コロナウイルス連作短編その58「風の時代」

“だけれど僕らは地球人 同じ星の旅人さ” -  DA PUMP「U.S.A.」

 胸騒ぎがして、梅原麻央は朝5時頃に目が覚める。目脂まみれの瞳を擦ってから、彼女は携帯を取る。Twitterを眺めるともう既に起床していたらしい人々が騒いでいる。
 “アメリカ国民負けるな!”
 怪訝に思いながら調べていき、大本を理解する。アメリカ合衆国議事堂を暴徒化した民衆たちが占領し、アメリカ中が激震していたのだ。見つけた動画内では、トランプの赤いMAGAキャップを人々がセキュリティを突破しようと突撃していく姿が映っていた。
「USA! USA! USA!」
 麻央にはこの壮絶な風景が信じられなかった。しかし民衆たちの叫び声を聞いていると、自身の脳髄が熱くなってくるのを感じた。市民がアメリカ合衆国を取り戻すために戦っている、そう思うと目頭までもに熱を感じる。麻央は居ても立ってもいられなくなり、ジャージに着替える。体臭がより一層際立ちながら、凍てついた空気のなかで揺れるのを感じた。だが外に一旦は出ながら、自分がマスクをしていないことに気づき家に舞い戻る。マスクを着けながら、自分の弱さを恥ずかしく思う。そして彼女は暁へと繰り出していく。風は不可視の氷柱さながらに、麻央の皮膚を滅多刺しにしていく。いつもながら関節や骨の悲鳴が聞こえてくる。しかし今日は全てが違った。麻央の身体には活力が漲っていた。
「USA! USA! USA!」
 そう小さく叫んでみる。誰も応答することはない。広大な世界はどこまでも寒い。
「USA! USA! USA!」
 冷蔵庫に保管された死骸のように冷たい両手を擦りあわせながら、麻央は叫ぶ。唇からは白煙が迸り、暁のなかで紫煙へと変わっていく。
「なあ、マジで止めてくれよ。自分の母親がトランプ支持とかバレたらマジで生きていけねえ」
 麻央は息子である梅原伊崎の言葉を思いだす。軽薄な視線、目許のふやけた皮膚、蠢く喉元。息子のそんな様子を吐き気とともに思いだす。自然と右手が拳を作りだし、震えているのを感じたんだった。彼女は息子の姿を借りて脳髄にまとわりつく吐き気を抹殺するために、何度も叫んだ。最初は鮮やかな響きを伴いながら、最後には虚空に消えていく。
「おい何時だと思ってんだ、ボケ女。黙って寝てろ!」
 どこからともなくそんな罵詈が飛んでくる。泣きたくなりながら、麻央は叫びかえした。
「USA! USA! USA!」
 走っては叫び、走っては叫び、麻央はどこまでも進み続ける。昨日、彼女は東京で行われていたトランプを支持するデモ動画をYoutubeで観た。大統領の扮装をする者もいれば、あの鮮烈なまでに赤いキャップを被る者もいた。老若男女関係なしに様々な人物がデモに参加していたし、その誰もがマスクに束縛されないまま、有りのままの考えを響かせている。彼らが棚引かせる旗には“トランプ大統領、真の自由へ”という文言が記してあり、1月の冷酷な風にも負けず希望がはたためいていた。麻央はこのデモに参加する勇気を持てなかった自分を恥じた。結局は他人の目を気にして、思いを主張できない自分を恥じた。枕に涙が垂れた時、映画でこういう場面を観たことがあると力なしに笑った。
 麻央は走りつづけた。前から何者かが走ってくるのが見えた。寒風のなかで痩身を揺らす、息子と同世代と思われる青年だった。麻央は彼のために叫んだ。
「USA! USA! USA!」
 青年は驚愕を顔に浮かべた。皮膚がピアノ線のように引き締まる。右頬にだけニキビが集中している。麻央はもう1度叫ぶ。その凝集するニキビたちが赤みを増したような気がしたが、青年は走り去る。鼻穴からトロトロした鼻水が出てきた。ジャージの袖でそれを拭いとり、麻央は再び走りだそうとする。
「USA! USA! USA!」
 振り返ると腕を掲げながら青年がそう叫んでいた。麻央の心臓に血潮が流れこんでいく。彼らはともに走り始める、そして叫び声を暁のもとで共鳴させていく。灰塵色の雲間から、少しずつ太陽が現れてきている。光が大地を包みこみ始めている。麻央と青年がひたすら走り続ける最中、疎らに目覚めだした日本人たちが彼らに気づき、その叫びを発見する。しかめ面を浮かべる者もあれば、何か蒙が晴れたかのような表情を浮かべる者もいた。そして彼らは極寒までに冷えているだろう手を擦りあわせながら、重苦しい空気のなかで懸命に足をバタつかせながら、麻央の走りに加わっていく。
「USA! USA! USA!」
 声は徐々に、しかし確実に大きさを増していき、赤い風船が空を舞うようにその響きが飛翔を果たす。自分の周りにもこんなに仲間がいた、こんなにもドナルド・トランプという偉大な大統領を信じる仲間がいた、こんなに嬉しいことはない。麻央は天に拳を突きあげた。
「何、叫んでんですか、みんな乗せられてますよ!」
 麻央の前に制服の少女が立ちはだかる。彼女はスマートフォンを麻央に見せる。
「この暴動の首謀者はアンティファとBLMなんですよ。彼らがトランプ支持者になりすまして、大統領が不利になるように暴動を起こしているんです。でも日本のマスコミはこれを曲解して、わざとトランプ支持者に汚名着せて、トランプをテロリストのリーダーに仕立てあげようとする。ほら、このタトゥー見てください。こいつらアンティファなんですよ」
 写真には奇妙な野人風の扮装をした男が映っており、その手の甲には確かにタトゥーが彫ってある。写真の横には比較として1つの紋様が写っている。まるで剣から禍々しい波動が出ているようなその紋様は、確かに皆がアンティファとBLMのマークと言っているものだった。麻央は脳髄をブン殴られたような心地のまま、アスファルトに立ち尽くす。まんまとアンティファたちに乗せられて、心の底から叫び声をあげていた間抜けさに麻央は愕然とした。勇気を奮い立たせて行動したとしても、結局行き着くところは虚無だ。
「諦めるな!」
 誰かがそう叫んだ。
「アンティファとBLMに負けちゃダメだ!」
 また誰かが叫ぶ。
「諦めるな!」
 一体何を? 麻央は思った。だが確かに握られた左の拳が震えていた。急に熱烈な涙がこみあげながら、それを必死に押し留めた。風が吹く。風が吹く。恐ろしいほどに凍てついた、無音のなかで熾烈なる渦を描きだす風が吹いている。そして麻央の右頬に吹きつけてくる。
「諦めるな!」
 麻央は衝動のままに叫んだ。今、そうしなければいけないとそう思った。横にいた青年が麻央の肩を叩く。彼はマスクを外して、ジャージのポケットに仕舞う。麻央はその姿を静かに見据えてから、深く頷く。そしてマスクを外して、全身の筋肉を躍動する様を思い浮かべながら、どこまでも飛んでいけと願いながら、思い切りマスクを投げた。マスクは一切風に吹かれないまま、ボトリと地面に落ちた。麻央と人々は顔を見合わせながら、笑った。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。