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コロナウイルス連作短編その184「必要十分条件」

 夕方、コンビニへ歩く途中、後神邦彦は車道にセミの死骸が転がっているのに気づいた。哀れだった。
 と、いきなり足をバタつかせジジジと粗い断末魔を響かせるので、邦彦は体をビクつかせる。距離は離れているし、今までセミの死を見たことのないわけがない。だがあの不気味さには慣れない。アスファルトと日差しに焼かれながらも、最後まで生きようと足掻くあの様は、ただ惨めだ。
 ボタンを押したら、世界中のセミが一瞬で死滅すればいいのに。
 そんな言葉が頭に思い浮かんだ。これは友人が言ったのか、それとも漫画のネタとして見たのか、邦彦には思い出せない。セミの声は日本の夏の風物詩ではある。冷夏で鳴き声が全く聞こえなかった年は、その静けさでむしろ鼓膜が溶けそうだった。いつも鼓膜を破られるような強烈な不快感を感じていたのに、なければないで不安になる。だから死滅はしてほしくない。
 とはいえああいう死骸を見るのはシンプルに不快だ。死の間際には神隠しさながら忽然と消え去り、死体を道端に残すなどはしないでほしいと邦彦は思う。そこは野良猫の慎ましさを見習うべきだ。
 邦彦は近くのコンビニに着く。適当に漫画本と期間限定のポテトチップスでも買おうと思っていた。だがその入り口に何者かが踞っているのに気づく。入り口へ歩み寄るにつれ必然的にその肉の塊にも近づかざるを得ないが、そのうち啜り泣く声が聞こえた。セミの鳴き声とは別の方向性で厭な気分にさせられる響きだ。聞いていると、心にぬるい風が吹く。
 だが泣き声は明らかに女性のものだった。泣いている女性を放置してコンビニで期間限定のポテトチップスを買うというのは、何か非人道的な行いに思える。周りを見渡しても誰もいない。コンビニ内にいる店員も、特にこちらには注意を向けない。邦彦は入り口でなく、彼女の方にこそ歩み寄る。
「あのお、大丈夫っすか」
 そう声をかけると、女性が顔をあげる。マスクはしていない。頬もアゴも、眼球も全てがニワトリのトサカさながら滑稽なまでに真っ赤だ。そして手にはストロングゼロの缶すら握られていた。典型的な行き遅れ女という印象を、邦彦は抱いた。
「だ、大丈夫っすか、ですか」
「は? 大丈夫に見える?」
 ぶっきらぼうさに気圧されるが、姿を見ればその言葉も正直頷けた。
「ちょっと、まあ、心配になって」
「は、あざっす。優しさ痛み入りますわ」
「まあ、大丈夫じゃないと」
「そうだよ、何せ彼女にフラレたんでね」
 おおと邦彦は思った。ということは彼女はLGBTでいうLのレズビアンであると。彼は会社でゲイをオープンにしている人物に会ったことがあったが、レズビアンとは初めての遭遇だった。
「えーっと、まあ僕でよかったら話聞きますよ」
 内心を気取られないよう意識しながら、邦彦はそう言う。最初は怪訝そうな視線を彼に向けていたが、女性は一気にストロングゼロを煽った後、呂律の回らない舌で話を始める。
「私の彼女、もう4年っくらい付き合ったってんだよ。でも最近何かスゲー怪しくて、そういうの分かるでしょ? 物証とかないけどふいんきでそういうの分かる時あるやん。私もそういう感じで、めっちゃ怪しかったから問い詰めたんだよ。したら普通に浮気告白し始めて、ついでに私の悪口とか、私がクソだから浮気したとか言い訳して、しかもな……」
 女性はうぇと頭を動かす。嗚咽なのか餌付きなのか邦彦には理解しがたい。
「しかも、アイツ、男と浮気してたんだよ!」
 その言い方は、まるで2時間ドラマの最後で、事件の真相を暴きだす探偵さながらに大袈裟だった。
「女なら、女なんならなだしも、マジで男と浮気するとか、めっちゃふざけるなよ、マジで今までの4年間なんだったんだよ」
 その後も彼女は男性と不倫した元恋人への呪詛を吐き散らかしていくので、邦彦はまたも圧倒される。その一方で、様々な思惟を巡らせている。レズビアンが男性と浮気するとなるとここまで詰られるものなのか。だが男性も女性も好きというのはLGBTのなかのB、つまりバイセクシャルで立派な性的指向なのではないか。それでもここまでLがBを罵倒するとなると、双方に深い溝があるのか。
 そして呪詛の最中、女性は号泣を始める。正午に鳴いているセミよりも騒いでいる。聞いているだけで鼓膜が爆裂を遂げそうだった。生半可な態度じゃこの状態を収めることはできないだろう、邦彦は思う。
「実は僕の彼女も女と浮気して別れることなったんすよ!」
 邦彦がそう大声で叫ぶと、女性はぽかんとこちらを見てくる。阿呆面だと思った。
「いや、僕の彼女も女と浮気して……」
 こうして邦彦は話を始める。その女性とは大学時代から付き合っていた、社会人になっても関係は順調だと思っていた、個人的には結婚なども考えるほど彼女が好きだった、しかしひょんなことから彼女が浮気している証拠を掴み調べてみるとその相手は女性だった、そして彼女はその女性を選び2人は別れることになった、云々。
 これは全て嘘だった。最近恋人と別れたことは本当だが、理由はよくある“方向性の違い”でしかない。どちらも浮気などはしていない。話の大部分は邦彦がNetflixで見たアメリカのドラマの継ぎ接ぎだった。
「そりゃ大変だったね、ははは」
 話の後、彼女はそっけない一言を投げ掛けてくる。だが語尾には確かに笑いがついてきていたので、邦彦は少し安堵する。
「ま、私を慰めようとしてくれた努力にはありがとう。でもあなたの恋人、実際は隠れレズビアンでやっと真の自分として生き始めたわけでしょ。それは祝福してやりなよ」
 そんな言葉が出てきたので邦彦は少し驚いた。
「えっ、男も女も好きなバイセクシャルってことじゃないんすか?」
「いや、バイセクシャルなんてもん存在しないから。あれは異性愛者か同性愛者かハッキリ自分で分かってない思春期的なモラトリアム状態、もしくはいつまでも経ってもどっちつかずな優柔不断バカ。そう、あの女もそういう、そういう……」
 そうしてまた泣き始めるので、邦彦は焦らざるを得ない。これを解決する抜本的な何かが必要だった。
 しばらく考えた後、邦彦は自身のスマートフォンを女性に見せる。
「これ使って相手に電話かけて、相手に思う存分呪詛ブチ撒けないと終わんないっすよ。僕の使えば身元とかバレないままやれますよ」
「…………いや、罵倒すれば普通に声でバレるっしょ」
「…………まあ」
 だが女性は邦彦からスマートフォンを引ったくると、超速で電話番号を打ちこみ、そのまま電話をかける。邦彦は自分の携帯を耳に当てる女性の、凛々しい横顔をただ見つめるしかできない。
 そして彼女はいきなり口を開いたかと思うと、凄まじい勢いで罵詈雑言をブチ撒け始めた。真っ赤だった顔は赤色惑星アンタレスよりも更に濃厚になり、このご時世に唇からは唾が迸る。まるで修羅だと、邦彦は思った。
 酩酊のせいか留まるところを知らなかった罵倒は、しかしある一瞬に止まる。女性が何も言わなくなる。この静けさが逆に恐ろしい。だが先よりも全てが強烈な形で、彼女は一発叫んだ。
「お前は男が好きな女である、ゆえにお前はレズビアンではない、お前はクィアでもない、証明終わり! 二度と私の前に現れんじゃねえぞ!」
 女性はそう吐き捨てて電話を切り、その勢いで携帯を邦彦に向けて投げつける。その表情は見てて笑いが込みあげてくるほど清々しいものだった。
「ありがとう、その番号ちゃんとブロックしとかないとあいつ折り返してくるよ」
 彼女はそう言いながら自分のスマートフォンを弄り始める。おそらく元恋人の連絡先を消したりしているんだろう。
「最後のあれ、何すか? 証明とか何とか」
 邦彦は彼女に尋ねる。
「あれだよ、高校の数学で習ったじゃん。何か……必要十分条件とか何とか」
「あれってそういうのでしたっけ?」
「知らんよ、私、文系だし」
「…………僕も文系だから分かんねっす」
 そう言って邦彦は笑った。続いて女性も笑った。2人の笑いは重なり、より大きな響きになる。
「いや、気が合うね、なんか。コンビニの安いチューハイ飲んでる場合じゃないわ、近くの居酒屋行って酒飲もうよ、クソ女の悪口聞かせてくれればお姉さんが奢ったるよ」
「お、マジですか、ゴチになります!」
 そう返事すると、女性は歩きだし、早くもコンビニから離れだす。
 と、邦彦はその向こうに小さな塊を見つける。セミの死骸だった。来る時は気づかなかった。まだ8月も始まったばかりなのに死骸が妙に多い気がする。
 そして彼が声をかける前に、女性はその右足でセミを踏み潰した。
「うぅわ、セミ踏んじゃったよ。ばっちい」
 その音は落ち葉を踏んだ時の音とほぼ同じだった。こうも暑いと早くも秋が恋しくてしょうがない。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。