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コロナウイルス連作短編その60「デュア・リパ」

「このブラジル映画の監督ってヴァルテル・ウーゴ・クーリって言うんだけど、最初は割とハリウッドのB級映画職人に近い簡潔で厳格なスリラーとか冒険映画とかを作ってんだよね。でも途中からいきなりアントニオーニやベルイマンに接近していくの。この『燃える肉体』もそんな1作なんだけど、観れば解る通り、彼らの作品よりももっと虚無主義で即物的なんだよ。そこが私は好き。でも本当凄いと思うのは、中盤からだよね。延々とさ、草原で生活する馬のクロースアップと主人公女性の表情のクロースアップが交互に現れるでしょ。何なんだこれはって感じだけど、私はこの反復こそ重要だと思うんだよなあ。例えば都市生活者である主人公が自身の解放を田舎に生きる、育ててる男性たち含めた馬に見出す訳だけど、これは明らかに一方的で持てる者の搾取に見える。そしてこの搾取はブルジョアによる労働者の搾取にも重なって、それからこれは際どいけど、馬を性的に眼差す女性っていう人間から動物への性的搾取にも繋がるんじゃないかって思った。この延々と反復されるモンタージュはこの搾取の構造を観客の脳髄に刻みつけるみたいで、本当に、本当に凄いと思った」
 相渡萌香は目を輝かせながら『燃える肉体』という作品について語り、それを恋人である須加武史は目を細めながら聞いていた。萌香は17歳であり、37歳である武史とは20歳もの年齢差があったが、彼女の知識量には感心しきりだった。恋人同士になってから数多くの映画を武史は萌香に見せてきたが、それを深く咀嚼するのはもちろん、今では彼女もまた逆に武史にとって未知の映画を紹介するようになっている。彼女の脳髄は銀色に輝く液体金属さながら知識を貪欲に吸収しており、相当なシネフィルに成長している。武史はそれを誇りに思った。
「ねえ、キスして」
 彼女の表情は峻厳なシネフィルから、17歳の少女に変わる。武史はその脇腹を擦りながら、唇にキスをする。泥交じりの雪のような陰惨な柔らかさが、彼の性欲を奮いたたせる。興奮に突き動かされながら、武史は萌香の身体を貪りはじめるが、何故か彼女は戸惑いまじりにそのうねりを避けようとする。
「ちょっと話したいことある」
 彼女の表情は17歳の少女から、楢の根元で震える子狐に変わる。
「私、ピル飲むの止めるかもしれない」
 思わぬ言葉に武史はその顔を見つめる。だが実際に深い動揺にあるのは彼女の方だと思いなおし、その両手を静かに握る。
「この前、病院のウェブサイトで読んだんだけどさ、ピルって飲んでると血栓のリスクがあるっていうでしょ、でコロナウイルスも罹ると血栓ができる恐れがあるみたいな。だからピル飲んでる時にコロナに罹ると血栓のリスクが加速するっていう。そこにはピルを飲んでいいかは医者と相談って書いてあって、私も婦人科の先生に相談したんだけど、何だかまだその関係性は分からないとか何とか煮え切らない言葉でさ、医者がそんなんでいいんかよって思うけど……血栓ってヤバい時は死んじゃうんでしょ、すごい怖くて、コロナも怖いし、そういうリスクはできるだけ避けたいんだよね。だからピル飲むの止めようかなって……」
 萌香は力なく笑う。逆に武史は手を握る力を強める。
「お母さんにはちゃんと相談した?」
「じゃあ止めればみたいな感じで、ちゃんと聞いてくれないんだよ」
「それはどうして?」
「うーん……」
 話したくない様子を悟り、無理には尋ねないと決める。
「じゃあ保健室の先生には相談した?」
「いやだよ。峰岸っていうんだけど、アイツ、保健室通学の生徒にヤバいことしてるとか噂なんだよ。何か性的にヤバいこととかやってるって」
「そうか、他に相談できる相手は?」
「いない。親戚に若い女性みたいな人いないし。分かんない」
 萌香が俯くと、目元に艶めかしい影が浮かびあがる。
「そうかそうか、正直に話してくれてありがとう。大丈夫、一緒に考えよう。とりあえず話す余地があるなら、もっと真剣にお母さんと話した方がいいと思う。それからこういう性の悩みを匿名で相談できる電話とかウェブサイトみたいなものもあると思う。ぼくも調べてみるけど、萌香も自分で調べられる?」
「うん」
「それから、もしピルを飲むのを止めたらどういう症状が戻ってくると思う?」
「私、結構生理痛キツいしPMSとかもヤバかったから、すごく辛くなると思う」
「分かった、じゃあ早く解決するべきだな。自分も調べてみるよ」
「ありがと、スガ」
 この日はセックスはせず、2人はただキスをした。ズボンの上から萌香は武史の勃起したペニスを触るが、彼はその手を自分の両手で包みこんだ。そしてしばらくの間、無音のなかで抱きあう。

 萌香が帰った後、武史は早速コロナウイルスとピルの危険性について調べ始める。萌香に好き勝手中出しできる機会を失いたくはなかった。未知の事象は図書館で文献をあたりながら調べるべきだったが、現在はコロナで閉館の憂き目に遭っている。彼は仕方なしにネットを駆けずり回る。ピルの血栓リスクについての記事、そしてコロナの血栓リスクについての記事、片方を詳細に解説した記事は幾つも存在しながら、2つの関係性を解説した記事はほとんどなかった。幾つかそのコロナとピルによる血栓の合併リスクに関する記事もあったが、萌香の言った"煮え切らない"という言葉がそのまま適用できるような、曖昧な注意喚起に留まっていた。一応英語でも検索してみるのだが、期待していたような記事も論文も存在していなかった。血栓に関する学術的研究が未だに進んでいない状況に歯痒さを感じながら、武史は尻の穴を掻いた。

 次に萌香が家にやってきた時、武史は新品のミネラルウォーターとともに彼女を出迎えた。冷蔵庫に大切に閉まってあったそれは普通のペットボトルではなく、まるでSFに登場する人口冬眠装置のような無機質な円錐型の容器だった。萌香は手渡された円錐を恐る恐る受けとり、中の水を飲んでみる。
「何これ、うっま。痛いくらい冷たくて、口にキンキンくる。でも何だか後味はやわっこい。美味しすぎ。これに比べたら生協の水とかクソじゃん」
「これ、Vossっていう名前のノルウェー産の高級ミネラルウォーターなんだよ。Amazonで探したらあったから、買ったんだ」
「これ幾らすんの?」
「その容器1本で900円だ」
 萌香は目を丸くしながら容器を見据え、そして冷蔵庫の中で騎兵さながら並ぶ容器の数々を眺めた。
「何かカルト宗教がよく売ってる、チャクラとか銀河からのエナジーの入った怪しい水じゃないの? ヘソに10分間溜めておくと臓器の病気が治るみたいな」
「そういうのじゃない、そういうのじゃないよ」
 そう言いながら、彼はAmazonのページを見せ、消費者たちのレビューを読ませる。
「"ジャスティスビーバーも飲んでた"だってさ。誰だよジャスティス・ビーバーって」
「まあAmazonにレビュー書く人間は腐れ脳味噌ばっかだろ」
「でも何でこんなの買ったの?」
「もちろん水を飲めってことだよ。知ってるだろうけど、血栓を予防するためにはこまめな水分補給が必須なんだよ。だから萌香にいっぱい水飲んでほしいって買ったんだ。それからどうせなら美味しいミネラルウォーターを飲んでほしいって訳だよ」
「スガって優しいねえ」
 萌香のニヤついた笑顔は、逆さまになったキティブタバナコウモリのようだった。
 武史は自分がネットで調べた結果を報告した後、彼女にも母親との話し合いについて尋ねる。
「やっぱダメだった。母さんはそんな心配なら止めればってしか言わない。アイツ、自分の生理が割かし軽いから、他人の生理を見くびってんだよ。前、スコットランドで生理用品がただで配られるようになるってニュース見た時『生理用品くらい自分で買えよ』とか文句言うくらいだし。私の場合、血はあまり出なくて、それもアイツが私の症状軽く見る原因にもなってるけど、でもPMSや生理痛が本当酷いの。PMSは意味もないのに不安になって、その状態で食べ物とかアリクイみたいに貪ることになる。あと夜に目が血走って、全然眠れなくなって翌日の授業で寝ちゃうとかよくある。生理痛は何か肉に亀裂が入るみたいに痛くて、フェイスハガーが腹をブチ抜いてくるんじゃないかってくらいヤバい」
 萌香は『エイリアン』が好きでリドリー・スコット主義者である一方、武史はデヴィッド・フィンチャーの最初にして最後の傑作として『エイリアン3』が好きだった。
「ピル飲み始めたら、この症状がかなり劇的に改善したから私にとってはこのピルは物凄い重要なんだよ。ピルのおかげで安心して映画が観られるし。でもさ、母親は何も心配してくれないんだよ。ピル止めるって言ったら心配するどころか『ウチの生計圧迫してるから買うの止めてくれれば助かる』とか言ってくんだよ。冗談なのか本気なのかすら分かんないけど、めちゃムカつくよ。アイツ、他人の身体なんてどうとも思ってないんだよ。父親はトイレの隅っこのサニタリーボックスすら見たくないって感じだからそもそも頼れないし、何かもうヤダ」
 武史は萌香の首筋を見た。紫でもなく、青色でもない、薄いながらも確かに赤い血管がその白い肌を駆け抜けている。
「何も心配する必要はないよ。もし君がこのままピルを買い続けると決断するなら、その代金はぼくが払う。萌香の周りに頼れる大人が居ないのなら、せめてぼくがその"頼れる大人"になりたい。どうかぼくを頼ってくれ。何も心配する必要はない」
 武史は萌香の身体を抱きしめ、左の肩甲骨を触る。彼女が帰った後、武史はデュア・リパの"Leviating"のPVを観ながらオナニーをする。前はビリー・アイリッシュの大きな乳房を愛していたが、今は萌香の体つきにより近いデュア・リパを見ている方が興奮した。そして射精をしてから、洗面所でペニスを念入りに洗った。

 実際、萌香が武史を頼る回数は日に日に多くなっていく。ある時は今にも泣きそうな表情で武史の元にやってきて「足がむくんでる!」と泣きついてきた。
「もしかしたら何か、足の静脈とかに血栓ができてむくんでるのかもしれない! 死ぬかも!」
 武史は一緒にミネラルウォーターのVossを飲みながら、彼女のむくんでいる右足をマッサージする。もちろん彼はその右足に何度も触れたことはあったが、特段むくんでいるとは思えない。だが今彼がするべきは身体も心も彼女に寄り添うことだと分かっている。
「大丈夫、大丈夫だよ。最初は確かにむくんでたけど、マッサージしてるとほぐれてる感じするよ。今回はそんなに重症じゃないよ。でもぼくを頼ってくれてありがとう。それがうれしいよ」
 武史は勃起した。だがこれは全く性的でない慈しみからのマッサージであると自分に念じる。今の状態で以前のように気軽にセックスをするということは、しかし何らかの一線を越える行為に他ならないと武史は確信している。全てが終息した後、この行為によってこそ軋轢が生まれる可能性は何としてでも避けるべきだった。武史は勃起していた。だが粛々とマッサージを終えた後、彼はただ萌香の額にキスをする。

 その日、萌香は部屋に来なかったが、代わりにZoomでビデオ通話をしていた。
「緊張する?」
「うん、だってアルバニア語を習うっていうのは初めてだからね」
「ああ。それから今回、先生にはぼくらの関係性は隠しておこう。気の知れた高校の国語教師と教え子という設定にしておく」
「分かった。ヨーロッパって20代30代どころか大学生が女子高生と付き合ってるのバレたら公開処刑でしょ? そんなの間違ってるよ。別に女子高生だけに限んないけど、頭良くて人生経験豊富な人に惹かれるなんて普通じゃないの?」
 萌香は笑った。
 彼らにアルバニア語を教えてくれるブレルタ・ハラディナイという人物は、現在アメリカ在住のアルバニア人女性だった。豊かな黒髪と、断崖のような頬骨が印象的だった。彼女は一切訛りのない英語を喋っており、萌香がついていけるか疑問だったが、彼女は難なく聞き取りも会話もできていた。世間話の後、ブレルタはまずアルバニア語を勉強したい理由を聞いてくる。萌香はデュア・リパやビービー・レクサといった英語圏のポップスターが好きだが、彼女たちがアルバニア系ということを知り、アルバニアに興味を持ち始めたと答え、ブレルタを喜ばせる。武史は例えばジャンフィゼ・ケコやジミテル・アナゴスティといったアルバニアの映画作家が好きで、ぜひとも彼らが使う言語について学びたいと話す。ブレルタは武史の持つアルバニア、そしてコソボ映画への知識に驚いたようで、彼は心のなかでほくそえむ。
 まず萌香たちはアルバニア語の基礎的な挨拶について学ぶこととなる。"Mirëmëngjes"("おはよう")や"Mirëdita"("こんにちは")、"Gëzohem që u njohëm"("お会いできて嬉しいです")といった言葉の数々は、武史が今まで触れたどんな言語とも違っており、目を開かされる。そして発音も難敵だ。ブレルタはその綴りを提示しながら発音を教えてくれるのだが"ë"が例えば英語の"apple"の"a"のような"あ"と"え"の合間の曖昧な発音であることはまだ理解できるとして、"nj"や"gj"といった綴りの発音は日本語でうまく説明できないほど奇怪なものだった。この発音を頑張ろうと唇を色々と動かし、眉間に可愛らしい皺を寄せる萌香の姿を見ながら、武史は自身の心臓が握りつぶされるような快感を覚える。

 夜、萌香に連れられて武史はある歩道橋へと赴く。歩道橋はこの小さな町には不釣り合いなほどに大きいのだが、それは住宅街の横を東京へと続く高速道路が通っているからだ。空へと続く階段の下には、妙に広い空間が存在し、時おりここで子供たちがサッカーやバスケの練習をしているということがあった。大分夜も深まっているので、今ここには誰もいない。おそらく歩道橋を渡る人物もいないように思われる。萌香はタブレットを起動すると、ある動画を再生し始める。それはデュア・リパの"Let's Get Physical"のPVだった。ここで彼女は友人のダンサーたちとともにダンスを踊っているが"Work Out"という副題の通り、それは他のPVと比べるとエクササイズといった振付となっていた。
「血栓予防には運動も必要なんでしょ?」
 そう言ってから萌香はデュア・リパに合わせてダンスを踊りはじめる。隣接した高速道路から巨大な遮音板をもすり抜けて、鼓膜を切りつけるような響きが届く。それが"Let's Get Physical"における幼稚さが官能へと必死に背伸びしているような音楽性を尖ったものにしていく。萌香の腰の動きもまたその音楽性に似て幼かった。武史には幼女による性的な挑発にしか見えず、興奮を抑えることができなかった。
「スガも踊りなよ」
 そう言われたので武史もデュア・リパの真似をし始める。腰をグルグルと回したり、左へ右へと勢いよく突きだすのは予想以上に骨の折れる作業だと彼は悟る。脇腹の筋肉は相当固まっており、腰を突きあげるごとにピックルの切先でブチ突かれるような痛みを味わった。そして早々に限界がきて、腰を擦りながら思わず床に蹲ってしまう。
「スガ、もうおじいちゃんじゃん。老害じゃん」
 萌香は腰を振りながら爆笑した。武史は彼女に騎乗位されながらヴァギナに射精した時のことを思いだした。

 武史と萌香は着実にブレルタからアルバニア語やアルバニアの文化を学んでいた。この日は"Unë dua të flas më shumë shqip"("私はもっとアルバニア語が学びたいです")という文章からアルバニア語の文法を学んだ後『地獄、1943年』というアルバニア映画を観始める。今作は第2次世界大戦時、ファシストに支配されたアルバニアを舞台として、強制収容所に収容されたパルチザンたちが反乱を画策するという物語だった。Youtubeに違法アップロードされた作品なので字幕もついていないが、ブレルタの解説つきで今作を鑑賞するのは楽しいことだった。そしてブレルタはイタリア占領下のアルバニアの状況や監督であるリカルド・リャリャについて話した。リャリャは元々俳優であり、アルバニアで最も有名な作品の1つである『死の先の勝利』という戦争映画にも出演していた。そんな彼が監督として作った2作目の映画が『地獄、1943年』だったがその内容からアルバニアのエンヴェル・ホジャ独裁政権によって上映を禁止されてしまったという。2020年に彼は亡くなったが、アルバニアにいる多くの映画作家やシネフィルたちがその死を悼んだ。そんな情報の数々を武史も萌香も猛烈に自身のノートに記していくので、ブレルタは感嘆の声をあげる。
「あなたたち、本当に仲がいいのね」
 液晶画面の萌香と目が合い、笑いあう。しかし萌香の方が更に熱心な形で、ブレルタに質問を投げかけ議論を行う、しかも英語でだ。武史は少し言葉を挟むだけで、そこに参加することはない、できないのだ。リスニング能力の低さによって彼は蚊帳の外にいた。萌香がどんどん、加速度的に賢くなっていているのを武史は感じた。
 夜には再び萌香と歩道橋の下へと踊りにいく。腰は本当に痛いながらも、一種の爽やかさをも感じられた。徐々に下半身の筋肉も柔らかくなってきているようだった。だが今回は萌香の様子が違った。彼女は武史の身体にまとわりつきながら、腰を振り続ける。笑っている、そして何度も左の頬を掻いている。武史はもちろん勃起して、萌香の身体にそれを擦りつける。彼女は武史を歩道橋下のさらに暗い場所へと連れていき、そのズボンを脱がせるとフェラチオを始めた。最高の気分だった。
「もうイキそうだ」
「じゃあ、どこに出したい?」
「口に出したい」
 いつもその願いは曖昧に躱されながら、この日に限って萌香は微笑みとともに頷く。なので武史は萌香の口に射精をした。精液を含みながら、萌香の微笑みは朗らかな笑顔に変わる。
 だが歩道橋にボクシングを練習しにきたらしい若者たちが現れたので、武史たちは急いで隣接する工事現場の方へと隠れた。影のなかでしゃがむ萌香に、武史は汗を拭くようのタオルを渡した。朗らかな笑みをそのままに、彼女は口から精液をダラダラと垂れ流していき、粘液はそのままタオルへ落ちていく。喜びから、武史は萌香の顔面を全力でブン殴りたくなった。

 家に帰った後、彼らは一緒にスープを作る。生理の時に飲めば不快感が緩和されるという、アボカドとミニトマトの卵スープだ。アボカドの皮と種を取るのを萌香はやったことがなかったので、武史が代わりにお手本を見せる。
「私んちでアボカドとか出たことない」
「醤油かけるとマグロの刺身みたいで美味しいんだよ」
「私はサーモンの刺身の方が好きだわあ」
 アボカドを一口大に切る、ミニトマトは半分に切る、白ネギは薄い輪切りにする、ショウガとウインナーは輪切りにする。こういった行程を萌香は器用にこなしていく。シメジをほぐしたり卵を割りほぐしながら、武史は目を細める。鍋に水と白ネギ、シメジ、ウィンナーを入れて加熱し、味を調えた後にはミニトマトとアボカド、ショウガを加える。グツグツと煮えるスープを眺めながら、萌香は武史の脇腹に手を伸ばす、まるでティモシー・シャラメがシアーシャ・ローナンにするようにだ。
 卵を流しいれて、そこに火が通るとふやけた黄色い紙のような卵が浮かびあがってくる。そうしてスープをお椀に盛りつけた後、ごま油と黒コショウを加えて料理が完成する。
 武史と萌香はソファーに座って、一緒にスープを飲み始める。沈黙を2人だけで共有することに、武史は途方もない喜びを感じる。聞こえるのは萌香が熱いスープを冷ます時の息遣いだけだった。何も喋ることはないままにスープを飲み干す。やはり何も喋ることはないままに武史は食器を洗い、萌香は食器を拭いていく。そして言葉の一切存在しない静寂のなかで笑いあいながら、ソファーに横たわる。萌香は友達の家に泊まると嘘をついていたので、この日はずっと一緒に居ることができた。彼女がコロナウイルスへの恐怖を越えて、この親密な時間を選んでくれたことに、武史は感謝した。そして彼らは眠りに落ちる。
 だが夜更けに萌香の啜り泣く声で、武史は目を覚ますことになる。彼女もまだ高校生だ、コロナやピルの不安で涙を堪えきれないこともあるだろうと、武史は彼女を優しく抱きしめる。ひどく抱き心地がいい、もしデュア・リパを抱いたのならこんな心地がするのだろうと彼は妄想を駆けめぐらせる。だが萌香は武史の身体を離れて、静かに泣きながらトイレへと赴く。武史は何となく寝たフリを止めることができなかった。彼女はしばらく帰ってこなかった。

 そしてしばらく萌香は武史の家に来なくなった。連絡しても何の返事も返ってこないし、家にも訪ねてくることはない。最初は大人として努力して何もない風を装いながら、日々が過ぎていくにつれ不安が膨張を遂げるのが彼には分かった。何かマズいことが起こったのではないか? 自分をもう嫌いになったのではないか? そんな思いばかりが去来する。だがその中でも、他の男と浮気しているのではないか?とは思うことが一度もなかった。それだけはないと武史は確信していた。
 萌香はぼくの元に帰ってくる。萌香はぼくの元に帰ってくる。
 ある日、彼は『やさしき兵士たち』というリトアニア映画を観た。ウクライナ侵攻など旧ソ連諸国においてはロシアの脅威への危機感は募っているが、中でもリトアニアは対抗策として若者に兵役を科している。それは男性だけだが、若い女性たちにも志願兵として兵役を行う者がいる。今作はそんな女性たちを描きだしたドキュメンタリーだった。女性たちが泥に塗れながら大地を這いずり、身体と同じほど大きな銃器を持つ様にはショックを受けてしまう。武史は萌香のことを考えた。彼女は日本が嫌いなので彼女たちのように兵として志願するようなことはないだろう。しかし今後日本が徴兵制を再び始め、萌香のような若者たちが徴兵される未来は有り得ない話とは思えない。それを考えると、心が重くなる。
 ある時、草むらのなかで頗る大きな銃器を構える女性の姿が映った。彼女のアゴはうっすらと割れていた。実は萌香もそうだった。彼女はこの"ケツアゴ"が嫌いで、誰に触れられることも拒み、一度だけこれに武史が言及した時も、しばらく口を利こうとしなくなるほど怒りを露にしていた。なのでそれ以来一度もアゴについて話したことはなかったが、武史はそのうっすら割れたアゴが好きだった。そして目の前の女性のアゴもまたうっすらと割れていた。彼女は幼い視線を引き締めながら、前を見据えている。カメラはその凛々しい横顔を捉える一方で、巨大な銃身を1匹の本当に、本当に小さなテントウムシが這っている姿をも見つめていた。美しい風景だった。武史の瞳から涙が溢れ始める。涙を止められないまま、武史は身体を震わせる。

 萌香が家に現れたのはそれから3日後だった。
「ただいまあ」
 そう悪びれもせずに部屋に入ってくる姿に対して、武史は大人として動揺を隠しながら「おかえり、萌香」と声をかける。そして冷蔵庫のなかに放置されていたVossを彼女に手渡す。「おいひい」と能天気な声をあげながら、萌香はミネラルウォーターをゴクゴクと飲んでいく。だが全てを飲みきる前に、鞄から何かを取りだす。それは確かにピルだった。そして武史の前で堂々と粒を取りだすと、Vossでその錠剤を飲みくだしたんだった。彼女の首筋に浮かぶ血管は更に赤みを増していた。
「ちゃんと決まった時間に飲まなくちゃダメだろ」
「そんなの分かってるに決まってんじゃん。飲んでんのは私だよ。心配せんでも大丈夫でえす」
 萌香は厭味たらしく笑った。
「でも何でぼくの前で飲むんだ?」
「事態が一応収束して、今後もピルを飲むことになった。それもこれもスガが色々奔走してくれたからその感謝と、ピルをこれからもちゃん飲みますという証明ってことでね」
 武史は愛おしくて、愛おしくて萌香の身体を抱きしめる。そして念願のセックスを始める。彼女のヴァギナに生でペニスを挿入した後、武史はそのまま萌香のなかで射精をした。中出しはやはり素晴らしいことだと武史は思った。

 彼女が帰った後、ソファーに寝転びデュア・リパのアルバム“Dua Lipa”(最新アルバムの“Future Nostalgia”より1stアルバムの方が好きだった)を聞きながら、萌香との関係について考えた。萌香は若さの名の下に凄まじい勢いで様々なことを学んでいた。英語は武史以上に流暢で、アルバニア語まで順調に習得している。そして映画に関する知識もまた猛烈に蓄えられ、自分をすぐにも越えんとしている。弟子が師匠を越えるとそういった風な状況だ。武史は、萌香が近い将来素晴らしい存在、例えば世界を股にかける映画批評家や映画研究者、もしくは逆に映画作家となるかもしれない。ともすればアルバニアで小説家になるという未来もあり得るだろう。
 そう考えながら、武史は自分の魂のなかで欲望がムクムクと膨れあがるのを感じた。
 ぼくももっと賢くなりたい、いやもっと賢くならなくてはいけない。もしぼくがこの先も萌香とずっと一緒にいたいと望むなら。
 武史は立ちあがり、テーブルへと向かう。その上には図書館から借りてきた大量の本が積みあがっている。それは全て生理にまつわる本だった。実際的に生理に対処するための医療的な文献、生理の受容を追った歴史書や、芸術テーマとして取り入れられた生理にまつわる美学史の文献などがそこにはあった。
「さあ、もっと学ぼう」
 そう言った武史は椅子に座り、新しく買ったノートを開く。まだ新品のノート、そのページは雪花石膏のような輝きを放っている。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。