コロナウイルス連作短編その46「マジに救いようがない」

 神藤徠は一年ぶりにスーツを着るのだが、そこには何の問題もなかった。母親である神藤典子は“お前はデブだからどうせもうスーツは着れない”だとか“お前はニートでブタだから救いようがない”と散々息子に陰口を言ったが、実際には古いスーツを簡単に着ることができた。
 ブタはテメエだろうが、ボケ。
 徠は実際にそう言いたかったが、母親への恐怖が捨てきれなかった。
 彼はスーツを着て出かける。甥の結婚式に出席するためだ。実際には最低の気分であり、それは徠がゲイで童貞であったからだ。数日前にも彼は食卓で“二十五歳で童貞の俺が、何が嬉しくて結婚式なんかに行かなきゃなんねえんだよ”と言ったが、誰も聞いていなかった(ゲイであることは未だ親に隠しているが、実はバレているのではないかと内心思っている)徠は歩きながら、結婚について考えた。彼は結婚という制度そのものを嫌っていた。そして自分たちを散々痛めつける異性愛者たちの作った婚姻制度を有り難がる同性愛者たちを心底軽蔑していた。その一方で自分も結婚したいという願望を捨てきれなかった。それはロマンティックだからという曖昧で、だからこそ決定的な理由からだった。皆に祝福されながら愛する人とキスはしたいし、その後は二人だけの小さな部屋でもっと官能的なキスがしたい。だがそんな相手はどこにも居ない。
 歩いていると尻の穴から膿が垂れてくる。重度の痔瘻を患っているからだ。なのでトランクスにはマツモトキヨシで買ってきた夜用のナプキン(三十センチ、羽根つき)を着けている。彼は無印良品が生理用ナプキンを発売した時、その質素なデザインからある人物が“これは痔持ちの男性にとっての救世主だ”と発言するのを見て、哀れだと思った。世の日本人男性は自分じゃ恥ずかしくて生理用品も買えないのか? マツモトキヨシで普通に生理用品を買える自分は、有害な男性性に縛られ身動きが取れない間抜けな男どもとは違うと、内心自分を誇りに思った。
 駅に辿りつき、しばらく構内を歩いているとカフェに人が溢れているのが見えた。しかも彼らは当然だがマスクをしていない。
 早くお前ら死ねよ、マジで。
 そう考えながら、徠は歩きつづける。

 尻に永遠の違和感を抱きながら、彼は電車の席に座って外を眺めている。コロナによって満足に外に出られなくなり半年以上が経ったが、外の風景は何も変わっていないし、元々ほぼ引きこもりだった徠の生活もほとんど変わっていない。だからこそ電車に乗って結婚式場に行かなければならないというこの状況は吐き気を催すほどの苦痛だった。
 本当、ヘテロの健常者ってやつはマジに救いようがない。何でこんなコロナがヤバい状況で結婚式なんか開くんだよ。今までコロナに気をつけて生活してたのに、これで俺がコロナに罹かって死んだら、お前らマジで殺人者だからな。殺人者だよ。マジで地獄で一生恨んでやるからな。
 実際最初は結婚式に行くことを拒んでいたのだが、ニートで実家に寄生している彼に選択権は存在しなかった。
 だが彼には希望があった。今度の水曜日にはゲイの英国紳士とデートする予定だった。自分より十五才歳上のその男性はベンという名前で、マッチング・アプリを通じて知りあった。彼は日本で気ままな生活を送るゲイ男性で、好きな日本食は雪見だいふくだそうだ。徠は日本語を使う時はいつもの鬱々たる性格が現れるが、英語を使う時はナンセンスな冗談を言いまくる気のいい日本人になれた。そうして彼が重ねる下らないジョークの数々が、英国紳士の琴線に触れたようだった。
“ねえ、今度の水曜日、仕事が終わってから飲みに行かないか?”
 誘ってきたのはベンの方だった。
“いいよ。でも実を言うと金がない、所持金二千円だ。何故なら僕は芸術家だから、偉大な芸術家って貧乏なモンでしょ。まああなたは幻滅するだろうけど、はは、はははは……はは……”
 所持金が二千円というのは全く本当のことで、幻滅されるという予想も本心から来ていた。
“別に気にしないよ。じゃあ僕が焼酎を奢ろう!”
 そんな返信に、久しぶりに徠の顔に笑顔が浮かんだ。
 そしてベンとの会話を思い出す彼の顔にも微笑みが浮かぶ。

 徠は家族と歩いている時、自分の歩き方を意識せざるを得なかった。痔瘻が酷い時、彼の歩き方はすこぶる奇妙なものになった。両親はそれを“うんこ漏らしたような歩き方するんじゃねえよ”と揶揄したが、徠は内心ブチ切れていた。
 別に俺の歩き方なんてどうでもいいだろ。うんこ漏らしたような歩き方で何が悪いんだよ。うんこなんか漏らしてなんぼだろうが。そういう揶揄をしやがる人間の方が脳髄腐ってやがるんだよ、差別主義者どもが。もし同じような悪口言ってくるお前らみたいな人間が結婚式の出席者にいたら、頭蓋骨ブチ割ってやるからな、俺はマジだよ。
 そして徠は地下鉄の階段を登るのだが、異様に疲弊してしまう自分に気づいた。正に引きこもりの弊害だった。頂上で彼は咳きこみ、ゲロまで吐きそうになる。そんな姿を母親は台所の生ゴミでも見るような目つきで見た。
 そして彼らは結婚式場に着いた。彼にとって都合の悪いことに新郎は親戚ゆえに、式場に他の徠賓客より早く着かなくてはならなかった。建物は嫌気が差すほどモダンで、外には小さな川すらも流れていた。まず家族はその川の真ん中にある小さな小島で待たされた。コーラは徠の尻穴から現れる糞の細長さを思わすコップに入れられて出てきたのでイラついた。父親が飲むホットコーヒーからは焼死体のような臭いがして不愉快だった。
 さらに徠たちは中のソファールームで待つことになるのだが、ここで無駄な時間を過ごすのは拷問のようだった。心が痛ければ、尻も痛い。ヘテロの伏魔殿のような場所では徠の存在はあまりにもちっぽけなものだった。そこに新郎の両親が現れた。
「あら、どこのおっさんかと思った」
 新郎の母親が徠にそう言った。
「はあ、お疲れさまです」
 彼女の顔に膿まみれの尻で騎乗してやりたかった。

 徠は家族とともに待ち続けた。尻穴からは膿が出てきたので、何度かトイレに行ってケツを拭いた。心洗われる瞬間だった。待合室には若い男女が何人もいたが、中でも距離の近い男性が二人いた。些細な瞬間に広がる親密さから、徠は彼らがゲイのカップルだと思った。友人や恋人とともに笑いあい、冗談を言いあい、彼らはとても幸せそうだった。何より周りから彼らの存在が受け入れられていることが羨ましかった。彼らの前では自分はカムアウトもできない哀れなホモのように思われた。
 怒りと嫉妬が自身の脳髄が覆っていくなかで、徠は必死になってベンのことを考えた。
 おい、アジアの哀れなゲイども。俺は今度イギリス人の紳士とデートするんだぜ、羨ましいだろ。お前ら、外国人とデートしたことなんて全然ないだろ。できても台湾とかタイのゲイだろ。俺はイギリス人だよ、白人だよ。お前らは一生無理だろうな、俺とは違って英語すら喋れないんだからな。お前らは日本人かアジア人で我慢するしかないけど、俺は世界を見るんだよ。イギリス人、フランス人、アルゼンチン人、ルーマニア人、南アフリカ人、東京には外国人がいっぱいだ……
 そして徠はベンとのデートを思い浮かべる。実際には居酒屋に行く予定だが、彼の頭には代々木公園で一緒に歩くようなデートの風景が浮かぶ。コンビニで買った缶ビールを飲みながら他愛もないことを語りあうのだ。イギリスの美味しい中華料理について、ベン・ウィートリーという狂気の映画作家について、とても美味しいコンビニアイスの数々について。
 チャペルに導かれ、親族一同で席に座るのだが、木製の横長ベンチに座布団が引いてあり、意外にもお尻には優しかった。周りで彼の母親含め親族たちがペチャクチャとくっちゃべる中で、オルガン奏者だけは誰にも聞かれない音楽を静かに弾き続けていた。徠は彼女の姿をただ静かに見据えながら、周りの人間の気持ちは少しも分からないが彼女が感じる孤独は少しだけ理解できるような気がした。彼女はただただ讃美歌を弾きつづける、徠の目はそれを見つめている。現れた神父は訛りから英国人だと分かった。その白髪の輝きからベンよりも十歳ほど歳上のような気がしたが、実際にデートに現れる英国紳士は若返った彼のような人物が来てほしいと思った。徠はデーティング・アプリ上の写真というものを一切信じてはいなかった。だが彼が日本語を喋る時、その渋い魅力は全く台無しであり、徠はC級のメロドラマの世界に迷いこんだように思えてならなかった。
 そして新郎が現れる。彼は妙に変態的なニヤつきを浮かべていただけではなく、何故かうんこを漏らしたような歩き方をしていたので徠は驚いた。
 俺は何も間違ってなかったんじゃあねえの?
 新郎は完全にうんこを漏らしていた。
 その後、神父が適当な聖書の言葉を並びたてるなかで、前の席に座っている新郎の母親がこちらに携帯を向けて写真を撮ってくる。液晶画面に自分の顔が写っているので、明らかにこちらに向けているのが分かった。それを何度も繰り返しながら、彼女は徠の写真を撮った。
 この品性下劣な人間に生きてる価値ねえよなあ、地獄に堕ちろボケ。
 頭のなかで右の拳を彼女の頭蓋に叩きつける妄想を繰り広げたが、もちろんのこと実際にやる勇気はなかった。

 徠のイラつきをよそに時間は過ぎていく。白人の傲慢な片言言葉、スマホで写真を撮りまくる徠と同世代の若者たち、神父の“新しい家族の誕生”という言葉には思わずゲップをブチ撒け、親族写真で笑顔を強制された時には露骨に不愉快な顔をした。そしてパーティ会場に赴くと、徠はすぐにビールを飲みはじめる。ミジンコの身体さながら小さいコップには少ししかビールは入らない。ゆえにすぐに飲みほす。するとスタッフがすぐにビールを注ぎにくる。彼はお辞儀をしてから、ビールを飲む。隣では両親がガードレール下の糞便を見るような視線を投げかけるのも気にせず、徠はビールを喉にブチ撒ける。アルコールは全身の細胞を燃えるような赤に染めるが、脳髄を尿に濡れたトイレットペーパーのような有様にするが、の徠はビールを注ぎにくるスタッフに対しては執拗にお辞儀を続けた。そんな徠を典子はある種の凍てつきを以てせせら笑う。
「恥ずかしいから止めて」
 徠は、被害者面をする典子を救いがたい腐れ脳味噌アマだと思った。彼にとって、この場において敬意を払うべき相手はスタッフを措いて他にはいなかった。真に敬意を払うべきは、知らない人間の結婚式で全力を以て新郎新婦や賓客に奉仕するスタッフの皆さんであると、徠は信じてやまなかった。そして徠はビールを飲みまくり、ゲップをブチ撒ける。腐れ脳味噌アマへのチンケな、だが心からの意趣返しだった。
 突然、会場が暗くなり、新郎新婦が制作したという動画がスクリーンに映される。頬を近づけて笑う二人、顔を真っ赤にしながら焼き鳥を食べる二人、ディズニーランドではしゃぐ二人。そのヘテロ臭さが徠には癪だったし、今すぐゴリラのようにスクリーンへ糞を投げたかった。だが同時に幸福を絵に描いたようなその姿に、髪を掻き毟りたくなるほどの羨望を抱いた。何度強調しても足りないほど、彼には恋人ができたことがなかったし、セックスもしたことがなかった。デートは何度もしたことがあったが何故かセックスには至ることがない。だからこそベンとの繋がりはまたとない希望だった。そしてこの動画の後には、先の結婚式で撮られたらしい映像が続いた。数時間ほどしか経っていないのに、映像は洗練の完成を誇っており、徠は短時間でこの動画を編集した人物の献身に思いを馳せた。

 大量のビールと吐き気を催すヘテロ臭のせいで、徠の腹が悲鳴を挙げだす。固い拳が内部から腹部の脂肪をブチ抜こうとしているかのようで、最初は我慢しながらも、とうとう限界が到来して徠は会場外のトイレへと駆けこんだ。とても柔らかな糞便をケツ穴から排泄するが、臀部の肉に溜まった膿によってマグマが肉下を這いずるような痛みを感じる。痛み止めの軟膏は忘れた。ティッシュ越しに腫れを撫で、痛みが治まるのを待つ。ケツの筋肉を何度も動かした後、便器の底を確認すると、その白は糞便の暴力的な茶の色彩によって完全に汚されていた。
 だがこのウンコは誇りだ。踏み躙られながらも、茶色く輝きつづけるこのクソは俺の誇りだ。
 徠は湧きあがる高揚感とともにそう思う。
 これが俺の、クソッタレヘテロ社会への反抗なんだ。
 そして徠は糞便を放置して、トイレを出ていく。手を洗いながら、自分の顔を見た。頬には数億の細胞たちの真紅の死骸が密集していた。手を完全に洗った後、顔を洗って皮膚を冷やす。そのうち高揚していた心が落ち着いていき、徠は個室の閉じられたドアを眺める。徠の頭には、清掃員が個室に入り、彼の糞便に顔をしかめる光景が思いうかぶ。結局自分の行為はより弱い身分の者を傷つけるしかない。
 徠は個室に戻り、水を流す。糞便はすぐに消しさられ、透明で清冽な水が便器を満たす。
 生きにくい。生きにくいんだよ、この世界は。
 そう思いながら、今の彼の心に不思議と自己憐憫は存在しなかった。生きなくてはいけない、そう思えた。そして徠はトイレを出ていき、パーティー会場へと戻る。
 だがまたお腹が痛くなって、トイレにすぐさま戻り、ビリビリの糞便をブチ撒けたんだった。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。