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コロナウイルス連作短編その37「私の瞳のなかの炎」

 私の大学は古本屋街のまっただなかに存在する。だから友人たちは口々に最高の立地だと誉めそやすのだけど、私は古本屋が嫌いだった。まず古本屋における本の乱雑な扱いには反吐が出る。古本屋街を歩く時、目に映るのは、古い本を適当に外に並べている光景だ。本の種類について何も考えていないような適当さで外に大量の本を置いている。店主は太陽光に本が晒されたらどうなるかを知らないんだろうか。建築家が太陽光が激しく入る図書館を作った時に抗議した人々が、あの無惨な扱いに抗議しないのが分からない。そしてもう一つは古本の耐え難い悪臭だ。私はあの鼻毛を焼くような異臭が我慢ができない。ずっと臭いを嗅いでいると、脳髄がヘドロのように溶けて、鼻から流れていくような感覚を覚える。周辺住民はあの吐き気を催す異臭に対して何か文句はないのだろうか。私にはそれが不思議だった。
 授業は未だにオンラインで行われているが、私は時々用もないのに大学近くの古本屋街に行く。これは先に話したことと矛盾しているかもしれないが、重要なのはその目的だと思う。私は歩きながら、様々な様相を呈した古本屋を眺め、そしてこれら全てを全部燃やしつくす光景を想像するのだ。悪臭に満ちた本が橙色の業火に包まれていき、全てが塵に帰っていく。店主たちが号泣するのは当然として、いわゆる本好きという類の人間たちもこれを文化の喪失だと言って悲しむはずだ。だけど私は影からそんな光景を見ながら安らかな幸福を感じるのだ。おそらくこれが実現すれば、過去・現実・未来全てのストレスが雲散霧消し、私は一生を軽快に生きることができるだろう。だけどもそんなことは不可能なので、私の人生は身重の牛のように鈍重なものだ。
 私は古本屋街に行ってから、恋人である麻耶の家に行く。彼女は私と同じ大学に通っており、古本が大好きだ。だから私は彼女の前で古本屋を憎んでいると言ったことはないし、今後も言うことはないだろう。これは生涯隠し通せる類いの小さな憎しみだ。私は彼女が古いゲームで遊ぶのが好きだった。摩耶はわざわざ実家からニンテンドー64を持ってきて、この日私は彼女が「スターフォックス64」をプレイする姿をお菓子を食べながら見ていた。“下手の横好き”という言葉がとても似合うほどに、摩耶はゲームが下手くそだった。ここでも彼女は敵から集中砲火を受けたり障害物にぶつかったりして、何度も死んでしまう。
「くっそお」
 死ぬたびにそう言いながら、彼女は私にキスしてくる。今、私の唇はポテトチップス七味のり塩味だった。摩耶はマタタビに耽る黒猫のような表情を浮かべるので、彼女が愛おしくなる。その後、私たちはサイゼリヤに晩御飯を食べに行って、それで別れる。
「ねえ、今日泊まっていきなよ」
 彼女はたらこスパゲティを啜りながら言った。最初はそうしたい気分だったけれども、夜道を歩いている途中で気が変わって、私は家に帰った。
 寝る前にテレビを見ていると、旅行番組が始まった。今日特集する国はアゼルバイジャンだった。私はアゼルバイジャンについて何一つ知らなかった。首都のバクーは驚くほど発達した都市であり、絢爛な雰囲気が通りに漂っている。気のせいか通行人の表情も東京に生きる人々より煌めいて見えた。そもそもアゼルバイジャンの人々は顔立ちがとても輝いている。東アジア人の木訥さや白人の野性味と比べると、彼らは濃厚なまでに優雅だった。そしてカメラがバクーの公園に入っていく。ピカピカした粒子に包まれた美しい場所だったが、ある時ベンチに座って本を読む女性が映った。顔のパーツ一つ一つは希望に輝きながら、その横顔は一種の憂いに包まれている。私は彼女の黒く力強い眉毛に見とれた。唇でその毛並みの感触を味わいたいと、そう思った。徐々にその眉毛の魔術的な魅力に虜になっていく。カメラは輝ける月のような彼女を映しつづけ、私の顔はテレビ画面に近づいていく。彼女はのレフ・トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読んでいた。
 ベッドに横たわりながら、アゼルバイジャンの彼女について考える。琥珀色の頬は私の鼓動を早める。たった数分で、私の心は彼女の瞳のなかにあった。そして私は折に触れて、彼女について考えるようになった。洗面所で歯を磨いている時、パソコンの前で大学の授業を聞いている時、摩耶が「ドンキーコング64」で遊んでいるのを眺めている時、痣のように鮮烈な夕日を眺めている時。一週間ほど経った後、私は古本屋街に赴く。生理の鈍痛に虐待されながら、淀んだ茶色を湛える古本屋の群れを眺める。相も変わらず不愉快な悪臭は満ち溢れていたし、コロナウイルスのせいで倒産した店もないようで苛つかされる。私は生理の血を吸引してくれる下着を履いていたけれど、そこに溜まった血液を古本屋にばらまきたかった。そして私の生理の血はガソリンのように燃えあがり、古本屋を焼きつくす。こうしてこの地に存在する古本屋を全て灰塵に帰すことができたなら、どんなに素敵なことだろう。この妄想こそが私を深く癒してくれる。
 私はある古本屋の前で立ち読みをしている女性を見かけた。近づいてみて、驚いた。その横顔はあのアゼルバイジャンの女性にそっくりだった。この女性は眼鏡をかけているけれど、やはり琥珀色の頬は優雅に輝いている。私は驚きから、近くにあった木の影に隠れてしまう。そこから女性の姿を見据えた。彼女は一体誰だろう、私と一緒の大学に通っているのだろうか、何故汚ならしい古本なんかを読んでいるのだろうか。様々な疑問が頭のなかに浮かんでは消えていく。でも彼女を眺めている時、私はとても幸せだった。しばらく観察していたけれど、ある時彼女は店に入り、そして袋を持って出てくる。彼女は私がいる方向とは反対側に歩いていったけれど、背中は細やかで、長い黒髪は吐き気を催すほど絢爛に輝いていた。彼女はまるで光を虐殺するドス黒い闇だった。
 夜、摩耶と電話で話す。最初はただ他愛ない話をしていただけなのに、途中から猥褻な雰囲気が満ちはじめ、案の定摩耶はオナニーを始めた。私は鼓膜に、あの女性器が垂れながす粘液を塗りつけられているような気分だった。彼女は独りでいかに私に弄ばれているかを語る。私は義務感に駆られながら、喘ぎ声を響かせる。そしてクリトリスを刺激しながら目を閉じるのだけど、瞼の裏側にいたのは摩耶ではなく古本屋の女性だった。彼女は瞳を潤ませながら、私の武骨な身体を抱きしめる。それを感じると、とても心地よかった。だけれどそこには粘った罪悪感も存在していた。私はクリトリスを触るのを止めて、摩耶をイカせるのに徹した。彼女はゴリラのような呻き声をあげた後、ひときわ大きな喘声とともに絶頂に至った。少なくとも私はそう思った。
「大好きだよ、瑞季」
 摩耶は電話を切った。私は午前四時まで眠れなかった。
 私は時々、あの古本屋の女性に出会った。最初は木の影から眺めているだけだったけれど、私の欲望は加速度的にエスカレートしていった。私は写真が好きで自分でもポラロイドカメラを持っていた。祖父から譲り受けた古いカメラだ。私はそれで彼女の姿を写真に撮りはじめた。女性はほとんど動くことはなかったけれども、彫像のような不動の身体を私は撮りつづけたんだった。家ではベッドに寝転がりながらその写真を見る。荒い色素のなかで彼女の美しさが弾けていた。そして私の心のなかで何かヌラヌラと揺らめくものがある。ある日、私は写真を持って台所のシンクへ行った。ライターで写真に火を点けた後、汚いシンクのうえに落とす。女性が官能的な橙色のなかで燃える風景を私は眺めた。一枚が燃えつき黒い灰塵になった後、もう一枚をライターで燃やす。写真が燃える時の、あの卑しい香りが私の鼻に届く。それは鼻に生え揃う黒々しい毛や皮膚の粘膜を愛撫し、しかし最後には無邪気に傷つけていく。網膜は炎の美しさに、鼻は純粋で冒涜的な痛みに耽溺していた。
 麻耶の家に行くのだけども、ゲームをする気にはなれなくて、彼女のベッドのうえでゴロゴロしていた。以前シーツに染みついた彼女の体臭は日光浴をするカバのようの溌剌としたもので、私はとても好きだった。だけど今は荒野に転がった子カバの死骸から湧きでる匂いみたいだ。その死骸は親のカバによって食べられ、そしてその胃のなかで溶かされるのだ。しばらく麻耶は独りで「バンジョーとカズーイの大冒険」をしていたけれど、飽きたのか私の隣に寝転がってくる。あのカバの死臭がよりキツくなって、私は壁の方を向く。
「ねえ」
 麻耶が声をかけてくる。そこには何か灰色の影を感じられた。
「最近、何だか変だよ」
 そんな言葉に私は驚かされる。
「変って、何?」
「うまく説明できないんだけど、でも何か最近変なんだよ。分かんない」
「別に、何も変じゃないよ」
 そう言いながらも、私は図星を突かれたように思えて内心焦っていた。このままベラベラ喋ればボロを出すのではないかと黙ることにする。だけどそのうち麻耶は泣きだした。
「ねえ、私のこと嫌いになった?」
 麻耶は後ろから身体を抱きしめてくる。私は麻耶の手の甲を撫でてから、彼女の顔を見る。
「嫌いになんかなってないよ」
 そうして彼女の熱くなった背中を撫でる。私は麻耶が泣きやむまで慰めていたけれど、実際には歯が震えるほどに苛ついていた。
 ある時、あの女性が立ち読みをした後、本を買わずにそのまま棚に置いていくことがあった。私は唾を飲みこみながら、その本を見た。エイモス・チュツオーラの「やし酒飲み」という小説だった。最初、私はそれを万引きしようと思ったけれども、勇気がでなかったのでちゃんと買った。百二十円だった。家に帰ってからそれを読んだのだけど、あまりに支離滅裂で吐き気がした。それ以上に古本の悪臭はもちろん私には耐えがたいものだった。だけどそれを顔に載せて、悪臭のなかで深呼吸をした時、これをあの女性が嗅いでいたのだと思うと自然と興奮した。私は誇張されたような呼吸を行いながら、オナニーをした。わざとらしく感じているフリをすると、実際に快感も増すように思えた。スズメバチの毒針に全身を刺されるような快感を味わう一方で、こんなの馬鹿げてると思う自分もいた。しかし性器を弄くる指を止めることはできなかったし、粘った体液が自分の女性器から垂れながれるのに密やかな喜びを感じた。そうして私は絶頂に至った後、洗面所で手を洗う。
 夢のなかで私はあの女性とともに古本屋街を燃やして回っていた。大量の古本が炎のなかで悲鳴をあげる時、あの悪臭は私の全身を愛撫する香しさに変わる。そこで深呼吸をするのは本当に気持ちよかったし、彼女も嬉しそうな笑顔を浮かべている。私たちは手を繋ぎながら炎上する街でダンスを踊る。「タイタニック」で主人公たちがするように、勢いよくグルグルと回るのだ。その時彼女の身体からは私が撮った写真が現れ、宙を舞ったかと思うと炎に晒されて灰塵に帰る。とても美しい光景だった。汚ならしい本なんて全部燃えてしまえ、燃えてしまえ。私が炎と戯れていると、彼女が私の武骨で、無駄に大きな身体を抱きしめてくれる。それからキスをするのだ。甘く蕩けるような、まるで殺人鬼がナイフで被害者を滅多刺しにするような繊細さで何度も何度もキスをしてくれる。私は彼女に身を委ねながら、その唇を味わう。
 私は痙攣とともに目を覚ました。快感とともにドス黒い恐怖をも感じて、すぐにシャワーを浴びにいく。身体を熱湯に晒すことで、私は日常を取り戻したかった。
 だけど私はやはり古本屋街に出かけて、彼女を探しあてたんだった。いつものように立ち読みを続ける彼女をポラロイドカメラで撮影しつづけた。しばらく経つと、本を買ってどこかへと立ち去ろうとする。この時の私には不思議と勇気があって、彼女の後を着いていく。歩く姿は海底を泳ぐ海老のようにしなやかで長い黒髪は悠然と風に揺れていた。彼女は人気の少ない表通りから、さらに寂漠とした裏路地へと入っていく。どこに行くのだろうと不信に思いながら、私もついてって、彼女が角を曲がるので、私も角を曲がった。そこに女性はいなかった。不思議に思って周りを見渡していると、突然後ろから首を絞められた。私は突発的な苦しみに悶えながら足掻くけれども、腕の力はどんどん強くなっていく。喉の辺りで蛙の死骸が爆発するような音を聞きながら、私はそのまま床に倒された。私の首を絞めているのはもちろんあの古本屋の女性だった。彼女は無表情で私を首を絞めつづけた後、私の頬を殴りはじめる。鮮烈な痛みで頬骨が破壊されるような衝撃を味わった。
「痛い、痛い」
 でも彼女は日本語が分からないとでも言った風に殴るのを止めてはくれない。自分の唇から血液が迸るのを感じた。鉄の生々しい味がする。でも殴られ続けているのに意識は頗る鮮明で、私はまるで天の上から自分が暴力に晒されるのを観察しているかのようだった。奇妙な音がして、ふと横を見ると血溜まりのなかに白い物体が浮かんでいた。それは歯だった。私の歯だった。薄汚れた黄色い歯が血溜まりのなかをクラゲのように泳いでいる。すると女性は私を殴るのを止めて、ポケットからマッチを取り出した。そして火を点けると、マッチごと私の右の眼球に突き刺した。私は絶叫するけども、女性に馬乗りにされているせいで転がることはなかった。死にかけた蝉のように地面の上で痙攣していた。私は壮絶な苦しみを味わっていた。でも眼球が古本のように炎上するのを感じている時、私はとても幸せだった。地獄の苦しみを味わいながら、私自身は救われていた。
 ふと、私は病院のベッドのうえで目覚めた。傍らには麻耶がいて、涙を流しながら私を抱きしめてくれた。何が起こったかは分からなかったけれど、私の命は危険に晒されていたようだった。それでも幸運にも身体に異状はないらしかった。あれは夢だったのだろう。でも私は救われていた。私の目のなかでは、あの不愉快な悪臭とともに全てが橙色の炎に焼かれつづけているからだ。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。