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コロナウイルス連作短編その142「メリークリスマス」

 やはりぼくは朝10時半に起きる。母親が作ってくれたおにぎりを食べながら、Youtubeでウルトラマントリガーを観る。ダメだ、今年のシリーズは駄作だ。すべてが白々しい。
 そして外に出る。今日はクリスマスだが、特に予定はない。仕事はしていない、恋人もいない、友人もいない。4月にはクローン病という腸の難病と診断された。少なくとも食事の面では、母親に介護されている。なので遠くにも行けない。だから行くのはただ最寄り駅近くの図書館だ。
 しばらく歩く、ダウンコートを着込めば、寒くはない。むしろ汗ばむような予感がする。まっすぐ行き、左に曲がり、右に曲がり、まっすぐ行く。住宅街で、ふといやな匂いがした。ガスの、鼻の粘膜と胃の粘膜へ同時に作用する、あの吐き気を催すような匂いだ。なんでもこの匂いは、後付けされる匂いだそうだ。何故なら漏れているのに気づかなければ、人間は速やかにくたばる。ガス自体は無臭だ。横を見ると、家がある。柔らかな赤茶色の外壁に包まれた家だ。何の変哲もない普通の家だ。その奥には、同じような風貌の家が何軒も連なっている。今やどれこれもガス臭く思える。

 駅の高架下を抜けるなら、30秒で図書館に着く。もうすぐ年末年始ゆえに、しばらく閉まるので、今年最後の来訪だろう。建築は凄まじく老朽化していて、親しみ深い。生まれてからずっと通っている。これからもここが閉鎖されるまで、通い続けるだろう。難病でぼくが先にくたばるか、老朽化でこちらが先にくたばるかだ。
 受付で本を返却し、予約した本を2冊受けとる。イタリアの小説と、日本の児童文学だ。ぼくはいちおう小説家だから、小説を読むのは文学の名の下における義務なのだ。もはや日本文学は精神的廃棄物ばかりだが、ぼくは日本の児童文学には今むしろ希望を抱いている。受付の人と一言二言だけ言葉を交わすが「メリークリスマス」の後に、何故だか「よいお年を」という挨拶が言えなかった。なのでうやむやに別れた。

 近くのファミリーマートに行き、そこの休憩所でさっき借りた本を読む。村中李衣の『体育がある』という本だ。体育が苦手な小学生の少女、彼女の悲しみに寄り添うような作品だった。ぼくは本当に、体育が苦手だった。サッカーやバスケでドリブルが全くできず、皆から、教師からすら馬鹿にされた。その記憶はトラウマとして未だにぼくを苛む。“全員ブチ殺してやりたい”という言葉は、冗談でなく真実の言葉だ。だから少女の苦しみを恐ろしいほどの解像度で描く今作の前半で、トラウマが甦って、体が震えた。
 でも読み終えた時、ぼくはファミリーマートのなかなのに涙を止められなくなった。運動ができないということが、日本の体育においては凄まじい劣等感へ繋がるというのが、実感としてある。そしてこの問題が、さらに家庭にまで繋がり、親と子の間、ここでは母と娘の間において、“できる”者による“できない”者への、致命的なまでの想像力の欠如として現れる。こういったトラウマの数々が、児童文学として鬼気迫る密度で描かれていて、息を呑んだ。そして本当に、吐き気を催すほどだった。でも終盤にこんな言葉がある。

“子どもは、やさしい。どんな親でも、必死についてきてくれる。そのことにあまえたらだめだ。あこは、おまえのものじゃない。おまえとおなじようにさせるのだけは、やめにするんだ。おまえが、わたしのものでないように”。

 これは主人公の祖母の言葉だ。自分の娘が孫を追い詰める姿を見て、こう言ったのだ。ぼくは毎回読書ノートをつけている。だけど自分の考えを書くためであって、本の文章を抜き書きするとかはほとんどない。でもこれに関しては、思わずノートに書いてしまっていた、泣きながらだ。
 ぼくは大人や親の立場にある人にこの『体育がある』を読んでほしいとそう思う。子どもじゃなく、まず彼らにこそ先に読んでほしい。ここに描かれているトラウマを、理解してくれとは言わない。しかしこういう劣等感や苦痛があるとは、知ってほしいのだ。ぼくみたいに、体育が一生のトラウマになった人間が1人でも少なくなることを願うからだ。
 この本が子供時代にあればと、心からそう思った。

 家に帰ろうと思い、外を歩く。とても騒がしく、消防車が走っている。元来た道を歩いていると、家が燃えていた。その家はガス臭い家だった。2階建ての建築が、業火と黒煙に包まれて、焼け落ちていく。遠くからでも分かる。29年間生きてきたが、こうして火事を実際に目の当たりにするのは初めてだと思った。小説家だから、こういう風景を見て“レトリック”だとか“解釈”だとか“比喩”だとかいうものが自分の頭に浮かぶかと思った。全然だった。家が燃えている、ただそれだけだ。本当に、それ以上でも以下でもない。炎は隣の家にも燃えうつる。
 火事なので遠回りせざるを得ない。いつもはそのまままっすぐ進むが、今日は右へ曲がる。そのまましばらく住宅街を行くと、本当に小さなお寺がある。境内に吊るされてある縄を揺らす、鐘は不気味なほど鳴らない。手を合わせて、目をつぶる。願いは何もない。ただ10秒数える。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。