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コロナウイルス連作短編その171「ネコが好きな女、カラスにも好かれる」

 久しぶりに仕事から早く帰ってこれて、杉崎彩佳は解放感を抱く。だがそれを嘲笑うみたいに、空は既にドス黒い。闇の奥から超巨大ブラックホールの笑い声が聞こえてきそうだ。そしてその響きは骨が凍るほど冷たい、もう冬が極まってるって訳だった。それを嘆くように息を吐くと、マスクから真白い息がボワボワと溢れる。自分が今サウナにでもいるんじゃと錯覚するほどだ。
 冬の闇 白いの息と ささくれだけ
 彩佳はそんな俳句を読んだ。字余りである。
 フギャーーーーーァッ!
 急に耳に投げナイフが飛んできたような衝撃にその方向を振り向くと、なんと道のうえでネコとカラスが喧嘩していた。毛を逆立てながらヒギャフギャと絶叫する黒猫に、翼を広げて自分を大きく見せながら威嚇するカラス。自分より当然小さいのに、風格はまるで怪獣VS怪獣だ、そういえばゴジラの最新映画を観に行かなかったなあとか、彩佳は思う。あとでAmazonで借りよう。それはともかく、不謹慎ながら少し高揚感を覚えていた。ハブとマングースの戦いを見ていた子供たちは、こんな気持ちだったんだろうか。ちなみに彩佳はその世代じゃあ全然ない。母親あたりがその世代なんじゃない?
 最初、彩佳は黒猫の方を応援しようと思った。じつは家でコーラサワーという名前の可愛いネコちゃんを飼っていたからだ。生粋の猫派たる彩佳は黒猫を応援せざるをえない。まず仕掛けたのはその黒猫で、カラスが羽を広げた瞬間に、えげつない速さの猫パンチを顔にブチ当てた。カラスがひるむとなると、えげつない猫パンチ! 猫パンチ! 黒猫は容赦なしに攻撃を喰らわせていき、早くも勝負が決してしまった感がある。カラスはひょっこひょこと猫から逃げようとしながらも、いじめッ子さながら猫が追っかけてくる。バシバシ、バシバシ!
 さっきはちょっと興奮していたけども、さすがに彩佳もカラスが可哀想になってくる。彼女はたったかと駆け出して、猫とカラスの戦いに介入していく。
「おいおい、やめいやめい!」
 そう大袈裟に声を張りあげながら突進していくと、驚いた黒猫は超高速で逃げていく。まるでワームホールに吸い込まれる光みたいに伸びて見えた。
 いじめッ子から解放されたカラスは、バフッと変な声を出してから、もう一度だけ羽を広げた。動きは少し弱々しい。それでもカラスがこちらを向くと、黒くつぶらな瞳が月の光と同じ色で輝いた気がした。
「おうおう、大丈夫?」
 そう尋ねると、カア!と溌剌な声で返事をする。
「いいね、でも空元気じゃないよね?」
 カアッカア!
「カラスは夕焼けこやけで日が暮れたら、お家に帰るんじゃないのかい? あまり遅くまでフラフラしてるとあいつみたいに変なやつに絡まれるよ!」
 そう釘を刺すと、本当に反応するみたいに俯いてしまう。カラスを可愛らしいと思うなんて初めてだった、というかこんな近くでカラスを見ているのが初めてかもしれない。カラスなんて夕暮れに群れで不穏に飛んでるか、エサを求めてゴミ袋を突っついてるところしか見たことがない。
 カラスはもう1回、カアッ!と鳴くと、羽をバタバタとさせ、間もなく空へと飛びあがる。だけども一気呵成にひゅうと飛んでいく訳じゃなく、ゆっくりと遠くへ飛んでいく。その間、名残惜しげにこちらを何度も振り向いてきて、何て健気なカラスなんだろうと彩佳の情が絆されてしまう。今度はカラスがゴミ袋をブチブチつつきまくってるのを見ても、一回は許してやろう。
 家に帰ってくると、愛猫のコーラサワーが弾丸列車さながら彩佳のもとにやってくる。こいつも可愛いやつなのだ。
「今日はあんたのお仲間がカラスいじめてんの見たぞ~」
 コーラサワーの体をさすさすしながら、彩佳はそう言う。
「ダメだぞ~弱い者いじめしちゃダメなんだからな~ちゃんとあいつに猫語で注意しとかないとダメだからねえ!」
 するとコーラサワーはベシ!と彩佳の手を叩いて、どっかへ行ってしまった。やっぱり可愛いやつなのだ。

 仕事はつらい、面倒くさい。
 彩佳は早く家に帰って、コーラサワーと遊びたい。
 ふと彼女の視界に後輩である秋津ここち(かなり背が高い)の姿が入ってくる。彩佳は仕事の時はいつだって不機嫌なのだけども、今日はここちの方がよりいっそう不機嫌って感じの雰囲気だった。というか殺気だってる。いつもは家の近くの図書館の花壇って感じで天真爛漫なので、今日はなかなか珍しい。
「秋津さん、大丈夫?」
 ここちがこっちの方に歩いてくるので、先輩として声をかける。こっちが申し訳なくなるほど体をビクンとさせて、超驚いたって感じだ。マスクの下ではさぞや唇が大きく開いているんだろう。しかし平静を取り戻そうとするうちに、全身から鋭い不機嫌オーラもまたモワモワ漂ってくる。
「いや、べ、別に大丈夫です」
「何か……具合とか悪かったりする? そういうのあったら早退しちゃいなさい。このご時世、体調不良が何に繋がるか分かんないかんね」
「心配してくれるの、嬉しいですけど、全然そんなんじゃ」
「そっか、まあ何かあったら言いなよ。したかったら、ズル早退でもしちゃいな。仕事も、まあ私がね、へへ」
 彩佳はここぞとばかりに先輩面してみせる。
「そ、そんなに優しくしないでも大丈夫、です!」
 妙なところで言葉を区切ったと思うと、彼女はたったかと歩き去ってしまう。
 そういうちょっとひねた感じなのが、後輩として可愛いと彩佳は思ったりする。
 結局何事もないままに仕事は終わり、彩佳は疲れを癒すため本屋へと向かう。本屋は彼女にとって正に都会のオエイシス、紙の匂いを嗅いでいると心がスカッと爽やか! 何も考えずにぷらっぷら彷徨ったり、音楽雑誌とか料理雑誌を立ち読みしたりするのも好きだが、最後に辿りつくのは海外文学コーナーである。コロナのせいで旅行も満足にできないなか、海外の本を読んだりするのが旅行代わり、しかも普通はあんまり行かない場所にだって簡単に行けたりする。南アフリカ共和国、マルティニーク、ベラルーシなどなど。
 今日見つけたのは『スモモの木の啓示』という本だった。イラン革命に翻弄される家族を、魔術的リアリズムで描きだした作品らしい。魔術的リアリズムといえばラテンアメリカ文学だが、イランのそれはどんなものだろう。イラン文学は読んだ覚えがないし、イランにも行ったことがない。いつか行ける日が来るんだろうか?
 興味が湧いたのでその本を携えて、彩佳はレジへと向かう。だがいきなり、走ってきた子供にぶつかられて思わず体勢を崩す。崩した時点で、あー1秒後ケツめっちゃ痛くなるだろうなあ、切れ痔いちおう治ったんだけど振り返しそうで怖いわあ、とか思ったり半ば諦めてた。
 だけどいきなり手を掴まれて、すっと体を引かれる。
 まるで地球の引力に絡めとられた隕石ってふうにしっくり来た。いやそしたら地球に落下して恐竜とか絶滅させちゃうか。でも彩佳としてはすごく、しっくり来た。そして瞳に見たことない女性が映った時、それはときめきに変わった。
「大丈夫ですか?」
 今度は彩佳がその言葉をかけられる番だった。でも返事をしなかった。何故って彩佳はその女性に見とれちゃってたからだ。闇よりも暗くて底が見えてこない髪、深海の底で眠る黒石を嵌めこんだような瞳、工業製品とは思えないほど艶やかな黒に包まれたマスク。でも何と言っても、指なのだ。“しなやかな”って概念が実際に肉を持ったらこれだ!としか言い様がない5本の綺麗な指に、少し色黒といったエキゾチックな印象の肌。だけど一番目を惹いたのはそこに生えている細やかなのに、妙に黒々しい、存在感がある指毛。人の指毛に注目する、というか意識が行くなんて生まれてこの方一度もなかった、恋人のですらどうでもいいって感じのやつだった。なのに、なのにこの女性の指毛に、彩佳は見とれてしまった。
 濃い指毛 見つめる私 芽吹くのは……
 自然と心に俳句が浮かんだ。
「ああ、その本」
 彩佳が抱える本を指差して、女性が言った。
「私も読みました」
 そして目を細める。
 家に帰るとなると、彩佳はコーラサワーのもとまで飛んでいき、もふもふと抱きしめまくる。
「何か、めっちゃカッコいい女の人と会っちゃったわ~」
 コーラサワーのふくらかなお腹をわしゃわしゃしながら、そう言う。
「ロマコメみたいな感じでさ、転びそうになったとこ助けられちゃって。それでめっちゃときめいたんだけど、買おうとしてた本見て『私もそれ読みました』なんて言われちゃって、おいおいこれ運命なんじゃあねえの?っていうね。私にも久しぶりに春来ちゃいそうじゃない?」
 彩佳は溶けたアイスみたいなニヤニヤを浮かべている。だけどもコーラサワーは引き続き不機嫌って感じで、露骨にそれを示すというのはないけども、“なんか萎えたわ……”と言う時のどこかのYoutuberみたいな顔をしていた。なおも彩佳はベラベラ喋りながら、コーラサワーはそれに飽きてどっかへ行ってしまう。
 翌日、彩佳が職場でここちを見かけた時、目があったらまたたったかどっかへ行ってしまうので、コーラサワーと同じで可愛いやつと思ったものである。

 実はあの黒髪の女性と彩佳は連絡先を交換していた。
 三足緑という名前らしい、三足なんて珍しい名字だと彼女は思う。
 まず始めに彼女に先日のお礼と、買って読んだ『スモモの木の啓示』の感想を送ってみた。予想とは裏腹に、冒頭から処刑と死体処理で始まる相当にハードな1作で、結末もバラバラに無惨な死を遂げた主人公一家がせめて最後はいっしょに天に召されるという悲しいものだった。その悲しみはしばらく忘れられそうにない。
 “私も、ちょっと泣いちゃいました”
 そんな文章を見て、あの長い睫毛に祝われてる瞳から、涙の粒がまろびでるって風景を空想してしまう。絵を描く才能があったら、絵画を1枚したためたいくらいだ。だが実際やったら天然でピカソの『泣く女』って感じの冒涜的なやつが描けちゃいそうだ、もちろん悪い意味で。
 そこから彩佳は緑とメッセージのやり取りをする。“事あるごとに”くらいの頻度で送りたくなる思春期的ソウルを抑えながら、30代相応の落ち着きを意識する。それでもすぐ返信がくると嬉しいし、すぐ返信が来ないと嫌われたかもと不安になり、極から極へと忙しなく反復横飛びをかましまくる。だがこの感じ、嫌いじゃあない。
 文学の話も勿論したけども、彼女が実際に好きなのは科学の方らしい。Youtubeで小中高生向けの科学動画をたくさん観るのが趣味らしく、時々観た動画をシェアしてくるのだ。ハーゲンダッツを使って蒸しパンを作る微笑ましい動画から、超巨大ブラックホールの生成過程を解説する超人気予備校教師Youtuberの動画まで、様々なものを緑は見ていた。
 特に面白いのは物理エンジンというソフトウェアを駆使して、映画や漫画の現実離れした現象を科学的に検証するという動画の数々だった。サンタクロースが1人で地球上の子供たち全員にプレゼントをあげるにはどのくらいの速度が必要?なんて動画では、あまりの速度とそれが生み出す衝撃のせいで家が次々と大爆発を遂げるという結果になり、彩佳も思わず爆笑する。科学は何だかとんでもないものらしかった。
 学校に通ってた頃、緑はごりごりの文系だったらしいが、最近になって科学の面白さに目覚め、科学ノンフィクションやYoutubeの科学動画に触れまくっているんだという。中性子星爆発や多元宇宙理論についての本を読んでいると、自分の悩みなんて何てちっぽけなんだ!という気分になると緑は話してくれた。オススメはNewton Pressが出している“文系のためのめっちゃやさしい”シリーズだって。
 そして彩佳の方はそういう動画を見ている時に思い浮かんだ川柳を緑に送ってみる。
 重力波 宇宙の響き いとおかし
 9次元 次元が違う 文字通り
 Crispr ゲノム革命 頭パァン
 あまりにも凄すぎてそこに季語が入る余地なんてないし、全部が下らなすぎるギャグみたいになった。でもそれくらい語彙を失ってしまうくらい、世界には現実離れしたものが溢れている。自分の感動を表現するのに、ネットミームに頼るオタクの気持ちが何だか分かった気がする。そしてそれに緑はたくさんの絵文字を送って笑ってくれるので、彩佳は嬉しい。

 そんななかで彩佳はここちに相談したいことがあると言われる。
 会社近くの店でサンドイッチを買い、2人並んでベンチに座る。今はまあまあ暖かいけれども、最近寒いのと暖かいのが反復横飛するように激しく行き交うので、何だか疲れてしまう。
「あの、めっちゃ平凡すぎな質問かもですけど……」
 サンドイッチをもしゃもしゃ齧った後に、そんなことを言う。前にYoutubeで見たゾリラという珍しい齧歯動物に似ていると思った。しかし、とても可愛いけども肛門からえげつない悪臭の液体を放出し、それが目にかかると失明するというのを思いだしたので、この喩えを撤回する。
「す、好きな、きな人いて……その人に振り向いてもらうにはどうすればいい、ですか?」
 心のなかでは“おいおい、可愛いヤツめ!”と言いたくなるくらいだったけども、彼女の目が真剣なので茶化すことはしない。
「うーん、もうね、それは正直に好意を伝えた方がいいと私は思うよ」
 彩佳はひときわ大きくサンドイッチを齧り、そして飲みこむ。
「大人の駆け引きだなんだって世間では言われるけどさ、そういうの面倒臭くない? 少なくとも私はもうそういうのウンザリですわ。止めようやって思うよ、世間はまだまだ駆け引きにノリノリかもしれないけど。そういうの悪。私は今の時代こそ正直に好意を伝えるというのが大事と思うよ。そうは言ってもまあ確かにそれは難しいと思うから、まずは感謝とか誉めるとかから始めてさ、着実に関係を築くってのが重要だと思うよ」
 ここちは目を何度も何度もぱちくりさせている。
「そう、ですか……」
「そうそう、いや私もさ、最近いい感じの女の人いてね、その人にさあ、へへへ」
 緑のことを思い浮かべると、自然と頬が緩んでしまう。
「……………」
 なおも話していると唐突に雨が降ってるのだが、2人とも傘なんか持ってなかったので、急いで走って会社に帰ろうとする。すると不思議なことに、遠くから何かが彩佳に向かって飛んできたんだった。それはハトでもスズメでもなく、カラスだった。そうして彩佳の頭のうえにまで来ると、まるで雨から彩佳をガードするように飛んでくれる。黒くて小振りの傘みたいになってるのだ。
 それに対してここちは「しっ! しっ!」とばかりにカラスを追い払おうとするけども、対してカラスも負けてはおらずとカアカア喚いて羽をバタバタさせる。そうして雨の滴がここちにビッチャビチャと当たるんだった。それも上手いこと彩佳には当たらんみたいになっている。
「いいよいいよ、何か私の頭守ってくれてるみたいだし」
 あの事件の恩返しかな、そんなこと思いながら彩佳がカラスをかばうと、ここちがあのブスッとした表情を浮かべてくる。可愛い後輩ちゃんやわ、ホント。
 そうして雨が止むと、仕事は終わったとばかりにカラスはあっという間にどっかへと飛んでいってしまう。彩佳は感動しながらその後ろ姿を眺める。
 カサカラスどっちもカから始まるね
 彩佳がそんな川柳を読むと「わたし、もう仕事戻ります!」とたったか会社へと戻っていった。

 何日か後に、彩佳は緑といっしょに近くの美術館へ行くことになる。緑は文学も科学も好きで、しかも美術鑑賞も趣味らしく、そんな好奇心旺盛さには彩佳もコロッと行ってしまう。特に陶芸や近世の絵画とかが好きらしく、ある美術館で浮世絵や屏風絵の展覧会があるというので、下心丸出しで彼女を送ったら“私も行きたかったんですよ~”と返信が返ってきて、ガッツポーズという訳である。
 彩佳は待ち合わせ場所に30分くらい前には来ていた。気持ちが逸って、心臓が口じゃなくてお尻の穴から出てきてしまいそうだった。実を言うなら、あの本屋での邂逅以来に会うのであり、デート的なやつはこれが初めてだった。
 肛門括約筋をギュッと締めながら待っていると、とうとう緑がやってきた。少しばかり紫がかったアッシュグレイのジャケットに、インナーはリンやカリウムって栄養で満ちみちた農場の土って感じの茶色だ。デニムパンツはほっそりとしたシルエットで、その先から白い足首が伺えるのがキレイだ。だがそういうエレガントなバランスをブッ壊すのがどぎついほど真っ赤なサンダルで、しかもそれは茹でたロブスターの形を型どっていた。
「いや、本当にそれ履いてきたんですね!」
 開口一番そう言うと、緑は嬉しそうに目を細める。以前LINEでこのロブスターサンダルの写真を送ってきて“今度はこれ履いていきまーす”と言っていたが、まさか本気で履いてくるとは思わなかったんだった。緑のそういうお茶目なところにも彩佳はマジでグッとくる。
 その後に美術館へ行って美術鑑賞というやつをする訳だけども、彩佳が見ているのは結局のところ美術とかではなく緑だった。あの凛々しい印象とは裏腹に意外と背は小さくて、小柄だった。それでもやっぱり凛々しい。少なくとも自分を凛々しく見せる方法を優雅なまでに心得ている。それでいてロブスターサンダルで軽やかに、かつ堂々と型を破ってみせる様が心憎い。こりゃモテるだろうなと思わざるを得ない。そんなこと考えるから、実際美術を見ていない。
 しかしある時、1枚の金屏風に視線が引きつけられる。そこに描かれているのは2匹のカラスだった。金の輝きに包まれながら、小さなカラスと大きなカラスが枝のうえを歩いているらしい。何となく大きなカラスが母親で、小さなカラスが娘だと思った。
「可愛いなあ」
 彩佳は思わずそう言うと、傍らの緑が驚いたように彼女を見てくる。
「カラス好きなんですか」
「ああ、何か好きっていうか。最近カラスとすごい縁があるっていうか」
「というと?」
「前にカラスが野良猫に襲われてて、それを助けてあげたんですよね。そうしたらこの前、傘持ってないで雨降られた時、どっかからカラスが飛んできて、何か、濡れないように守ってくれた、くれたのかな、まあそんな感じで。それで最近カラスがすごい気になってて」
「へえ……」
 緑が小さくそう呟く。
「カラスってとても頭のいい鳥っていいますよね」
「ああ、ですねえ」
「助けてくれた恩を返したのかも」
「鶴ならぬカラスの恩返し、それは何とも素敵な」
 頭のなかに黒い着物を着た女性が思いうかぶ。完全に極妻って感じだった。でもそういう女性に恩返しされるのもいいかもと、彩佳は思う。
 ふと横を見ると、緑が左の指先で少しガラスに触れているのに気づいた。指同士をかすかに擦りあわせながら、爪の先はガラスにまるでキスするように触れている。そして第2関節と第3関節の間に生えた指の毛、それが震えているのだ。自分の瞳が顕微鏡になってしまったかのように、ものすごい解像度で緑の指先を見てしまっていることに彩佳は気づく。
 目が離せなかった。
 もう本当にずっと、ずっと緑の指先を見てしまっていた。
 そして家に帰った後は速攻でオナニーをした。めちゃくちゃオナニーをした。凄腕の忍者が目に止まらぬ早さで手裏剣を投げるような勢いだった。
 ベッドに潜りこんでぐるんぐるん回っていたら、ドアの向こうからガンガン音が聞こえた。後にはニャアニャア鳴き声が聞こえてきて、コーラサワーがなぜかドアに何度もぶつかってきているらしかった。最初は無視していたけど、やっぱオナニーは静かにやりたかったので、いやいやながらドアへと向かう。
「なになに、コーラちゃん、どしたんどしたん」
 右手で頭を撫でてあげようとすると、フシャア!とひときわデカい唸り声をあげて、リビングへ走り去る。最初はムカッとしながらも、右手を見てハッとする。
「そりゃまんこ触った手に撫でられたくないわな」
 彩佳は洗面所で念入りに手を洗った後、リビングへ行ってみるけどもコーラサワーはどこにもいない。どっかに隠れているかと思いきや、やっぱり見つからない。
 ということでベッドに戻ろうとするとスマホにメッセージが届く。それはここちからだった。

 彩佳はここちと一緒にある本屋へ行くことになる。そこで、何と日本語で小説を書いているクロアチア人小説家のトークショーがやるというのだ。そんな人物がいるのは全然知らなかった、ここちからトークショーの話を聞いて初めて知ったんだった。
「クロアチアって旅行で行ったことあります?」
「実はあるよ。大学時代にスプリットって港沿いの観光地に行ったんだ。そこ海がすっごい綺麗でさ、インディゴブルーってやつよ」
「へえ、コロナ明けたら行ってみたいですね」
「うん、私もクロアチアとかセルビアとか一人旅とかしたいねえ」
 そう話しながら、何となくここちの方を見る。今日の服装は“キャリアウーマン”という概念のイデアそのまんまって感じの、かなり凛とした格好で思わず視線がグッと引きつけられる。いつもは何というか猫背が露骨で、パッとしない服装ばかりだのに、今日は真逆とは言わないまでもかなり決めてるって印象を受ける。そして実際、ここちはかなり背が高い。ここちにとっての猫背はいわば昔の漫画において美人がかけてた眼鏡のようだった。今のここちを見ていると“この隠されていた彼女の魅力を知っているのは自分だけでは!?”というおめでたい錯覚を抱かされる。
 だけど、何より、ここちの匂いが彩佳にはビビっとくる。ミツバチの巣を襲撃するスズメバチのように危険で、刺激的な香りだ。鼻の粘膜に鋭い毒針をブッ刺されているどころか、耳にまであの瞬くような暴力的な羽音が聞こえてくる。共感覚みたいなものを味わわせるくらい鮮烈ってことだった。
 いやいや後輩ちゃんに、なにイケない思い抱いてんの!
 彩佳は頭に浮かぶイロイロを振り払おうとする。
 私には緑さんいるし、後輩ちゃんにも他に好きな人おるし!
 そんな感じで悶々しながら本屋に着いた。会場は小さな会議室ほどの大きさで、当然だがイスはそこまで多くない。コロナ禍でなかったら、小池百合子に“密です!”と注意されるくらいイスが並んでいたかと思うと、あーあって気分になる。何だか残念だった。
 とりあえず後ろの方の席を取って、ここちと他愛ないお喋りをしていると、会場内に別の女性が入ってきた。それは緑だった。驚いて視線をずっと彼女の方に向けてしまっていたら、緑と目が合ってしまう。彼女は一瞬眉毛を上下するように目を見開いてから、次に目を細めてくる。遠目からなのに、目の脇の微かな皺まで見えてくるようだった。そしてこっちにやってきた。
「彩佳さん、ここで会うなんて」
 本当に驚いたって風な声色にも聞こえるし、実は前々からLINEの文章とかから自分の心中を読み取って予定を把握してましたって声色にも聞こえた。どちらにしろ、嬉しい、のだけども今はちょっと事情が違う。
「うん、まさか会うとはっていう、あー……」
 言葉が詰まったのは“こっちの子は……”と言って緑にここちを紹介するか、“こちらの方は……”と言ってここちに緑を紹介するか、めっちゃ迷ったからだ。それでふとここちの方を見たら、ここちがめっちゃ緑の顔を見ていた、デカい蟹の化け物か何かの装甲を太刀で貫き通すってくらいの力強さだった。
「あなたが先輩のお友達さんですよね~」
 視線とは裏腹に、語尾が奇妙な間の抜けかたをしていた。
「お噂はかねがね~」
 その言葉を聞きながら、緑は彩佳の左の席に座った。ここちは右の席に座っている。
「私も彩佳さんからあなたのこと聞いてますよ」
 緑の目が細くなって、ほとんど線みたいになった。
「可愛い、可愛らしい妹さんみたいな存在だって」
 それから彩佳を挟んで、緑とここちが喋り始めた。べらべらべらべらべらべらべら、コロナ禍をもろともしない饒舌な言葉の投げ合いで、彩佳は2人の間にいるのに会話に入る余地がない。相反する2つの濁流に、同時に体をもみくちゃにされているみたいで、ブンブン振り回されてる操り人形さながら四肢がこんがらがってもおかしくない気分だった。何だか背中に汗もかき始めている。最近妙に寒い日が続いていたからって暖房効きすぎ!とおちゃらけてツッコミたかったけども、空間にめぐる緊張感のせいで全然言えない。
「ちょ、ちょっとトイレ行ってきますわ」
 そう言ってから彩佳は急いでトイレに行った。でも実際おしっことかはしない、尿意なんかマジで全然なかった。彩佳は鏡を見つめながら、マスクをずらして籠りに籠った熱気をブチ撒けた。最近1日に歯を4回くらい磨いているので、臭さとかは感じなかった。そしてほっぺたを見ると、かなり赤らんでいた。カレンダーの祝日を染める赤よりも濃い、そういえばもうすぐでゴールデンウィークだ。
「大丈夫ですか、彩佳さん?」
 ハッとして横を向いたら、緑がいた。
「ああ、えーっと、全然、全然大丈夫ですよ」
 取り繕うように手を洗う。
「あの子、なかなか……血気盛んというか」
 “あの子”っていうのは当然、ここちのことだろう。
「いやゴメンね、いつもはホント全然ああいう感じじゃなくて」
 そうして改めて緑に視線を向けると、今までと雰囲気が違うことに気づいた。獲物を目の前にした捕食者の官能性というやつだ。彼女の黒い瞳が、マスクの奥にある唇が自分を狙っているのを感じるのだ。
 とうとう狩られちゃう時がきた!?!?
 彩佳の心臓がバクバクして、速攻で爆発しそうになる。そして緑が歩みよってきて、鼻がにおいを感じられるくらい近づいてくると、その指が自分の赤く染まった頬に触れる。肌のうえであの細やかながら逞しい指毛が揺れている。そうして次は、緑の顔が近づいてくる。
「ちょっと、ちょっとちょっとちょっと!」
 ガラス玉を床に叩きつけたみたいな声がトイレに響いたと思ったら、ここちがいきなり乱入してきた。というか突撃してきたの方が正しいかもしれない。
「何やって、何やってんですか!」
「別にどうということはないですよ。ただ妹さんには刺激が強いかも……」
「妹じゃあないんですよ、わた、わ、私は……」
 ここちは判別不能なことを喚きはじめ、緑もそれに合わせるように判別不能なことを叫びはじめ、とうとう大喧嘩に発展し始めた。ハリウッドの巨大怪獣大決戦みたいな感じだ。それを目の当たりにしてたら、彩佳は何か“ウワーーーーーーッ!”って感じになった、そういう“ウワーーーーーーーーーーーーッ!”って感じに。
 そのまま彩佳はトイレから逃げ出し、本屋からも逃げ出して、めっちゃ走った。何をしていいのか、どうしていいのか分からなかったので、ただただめっちゃ走った。そしてある路地を右に曲がったら、ネコとカラスがギャンギャン騒ぎながら喧嘩しまくっている現場に遭遇してしまった。つっつきとネコパンチに己の存在と尊厳を懸けるような、頂上決戦みたいな感じだった。
 カアアアアアアアァァァアアァァアアッ!
 フシャアアァアァアアァァアァアアアッ!
 彩佳は途方に暮れてしまって、空を見た。だいぶ明るいし、そういえば空気も暖かい。このぬるいオレンジ色は、今年も春がやってきたと彩佳に告げているようだった。そこで一句!

 何かこれ 想像してた 春じゃない!!!!!

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。