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コロナウイルス連作短編その170「太陽は核の光」

 扇真坂は机を見つめ、ノートの端に絵を書いている。だが実際視線を向けているのはノートにではない、尾根槇緒という同級生の方にだ。
「今日はなんか中性的って感じだねえ」
 友人である少女がそう言い、槇緒はそれに応えるように目を細める。
 真坂はファッションについてほとんど理解しない、正確に言うならば脳髄がそれを理解すること、もしくは考えること自体を拒否している。服に対する網膜の解像度が、脳髄によって強制的に荒くダウングレードされている。それでも今槇緒の制服を見るならば確かに中性的だと、真坂にも考えることができた。女子の制服と男子の制服をカスタマイズして、どちらの性にも寄らない軽やかな雰囲気を纏っていると表現することが、真坂にも可能だった。
 そして槇緒はマスクを少しずらして、唇ごと笑顔を見せる。輝いていた。
 翻って自分の表情筋は完全に凍りついているのに、真坂は気づいた。
 だが、どこにも行く場所がない。なので真坂は机に向かって絵を描いていた。
 自分が何を描いているのかはよく分からない。
 結局、視線は槇緒の方を向いている。

 学校において、槇緒は自分の気分に従って男女両方の制服をカスタマイズしながら着用することを許されている。その自由さは、つまりは権力の1つの表象なのだと真坂は思わざるを得ない。槇緒の母である尾根許子はとある食品会社を共同経営する気鋭の人物としてメディアに多く取りあげられていた。今、彼女が創造的破壊を繰り広げている領域はヴィーガンフードの開発だ。動物愛護、気候変動などの現代的観点から必要が叫ばれるヴィーガンフードへの投資を、許子の会社は惜しむことがない。その戦略過程において彼女のメディア露出はすこぶる多い、もしくはメディア関連の活動は彼女が一手に引き受けていると言った方が正確かもしれない。
 真坂自身、許子を週刊誌やネットニュースで何度も見掛けたことがある。ある時は彼女の1日に密着するというバラエティ番組の企画すら観たことがあった。そこにおいて日常の風景や経営美学が描かれた後、家族についても話が及ぶ。家の高級げなソファー、そこに許子が座り、横には槇緒もいる。“顔出しNG”といった演出は一切ない、マスクすらもしていなかった。
 許子の声が重なるお涙頂戴といった演出のなかで、槇緒がジェンダーフルイドというアイデンティティを持つ人物というのが語られる。男でも女でもない、2つの間を自由に行き交う新しい性。この説明を読んだ時、真坂は思わず吹きだし、その後に虚しくなる。このジェンダーフルイドというアイデンティティのせいで辛いことがありました、そしてこのジェンダーフルイドというアイデンティティのせいで親と子の関係性がギクシャクすることもありました、しかし今は自分の子である槇緒のジェンダーフルイドというアイデンティティを受け入れています、それから母親である自分はジェンダーフルイドというアイデンティティを持つ槇緒をサポートしています、さらにLGBTQという枠からも排斥されがちなジェンダーフルイドというアイデンティティを持つ子供たちをサポートする非営利団体も立ちあげました、今ではこのジェンダーフルイドというアイデンティティこそが輝ける未来、ジェンダーフルイドというアイデンティティこそが私たち人類にとって新しい可能性なのだと思っています。真坂はこれをYoutubeに違法アップロードされた動画で観た。

 そして今、真坂は自分が着ている学ランを見つめる。
 黒い、とにかくどこまでも黒い。
 とはいえ今はまだ何の変哲もない学ランだった。
 静かだった、不気味なほど馴染みなさを感じない。だが結局は“馴染まなくはない”程度のものだ。これがいつズレるのか、いつ心が拒否反応を起こしだすのか分からない。
 前、慢性頭痛という病を抱えるタレントが、頭痛が来る前に“あっ、来るな”という予感が毎回到来すると話していた、これは今まで外れたことがないという。
 真坂にもこれと同じものがあると思わざるを得なかった。
 軽度にしろ激烈にしろ、まず予感が先に来る。そして少しの猶予の後、真坂は痛みに呑みこまれる。避けられたことはない。ただ淡々と、少しでも痛みを抑えるための準備をするまでだ。それは諦めと見分けがつかない。
 槇緒が羨ましい。揺らぎを当然のように、自由に乗りこなす槇緒が羨ましい。

 家に帰る。「ただいま」と言うが、いつものように誰もいない。
 近くのファミリーマートで買ってきた弁当を温めてから、独りで食べる。
 それは唐揚げ弁当だった。真坂は唐揚げを頬張る。とても美味しかった。味玉も食べるが美味しいし、梅やごましおのかかった白飯も美味しい。全部ちゃんと美味しかった、いつものように美味しかったので安心した。コンビニ弁当は常に美味しさが安定している。人間が作る食事、代表例としては母親が作る夕食などとはその面で異なっている。
 真坂は弁当を食べながら、Youtubeのゲーム実況を眺める。好きな実況者が新しい動画をアップしていたので、それを再生する。
「今日は核爆弾で色々と実験したいと思いまーす!」
 冒頭から、甲高い機械音声でそんな不穏な文言が流れてきた。しかし内容とは裏腹の能天気な響きに真坂は思わず白米を吹きだす。この実況者はこれが面白いんだった。そして間髪入れずに核爆弾が爆裂を遂げ、画面がオレンジ色の業火で満たされる。音声の主である人型AIの四肢が、糸さながらグチャグチャに絡みあう。
「うぎゃぎゃぎゃぎゃふぅぅぅうっぅぅぅぅうううん!!!」
 滑稽な断末魔が機械音声、そして緑色の字幕で、聴覚にも視覚にもブチまけられて真坂は笑いを止められない。爆発が収まるが、ゲームの世界が焦土と化すことはない。爆発前と何ら変わることがない。人型AIもすぐに再生して、何事もなかったかのように地面に立っている。
「今度は核爆弾10個同時に爆発させたいと思いまーす!」
 そう言ってから、核弾頭10個が大地に速攻で並びたつ。AIがそのなかの1つを素手で殴り、核全てが連鎖的に爆発していく。
「うぎゃぎゃぎゃぎゃふぅぅぅうっぅぅぅぅうううん!!!」
 視覚的には先ほどと変わりないが、10個同時爆発ゆえに爆発音が猛烈に重なりあい、音割れを起こしている。実際に鼓膜が爆撃を受けているようで愉快だった。それとあの滑稽な断末魔がダメ押しで重なるのだから、笑いが止まらずお腹が痛くて仕様がない。
 そして何事もなかったかのように世界は平和になる。
「ということで今度は核爆弾100個同時に爆発させたいと思いまーす!」
 そう言ってから、核弾頭が大地に速攻で並びたつ。カメラがドローンさながら宙へと飛びたち、大地に犇めく100個の核弾頭を撮しだす。壮観だった。そしてAIがそのなかの1つを素手で殴り、核全てが連鎖的に爆発していく。今度はどうなるかと期待するが、一挙に炎が画面を包みこみながら、それで画面が動かなくなる。
「パソコン、フリーズしちゃいました」
 スローモーションに加工された機械音声が流れ、真坂は別の意味で爆笑してしまう。更には雄々しいソ連軍歌まで流れてきて、これがこの実況者が作る動画のお約束とは当然知っていながら、拍手でも送るように殊更に大きな爆笑を響かせる。
 ひとしきり笑った後、真坂はコメント欄に言葉を残す。
 “学校終わった後に核爆発見られんのサイコー!”


 真坂はベッドで目覚める。時計を見ると6時だった。まだ1時間ほど眠ることができる。そう思うと幸せだった。
 と、真坂は目覚めた。時計を見ると6時30分だ。三度寝までできそうだった。目をつぶってまだまだ微睡むことができる時間が心地いい。
 すると真坂は再び目覚めた。時計を見ると6時45分だった。もうすぐ起きなくてはならない。だが5分でも四度寝がしたい。もっと、もっと眠っていたい。
 そして目覚まし時計がガンガンと鳴り響き、惨めな気分に成り果てる。
 網膜が乾ききっており、何度も擦って目脂をこそぎ落としていく。
 顔を横に向けると、壁にかけてある学ランが目に入った。今、それが隙間の一切存在しない暗黒物質として自分の網膜に迫ってくるのを、真坂は感じた。ゆっくりと踏み潰されるカエルの悲鳴が、自分の喉から込みあげてくる。
 制服を着なくちゃいけない。制服を着なくちゃいけない。
 自分に、執拗にそう言い聞かせる。
 毛布を体から取りさる。制服を着なくちゃいけない。大袈裟に何度も瞬きをする。制服を着なくちゃいけない。腰を曲げて上体を起こす。制服を着なくちゃいけない。ベッドの端に臀部を据える。制服を着なくちゃいけない。足に力を入れて立ち上がる。制服を着なくちゃいけない。足の裏で床の木材を強く踏みしめて一歩ずつ歩いていく。制服を着なくちゃいけない。木材の軋む音を頬の皮膚で聞く。制服を着なくちゃいけない。そして真坂は制服の前に立つ。制服を着なくちゃいけない。
 だが自分でも驚くほど、簡単に制服を着ることができた。ズボンも、ベルトも、Yシャツも、学ランも、全ていとも容易く着用することができる。確かにあの恐怖は予想であって、予感ではなかった。ここまで過度に恐れる必要はなかった。真坂はホッと息をつく。
 だがこの安心は一時的なものでしかないだろうという結論に、真坂はいつものように辿りつく。自分に安心というものは許されていないのだ。実際、拒否反応を起こすのは明日かもしれない、半日後かもしれない、1時間後かもしれない、10分後かもしれない、1分後かもしれない。今は大丈夫、今は大丈夫と自分に言い聞かせ、結局は根本から目を背けているだけだ。自由落下の果てに、頭が地面と衝突する瞬間が必ずやってくる。
「女子用のブレザーとかも欲しいな……」
 そう言ってしまって、自分でも驚いた。自分にその資格はない、真坂はそう思っていた。だが正確には、費用がない。その厳然たる事実から“その資格はない”という言葉を使って目を背けているだけだ。
 リビングに行き、菓子パンを食べる。昨日、ファミリーマートで買ってきた菓子パンだ。凄まじいまでに甘い。安定感がある。

 1時間目は化学の授業だった。教師はいつも白衣を着ている。白衣を着て授業をする人間は、彼しかいない。理由は分からない。おおよそ下らない理由だろうと真坂は思っている。
 適当に教科書をパラパラと捲る。何となく周期表のページが目に入り、それに視線を向ける。そこでポロニウムと呼ばれる元素を見つけた。“ポロ”という響きがちょっと可愛らしい。興味が湧いたので、教科書でポロニウムについて探すが記載はほとんどない。真坂はこそこそとスマートフォンでポロニウムを検索する。そしてそれが危険な放射性元素であることを知った。

 ポロニウムはピエール・キュリーおよびマリー・キュリー夫妻によって発見された元素である。発見の際、夫妻は自身らが新たに開発した放射化学的分離法を行った。まずピッチブレンド、もしくは瀝青ウラン鉱と呼ばれるウランの一次鉱物から各成分を単離する。そしてピエール考案・作製の改良電位計でウランを中心に放射能を測定した。ここで彼らはピッチブレンドに含まれるウランの濃度から計算した放射線、これより少なくとも4倍の線量を検出することとなる。このため、ウランとはまた別の放射性元素が含まれているのではないかと推論、これがポロニウムの発見へと繋がった。名前の由来は、発見者であるマリー・キュリーの祖国ポーランドである。このラテン語名であるポロニア Poloniaにちなんで、ポロニウムと命名された。
 ポロニウム210はウランの100億倍の比放射能を有しており、その毒性はシアン化水素の1万倍以上と強力なものとなっている。ボツリヌス毒素と並びポロニウム210は既知の物質の中で最も毒性の強い物質の1つと見なされている。しかしポロニウム210はほぼアルファ崩壊のみで崩壊し、崩壊過程でガンマ線の放射をほとんど伴わない。アルファ線は紙一枚で遮蔽されるほどであるため、例えば人体の皮膚角質層も透過することができない。ゆえに外部被曝の危険性は少ないとも言える。
 一方でポロニウム210は暗殺用薬物としても多く使用される。容器に入ったポロニウム210をガンマ線計測により検出することは不可能であると同時に、運搬者が被曝しないこと、被害者を即死させない面において暗殺に適した薬物と見なされている。
 ポロニウムが実際に暗殺で使用された事件も数多く記録に残っている。例えばPLO執行委員会議長ヤーセル・アラファートは2004年に死去した当初、死因不明として扱われていた。しかし病院において使用した衣類からポロニウム210が検出され、ポロニウムによる暗殺が疑われている。その他、2006年11月にはイギリスで元ロシア連邦保安庁情報部員であるアレクサンドル・リトビネンコが不審死を遂げたが、彼の尿からポロニウム210が検出された。死因は体内被曝による多臓器不全とされている。
 だがポロニウムは私たちにとってある種身近な存在でもある。極々微量であるが、土壌中にも存在しているのだ。粘土鉱物や植物などの有機物によって吸収され、特にタバコに蓄積されることが知られ、製品としてのたばこにもポロニウムが含まれている。とはいえ健康面で即危険といったものでは全くない。
 そしてポロニウム210は先述したアルファ線の発生源として、研究に利用される。原子力電池にはポロニウム210を利用したものもあり、アルファ線を他の物質に照射して加熱、この熱で電気を起こすことが可能である。プラスの電荷を帯びるゆえ、紙や針金などを巻き取る機械に貯まった静電気を除去する、イオナイザーと呼ばれる装置にも同じく使われている。
 またアルファ線をベリリウムに衝突させると中性子が生じるという特性ゆえ、ポロニウム210は中性子発生源として核兵器の起爆装置にも使われる。ウランやプルトニウムの連鎖反応を引き起こす最初の中性子は、ポロニウム210のアルファ線とベリリウムが核反応を起こした後、生まれる。

 ふと窓の外を見ると、遠くの方で太陽が輝いていた。
 真坂は、あれが核の光だったらいいなと思った。するとそんな妄想が広がっていく。オレンジ色の爆炎があの一点から急激に膨張を遂げて、一瞬にして教室にまで届いた。そうして真坂の前に座っている田村正幸や、右に座っている川瀬真琴といった生徒の体が燃え盛りながら吹き飛んだ。
 斜め右に座っている槇緒は窓の方を向いた瞬間、爆風によって制服や肉がズル剥けて、骨だけになった。いやいやこんな風になる訳がないと、真坂は自分が浮かべた妄想を嗤う。少し考えてみるなら、この光景は昔テレビで観た「ターミネーター2」に出てきたからこそ思い浮かんだのだと、合点がいく。
 そして次は真坂自身の番だった。爆風のなかで脂肪も筋肉も体液も、制服ごと吹き飛び、真坂もまた骨だけになる。とても清々しいのであの断末魔を真似する。
「うぎゃぎゃぎゃぎゃふぅぅぅうっぅぅぅぅうううん!!!」
 だが勿論、これは全て妄想だった。
 真坂は絶叫などしていない。無言で窓の方を見ている。
 マスクの中が臭い。そういえば歯磨きを忘れた。
 教師が黒板に何らかの化学式を書いていた。チョークの音がカツカツと響いている。
 結局、太陽は核の光ではない。
 誰の肉体にも一切損傷は見られない。
 
 


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。