるという作品だ。子供たちが玩具を好き勝手に使い、挙句の果てに破壊するように、人間の肉体が好き勝手に弄ばれた果てに破壊されていく様はもはやコメディで、そういったユーモアが好きな2人はお腹が捩れるほどに笑った。星のお気に入りは、吸引された脂肪が逆流して人体が爆裂を遂げる場面だった。ルースは笑いながら、買ってきたバターアイスを3本も食べていた。
 『YUMMY ヤミー』を観終わって適当に会話をしていた時、ふと親密な沈黙が舞い降りてくる。2人はただ唇を緩めて、笑っている。ルースはカメラの方に手を伸ばして、それを撫でた。闇のなかに赤く染まった指の皮膚が一瞬浮かぶ。
「今度会った時、口とかほおっぺたとか触りたい」
 ルースが日本語でそう言った。
「うん、今度会った時にね」

 そうして数週間後、彼女たちは再びデートをする。駅で会い、他愛ない会話を繰り広げながら、最後にはルースの部屋に辿りつく。黒と灰を基調にした素朴なインテリアだったが、やはり根本のところで日本人とは異なるセンスが存在しているように思われる。日本の若者の部屋は凝縮された親密さのようなものが先立っているが、外国の若者の部屋――とはいえ星はフランスやポルトガルから来た若い女性の部屋しか見たことがなかったが――は風通りのよい余裕が先行しているように思われる。灰色のソファーに座り、黄色の小さな座布団に寄りかかった時には安らぎを感じた。
 まずルースが最初に見せてくれたのはPrimaveraという日本の雑誌だった。
「モデルとして日本でデビューした!」
 彼女は自分が映っているページをワクワクしながら見せてくる。
「すごいね」
 最初はルースの笑顔が伝染するように、高揚感を抱いた。世界なんて気にしないとでもいう風な超然とした表情で、彼女は堂々とカメラに映っている。恰好いい姿だ。だがどのページにもルースと同じ白人たちが、白人たちだけが映っていた。アジア系の顔立ちを持つモデルはいなかった。
 星はルースと一緒にポロネーゼを作る。
「ズッキーニって初めて料理するかも、というか食べるかも」
「ズッキーニすごい美味しいよ。ポロネーゼには必要、美味しいよお」
 ルースがズッキーニを切る姿はかなり大雑把なもので、いつ指を切ってしまうか分からない怖さがあった。そんな中でもルースは楽しげにズッキーニを切っている。怖いので星が切るのを変わる。
「すごい慎重だね、うまいねえ」
 ルースは星の大きな身体を後ろから抱きしめる。最初は嬉しいものの、その抱擁のせいで包丁がガタつくので、少しだけ苛ついてしまう。
 完成したポロネーゼを食べながら2人は一緒にYoutubeの動画を観る。モルモットを映した動画が特に可愛いのでずっと観てしまう。動物園で、飼育員の先導でモルモットの群れが木の橋を渡っていく。彼らは前のモルモットのお尻に顔を埋めながら、いそいそと前を進んでいった。ある動画では長い野菜を2匹のモルモットがモソモソと食べていた。お茶目な無表情で、野菜が口に吸いこまれていく様は何となく滑稽で、星の頬も思わず緩む。ルースが彼女の肩を叩く。その方向を見ると、ルースがモルモットの真似をしてモソモソとスパゲッティを啜っていた。星が笑うと、ルースが橋を行くモルモットさながら近づいていてくる。スパゲッティを啜り切った後、ルースは星に甘える。彼女が自分の肌や体臭を自分に擦りつけてくるのが嬉しかった。しかし子供の無邪気なお遊びの雰囲気は、徐々に姿を消し、もっと肉それ自体が香るような淀んだ雰囲気に変わっていく。ルースの表情は稚気と淫靡が交わるような鮮烈さを宿していて、星の身体が震える、心臓が縮んでいく。ルースのトマトソースのついた唇で星の首筋にキスをし、皮膚やその奥にある筋や骨までも貪ろうとする。脳髄でも心臓でも股間でも、性欲が渦を巻くのを感じた。身体は熱くなる、意識は官能に緩まっていく。だが今日に限って、その奥にある奇妙な恐怖と躊躇いに注意が向いた。
「待って、待って」
 星は思わず日本語でそう言っていた。身体を離すと、ルースが見捨てられた子犬の表情をしているのに気づいた。
「ねえ、もうちょっとYoutube観てようよ。後で、もっとキスしてあげるから」
「ああ、うん……」
 ルースは唇のトマトソースを舐めとる。
「ちょっと、急ぎすぎたね。まあちょっと、何か……分かるでしょ。星のこと……だからちょっと興奮しちゃって」
「うん、いいよ。別に、大丈夫。もうちょっと一緒に、静かに寄り沿ってたいだけ」
 星はルースの頬に軽くキスをする。
 しばらく笑いとともにモルモットの動画を観ていくが、脇のオススメ動画の枠に星がある動画を見つける。
「あっ、これ懐かしい。昔、テレビでやってたやつだ」
 思わぬ郷愁が星にその動画をクリックさせる。それは『ファニエスト外語学院』というあるコメディ番組の1コーナーだった。
「20年前に日本でやってたやつ。ビデオとかで観て、私も笑ったなあ」
 この企画にはアメリカ人のセイン・カミュ、ナイジェリア人のボビー・オロゴン、ベナン人のアドゴニー・ロロが登場する。彼らが日本文化を学ぶという規格であるのだが、セインは日本語が堪能である一方、ボビーとアドゴニーは日本に来たばかりで日本語がうまく喋れない(加えて彼らは黒人だった)彼らは日本人にとってはひどく奇妙な日本語を紡ぎ、流暢なカミュがツッコミを入れ、この流れに視聴者は笑っていた。
「こういうの20年前だから成立してたんだけどね。今だったら絶対アウトだよ」
 星はあくまでもそう言う。だがアドゴニーが"333m"という言葉を言えず"ちゃん、ちゃんびゃく、ちゃんびゃく、ちゃんじゃん、ちゃんじゃん、ちゃん"と間違えた時、そのリズムに星は笑ってしまった。ルースはまるで人類学者のような眼差しで動画を眺めていた。そもそも何故この動画を見せようと思ったのか、星は自分の行動に疑問を抱きながら、星は笑うのを抑えられなかった。だがボビーが"あめんぼ、あかいな、あいうえお"を"あかんぼ、あれんぼ、あれんべな"と言った時、ルースは思わず吹きだした。そしてボビーが続けて"あかんぼ、あれんぼ、あかまじろ、中目黒"と言った時には、もはや笑いを抑えきれないようになっていた。さらに彼は"なまむぎ、なまごめ、なまたまご"という早口言葉を"なまむぎ、あまむけ、なまたむきん"と言い、ルースは笑いすぎるあまり咳込み始める。その様子に驚きながら、星も笑っていた。ボビーやアドゴニーが紡ぐ誤った日本語の響きは、彼女にとってあまりに面白すぎた。星とルースはその面白さを共有し、互いに背中を叩きながら笑っていた。
 動画を観終わった後、2人の間に沈黙がやってきた。そのなかで星はルースの唇を見た。まだトマトソースのシミが端についており、その傍らにはズッキーニらしき小さな、小さな欠片がついていた。それに手を伸ばそうとするが、止めた。
「何か……今日は帰るよ。また今度ね」
 星はそう言った。
「うん、分かった」
 ルースはそう言った。

 星は夜の道を歩く。氷柱のように冷たくなった両手をポケットに突っこんだまま、前歯で下の唇を噛んだ。あのまま実際唇と唇でキスをしたらどうだったか、星はそう考える。自分の首筋に触れた唇はとても柔らかかった。しかしもし唇に触れたなら、コンソメの味が少々濃かったあの塩味が先立つだろう。その鬱陶しい塩味を掻きわけていき、初めて星はルースの唇の感触を味わうことができる。唇の小さな1本の筋が静かに傷として開き、鮮やかな血が秘かに流れるような幸せを感じることができる。
 だが、星は今歩かなくてはいけなかった。どちらの方向に行くにしろ歩かなくてはいけない。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。