見出し画像

コロナウイルス連作短編その190「これが男のやり方だ」

「お前、何か最近、ニキビよくできてないか?」
 鮪の刺身を食べながら同僚の相川周防がそう言ってくるので、品川佃は驚いた。その勢いのままに、日本酒を啜る。低温火傷のような陶酔が口で踊る。
「そう、そうなんだよ。デコにできたかと思えば、昨日は眉間にもデカいのができてるのに気づいてさ、触ったらいてえの」
「思春期再びって感じだな」
「オレ、マジで思春期の頃は全くニキビとかできなかったんだよ。周りに赤い爆弾岩みたいになったやつとかいたが、俺はもう、何か古代ギリシャの彫刻みたいな。むしろ今の方がバキバキにできてる気分だ」
 佃は左手で眉間のニキビを触ってみる。右手では烏賊の刺身を食べる。歯応えがいい、歯茎が少し痛む。刺身を味わってからもう一度ニキビを触る。ジワと夜尿のようなぬるい痛みが皮膚に滲んでいった。そして佃はニキビを触った左の人差し指を見る。ほとんど凝視する。
「どうしたんだよ、ギリシャ彫刻。自分の美しさに惚れたか?」
 周防がそう言ってくる。
「いや、何か、最近手とかも変なんだよ。肌がスゲー乾燥してるっていうか」
 佃は左の親指と人差し指を擦りあわせてみる。砂粒の集合体を擦りあわせているような感覚すら味わう。
「マジでカッサカサなんだよ、夏でむしろめっちゃ湿ってんのに。俺の肌が全然潤ってないって感じがある。こんなん初めてだわ、かなり違和感ある。コロナで手を水とか消毒液とかで何回も洗ってるからかね。いやでも2年半続けて今までは全然大丈夫だったんだが」
「そりゃアレだろ、老いのせいだろ」
 その言葉に佃は思わず吹き出す。唾からは魚の生臭さがする。
「いや、笑いごとじゃねえよ。俺らも今年で30じゃねえか、つーか俺は既に30でお前も来月30だろ。おっさんへの道がスタートしちまってんだよ。それで体にどんどんガタが来始めてるってことだ」
 周防はグラスいっぱいに入った焼酎を一気に飲む。
「俺なんか最近、コーラ飲みながらラーメン喰ってたら胸焼け?みたいになって、胃腸の衰えとか感じたよ。あとさ、チン毛処理してる時にとうとう白髪発見しちゃったんだわ。ショックだったね」
 周防は特大のゲップを空間にブチ撒ける。飛行機のエンジン音よりも煩いと佃には思えた。
「お前の皮膚もあれだな、老化で紫外線とかに弱くなって、それで何か色々なってんだよ」
「……でも、手は乾燥してカサカサだけど、顔は脂っこくてむしろ湿ってる、いや湿ってるって言ったら変かもだが、でも真逆に思えるんだが」
「お前知ってるか、体には120万個の毛穴があるんだけど、顔には20万個の毛穴、つまりあの狭さに1/6の毛穴が密集してんだよ」
「それが?」
「皮膚が紫外線喰らうと、組織が破壊されて乾燥するんだよ。でその防御反応として顔は毛穴から皮脂を出しまくって潤わせようとする。すると必然的にニキビができるようになる。でも手は毛穴が少ないから皮脂って防御反応が出にくい、それで乾燥したままになる、カサカサすんだよ。感覚は違うかもしれないが、根底は同じ現象なわけだよ」
 佃の頭には何となく“マンスプレイニング”というあの言葉が浮かぶ。
「で、じゃあ結局、どう対処すりゃいいんだよ?」
 佃は酩酊の勢いで周防にそう迫っていく。
「そりゃあれだろ。顔と手に日焼け止めつけて、日傘させよ」
「は? いや、そんなマンコみてえなことしたくねえよ」
 佃がそう言うと、周防は口から酒を吹きだした。そして噎せまじりの笑いを響かせながら、布巾でテーブルを拭いていく。拳の黒く細い毛が優雅に揺れる。
「いやお前マジで女性のこと“マンコ”呼ばわりすんの止めろよ。ポリコレ棒で叩かれんぞ、確か最近それで炎上したゲイがいただろ」
「おいおい、だからこそ“マンコ”って言葉使いてえんだろ。これは俺たちの文化なんだから」
 そうして佃は日本酒を呷る。熱い。
「まあ、それはそれとして、おおまっちゃんはスキンケアとか結構気にするタイプだろ。彼に聞けよ」
 おおまっちゃんとは佃の恋人である大町和一のニックネームだ。
「まあ、お前にとっちゃそれも“マンコっぽい”のかもしれんけどね」
 そう言われ、かなり苛ついた。この情動の揺らぎに自分自身でも驚いた。
「てめーはヘテロなんだから、そういう感じで使うなよ」
「おお、こええこええ」
 周防はヘッヘッヘと笑いながら、頬を掻いた。
「そこは“ノンケ”とかじゃなくて“ヘテロ”なのな」

 佃はふと居酒屋内に目を向ける。死んだ木の剥製によって形作られた、感じのいい内装といった風だ。そこで壁に何か書のようなものがかけられているのに気づく。素人目にもその字体は洗練され、美しいものと思える。だが最も驚くべきことは、書であるのにその字が全て判読可能であることだった。
 香ぬれる 塔にな依りそ 川くまの 屎鮒はめる 痛き女奴
 意味は分からないし、読みが分からない漢字もある。しかしほぼ読める。これは“こうぬれる とうになよりそ かわくまの []ふなはめる いたき[]”だ、少なくともそう予想できる。そしてこう考えながら、そのリズムのよさに書が短歌であることにも気づいた。上句3部分は今すぐにでもスマートフォンに打ち直せるだろう。これなら検索もすぐに可能だろう。
 “達筆”という言葉が、そして佃の頭に浮かぶ。それに類する字を書いたと見なされていた人物に佃の父方の祖父がいる。時々おこずかいとともに彼は手紙を送ってきたのだが、その字が“達筆”だと両親が言っていた。彼自身もそうは思いながら、実際に何が書いてあるかは全く判別不可能だった。なので母に口で読んでもらっていたが、その母ですらかなりつっかえながら読んでいたのを覚えている。佃は祖父から手紙が送られるたび、自分は何か騙されているのではないか?という思いに晒されてならなかった。“達筆”とはこの猜疑心の象徴だった。
 香ぬれる 塔にな依りそ 川くまの 屎鮒はめる 痛き女奴
 だが今、佃は確かにこの“達筆”を読んでいた。“香”は均整がとれ、典雅な雰囲気を湛えている。“川”はそのシンプルさから横の“くまの”と結合し判別不可能となる危険性があったが、ここにおいてそれは全くの杞憂だ。それぞれが独立しながら、独特の美を閃かせている。“屎”は唯一見たことのない漢字だった。だが一部に“米”が入っていると、必然的に“糞”を想起せざるを得ない。実際に似た意味なのではないか。こういった類推も可能なほどに、この書はハッキリしていた。
 だが“女奴”だけはいただけない。最後に来て緊張の糸が切れたのか、緩みきってなよなよしている印象を受ける。漢字は知っているのに読みが分からないのにも愉快ではなくなる。
「あの書道の字、何て意味か分かるか?」
 佃は書へ指を指し、周防にそう尋ねる。
「……いや、分かるわけねえじゃん。古典30点のヘテロセクシャル・シスジェンダー男だよ、俺は」
 そう言ってから爆笑し、佃もいっしょに笑う。
 彼はスマートフォンを取りだし、書の文字を打ち検索してみる。
「こりぬれる とうになよりそ かわくまの くそふなはめる いたきめやっこ」
 解説ページを見つけ出した佃は正規の読みを周防に聞かせてみせる、更なる笑いを堪えながら。
「で、どういう意味だよ?」
 そう促されるが、佃は今にも笑いが爆発しそうだった。
「“仏舎里の塔でお香炊いてんだから近づいてくんじゃねえよ、お前。だって川のトイレから出るクソにまみれたフナとか喰ってクセェんだからな、このクソマンコ”」
 そう言って佃は爆笑する。周防も爆笑した。
「これ、何か万葉集に載ってる短歌らしい。昔のやつらバカすぎんだろ」
「いや、俺らが酒飲みながらダベってることと大差ないな」
「だな!……あー、そういえば日本史の授業でさ、江戸時代に万葉集研究してたやつのこと覚えさせられた気するわ。何か万葉集は男らしいけど、新古今和歌集とか平安の歌集は女々しいからクソとか言ってた。何か男らしさも別の言葉になってて、それも覚えさせられた気する……ああヤベえ、全然思い出せねえ……」

 佃は家に帰る。
 酔いのまま部屋をウロウロしていると、洗面所に大町和一がいるのに気づいた。彼は目前の鏡を凝視しながら、かなり丁寧に髪をブラッシングしている。
 佃はこれが恋人にとって風呂に入る前のある種の儀式だと知っている。美容師に教わったそうだが、髪を洗うのに重要なのは実際に洗う前の行程だという。まずクッションつきのブラシで髪を優しくケアするのが重要だ。絡まった髪をほどいていきながら、同時に頭皮をマッサージしていく。これによって血行が促進されるとともに、頭皮から油脂などの汚れが浮かび、洗髪がスムーズになる。この後にもしばらく湯で濯ぎ続ける、シャンプーはあまり泡立てない、髪ではなく頭皮を洗う、泡を洗い落とすのに3分かけるなどの行程があるが、和一はこの洗髪前のブラッシングを最も丹念に行っている。佃はそれが洒落臭いと思っている。
「いや、さっさとシャワー浴びろよ、バーカ!」
 そう叫びながら、超速で服を脱ぎ散らかして佃は風呂場に駆け込む。あっ、そんな呆けた表情を毎回自分の恋人が浮かべる様にはゾクゾクする。
 佃は和一への当てつけとして、もちろん髪を最初に洗おうと思う。凄まじい勢いで迸るシャワーを浴び髪を瞬間に濡らした後、シャンプーを手に取る。和一はプッシュ1回なので、佃は5回プッシュする。大量の洗料が手のひらに乗る。白人ポルノ俳優の射精量よりも多く見えた。そして暴力的なまでに手を擦りあわせ、尋常ではない量の泡を作った後、その全てを頭にブチ撒ける。
 頭皮へと常に爪を立て、毛根ごと汚れをこそぎ落とさんとするほど、髪を洗いに洗う。佃は頭のうえで白い核戦争が繰り広げられている様を妄想した。
 びゃびゃびゃびゃあ、これが全てが殲滅される音だ。
 マンコくせえやり方なんてやめちまえよ。
 心でそう吐き捨てた後、シャワーを起動し湯を頭にまたブチ撒ける。
 この劇熱のなかで無心に髪を綺麗にしていると、心が落ち着く。甚大なる破壊の後にこそ訪れる平穏を、彼は味わい尽くす。
 と、瞬間頭に浮かぶものがあった。
 “ますらおぶり”
 これこそが万葉集における男らしさを形容する言葉だと。
 佃は嬉しくなって、劇熱のなかでより力強く髪を掻き乱していく。
「おい、和一見てるか。これが益荒男のやり方だ!」
 その叫びはシャワーに掻き消されていく。
 だがそもそも和一に聞かせる気がないので、別にそれでも構わない。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。