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コロナウイルス連作短編その110「防音室つきマンションのためのドローイング」

“幻滅と希望と信頼を同じひとつのものとして数えること。幻滅を必要とする信頼と希望があると教えること”
マッシモ・カッチャーリ、盟友マンフレッド・タフーリの死に際して

 深夜、妙に眠れない。目暮咲は部屋を出て、マンションの内廊下を、携帯をいじりながら歩く。前岡篠という女性から頻繁にメッセージが来る。明らかに自分に好意がありながら、その肉薄をかわす状況を引き伸ばしている。
 潔癖的で滑らかな白い壁がふとした瞬間に開け、地下への階段が現れる。咲はゆっくりと段を踏みしめながら、地下へと赴く。うってかわってその壁は不健康に赤黒い、フェイクとしか思えない煉瓦作りに変わり、一気に雰囲気が引き締まる。地下へ降りると、カードでロックを外して地下室へ入る。親しみと清らかさの狭間にある空気感の広間がそこにはある。市松模様の軽やかな壁紙、密でなく柔らかな間の存在を感じさせるテーブルや椅子、ソファーの配置、蛍の光を包む両手のように優しい白色灯。そのあわいを咲はおでこを掻きながら進んでいく。奥には緑、黄、青、ピンクの扉があり、咲はそのうちの青い扉の前に立つ。頑丈なドアノブを握りしめ、グッと肩にその重量を感じながら、部屋へと入る。その防音室はバンドのフルメンバーが集合し、演奏を行えるほどの余裕がある。奥には高級そうなドラムセットが置いてあるが、正確にはその価値が分からない。
 咲はタブレットでSpotifyを起動し、シニード・オブライエンというSSWの曲を爆音でかける。彼女はアイルランドのSSWで、去年出したEP“Drowning in Blessings”に咲は衝撃を受けた。そのスタイリッシュなパンクの響きが格好いいのは勿論だが、衝撃なのはオブライエンがそれを全く無視して気ままに、だが頗る力強く詩を歌いあげるのだ。いや歌うというより、ポエトリーリーディングというべきか。オブライエンは詩を囁き叫ぶ、この2つを劇的に行き交う。彼女は己の言葉をうねる祝福へと変え、道化さながら雪花石膏の迷宮を作りあげるようだ。この不安定と高らかの極致に、何度聞いても酩酊してしまう。ここ1年ほど脳髄が沸騰するほど聞いているが、咲は防音室でこれを叫ぶのが好きだった。密閉された狭苦しい防音室、この閉塞感をブン殴り、生命力で満杯にさせるように、叫ぶ。叫びながら足を常に歩かせ、腕を回し、肺の臓を痙攣させる。クーラーが効いているのも無駄という風に、全身から汗が吹きでる。特に首からは噴出し、鎖骨を溺れさせる。正直に言えば、オブライエンのブチ撒ける英語を完全に聞き取れているとは言えない。だが1曲目“Most Modern Painting”の冒頭、この言葉だけは確実に聞き取れている。“This Could be Freedom”ーーこれが自由なんだろうよ!
 一息ついてふと横を向く。ドアの中心に嵌めこまれた縦長のガラス、そこから女性が中を見つめていた。視線があい、彼女は気まずそうな表情を浮かべ、そそくさと逃げかえる。一瞬で消えた。“もしかして見られてた?”と思うが、何故か“もしかして”など見られていない可能性があるとでもいう風な自分の思考が興味深い。奇妙なまでに冷静を気取れているが、恥ずかしくない訳ではない。人が気持ちよく叫んでいるのを見ないでほしいという当然の不満が首をもたげる。仕切り直しと、再びシニード・オブライエンのように叫ぼうとするが、隣に誰かがいると意識しながら叫ぶのは気後れする。防音室の壁が2人を隔てているとしてもだ。むしろ、だからこそ。鎖骨に溜まる汗が冷たい。酷薄な匂いが鼻に漂ってくる。
 ささやかな復讐を思いたつ。防音室を出て、1つ1つの部屋をガラス越しに覗きこむ。ピンクの扉を持つ一番大きな部屋に彼女はいた。ダンスをしていた、異様だった。テレビの音楽番組で、アイドルグループの後ろで名もなきダンサーが踊る類いのものではない。“コンテンポラリーダンス”という言葉が、咲の頭に思いうかぶ。彼女は先ほどとうってかわって、頭に奇妙なマスクを被っている。ハリウッド映画で銀行強盗が被っている、安物の不気味な人間マスクだ。それを更に歪ませんとするように、彼女はグルグルと回転しながら、腕や足を何度も空気への牙突さながら突きだすのだ。それでいて左腕だけは気味の悪いまでにしなる。その拳は少しだけ開かれており、まるで不可視の鞭でも操るようだが、時おり腕自身が鞭になっているようにも思える。ビタン、ビタンと、不思議とそんな音が聞こえた。すこぶる暴力的な踊りだ。何かヤバい儀式か何かを目撃しているような気がした。目が離せない。だが自分を“目が離せない”という状況から引き戻そうと、意識的に神経を絶ち切っていき、ふと我に返った瞬間、青の防音室へ帰る。備えつけのパイプ椅子に座り、高ぶる神経を抑えようとするが、あの暴力的で魅惑的なダンスが鬼火のように脳裡で瞬く。オブライエンのポエトリーリーディングを更なる爆音で聞いても、鬼火から逃れられない。
 もう1度見たい。そんな言葉が思い浮かんだ時には、既にピンクの扉の前にいた。女性は床に踞っていた。小さな背中の傍らに、縮みきったマスクが落ちている。最初はこれも“コンテンポラリーダンス”の一環かと思った。だがガラス越しに、彼女の肉体が微かに震えているのを見た。その震えは舞踏がもたらす解放とは違うように思えた。妻に殴られながら、何とか堪え忍ぼうとする自分の父親と同じ震えを纏っていた。泣いていると思った。泣く、鼻を啜る、そんな響きが聞こえてくる訳がない。それでも、長い黒髪に全てが覆い隠された小さな肉の塊は泣いていると咲は思った。だが扉を開けることはできなかった。躊躇われた。青の部屋に戻ることもできなかった。感覚を強制的に遮断することに踏み切れなかった。咲は奥の広間に逃げた。角にある自動販売機でコカコーラを買い、フカフカのソファーにうつぶせで寝転がり、顔を埋める。この体勢で、啜るようにコーラを飲んだ。何も知らない、何にも興味がない、コーラは美味しいという自分を演出した。何となく眠くなる。そしてそもそも眠れなかったからここに来たと、咲は思い出す。

 起きると目の前に女性の顔が見えて、驚く。思わず後ずさると彼女が笑う。
「ごめん、驚かせた?」
 彼女は左頬を人差し指で掻く。発疹ができている。
 そこから女性が咲に話しかけてくる。
「わたし、ダンサーなんだけど……って、まあ知ってるでしょ、わたしのこと見てたから」
 彼女は不敵なニヤつきを浮かべる。
「結構ここ使ってたけど、あなたのこと見るの初めてな気がする。ああやってただ部屋をグルグル回って、何か叫んでる?みたいな」
「そんな防音室のやつらのこと監視してんの?」
「別に、でも自然と視線が行っちゃう。すごい気になる、人間に関心が高いんだね、わたしは」
「それは特に、誉められたことじゃあない」
「厳しいね、芸術家なら必須の素養、態度じゃない?」
 彼女は頬の発疹をいじっている。
「初めて会うなんて、別に普通だと思う」
「でも1年と少しこのマンション住んでて、結構この地下室を使ってるのに、同じく結構使ってるっぽいあなたとずっと出会えなかったのは珍しいよ。ここまで会わなかったの逆に運命じゃない?」
「まさか」
「運命ついでに、あなたのこと教えてよ」
 彼女はそう言った。そしてテーブルに置いてあった咲の缶を取って、コーラを飲んだ。そこで咲は、誰かとマスクなしで喋っているのは久しぶりだと気づく。
 元々、咲は社会人バンドを組んでいた。The 1975、ハイエイタス・カイヨーテ、ジャパニーズ・ブレックファーストをゴタ混ぜにしたような音楽性だった。その活動拠点を探す過程で見つけたのがこの防音室つきマンションだった。家賃9万に共益費1万、だが月それなりにかかるスタジオ費その他を鑑みるなら防音室と地下室を無料で使えるのはかなりの利点だ。更にグレードの高い機材が揃った本格的なスタジオも1時間1500円で借りられるのもいい。1人がこのマンションに住んでいれば、バンドメンバーひいては友人を自由に迎え入れることができる。心機一転という意味でも住居を変えるのは悪くなかった。そうして1年と少し前にここへ引っ越してきたが、コロナ禍の到来で計画は総じて瓦解する。最初の夏にバンド自体が崩壊した。そしてこのマンションに咲は1人取り残された。すぐに引っ越す訳にもいかず、ズルズルとここに住み続け、2度目の夏がきた。

 その日から咲は彼女と何度も地下室で鉢合わせるようになる。
 会った時は、マスクを着けないままにソファーに座って、コーラを飲みながら、他愛ない会話を繰り広げる。咲は小さな食品会社で働いていたが、明らかに淀んだ敵愾心を見せてくる上司がおり、彼女の愚痴をゲップと一緒にブチまけた。彼女は居酒屋でのアルバイトの後に、いつも本屋に行って新品の本の匂いを嗅ぐのが好きだと、瞳をささやかに潤ませながら言った。お金はないので、好きな外国文学はおいそれと買えない。咲の好きな映画は『グレートビューティー 追憶のローマ』で、彼女の好きな映画は『燃ゆる女の肖像』だった。咲が全体的にイタリア映画が好きだと言うと、彼女は微妙な顔をした。彼女の方は時おり好きなダンスについても話した。最近のお気に入りはコロンビアのダンスカンパニーMapa teatroとモロッコの振付け師ラドゥアン・ムリジガだというが、咲は全く知らない。どちらもその国固有の文化を、いわゆるダンス史に組みこみ、更に歴史を主観的に再解釈していく力強さが面白いのだという。ムリジガについてはあるベルギー人の外国人モデルと仕事をした際、その人物から教えてもらったという。そしてあの日に咲が見た暴力的舞踏は、Mapa teatroにインスパイアされたものだったらしい。
 ある時、広間の椅子に彼女が座っていた。曲線がイソギンチャクの触手のように艶かしい椅子、そこで彼女は溜め息をついていた。咲は彼女にコーラを1本奢ると、彼女は恋人だという北川敦子という女性について話しはじめる。
 出会ったのは彼女がこのマンションに来てすぐだ。直後に敦子が隣に引っ越してきて、挨拶をしにきた。持っていたのはそうめんの揖保乃糸だった。実家に住んでいた頃は時々母親が買ってきて食べていた。チュルチュルと気持ちよく啜れて、美味しかった。一人暮らしを始めてから、自然と買わなくなっていたが、突然これが目の前に現れて懐かしくなった。それと同時に、スコットランドの生意気な少女が持つような、目も覚める鮮烈な赤の髪と、うってかわっての愁いある目付き、そのギャップを可愛らしいと思った。
「揖保乃糸の懐かしさを、彼女の愛らしさと勘違いしたんだね」
 彼女は唇をとろけさせる。
「あとね、驚いたことがあった。揖保乃糸を食べて、何だかすごい美味しかった。思い出の味より美味しかった。それでネットで調べたら、等級があったって知った。敦子が持ってきたのは特級っていう上から2番目のめっちゃ高級なやつ。それで母さんが買ってきたやつは太作りっていうやつ、1番下の等級だった。そりゃあ特級の方が美味しく感じるよね」
 そう言って恥ずかしげに笑う。他には敦子について話さなかった。喧嘩をしただとか別れそうだとかそういう話をすることはなかった。
 部屋に帰ると前岡篠からメッセージが届いていた。
 “眠れない”
 “ま、咲は寝てるよね”
 その言葉の下には、白く丸っこい、可愛いが何の動物か検討もつかない生命体がスタンプとしてくっついている。
 咲は最初返信しようとするが、結局は無視して眠る。だが完全に眠りにつく前に、罪悪感が勝り、メッセージを送ってしまう。
 篠はバンドメンバーだった柏木アキラの恋人だった。アキラを通じて何度か顔を合わせるうち、篠がこちらに向ける視線にある種の湿りが存在することに咲は気づく。その湿りは徐々に、這いずるような早さで咲に肉薄していく。湿の気配を皮膚に感じとる際、咲は静かに離れていくことを心掛けながら、それ目敏く察知され、再び距離を詰められる。彼女の匂いは咲に幻惑的な眩暈をもたらした。そしてある瞬間、眩暈に翻弄され、雰囲気に呑まれた挙げ句、淀みきった影のなかで篠と唇を重ねた時があった。
「あなたのせい、あなたのせいだから」
 ゆっくりと自分の肉へ潜行されていった感覚を、今でも鮮烈に想いだされてしまう。咲はその後に再び離れ、厳然と距離感を保とうとしながら、変容した空気感の内に生まれた官能を気取られ、アキラに自身の恋人を寝取ったという疑いをかけられた。これがバンド瓦解の致命的一撃となる。篠はそのことをとても喜んでいた。解散後に2人はいとも容易く別れ、それからは何の躊躇いもなしに咲に摺寄り、肉薄し、その心を絡めとっていく。
 “起きてたんだ”
 言葉自体はシンプルだが、スタンプを幾つも送ってきて、自分の喜びを知ってもらいたいという風に彼女は振舞う。罪悪感は更に深まった。

 彼女は踊っていた。
 腕は弧を描くように常に揺れ、その勢いに意図的に引きずられるように肉体が湾曲を繰り返す。前のダンスよりも暴力的でなくとも、激しい印象を咲に与えるものだ。まるで強靭な肉体を持ったゴリラがバレリーナとなった風な激烈さを持ち合わせる。この湾曲の連なりによって肉体を弾丸へと昇華することで、彼女は空間と、空気と、世界と闘争を繰り広げていた。無音であるからこそ、闘いの衝撃という作用が咲の網膜により弩迫してくるのだ。だが凄まじく体力を使うようだ、数分間躍り続けると、彼女は堪らずに床へと倒れこんでしまう。荒く呼吸する彼女の胸郭が、誇張されたかのように大きく膨らんでは惨めなほど萎んでいく。咲は広間に行き、2本のコカコーラを買う。

 休日、起きると既に午後3時だった。何もかもが虚しい。だがせめて散歩には行くことにする。内廊下、気まぐれに壁を中指で軽く触りながら進んでいく。父親が見ていたら“今はコロナなんだから、みだりに外のものを触るのは止めなさい”と注意してくると思えた。だが触り続ける。玄関にまで辿りつくと、ドアの傍らの壁に、苦しそうに凭れかかる女性を見つけ、驚く。その目も覚めるような赤毛で、彼女が北川敦子だと一瞬で分かった。マスクは着けていない。近づくと、相当苦しそうに荒い呼吸を行っているのが伺えた。熱中症かもしれなかった。とりあえず彼女を抱えて部屋へと運ぶ。重い、大量の汗が自分のシャツを濡らすのが分かる。何とか部屋に入り、ベッドに彼女を寝かせてから、クーラーを最大風量で起動する。焦りながらも“熱中症 看護”とGoogleで検索し、その情報に従って敦子を看病する。
「服、ちょっと脱がすからね」
 そう声をかけ、敦子が何とか首を縦に振ったのを確認した後、彼女を下着姿にする。これで熱を放散させられるという。陽がそこまで当たらないような場所こそ、不思議とそばかすに埋め尽くされており、とても美しかった。そして偶然部屋にあったゲーム広告つきのうちわを扇ぎながら、露出させた皮膚を冷水の沁みたタオルで拭いていく。皮膚は髪よりも赤くなり、更に不気味なカサつきを伴っていた。熱はオーバーヒートを起こしたアンドロイドさながらの猛烈さだ。少しだけ敦子の荒い呼吸が落ち着いた後、氷枕を持ってくる。他に氷嚢がなかったので、首の両脇や脇の下、太股の付け根へ代わる代わる氷枕を持っていき、それぞれの太い血管を冷やしていく。しばらく冷やしていると皮膚の赤みが落ち着いてくるので、咲は急いで地下室の自動販売機でアクエリアスを数本買い、戻ってそれを飲ませた。敦子は自分から溺れにいくかのようにアクエリアスを飲みまくるので、何とか静止する。ゆっくり飲ませると、今度は疲れはて、昏睡したかのように眠りに落ちる。その時点で、咲はやっと息をつくことができた。
 敦子が目覚めた時、咲は顔の汗をタオルで拭き取っている真っ最中で、その顔の近さに驚かれた。怪物に遭遇したような反応で、少し傷つく。ふと、地下室であの女性の前で目覚めた時、彼女に同じことを思わせたんじゃないかと思い、反省する。敦子は自身の汗でベトベトになった服を着ながら、咲に看病してくれた礼を言う。
「日本ってあんな暑かったっけ、ははは」
 咲からアクエリアスの残りをもらい、彼女は自室へと帰ろうとする。しかし途中、備えつけの本棚の前で止まる。そこには咲が時々買う映画のソフトが詰めこまれていた。音楽はサブスクで済ましても構わないのに、映画はフィジカルで持ちたいという欲望があった。この欲望の源が何か、咲自身理解できないでいる。だが敦子は結局何も言わないまま、よろつきながら部屋を後にする。
 夜、咲は何とはなしに、敦子もここに住んでいるのだから当然地下室に行っていると思い当たる。彼女はそこで何をしているのだろう、そう考えると何故かギターを弾いている敦子とハープを奏でている敦子が同時に頭に浮かんだ。どちらもしっくりきた。

 数日後、マスクを着けて敦子が戻ってくるが、その手には揖保乃糸の糸があり、これが例のやつかと思わざるを得なかった。
「これ、お礼ね。あたしのこと助けてくれたってことで」
「そこまで気ぃ使わなくて大丈夫ですよ」
「いいの、いいの。揖保乃糸、家にいっぱいあるしもらってよ」
 敦子は咲に揖保乃糸をゴリっと押しつける。
「後さ、もし良かったらなんだけど……」
 敦子がしたいというのは、本棚の映画ソフトを見たいということだった。別に拒否する理由もないので彼女を部屋に招きいれる。TSUTAYAの棚でも眺めるように、彼女はソフトの数々へ熱視線を向ける。
「ソレンティーノやん、好きなの?」
「ああ、まあ」
「新作知ってる? なかなか面白そうだけど、Netflix製作ってのがムカつくよね。お前、資本主義の権化を強かに批評する映画を散々作っといて、Netflixみたいな資本主義の権化のケツ穴舐めて新しい映画作んのか?って」
 この日から時々敦子が咲の部屋にやってきて、一緒にイタリア映画を観るようになった。ここに越してくる前はイタリアへ留学し、映画と建築について学んでいたと敦子は言った。最初は映画批評に軸足を置いていたが、アルド・ロッシの素朴ながら質実剛健な建築(「カルロ・フェリーチェ劇場を見るっていうのは、建築と血まみれの殴りあいをするのと同じなんだ」)や、アレッサンドロ・メリスという建築家が設立した設計事務所Heliopolis 21による、しなやかで滑らかな建築の数々(「ピサのグリーン大学見てするオナニーって最高」)に衝撃を受け、建築学に鞍替えしたということだった。今は映画批評と建築批評を混ぜ合わせた自分だけの批評言語を作ることを模索しているらしい。何故日本に戻ってきたかは一切語らなかった。
 よく観るのはマルコ・ベロッキオの作品だった。彼の作品を観ながらアウトノミアという社会運動を語り、しかし最後にはいつもアルド・ロッシの都市計画の話に辿りつく。咲は映画については分かったが、建築のことはよく分からないし、知ろうという気にもあまりなれない。酒を飲みながらだとその弁舌はより滅多矢鱈になり、特にロベルト・ロッセリーニの悪口をブチ撒けまくった。
「あいつの遺作、ポンピドゥー・センターを描く建築ドキュメンタリーだけどクセえ映画だよね。ハイテック建築の厚顔無恥なプロパガンダ映画。科学技術万能主義みたいな吐き気がする思想の権化をああいう風に描いて、恥ずかしくないの? まあロッセリーニなんてそもそもファシスト政権のプロパガンダ映画マンからキャリア始まったようなもんだし、遺作すらプロパガンダってのは当然かもね。あれだよ、大東亜共栄圏の神域をデザインするとかいうクソから始まって、戦後はしれっと平和だなんだって言って建築や都市をデザインしてた丹下健三のクサさと同じ。死ぬほどダサい人間ども」
 敦子と部屋で会う一方、彼女とも地下室で会った。防音室での活動には互いに一切干渉せず、その後に広間のソファーに並んで座り、2人で他愛ないお喋りを何となく繰り広げていた。時々は何も喋らない時すらある。近くに座って、お互いの息遣いのひそやかな響きを共有する。この静けさが咲は好きだった。
 それでも疑問に思ったのは彼女が、咲が熱中症になっていた恋人を助けたということを知らないようだということだ。少なくとも知っているような素振りは見せない。“彼女のこと、助けてくれてありがとう”などという言葉が、その唇から現れる気配は微塵もなかった。そしておそらく、万が一彼女がこれを話題にあげた時、今咲が彼女の隣で感じているような匂いは完全に変容するだろうという予感がある。不穏で細胞が痺れるような曲線の匂いから、心地よくも当たり障りのない、摩天楼を覆う鉄筋コンクリートのような無の匂いへ。

 彼女は踊っていた、いや踊っていなかった。
 防音室の空気に身を委ねるように、彼女はただ立っていた。咲はずっとガラス越しに眺めていたが、微動だにしない。咲へ向けられているのは後頭部ゆえに、その表情が伺えることはない。だからこそ頭部の裏側で、どんな表情が現れているのか否応なしに想像力が働いてしまう。静謐がそのまま張りついた無の表情だろうか、それとも静謐とは裏腹の蠢きの表情だろうか。あまりの頑なさに、咲は自分の肉体をすりぬけていく時間すらも遅くなっていく感覚を覚える。時間が病に冒された泥々の血液へと変貌していた。だが彼女自身は常に清らかだ。水辺、入水自殺を遂げようとする女、その半身が群青の水に浸った後、神によって時間は凍らされる。その一瞬の凍が彼女だった。救われているのか、救われていないのかすら分からない。咲はその場を去る。

 篠が咲の部屋にやってきた。LINEで“家、行きたい”というメッセージが送られてきた時、最初は断りながらも、メッセージが連なるごとに罪悪感が募り、最後には彼女が来ることを了承してしまう。
「何か“ミニマル”やねえ」
 初めて部屋に来た彼女の言葉は、早熟な中学生が“ミニマル”という言葉を初めて使ったとでもいう風な、ぎこちない感触を伴っている。泣きたくなった。
 地下室の自動販売機で買ってきたコーラを一緒に飲みながら、他愛ない会話をせざるを得なかった。厳密にいえば篠がのべつまくなしに喋り続け、咲は「うん」だとか「はい」といった相槌の言葉を並べていただけだった。これ以外の言葉をどうしても紡ぐことができない。篠の首の筋が皮膚の下でビクビクと震えるのが、どうしても視界に入る。会話の気まずさすら越えて、場の雰囲気が否応なく高まるのを肉体に遍在する粘膜が感じ取っている。匂いが最も痛烈で、恐ろしかった。篠が言葉のあわいを縫って咲へ肉薄していき、その鼻の先が自分の首に触れるのを感じた。“フ”と“ス”の狭間にある音は、匂いを嗅ぎ取ろうとする彼女の鼻から明らかに響いていた。それは体臭が奪い取られていく音でもあった。篠は鼻で咲の皮膚を擦った後、今度はそこに唇で触れる。唾のついた膨らみにこそぎ落とされ、肉が喰らわれていく。この官能に、素直に飛び込んでいきたいと願った。そうすればただ短絡的に気持ちよくなれると思った。無理だった。肉を貪られ、腰に手を回されて、篠は咲にとっての逃げ場を潰す。だが最も恐ろしかったのは、唇を首から離した後、篠が浮かべた表情だった。唇からは唾液の糸が引かれ、瞳は欲動に囚われた人間だけが持つ、枯れ木に穿たれた穴のような虚を宿していた。虚にとろけている篠の顔は愛おしく、悍ましかった。
 唇が迫ってきた時、もう無理だと顔を背けた。
「え?」
 そんな間抜けな声がした。信じられないとでも言いたげだが、分かっていたはずだと咲は燃え滓のような怒りを抱く。分かっていながら、社会を味方につけて押しきろうとしただけだと。
 視線を恐る恐る彼女へ向けると、その顔は感情というもので暴力的に塗り潰されていた。そしてベッドから立ちあがる。歩幅を確かめるように、ゆっくりと部屋を横切っていく。窓から差しこむ痣色の夕日に彼女の肉体がすっぽりと収まっている。それを1歩踏みしめるごとに脱ぎ捨てながら、毛虫の遅さで進んでいく。1分かけて辿りついたのは、1秒で行ける位置にあるキッチンだった。黒と白しかない狭苦しさは篠の“ミニマル”そのものだった。しばらくシンクを見つめた後に、篠はそこに置いてあったガラスのコップを掴み、咲に見せつけるように掲げる。「これ、床に投げて割ってもいい?」
 篠はそう言った。そのコップは父親から20歳の誕生日にもらったものだった。どうして成人した記念の贈り物が、ここまでシンプルなコップなのか理解できなかった。もらった時ですら、冗談を言うように「何で?」と尋ねたが、彼は曖昧に笑うだけだった。もう10年ほど使っていた。その間に父はアルツハイマーを患い、今は老人ホームに収容されている。「うん、いいよ」と咲が言うと、篠はコップを床に叩きつけ、コップは割れた。それから篠は鞄からハンカチを取り出し、それで右手を覆いながら、コップの破片を1つずつ摘まんでいき、ゴミ箱に丁寧に捨てていった。その動きはとても慎重なもので、彼女の関節の荘厳な軋みというものを幻のなかに聞くほどだった。
「掃除機、どこにある?」
 篠はそう聞いた。
「玄関」
 咲はそう答えた。篠は玄関から小さな掃除機を持ってくると、床に残ったより小さなコップの断片を吸引していく。30秒ほどでその行為は十全に成され、コップなどそもそもこの世に存在していなかったようになった。
「じゃあね」
 篠はそう言って部屋を出ていった。 

 寝る時、部屋の四方八方から敦子と彼女の言い争う声が聞こえてきた。聞こえるなら上からだけの筈が、咲の肉体を包囲するように凶器のような声が響き、その合間からはガンガンと何かが破壊されるとそんな物音まで聞こえる。全身の神経が苛立った。この幻聴は夕闇で抱かされた、あの性的な緊張感のせいかと思い、マスターベーションを行い性欲を発散しながら、むしろ喚き声はどんどん大きさを増す。割れることのない鼓膜を拳骨で何度も叩かれる不快感を味わい、脳髄に疲労が溜まっていく。風呂でも何でも液体へと飛びこみ、その中で耳を閉じて聴覚を外界から断絶したく思いながら、このマンションの部屋にはシャワーしか備えつけられていなかった。こうして遠回りをしながらも、最後には当然のように“防音室に行かなければ意味がない”という結論へと辿りつく。
 部屋を出る。廊下の天井に視線を向けると、物音が更に耳に障るようになる。両耳を手で覆いながら、急いで廊下を進んでいく。ただでさえ潔癖的な天井や壁の色味が、夜用の激烈な白色灯に包まれて、もはや白い爆発痕のように輝いている。地下への階段を駆け下りていく。煉瓦の空間は真逆の黒みを誇りながらも、結局は黴臭い紛い物でしかなかった。
 防音室はいつものように小綺麗だった。その変わることのない素っ気なさで、咲を迎えてくれる。ここでやはりシニード・オブライエンの曲を爆音でかける。パンキッシュな煌めきの響き、軽やかに謎めいた呪術的なオブライエンの声。だが咲は彼女の詩の意味をとうとう調べ、自分なりにこれを解釈していく。

変化にこだわっていきなよ
感覚を平手で打ちなよ
家をぐらぐら震わせなよ
壁をぐいと曲げてみせなよ
私は唯一無二
時計の針を前に進めていく存在

 咲はそう叫んでいた。
 その叫びの流れのなかで、ドアの方を見てしまう自分に気づいた。あれほど喚き声から逃れようとしながら、彼女のことは求めていた。視線を何度も何度も、執拗にドアのガラスへと投げ掛けながら、当然彼女はそこにはいない。馬鹿みたいだと頭では悟りながら、心が眼球を突き動かす。この視線の支離滅裂な動態が繰り返されるよう、咲は成すがままになっていた。
 その何十度目かに、実際彼女は現れたので驚いた。その表情を見たからか、彼女も驚いた風な顔になりながら、最後には柔らかな笑顔を浮かべて、手招きをする。
「今日も叫んでたね」
 広間で彼女は笑った。実際に敦子と喧嘩していたかどうかは全く分からない。咲はただ彼女の首筋を見ている。いつ見ても新鮮な輝きを放っている。なだらかな筋の丘陵にポツンと、小さな闇のようなホクロがある。もっと近くで見てみたいと思える。
「ねえ、いつもどんなこと、あのなかで叫んでるの?」
 そう言われたので、咲は携帯でオブライエンの英語詩を見せた。
「英語の詩? そんなん分かんないよ」
 咲は右の太股を掻き毟りながら、適当に日本語に訳してみる。

すごく驚いてるように見えるけど どうして
そういうのに免疫はできてるって感じる時
忍耐に通話中
その時間はもう終わり
試してみてもここじゃ彼女の番号は分からない
空港のセキュリティで泣いてた
列に割りこむために
忍耐への直通番号をゲット
通話時間はもう終わり

 間違っているに決まっているが、もはや気にしない。
「んー……意味全然分かんないな」
「まあ、詩ってそういうものじゃないの?」
「実際に口に出してもらえば分かるかも。ねえ、ここで叫んでみてよ」
「えっ」
 咲は気圧される。
「いや、無理っていうか……そんなん言うならあなたが私の前で先に踊ってよ」
「ふうん、いいよ」
 思わぬ返答に、咲は俯いてしまう。だが彼女は咲の手を取り、あのピンクの扉の部屋へと導いていく。

 初めてピンクの扉の向こうに足を踏み入れた。そこにはドラムやマイクなどの音楽機器の代わりに、幾つもの質素なパイプ椅子が置かれており、それらと向かい合う壁は鏡張りになっていた。ここに映る自身の躍動を見据えながら、彼女はいつも踊っていたというのを咲は悟る。
「私が踊るの見てるだけじゃ退屈でしょ。一緒に踊ろうよ」
 そんな申し出に咲は躊躇いを見せる。だが彼女は再びその手をとって、空間の真ん中で踊ろうとする。素人を巻きこんだコンテンポラリーダンスかと思えば、いたって保守的な、互いの腰に手を回しながら、静かに、ゆっくりと、くるくる回るチークダンスだった。だがシンプルに見えて、いざ肉体をこのダンスに晒すと、足元がもつれるなど神経の不器用さが露になる。それでも彼女の手つきや足つきはしなやかで、おおらかに咲を導き、凝り固まった関節、筋肉、神経の数々を解きほぐしていく。チークダンス、頬の舞踏。実際にやってみるとここまで頬と頬が近づくのかと、驚く。彼女の赤い頬の、甘やかな静電気のような匂いが咲に届く。彼女は微かに咲の臀部を撫で、咲は彼女の指に自分の指を深く絡める。咲たちは無言のままに呼吸を共有しあっていた。幸せだった。
 そして彼女が泣き始める。最初はただの啜り泣きだったが、声が加速度的に大きくなり、すぐに耳をつんざく激痛に変わる。自分の手や腰に添えられた彼女の握力が凄まじくなり、肉の悲鳴が聞こえた。それが一瞬に緩まるとなると、彼女は力なく床に倒れこむ。踞って、肉体を震わせながら号泣する。煩かった、耳障りだった。鼓膜を一瞬にして破りたくなるような戦慄に包まれる。彼女は泣いていた、あの時のように泣いていた。今、咲はその泣き声を聞いていた。
 咲は防音室から逃げ去る。広間を駆ける途中、椅子の足に引っかかり転倒した。立ちあがり、地下室の鈍重な扉を開け放ち、更なる勢いで階段をのぼる。内廊下の光は殺人的なまでに白い。咲は部屋のドアを開き、リビングへ駆けこみ、ベッドに飛びこむ。そのまま1ヶ月動かない。

 咲はドアの前に立っていた。203、そこが彼女の部屋だった。ズボンのポケットにその数字が書かれた小さな紙切れが入っていて、そしてここに立っていた。咲はただ立ち尽くす、いつかガラス越しに見た彼女のように。
 突然、横の部屋から女性が現れる。敦子だった。赤毛はどこまでも眩く、目つきは陰鬱だ。
「そこのやつ、もう引っ越したよ」
 敦子が言った。
「あたしももうすぐ引っ越すわ」
 敦子は部屋に戻り、ドアが閉まるが、すぐにまた開く。
「揖保乃糸いる? ホントこれ、あたし嫌いなんだよ。そばの方が好きなのに、母親がずっと送ってきてウザい」
「別にいらない」
 咲は背を向け歩きだし、階段を下りる。これは1階までの階段である。地下室には続いていない。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。