コロナウイルス連作短編その43「ガリガリ、ガリガリ」
真竹茜は恋人であるジーン・タムロンラタナリットにキスをした。しかし彼女は唇ではなくて頬にキスをしたので、ジーンは驚いた。
「どうして唇にキスしてくれないの?」
ジーンは腰を掻きながら、茜にそう尋ねた。
「えっ? 何でって、別に何でもないよ」
ジーンの足元に飼い猫であるリンがやってくる。彼女はジーンの履いているジーンズを舐めてから、頬擦りをする。とても可愛いので、ジーンは彼女の頭を撫でてあげる。
「何でもないよ。いってらっしゃい」
「……いってきます」
ジーンはモヤモヤした思いを抱えながら、部屋を出た。彼女は車で近くのデパートへと向かう。今週の買い出しはジーンが担当だった。運転をしながら、彼女は最近様子がおかしい茜について考えた。コロナウイルスで一緒の時間が多くなった時、最初は親密な雰囲気のなかで時間を過ごしていたが、そのうち生ぬるい倦怠感が二人を包みこむようになった。茜の顔には濃厚な灰色の雲が浮かび始めたのだった。だが緊急事態宣言が終われば、この倦怠感も消えてくれるだろうとジーンは思っていた。しかし実際それが終わった後、茜の心ここに有らずといった雰囲気はさらに強いものになった。
赤信号で止まっている時、ジーンは思わずハンドルを噛んだ。彼女の心を再び明るくするにはどうすればいいのか全く分からなかった。ケーキでも買っていこうか、それとも少しだけ高級なワイン? そうは考えながら、そんな表面的なプレゼントで彼女の心を変えられるとは思わなかった。ジーンはもっと強くハンドルを噛む。吐き気を催すゴムの味がした。
デパートに着いてから、ジーンはテキパキと買い物を遂行した。茜は様々な商品に目移りしてしまうタイプだが、ジーンは買うと決めたものだけ買うというタイプだった。そして彼女は全ての商品を買った後に、茜の好きなチーズケーキを二個買った。彼女と一緒に食べるためだ。そして外に出て、買い物袋を車に積みこんでいくのだけども、ジーンはふと横を見る。駐車場の横には広い公園があるのだが、そこで何か儀式のようなものが繰り広げられていた。季節にそぐわない真っ黒な衣装を纏った人物がそこには立っていた。ジーンは何故だかそれが気になる。少し近づいて、様子を眺めてみる。そこには二つの大きな茶色い物体が置かれ、その周りでは白装束を着た女性たちが踊っている。そしてそれを黒の女性が見ているのだ。どこか神秘的な光景に、ジーンの心は興奮した。彼女は好奇心のままに公園へと近づいていく。
と、黒の女性がジーンに気づいた。彼女はお辞儀をしてくるので、ジーンもお辞儀を返す。彼女は最初、公園の外からただ儀式を観察する予定だった。しかしお辞儀のせいで、公園に入らなくてはならないような気がする。なのでジーンは公園に足を踏み入れた。奇妙な緊張感が場を支配していた。ジーンはゆっくりゆっくり恐る恐る公園のなかを歩いていく。ここで気づいたのはあの茶色い物体が棺桶であることだ。しかも片方は細長く、片方は太く大きいので、その違いをジーンは怪訝に思う。彼女は黒の女性の元まで歩いていく。そしてもう一度お辞儀をすると、彼女もお辞儀を返した。近くにいるのに、女性の表情はまるで蜃気楼のように伺い知れない。亡霊と対峙しているようで少し恐怖を感じる。しばらくジーンは白装束の女性たちの舞踏を眺めていた。ジーンはタイ人なのでそこまで日本の冠婚葬祭について知らなかったが、これは普通の葬式とは違うと直感する。その舞踏はまるで鮫を喰らおうと海を荒れ狂う鯱のようで、鮮烈なものだった。ジーンはその光景に不思議と見とれてしまう。
「二人の顔を見てあげてください」
黒の女性が突然そんなことを言い出すので、ジーンは驚いた。戸惑いながらも、彼女は棺桶の方に近づいていく。まず細長い方の棺桶を開いた。そこには短い黒髪の男性が眠っていた。少し鼻の穴が大きいと思ったけども、普通の日本人に見えた。その後に太い方の棺桶を開いて、ジーンは驚いた。そこに眠っていたのは紛れもなくゴリラだったからだ。綺麗な顔面をしたゴリラは雌のように思えた。彼女はまるで剥製のようだった。心臓を抑えながら、ジーンは黒の女性のもとへ戻っていく。しばらく気まずい沈黙が続いた。だがその沈黙を破ったのは女性の方だった。
「彼らは愛しあっていたんです。肉体的にも、精神的にも」
その言葉にジーンは驚かされた。
「彼は動物園の飼育員で、彼女は彼に飼育される動物でした。最初はただただ人間と動物が紡ぐ普通の関係性がそこにありました。しかし何かが彼らを変えたんです。彼らは深い愛で結ばれるようになりました。彼には私が、彼女には繁殖相手の雄がいました。それでも動物園で密かに愛を紡ぎつづけていたんです。それでもこの愛の限界に気づかされ、最後には心中したんです」
黒の女性の告白はジーンの心を引き裂いた。彼女は震える心を抱きながら、再びゴリラの顔を見る。その顔はとても安らかで、深い優しさに包まれているようだった。だが突然その瞼が開き、黒曜石のような瞳がジーンを睨みつけた。
ジーンはソファーの上で目覚めた。今までの奇妙な光景が夢であったことに彼女は安堵する。
「夢で良かったな」
改めて彼女はそう呟き、あの光景を夢として自身の脳髄に焼きつける。ふと黒猫のリンがソファーの端から自分を見つめていることに気づいた。そして彼女の瞳でもまた黒曜石のような黒が輝いていた。ジーンは彼女の頭を撫でてから、小さな身体を抱きしめる。
「あなたは違うよね、あのゴリラとは違うよね」
ジーンはリンの唇を舐める。彼女は嫌そうに鳴き声をあげた。そしてジーンの腕から逃げ去っていく。追いかけていくとリンは玄関ドアをガリガリと引っかいている。いつも壁にするのとは微妙に違うように見えた。
「止めなさい!」
玄関ドアから引き離しても、リンはドアへ走っていき引っかくのを再開する。ガリガリ、ガリガリと音が響く。
ガリガリ。
ガリガリガリガリ。
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ、ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ……
ガギィッ。
私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。