コロナウイルス連作短編その116「怖がってくれ、僕を」
メルヴィン・パワーズは気楽に道を歩きながら、タブレットでドイツ語ラップを聞く。今はベルリンに住むボスニア人の友人が、勧めてくれた曲だ。英語や日本語とは全く異なる、角が尖ったダイスの数々が互いに衝突しあうような硬質な響きが鼓膜に心地いい。リズムは科学者の観察的視線さながら厳格で、しかしそれが明晰を越えて破裂する時には思わず興奮させられる。メルヴィンはアメリカ出身でドイツ語は大学で学んだのみでほぼ分からない。学んでみるのは面白そうだ、日本語のテキストブックでドイツ語を学ぶとしたらどうだろう? 全く新たなチャレンジだ。メルヴィンは大いなる期待に胸を膨らませる。
途中、友人の三芳一色という男性と会う。彼はこの町に引っ越してきた頃、居酒屋で偶然出会い、酩酊の勢いで友人となった人物だ。それから何年も親交が続いているが、コロナ禍のただ中で会う日は劇的に減ってしまった。件の居酒屋もすでに潰れている。
「こんにちは、一色さん。お久しぶりですね」
「メルヴィンさん! いやあそうですね、本当」
目元に鳩の足のように広がる皺を浮かべながら、彼は人懐こい笑顔を浮かべる。
「散歩ですか? いい天気です、ぜひともしたくなってしまいますよね」
「そうですねえ、9月にしちゃちょっと暑いですが、気持ちいいです。今は完全にリモートワークになって体鈍っちゃったんで、運動がてら散歩に」
「いや、いいですねえ。僕は今日休日なので、もう少し気楽に歩いておりますよ」
彼らはしばらく一緒に歩く。
「オリンピックでコロナ患者の数、凄まじく増えたのに、今は東京で1000、2000人くらいでしょう。いや良く分からん状況ですよ」
「それは勿論、日本人が“キンベン”で“レイギタダシイ”からですよ」
メルヴィンが幾つかの言葉をわざと片言で言うと、一色は笑う。マスクの下で唇が激しく動いているのが伺える。
「いや、そんな日本誉めまくる外国人Youtuberみたいなこと言わんでくださいよ」
「ははあ、こんなお約束にすぎる言葉を言うYoutuberがいるんです?」
「めっちゃ多いですよ、今は。特に日本アゲのロシア人Youtuber、いや厳密に言うとロシアと、ウクライナやラトビアみたいな旧ソ連の人々。彼らがYoutubeで戦国時代を繰り広げてる感じがありますね」
「そんなものが」
「彼らは当然、日本人のコロナ対策を称賛してますよ。私は全く信じていないですがね。しかし検査数を抑えて、患者の絶対数を減らしているにしろ、それでもオリンピックからどうしてあんな減ったのかが解せないですよ。前、アジア人にはファクターXみたいなのがあるとニュースで言っていて、その時は信じていなかったんですが、でも本当にあるのかもな……」
そしてメルヴィンは一色と別れる。帰り際に駅前の肉バルへ近いうちに行こうと約束しあった。最近店主が、大ボリュームの肉ピザを開発したのだという。だがいつ行けるかは全く分からなかった。
彼は新興の住宅街をただ中を歩き、その中心にある小さな神社へと行く。どうしてこんな位置にこんな厳かな建築物があるのか分からないが、住宅街の中心にある小さな聖域といったこの空間は気に入っている。天井から下りてくる縄を振りみだした後、礼をし拍手を2回、そして手を合わせながら再びお辞儀をする。毎日違う願いを日本の神に捧げていたが、今日は“一色と近いうちに肉バルへ行けますように”と祈った。その後に少し欲張って“近いうちにベルリンへ旅行できるように”とも祈る。
帰り道、1人の少年が同級生らしき人物たちに虐められている場面に遭遇する。少年はおそらくアフリカ系のミックスで、細い体を後ろから蹴りあげられ、倒れた。そして蹴ったリーダーらしき方も、もしかするならアフリカ系かもしれない、いやヒスパニックのミックスか。そこで自分の頭に何度も“ミックス”という、もはや英語なのか日本語なのか分からない言葉が浮かぶのを奇妙に思う。だがそう思った後には急いで少年のもとへ駆けより、助けようとする。
「うわ」
背中を蹴った少年がそう驚きの声をあげる、彼の頭にはどんな言葉が浮かんでいるか。“黒人”か“アフリカ系”か、それともあの言葉か? 少年は周囲の友人、黄色い顔が暑さで赤く染まったような少年たちとともに逃げかえる。
「マジの黒人見たの、俺2回目だわ。ヤベー」
誰かがそう言ったが誰かは分からない。メルヴィンは助けた少年に視線をうつす。体を震わせながら、彼は泣いている。虐待者たちへ怒りを覚えながら、彼に手を伸ばす。少年は手に気づくと、しかしそれを暴力的に跳ねのける。皮膚に鋭い痛みが走った。それよりも強烈だったのは少年が自分へ向ける視線、そこに宿る憎悪としかいえない輝きだった。
「お前らみたいなののせいで、俺がいじめられんだよ」
メルヴィンにはその言葉が信じられない。
「ニュースで見たぞ、アメリカは黒人を差別して時にはブッ殺すけど、日本では安心して暮らすことができる、人種差別は感じないとか言ってる黒人。それでお前らが日本で暮らし始めて、日本人と結婚して、それで俺みたいなハーフが生まれんだよ。学校行って、俺が喋ってたら後ろからブンツクブンツク言われて“ラップ言ってるみてえ”って馬鹿にされたこと何回あるか分かるか。体育の授業で、俺が何回“黒人だから運動できんだろ”って言われたか分かんのかよ、なあ。それでサッカーのドリブルできないし、バレーでもボール打ち返せなくて、公開処刑されて、馬鹿にされる俺の気持ち分かるか? こんな体で生まれたせいで、虐められるんだ。もう逃げられない」
少年はメルヴィンを睨みつける。
「お前らは日本人をオセンしてるんだよ」
少年は言った。“オセン”という言葉が分からない。それを見透かすように彼は笑った。
「“オセン”って意味知らないんだろ。“コンタミネイテッド”だよ、コ・ン・タ・ミ・ネ・イ・テッド!」
日本語訛りで紡がれるその英単語を、メルヴィンはしかし理解した。
「おい」
思わずそう叫んでいた。
「なあ、君、なら君に分かるのか、僕が……」
そこで一瞬自分の意識が飛んでいたことに気づく。先、あれほど憎しみの目つきをしていた少年は、今、呆然と床で震えていた。そして己の呼吸はひどく乱れていることを悟る。胸部で怒張する肺腑を抑えようとしながら、最後に彼はその左手に気づく。拳は固く握られて、皮膚から突きだした4つの拳骨は荒鷲さながら少年に狙いをつけている。何より震えていた、少年の肉体のように震えていた。
だが違う。
メルヴィンは確信した。
この震えと、あの震えは全く違うものだ。
メルヴィンは近くの、少年の広場という名前の広場へ行き、全速力で走った。走るなか解放感を抱きながら、そして自分の肉体が爆裂することを願った。足を動かす勢いで、大腿部から肉が吹っ飛び、骨だけになればいいと願った。食道から十二指腸、大腸に至るまであらゆる臓器が口からブチ撒けられればいいと願った。激しく振られる腕が捻り切れて、大地に落ち、そして肩の断面から血飛沫が溢れればいいと願った。だが彼は広場の端から、その端まで走りきることすらできない。気力は瞬間に尽き、湿った芝に横たえるしかできない。それでも肉体は爆散しなかった。悔しくて叫びたかった。だが頭のなかに2つの言葉が同時に浮かぶ、“Fuck!”と“糞!”だ。分からない、どちらを叫べばいいのか分からない。
メルヴィンは広場を出て、家に帰る。途中、前から1人の老婆が歩いてくるのを見つける。曲がった腰を抱えながら、ゆっくり、ゆっくりと歩く。自分の肉体と比べる。無地のTシャツから水蒸気がぶわぶわと浮かんでいる。それは膨張した筋肉から直接出ているような濃厚な紫煙だった。
「コンニチワ、オバアチャン」
すれ違う時、メルヴィンはわざと、彼女の頭にカタカナで響くような訛りで挨拶をする。
怖がってくれよ、僕を。
ズボンをかすかに引っ張る。
いや、俺を。
メルヴィンは日本語でそう独りごつ。
「ああ」
老婆がそう声をあげる。彼女は止まって、マスクを顎まで下ろす。しわだらけの口元が、やわらかく緩まっている。
「こんにちはあ」
マスクを口に戻し、メルヴィンに背を向けて歩いていく。そして1度だけ振り返り、お辞儀をする。
「ありがとうねえ」
彼女はまた、前に進んでいく。
私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。