コロナウイルス連作短編その115「匂ひ、充ち満てり」
この世のものとはおもえない、かぐわしい香りが井桁千秋を包みこむ。まどろむように、おもいだす。
この香りに初めてふれたのは、5つを数えるころだ。おさなかった千秋は真夜中にめざめる。香りはあまりに鮮やかすぎたのだ。あまいでも、にがいでも、すっぱいでもない。そういった型にはまった匂いの構図をかろやかに書きかえるようなものだった。布団のうえ、ブルッと、からだが震えてしまった。はたから見れば、雨にぬれて粒をはじけさせるリスといった風なんじゃないかと、おさないながらに思った。しかし、気持ちがいい。夜おそくに起きてしまったとき、いつも頭にはよどんだ、凶悪なモヤがかかり、はやくねむりに戻りたくて仕様がなくなる。いまは違う。意識ははれやかで、細胞というものが、パッパッと、ひらいてはとじを繰返すのが分かる。冒険したい、千秋はおもった。そうなると、もうすでに、ちいさな肉塊は部屋から出ていってしまっている。
今は母といっしょに、祖父母のすむ邸宅に泊まっていた。祖父の体調があまり芳しくないという。つめたくなった、木材の死骸のうえをペタペタとあるくのは心地がいい。外で生きている木はきらいだ、きたならしい。だけども切りたおされ、ほかの死骸の数々とともに組みあげられた邸宅はとてもきれいだ。その一部として壁や天井、床に組みこまれた木は清潔で、冷たい。足のうらやほおっぺたをつけると、心がおちつく。わざと忍者のマネをしながら廊下をあるいていく。月のひかりで世界そのものが青くそまり、昼間よりずっと美しくみえる。とくに部屋と部屋とをへだてる障子は、幽霊のようにゾッとするようなたたずまいを見せてくれる。日がでている時は、野良猫に破られるしか能なしも、ここでは息をのむほど、かがやいている。惹かれるがままに、千秋はあるいた。地球を旅しているような気分だった。
そうして着いたのは祖父の寝室のまえだった。いつもは障子のむこう側から、じりゅじりゅと、くるしそうな音ばかりがきこえる。このひびきが鼓膜にころがるたび、眼球が握りつぶされるように不愉快になる。じぶんが、ひどい孫のように思えて、またイヤになる。だがいまは聞こえない、かわりにあのかぐわしい香りがうすっぺらい紙ごしに、ただよってくる。意をけっして、障子をひらき、なかへと入る。祖父は無音だった。月光にうかぶ顔は、とてもやすらかなものだった。だが何より、あの香りがより濃厚に、自分にせまってくるのを感じる。いつもは、あんなにも馬の糞のような悪臭がしていたのに、これはどうしたことだろう。いまなら、ギュッとされても、ほおをすりつけられても、全く以てかまわない。むしろ千秋は自分から祖父にちかづいていき、そのかたわらに横たわる。香りが濃くなっても、胸焼けすることはなく、いくらでも吸いこめる。そうしていると、また眠気がふわりふわりと浮かんできて、ただただそこに身をゆだねてしまう。
ふたたび目覚めたとき、まずまっさきに目についたのは、母親の鼻穴から垂れながれる粘液だった。それがドバドバと口にはいり、たぶん海でおぼれてるときみたいなしょっぱさを感じてるんじゃないかと、千秋はおもった。自分が起きたのを悟ると、母の泣きぶりはより炸裂的なものになる。抱きしめられ、とても苦しい。そこで意識がひらけ、母の背後で、ほかの親戚みながやはり泣いているのに気づいた。そのときには、あの香りはもはや消えうせていた。
ふたたびめぐりあったのは、高校生のころだ。古典の授業がきらいだった。古語というのは、英語より理解しがたい。なまじ日本語であるからこそ、いまの感覚でよんでしまい、その彼我のおどろくべき差にあざわらわれる。教師から大量のプリントをわたされるのも、不快だ。解読できぬ呪詛でうめつくされた紙が、つくえやカバンで延々と、永遠とかさばっていく。
だがある日、1つの文章をよまされた。ある僧が往生のため修行にふける。その敬虔さに心をうたれた夫婦が世話にはげむ。みかえりは一切もとめないが1つだけ“御臨終の時、いかにしてか値申べき (ご臨終するさい、どうすればお会いできるでしょうか)”と僧に問う。彼は“いとやすき事にありなん (とても簡単なことですよ)”とだけ言った。数年がたって、夫婦はいつもとおなじように朝にははやくおき、世話のしたくをととのえるが、僧はおきてこない。かわりに、彼がやすんでいる方角から“匂ひ”がただよってきて、かぐわしい香でも焚いているのではとおもえる。そして僧はやはりおきない。部屋の戸をあけると、僧は西に向い、端座し合掌した状態ですでに死んでいた。夫婦やかれの弟子はそのすがたを拝みながら、こうおもう。“暁香ばしかりつるは極楽の迎へなりけり (よあけ、かぐわしい匂いがしたのは、極楽からのむかえだったのだなあ)”と。これを読んだとき、いやおうなく祖父の死を想いだしてしまう。あの匂いは、かれが極楽にむかえられるとき、死にゆく肉体が発していた匂いなのだ。千秋はトイレに行ってから、ないた。
それから、千秋は古典文学をよく読むようになった。『源氏物語』や『枕草子』といった王朝文学を読むと、行間から優雅で官能的といった風の、あまやかな匂いがかおってくる。『土佐日記』からは、ほおをしたたかに打ちつける潮のかぜの、ざらついてしょっぱい匂いがした。『堤中納言物語』はよく分からない物語がおおかったが、なかでも『虫愛づる姫君』からけむしやケラといった虫をのせる姫の手の、複雑でまろやかな苦みをかんじた。
だが『宇治拾遺物語』がもたらす、濃密なまでの死と肉の匂いにはめまいをひきおこしそうになる。腰をおったスズメに復讐され、瓢箪よりでてきた大量の毒虫にたかられ、なぶり殺しにされる老婆の死臭。仏画を描く職人が、自分の家と家族がもえながら、それをも作品の糧にしようと炎上をただただ観察しつづける、そんな彼の顔にうかんだだろう汗粒のすえた匂い。主人に献上するため、その家来によって毛をむしられ、血をブチまけさせられ、最後には炒焼きされた雉の、ゆたかでおいしそうな匂い。餓鬼や亡霊へと食物をあたえ感謝されたあと、僧の尻からすさまじいまでの勢いで放出される黒々しい糞の爆発的な劇臭。その背徳的な匂いの数々は現実世界でふれられるポルノよりも、ともすれば『源氏物語』や『とはずがたり』よりもエロティックなものだった。
図書館で文庫本を読んでいると、1人の同級生に話しかけられる。くびもとにホクロと、それをおおうようなアザがあった。椛島千尋という少女はクラスでウィルスのように扱われていた。母親が“キチガイ”で本人も“ガイジ”だから近づくべきではないと皆が話し、完全に孤立している。だがいつもかろやかで、たのしげで、だからこそ同級生たちはいらだち、孤立はふかまる。むしろそれが千尋にとっては心地よいといったふうだった。なので話しかけられたときにはおどろいた。そして本の表紙を見て、すらすらと『大鏡』のあらすじを説明されたので、さらにおどろく。その知識や興味のふかさがなんだかうれしくて、その日から図書館でひそやかにはなしはじめる。
千秋は好きな古典をきかれて、まよわずに『宇治拾遺物語』とこたえた。するとかえす刀で、前世の不道徳でキノコにされた僧たちの話をしてくるので、おもわずわらった。その話は『宇治拾遺物語』でもずいいちにインパクトのある話で、千秋のおきにいりでもあったからだ。だがあの“匂ひ”の物語が忘れられないとは言わない。千尋の方は『堤中納言物語』が好きだといった、なかでも『ほどほどの懸想』が好きと。千秋も読んだことはあったが、内容をよく理解できなかった。女童と小舎人童が恋をして、侍と女房をして、最後にはもっともたっとい頭中将と宮の姫が恋をする。しかし最後の恋は、ほとんど過程がえがかれない。いつのまにか恋がみのっている。それでいて中将はこの成就をなげきかなしみ、憂鬱にひたる。どこか読みとばしたのではないかと思いながら、解説においても“唐突”ということばが使われているので、まちがいではないらしい。よくわからなかった。
千尋はいう。平安末期にかかれた『堤中納言物語』において、この時代のこころでもある“雅”がすでに殲滅され、ただただ即物的で中身もからっぽな、黙示録的な性愛だけがある。人々の恋や愛には諸行無常やあわれさというものもやどらず、もはや人間心理の荒廃をさししめすしかない。軽薄さと表裏一体の絶望、彼女はそこに惹かれていると。そう話しているときの千尋はうつくしかった。ここではないどこかに向けるような、とてもとおい目をしていた。千秋は秘密でもうちあけるように、自分の好きな『宇治拾遺物語』の話についてささやいた。ある日、千尋に教室によばれたので、放課後にそこへ行ってみる。ドアをひらくと、千尋が首をつっていたが、なによりあのかぐわしい香りにつつまれて、千秋はしあわせな気分になる。おもわずこころが惹かれてしまって、夕やみに満たされた教室、そのなかへと歩みをすすめてしまう。香りはやはり濃くなっていく、だが同時に千尋が死んでいるという事実も、せまってきた。恐怖をかんじながら足はとまらないで、しあわせを感じながら鼻水がだらだらとながれた。さなか、とつぜん、緊張のいとが切れたというふうに、腰がぬけて、千秋は床にうずくまった。そして気づいたのは、千尋の死骸からなにか垂れていて、そのしたには水たまりができている。尿と糞だった。千尋は、餓鬼や亡霊たちの分まで僧の尻からブチ撒けられた糞穢を思いだした。それでも僧の糞穢は通りいったいを覆いつくす、規格外の量で、千尋の糞穢はただちょびっと床をぬらすくらいのものだった。なんにしろ、とてもいい香りだった。
今、どこからかただよう、この世のものとはおもえない、かぐわしい香りを千秋はかいでいる。彼女のまなざしのさきには、ドアがある。すこしだけ開いているようにも、完全に閉まっているようにもおもえる。だがもし開いているなら、香りはそこからのはずだ。そうして肉体がふるえはじめる。全身をだきしめ、そしてとめようとするが、無理だ。千秋はにげるようにドアから背をむけ、洗面所におもむく。ふらつきをコントロールできず、なんども躓きながら、そのたびに立ちあがり、なんとか洗面所にたどりついた。冷水をべちゃべちゃと顔にひっかけるなかで、ふとまなざしが鏡にいく。自分の顔がうつっている。とても素敵な、うすい笑みがうかんでいる。高校のときによんだ日本史の図録、そこには古くなって、汚ならしい仏像の写真がのっていた。それはやすらかな笑みをうかべ、それぞれの本のなかで、高校生たちをみていた。なのでしあわせな気分で、とても素敵な笑みをうかべ、ほんとうにかぐわしい匂いのなか、千秋はおもった、今度はわたしの番だ。
私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。