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コロナウイルス連作短編その133「幽霊の力」

 にも関わらず、杯芽冴木は祖母である杯芽貞代の傍らで本を読み続けている。彼女の命、その灯火は消えかかった状態で、家族が代わる代わるその姿を見守っている、今はその途中だ。
「コロナじゃあ死にたくないね」
 1年前に豪胆な笑顔で冴木に言った貞代は、実際に今、老衰によって亡くなろうとしている。コロナでは死なないという意味で彼女の願いは叶いそうだが、結局は死ぬと考えると冴木は悲しくなり、右足の小指が震える。それでも、自宅で最期の時を待ち、皆に見守られながら亡くなることができるのは、今のご時世、幸運と言わざるを得ないのかもしれない。
 でも、それじゃ“幸運”って一体何なんだよ?
 彼は思わず心のなかで独りごつ。肺胞に毒液がかかったような厭な気分だ。
 今、冴木が椅子に腰を落ち着けながら読んでいるのは『宇宙の終わりに何が起こるのか』という本だった。祖母の家に来る前、図書館へ本を借りにいった。いつもの習慣だ。土曜日には貸出カウンター横の新刊コーナーに、様々な新刊が並ぶ。めぼしい本は朝のうちに借りられているが、午後2時くらいにここに来て、人々が借りていかなかった本をゆったりと見ていくのが、土曜日のささやかな楽しみだ。表紙に小さく象が描かれた本、中身を覗いてみると小説らしいが、あまり興味が湧かない。『行動インサイト』と大きく書かれた行動経済学の入門本、おそらく自分には優しすぎる本だろう。その中で『港の世界史』という興味深い本を見つけ、手に取るのだが、その時、横に置いてある本に視線が惹かれる。真っ赤な表紙、背景では炎のような何かが揺らめいているが、その上部に白く控えめな文字で『宇宙の終わりに何が起こるのか』と書いてある。思わず手に取った。5つの終末のシナリオ、理論宇宙物理学。全く馴染みのない内容、だが何か魅力的だ。自分でも理由が分からないが、その書籍に引力を感じた。
 今、冴木はこの本を読んでいる。予想通り、話の内容は全く理解しがたい。元々数学は得意だが、理科はからきしで、高校では物理学のテストで何度も赤点を取った覚えがある。バネ、おもり、その他の計算式。目前に描かれる作用の数々が、何故だか自分の数学の知識にうまく連結されず、驚くほどひどい点数しか取れなかった。勤務先で“マネージング・ディレクター”などという役職にある今においても、この理由がハッキリしないでいる。大学入学の後、そういった理科の類から解放された時の清々しさなら、今でも鳥肌が立つほどの鮮烈さで思いだせるが。
 ゆえに書かれている内容は、著者が一般読者向けに理論宇宙物理学や宇宙の終末について解説しているのを鑑みても、目から口へスルスルと抜けていく。だが彼にも1つ、漠然と分かることがある。この本は、規模が大きすぎる、あまりに凄まじい何かを描いているということだ。それだけは何故だか分かってしまう。分からない用語に関しては、いちいちスマホの辞書で意味を調べているゆえ、読む速度自体は早くない。合間に、高校でもっと理科について真剣に学べばよかったと後悔もこみあげる。だが例え牛の歩みのようにしても、読むことを止められなくなっている。
「何、読んでんの?」
 いきなりそんな声が響いて、冴木は驚いてしまう。祖母の声が響いただけでも驚きだが、目を開いてこっちを見ているのには心臓が縮む。数日間、意識朦朧の状態が続き、このまま亡くなるのだろうと家族はみな覚悟していた中での、今だ。
「えっ、えっーと、この本」
「そんなの分かるよ、まだ目も耳も“カクシャク”としてる」
 “カクシャク”という言葉が理解できず、頭にカタカナが浮かぶ。だがすぐにその曖昧さを消し去って“矍鑠”という大仰な漢字が現れる。老いをものともせずピンピンとしている老人の様子、この言葉は他称として誰かを誉める際に使うのが一般だろう。だが冴木はまるで老いていく肉体や精神を鼓舞するように、自分に対して何度も使っていた。まだ小学生の頃、この言葉が理解できなかった冴木は彼女に意味を聞いたことがある。それに答える代わり貞代は本棚から辞書を持ってきて、冴木と一緒に“矍鑠”がどういう意味かを調べた。
「女の子は、これから頭よくなきゃアカンからね」
 この時のことを今も覚えている。だが最近はあまり祖母の家に足を運ぶこともなくなり、その空白が“矍鑠”を“カクシャク”にしてしまったことに気づく。
「何が書かれてるのかって聞いてんのさ」
 貞代は矍鑠とそう尋ねてくる。
「あー、宇宙の終わりについての本」
 そう言うと、彼女は笑った。以前のような覇気はないが。
「アタシんこと馬鹿にしてるか? アタシん終わりより、宇宙ん終わりのが興味深いんか?」
「い、いや、そういう訳じゃないけどさ」
「まあ、いいよ。で、じゃあ宇宙はどういう風に終わるん?」
「えーっと、この本は5つの説を紹介してるんだけど、今読んでるやつは“真空崩壊”ってやつ。俺も何かよく分からんけど、真空の泡みたいなのが現れて、それで世界が分解されて、一瞬で完全に消滅するらしい」
「へえ、そりゃあいいね。苦しみも痛みも感じない消滅なら、いつだって歓迎」
 そんな言葉に、冴木は何も言えず、自分の細い指を見つめる。薬指の毛が、中指の毛よりも妙に薄いことに気づく。
「それっていつ起こるん?」
「何か、数兆年後らしい」
 へあ、と間抜けな声を響かせながら、貞代は少しだけ腰をあげる。
「それっていつ」
「分かるわけないじゃん」
「国家予算みたいだね」
「いや、時間とお金の単位を混同するのは……」
「そんな細かいこと言うな、婆ちゃん、もうすぐ死ぬんに!」
 貞代は冴木の体を叩けない代わりに、布団をバシと平手でうつ。
「じゃあ、まあ真空消滅には頼れんね」
「まあ……でも、もうちょっと近いやつあるよ」
「いつ?」
「ちょっと待って……これだ、“ビッグリップ”ってやつ。これは、1880億年後だって」
 貞代は笑った、さっきよりも大きな声で。
「これは宇宙がいきなり急膨張して、全部がズタズタに引き裂かれて、そんで終わりだって」
「ふうん……」
 貞代は再び頭を枕に据えて、天井を眺めはじめる。冴木も彼女が見つめる先を見つめてみる。朽ちた茶の色彩のうえ、木目が絵の具さながらにうねる。それは木だった、どこまでも木だった。
 いや、これ見た瞬間に宇宙みたいとか思えたら、カッコよかったのに。
 そう思ってから、自分の何ともいえない平凡さに笑う。
「アタシのスマホどこ?」
 貞代が突然そう言うので、自らお使い役を買ってでる。リビングに行き、母親にスマホの在りかを聞いてみると、貞代が寝ている部屋の鏡台に置いてあると言ってくる。部屋に戻り、その鏡台を見てみると、様々な小物のなかにメタリックなベージュに包まれたスマホを見つけ出す。ちゃんと部屋を探してから聞きにいくべきだったと思った。
 貞代にこれを渡すと「その本も貸して」と言われる。2つを手にした貞代は、ゆっくりと寝返りを打ってから、本を開いて、スマホをいじる。そして液晶画面に拡大されたページが映りこむのに驚いた。
「拡大鏡アプリってえヤツよ」
 貞代はいたずらな笑みを浮かべる。
「しばらく本、読ませてな」
「ああ、うん」
「これが私の最後の読書や」
「そんなん言わんでよ」
 冴木は椅子に戻っていく。最初は貞代の読書を見守ろうと思ったが、視線に気づくとハエでも追っ払うように手を動かすので、わざと舌を出して不満を表明しながら、自分もスマホを見始める。Twitterをしばらく眺めてから、著者のケイティ・マックがアカウントを持っているという情報を思いだし、検索する。漫画の似顔絵がアイコンになっている彼女のアカウントを見つけたので、フォローする。しかし呟きは読むことなく、ボンヤリとした眠気のままに昼寝することにする。
 次の瞬間、冴木は貞代に激しく揺り動かされる。だが“次の瞬間”というのはあくまで冴木の感覚で、部屋は濃厚な夕暉に満たされていた。その黄昏のなかで、しかし貞代はいつの間にか立って、かなりの力で冴木の肩を揺り動かし、何よりもその瞳が今までになく輝いている。
「宇宙ってめっちゃえげつない死に方するんやねえ!」
 そんな不穏なことを弾けるような笑顔で言うので、冴木は笑わざるを得ない。
「収縮して消滅、バラバラになって消滅、何の脈絡もなく突然消滅。アタシが死んでから何億、何兆年も経ったあとに、宇宙ってこんな風に死んじまうんやねえ。でもさあ、あまりにおっきすぎるから悲しいとか怖いとか、全然ないよ。むしろ何か、むっちゃワクワクしてきたなあ。アタシの死なんてちっぽけなもんやわ」
 冴木は狼狽しながら、しかし後には不思議な喜びすらこみあげる。今、目の前にいる祖母は自分なんかよりもずっと若いと、そう思えた。
 だがふとした瞬間、貞代の顔に影が兆し、彼女は俯きはじめる。
「でも、死ぬ前に言わなイカンことあるよな……」
「……なに?」
「アタシは何度も『女の子なのに、そんな男の子みたいなことすんな、恥ずかしいぞ』って、冴木に言ってたなあ。アンタは、でもずっと男の子だったんに」
 冴木の口と鼓膜が乾く。
「ごめんな、冴木。許してくれる?」
 冴木は、しばらく何も言えない。目に、貞代のつむじが見える。少し紫がかった白髪が弱々しく渦を巻いている。
「うん……」
 冴木は左の手で、右中指の毛を撫でる。
「まあ、本当のこと言えば、毎回傷ついたし、めっちゃイヤだったよ。こういうの埃が窓枠にたまるみたいに、傷ついていくんだよ」
 貞代は少しも動くことはない。
「一生忘れられないだろうね」
 貞代の頭が少し動いた。
「だけど、許すのも“やぶさかではない”」
 冴木がそう言うと、貞代が顔をあげる。
「ああ、前、一緒に調べたね……」
 貞代の両手が、自身の顔を覆い隠す。
「いやいや、泣かんでよ。そりゃただの悲劇のヒロイン気取りじゃない? あくまで“許すということを行っても構わない”であって“許す”とは違うから」
「何言ってんのお。“吝かではない”は“喜んでする”って意味よ、辞書の書いてたん忘れたか?」
「ええ、そうだっけ? じゃあ言い換えようかな……」
「それは勘弁ですわ」
「許される側が何言ってんだよ!」
 そう言った後、2人は笑う。そして冴木は開いた左手を彼女に掲げる。
「俺が言った意味での“許すのもやぶさかではない”」
 貞代はゆっくりと頷きながら、右手を伸ばす。皺だらけ、シミだらけの真っ白な手だ。だが冴木がそれを掴むと、驚くほどの力で握り返してくる。冴木が力を強くすると、貞代の方も強くする。それを2人はいつまでも繰り返す。

 葬式の後、家に帰る。荷物を片付けるうち『宇宙の終わりに何が起こるのか』を見つける。結局、あの後からまだ1度も読んでいない。何となくパラパラと捲っていくと、あるページに目がいく。ある文章の横に、爪をグッと押しつけたような跡がある。そこに書いてあるのはファントム・エネルギーと呼ばれる概念についてだ。宇宙をズタズタにするビッグリップ現象、それを引き起こす規格外の存在をファントム・エネルギーと呼ぶ。日本語では“幽霊”を表す“ファントム”という言葉を使った理由について、名付け親であるロバート・コールドウェルはこう説明している。

“幽霊は視覚、もしくはその他の感覚ではっきりと捉えられるのに、物質的な存在ではない。したがって、型破りな物理学で記述せざるをえないような形態のエネルギーにふさわしい表現である”

 それを読んで冴木は笑みを浮かべる。
「じゃあ、まあ、宇宙を消滅させられたらアンタのこと許すよ、婆ちゃん」
 冴木は片付けを放りだし、そのまま本を読み始める。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。