コロナウイルス連作短編その23「黒が駆けぬける」
兼坂郁人は馬が飼育場から逃げて、現在逃走中であるというニュースを見た。そして興奮を抑えきれなくなった。
「ニホンザルの次は馬かよ!」
そう叫んでから出掛けようとする。すると母親から声をかけられた。
「どこ行くの?」
「馬を捕まえに行く!」
彼は自転車で走りながら、親友の中山崇高に電話をかける。彼は郁人の親友であり、あの珍妙だけども素晴らしい光景を一緒に観たくなったのだ。彼がしばらく“いつみ”というスーパーマーケットの前で待っていると、眼鏡をかけた崇高がやってきた。だが元気がなさそうに見える。
「どうしたんだよ。そんな元気なかったら、馬捕まえられないぞ」
「うん……」
「どうしたんだよ」
崇高は躊躇いながらも、最後にはその理由について話しはじめる。
「ぼくのおばあちゃん、北海道の札幌に住んでるんだけど、何だかコロナウイルスに罹かっちゃったみたいなんだよ。おじいちゃんが電話で教えてくれた。どうしてかは分からないけど、コロナウイルスに罹かっちゃったんだよ」
崇高は今にも泣きそうだった。
「コロナウイルスは老人が罹かったらヤバいってよく言うじゃん。すぐに死んじゃうって。だからぼく怖いんだよ、おばあちゃん死んじゃうかもって」
「そっか。そりゃヘコむわな」
郁人は崇高の肩を力強く掴んだ。
「でも崇高のおばあちゃんは死なないよ。俺が保証するよ!」
その言葉に根拠はなかったが、崇高の表情は明るくなる。
「馬を捕まえたら一緒にその馬に乗って、札幌に行こう。それでお前のおばあちゃんに馬を見せてあげるんだ」
「そうだ、そうだね!」
いつの間にか崇高は元気一杯になっていた。
「でもどうやって探すの?」
「まずTwitterで検索してみよう」
郁人は“黒い馬 見た”でTwitterを検索してみるのだが、本当にその馬についての呟きを発見する。
“何か、高田馬場で黒い馬見た! ラオウとかが乗ってそうな格好よさでヤバかったwww”
そしてそこには動画があった。黒い馬は道路を優雅に歩いていた。まるで闇がしなやかな肉体を手に入れたような美しさがあった。そして身体を震わせるかと思うと、道路を走りはじめる。コロナウイルスのせいで道路に車は少ない。ゆえに馬は自由に道路を疾走していた。
「すげえ、カッコいいわあ」
「こんなデカい馬、捕まえられるの」
「わかんね。でも最低でもあの身体に触りたい!」
郁人たちは高田馬場に向けて出発した。五月ながら日差しの暑さは濃厚なものであり、郁人の身体からは汗が迸った。しかし最近は自粛で部屋に引きこもっていた故、この刺激は郁人にとって気持ちいいものだった。郁人が後ろを振りかえると、崇高が笑うのが見えた。彼の眼鏡は新しいもので、野暮ったさが少し洗練されていた。個人的には前の眼鏡の方が好きだったけども、崇高自身が気に入っているならそれで良かった。そして彼らは早稲田に着いた。
「ぼくの父ちゃん、ここにある大学に通ってたんだよなあ」
崇高は言った。
「へええ」
「だからお前もここに入学しろって言ってくるんだよ。郁人も一緒に入ろうよ」
「その大学って頭いいとこなの?」
「うん、かなり頭いいよ」
「じゃあ、俺は無理な気がするなあ」
「そんなん言わないでよ!」
郁人と崇高は笑った。しばらく彼らは早稲田を走りまわったが、黒い馬は見つからなかった。ただただ無駄に汗が迸るばかりだった。そして通行人に馬について尋ねてみるのだが、彼らも知らないようだった。何人かに尋ねた後、郁人は思わず溜め息をつく。
「君たち、馬探してるの?」
突然、若い女性が郁人たちに話しかけてくる。
「私、見たよ。ほら」
スマートフォンの液晶画面には紛れもなくあの黒い馬が写っていた。
「うわ、すっげ。どこで見たの」
「少し先の交差点だよ。すごい綺麗な馬だったよね」
「どこに行ったか分かる?」
「もう数十分前に見ただけだけど、少なくともその時はあっち走ってったよ」
女性が指差す方向を郁人は見た。そこには黄金の楽園が待っているような気がした。
「じゃあそっち行ってみる。お姉ちゃんありがと!」
「うん、頑張ってね」
そして二人は再び走りはじめた。しばらくは無言で走っていたのだけども、崇高が何かを話し始める。
「ぼく、おばあちゃん大好きなんだよ。優しくて、料理が上手くて、ゲームが大好きで、会った時はお金もいっぱいくれるし。前、おばあちゃんとクッキー作ったことがあるんだ。ポケモンのクッキーだよ。おばあちゃんはすごい綺麗に作ってて、ぼくのはもちろん汚いけど、おばあちゃんが手直しするとすぐに可愛くなるんだ。それから一緒に食べたよ、美味しかったなあ。それでさ、おばあちゃん、ポケモンのゲームが強いんだよ。頭がすごい良いんだ。『ポケットモンスター/ウルトラサン&ムーン』でも勝てなかったし『ポケットモンスター/ソード&シールド』でも勝てないんだ。ぼく、ネット通信でおばあちゃんと何度も戦ったよ。でもおばあちゃんのミミッキュ強すぎるんだよね。ぼく全然勝てない。ぼくが子供だからって、おばあちゃんはずっと本気だよ。でもそれが嬉しいんだよなあ」
その話を聞いていると、郁人はとても嬉しくなった。彼自身の祖父と祖母が亡くなったのは大分前だが、彼らのことを思いだすと自然と心が暖かくなる。今、崇高の話を聞いた時と同じように。もっと彼らと遊びたかったと郁人は思う。
そして彼らはTwitterの情報を頼りにしながら、九段下までやってきた。そこには今でも桜の残滓が残っていて、甘い匂いを嗅いでいると気分が良くなった。人々に話を聞いてまわっていると、馬の目撃者がいた。彼の証言をもとに道を走りつづける。とうとう彼らはオフィス街に足を踏みいれた。摩天楼がまるで筍のように立つ様には圧倒される。自分の父親はこういうビルで仕事をしているのかもしれないと郁人は思った。彼の父親はコロナウイルスにも関わらず、未だに通勤を続けている。だが、郁人は父親のようになりたいとは思わなかった。妻を深く傷つける彼のような男にはなりたくなかった。
突然、郁人は何か野性的な匂いを嗅ぎとった。それはすこぶる緊張した、強烈な匂いだった。彼はそれによって刺激された本能に従って、オフィス街を一直線に駆けぬけた。
「いきなり、どこへ走ってんの?」
崇高の問いにも郁人は答えなかった。だが彼には今向かう方向にこそ黒い馬がいるという確信があった。そして数分走り続けた後、彼らは見つけた。道路の真ん中に黒い馬が立っているのを。写真や動画で見るのとは全く違う、規格外の風格をそれは纏っていた。それはまるで周りの空気や風景を静かに焼きつくしているようだった。黒い馬について“黒い炎”と言えばいいのか、それとも“燃えあがる闇”と言えばいいのか、郁人には分からなかった。
「すげええ」
その勇姿に崇高はそんな言葉を漏らしたんだった。
「捕まえよう!」
郁人はそう言った。彼らはまるで野良猫に近づくように、静かに黒い馬へと近づいていく。馬は優雅にも口で体毛を掻いていた。郁人たちが近づいても、馬は優雅さを全く崩すことがない。そして触れる場所まで到達した。郁人は馬の体臭を嗅いだ。それは激烈なまでに野性的でありながら、同時に贅沢なまでに甘美なものでもあった。彼らには周りの車の騒音も気にならなかった。しかし指がその皮膚に到達するその瞬間、黒い馬は走りはじめた。
「追いかけなきゃ」
「でもどうやって捕まえるの? 荷物なんて何も持ってきてないよ」
「分かんない。でもとりあえず追っかけるんだよ」
そして郁人たちは走りはじめる。馬は彼らと一定の距離を取りながら走りつづけていた。もっと速く走れるはずなのに走らないのは何故か?と郁人は考えた。するとそんな考えを巡らせる彼を嘲笑うかのように、馬は楽しげに嘶いたんだった。そして気づいた。馬は郁人たちと遊んでいるのだと。もしかすると郁人たちを玩具のようにしか思ってないかもしれない。そう思うとムカついて、郁人は全力で走りだす。最初は車体が馬に近づくのだが、馬の方も速度をあげてくるので、やはり距離は一定を保ったままだ。郁人の体力ばかりが削れていく。全身が汗まみれになる頃、郁人は諦めようかと思う。周りの摩天楼たちも彼のことを笑っているように思えた。しかし後ろから叫び声が響いた。
「ぼくが行くよ!」
そして崇高が全速力で走りはじめる。彼の身体がどんどん馬に近づいていく。
「よしよしよしよし!」
疲れきりながらも、郁人は思わず歓声を漏らした。そしてあと数ミリで崇高の指が馬に届きそうになる。
「行け!」
だが馬はいきなり全速力で風を切った。それは物凄い速度であり、先の走りは遊びに過ぎなかったのだと彼らは理解する。全力で駆ける黒い馬の姿はあまりにも美しかった。黒い鬣が風のなかで、まるで蜃気楼のように揺れうごく。思わず郁人は息を呑んでしまう。いつまででもこの美しい風景を見ていたかった。
だが巨大なトラックが黒い馬に追突した。馬は埃のように吹っとんだ後、床に叩きつけられた。しばらく無惨な形で痙攣していたが、最後には動かなくなった。郁人と崇高は呆然とその光景を眺めていた。
「何なんだコイツ、ふざけんなよ!」
トラックから運転手の男が出てきて、馬の死骸の腹を蹴り飛ばした。
「止めろよ!」
郁人は駆けよるのだけども、運転手に殴られてしまう。そして彼はトラックで立ち去り、後には馬の死骸だけが残った。彼は遠くから死骸を眺めるのだけども、近づくことはできなかった。涙が溢れそうになるけども、何とか我慢した。彼は呆然したままの崇高のところへと戻る。電話がかかってきたので、崇高は会話をはじめる。ただ“うん、うん”としか言わなかった。そして電話を切った後に、崇高は言った。
「おばあちゃん、死んじゃったって」
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