コロナウイルス連作短編その201「よしよし、いい子いい子」
映画サークルの飲み会の席,見木才田の視線は自然と水戸部彌生の方へと向いてしまう.長い黒髪が揺れるたび露になるのは,角張った輪郭だ.磐石なエラ呼吸をするために培われたとしか思えない逞しさがそこには宿っていると,才田には思える.そして髪先が愛撫を行うがごとく,繰り返し触れている肩もまた強靭なものだ.服の下に80年代風の肩パッドでも入れているのではないか?と妄想してしまうほどだ.
彌生を見掛けるたびにその肉体の男らしさに目が行って仕様がない.
飲みの帰り,友人の高昂と駅まで歩く.大学近くの居酒屋で飲んだ後は,いつであっても彼と最寄り駅へ歩き,途中まで同じ地下鉄に乗り続ける.なかなかに悪くない距離感にある友人だと,才田は彼に信を置いている.
「なあ,昴.聞きてえことあるわ」
火照った頬骨に夜風が吹きつける.それでも細胞は激熱を発することを止めない.エントロピー法則を踏みにじるように,むしろその勢いは着実に強まっていく.
「何ですかね?」
「水戸部彌生ってさ……実は男か?」
そう言うと,昴がこちらに向き,目を細める.砂の大地に木の棒でとぐろを巻いた糞便を描く息子を見る母親の面だ.
「なぁに言ってんだよ……あいつ女だろ,普通に」
「“普通に”って何やねん,今もう何が“普通”か分からねえ時代だろ」
昴の目がさらに細まる.もし自分が彼の恋人だったら,昴はそのまま人差し指と親指で頬を掴まれ潰してくるという,少女漫画に出てくる類いの“親密な”身振りを実践するのではないか,そう思ってしまうほど彼は呆れを露にしてくる.
「いや,ほら肩幅とか顔の輪郭とかさ……質実剛健やん」
「そんな女,どこにでもいるっしょ.運動部とか……特に水泳部だったらあんな感じでしょうよ.つか,声なんか完全に女じゃんか.Perfumeとかめっちゃ可愛く歌えるくらいのやつ」
「まあ,そうなんだけどさ……いや,でも……」
そのまま“でも,最近はホルモンとか注射すりゃ声も変わるんだろ?”などと,酒の勢いで次々と喋りたくなる.だがこういう類いの事柄を言い続けるなら“トランスフォビア”などという陳腐な横文字で批判される恐れがあるのは,才田自身Twitterなどを見て熟知している.今はこういう冗談なども活動家によって槍玉に挙げられ,燃やし尽くされる時代だ.そしてこの波はネット上から実生活にも波及している.今や誰が正義面したチクリ魔か分かったものではない.
才田は昴を信用している.だが“彼は活動家にチクらない”と確信できるほどの信はない.そしてこれは彼だけでなく他の友人に対してもそうだ.
プライベートですら愚痴や本心を吐き出すこともままならない.厭な時代だった.生きてもいないのに,何についてももっと明け透けであれた親世代の若い時代が懐かしく思える.冬も明らかに前より激烈になっている.もはや暴力的だ.
頬骨もいつの間にか,外気と同じ温度になっている.
帰宅後,即時眠りにつく.だが,夢を見る.
才田はテレビの前でかじりつくように,何かを観ていた.
それはホラー映画だ.
1人の少女が夜の湖畔に立っており,周りには無数の死体が転がっている.血まみれで,幾つかの死骸からは内臓まではみ出している.
次の瞬間,少女の全体像が現れるのだが,驚くべきことに彼女は全裸だった.しかし股間には不自然なまでに影がかかっている.と,唐突に野獣の雄叫びさながらの絶叫が響き渡る.声の主は少女だ.テレビに大写しになった,顔面は人間でなく野人のそれに近い.
そして次に映ったのは股間だった.そこには小さなペニスがついていた.
またいきなり別の少年の,驚愕に満ちた表情が現れる.
“彼女は男だったのか”
英語らしき音声と日本語の字幕,だがカメラは再び少女を,股間も含めたその全体像を映し出し,最後にはまたペニスが映る.
そして絶叫とともに,暗転.
才田は飛び起きる.そして呼吸が異常に荒ぶっているのに気づく.
背中は,豪雨の後の小学校の校庭さながらぐちょぐちょだった.
急いで洗面所に行き,服を脱ぎ,そして顔も洗う.だが冷や水に晒されながら目を瞑り続けていると,あの野獣の顔がバッと現れる.思わず後ずさってしまった.瞼の裏側から拳が飛びだし,網膜を殴りつけられる.そんな衝撃を味わわされた.
体を震わせ,皮膚から水滴を垂らしながら,もう一度目を瞑る.
大丈夫,大丈夫だ,大丈夫……
そして野獣の顔が現れる.今度は後ずさることはなかった.だが上半身の筋肉群が否応なしに弾け,体全体を巻きこみながら痙攣を起こす.
両足は地面から露出した鉄棒に貫かれたかのごとく,もはや動かないでいる.
ゆえに体自体が動かない.だが思惟は機能する.身体が動くか否かに関わらず,脳髄は才田の心からある記憶を引きあげていく.
姉である舞菜と,才田はノートパソコンで映画を観ている.
それは馬鹿な10代が次々と惨たらしい形で殺されていく,いわゆるスラッシャーというジャンルに属するホラーだった.ある引っ込み思案な少女がサマーキャンプに連れていかれるのだが,彼女の周りで凄惨な連続殺人が巻き起こるというものだった.才田の脳髄はその殺し方についての記憶を全く引き出せない,ただ“グロくてかつ笑える”という漠然としたイメージだけを掬いだす.
それでいて鑑賞行為自体に関する記憶は,多く引き出してくる.
高校生だった舞菜は,友人からYoutubeに昔のアメリカのホラーが大量に違法アップロードしてあると聞きつけた.もちろん字幕はないが,英語を勉強中だった彼女はリスニングの勉強にもなるだろうとそれらを大量に観ていた.ある時,彼女は『サマーキャンプ・インフェルノ』という作品(英題は“Sleepaway Camp”)が“珍品ホラー”という評判をネットで見つけ,これを観ることにした.
その時に何故か,小学生だった才田もたまたま一緒に観たのだ.
「これ大丈夫なの,観ていいやつなの?」
「大丈夫に決まってんじゃん.逮捕されんの怖いの,男なのに?」
こういった会話を脳髄は引き出していく.
画質はかなり荒く,ノイズも多い.DVDどころかVHS画質というべき代物だった.だが才田はホラー映画などは恐怖を感じながらも,好奇心からどうしても観てしまうという質で,今作も観ている間にのめりこんでいった.そして珍しいことに日本語字幕が今作にはついていたのだ.タイトルや説明などは全て英語だったが,字幕のおかげで才田にも内容が理解できた.これもあって姉は彼を誘ったのかもしれない.
当初から予想できたが,殺戮を行っていたのは主人公だったというのが終盤で発覚する.ここに驚きはなかったと,脳髄の引き出した記憶は語る.
だが記憶が強烈な光を放つのはここからだ.少女は追い詰められ最後,何故か全裸になるが股間にはペニスがついている.実は彼女は男の子として生まれたが,継母に女の子として育てられその抑圧によって発狂,キャンプで殺戮を行う殺人鬼になったという説明が成される.
そしてこの時に主人公が本性を現し,全裸で人間のものとは思えない絶叫を放ち,何の解決もないまま物語自体は終幕を迎える.このラストを観た時,才田は泣き喚き姉すらそれを止められなくなった.夜も悪夢を見るようになり,1ヶ月間は満足に眠ることすらできなくなった.
こうしてこの『サマーキャンプ・インフェルノ』がトラウマになった時期がある.成長するにつれこれを何とか克服し,最近は思い出すこともなくなっていた.
だが今また,あの場面が才田を苛み始めている.
それは水戸部彌生のせいだと,彼は確信している.
数日後,部員の部屋に集まって酒を飲みながら映画話をする.
相渡萌香という部員が,クエンティン・タランティーノが友人の映画作家ロジャー・エイヴァリーとやっているPodcastを話題に挙げる.イタリアにはジャーロという映画ジャンルが存在する.基本は殺人事件の犯人を追うミステリーものだが,ここにおいては被害者がいかに無惨になぶり殺しにされるかが重要となっている.その多くは女性である.そしてこのジャンルがアメリカに輸入され,幾つかの注目すべき作品が現れることになった.この“アメリカン・ジャーロ”について2人は話していたのだという.
「それで2人ともめっちゃデ・パルマの『殺しのドレス』を絶賛してて,私も分かるわ~ってなった.最初のシャワーシーンとかタクシーにパンティ置いてく馬鹿エロシーンとかも最高なんだけど,やっぱ犯人役のマイケル・ケイン熱演だったよねえ」
「どんなんだっけ,忘れたわ」
「忘れた? あれ忘れるとかヤバすぎ.異様にデカイグラサンつけたり,めっちゃ不自然な女装して剃刀でえげつないくらい切りつける狂気な感じとか,インパクトありすぎだったのに.センスなさすぎ,Sight & Soundsの映画ベストよりセンスないっすわ」
「でも,あれトランス女性への偏見を煽るからよくないと思うけど」
そう言った人物に,自然と視線が集まる.水戸部彌生だ.
予想通りだったのに,心臓をグッと握られるような不愉快さを才田は抱く.
「私も最近見返したけど,確かにデ・パルマ作品でも完成度は随一に高いと思う.でもあの殺人犯の造形は“トランス女性=変態”みたいなステレオタイプを強化する感じだし“トランス女性=殺人鬼”っていう悪意のあるイメージもつくし,ここは認めちゃダメだと思った」
彌生は周囲との間合いを確かめるかのように肩を回しながら,そう話す.言葉を聞くごとに不愉快さが明確な吐き気へと変わっていく.
同時に粘りきった焦燥も抱く.陰ながら彼女を“実際は男”でないかと疑う自分を見透かした上で,メッセージを突きつけているのではないか?と思わざるを得なかった.陰謀論めいた考えと分かってはいるが,それにしてはタイミングが良すぎる.
「うわあ出た出た,アレじゃん,今流行りの“応用ポストモダニズム”ってやつでしょ,それ.そういう何か,クィア理論とか使って映画とか芸術読みとくみたいなやつ.ま,そういうのもあんのかもしんないけど,でも最近はそういうのばっかで嫌だわ.演出自体に目ぇ向けなきゃダメでしょ.そんなら蓮實とかが“投げる”とか言ってるやつのがマシ.Podcastでもタランティーノとかそういう風潮に色々言ってて……」
場が荒れる予感を抱き,才田は部屋から出ていく.
外気に晒されながら煙草を吸い,動揺した心を落ち着けようとする.誰も彼もが“アイデンティティ”だなんだと言い始め,その影響は映画にも及んでいる.心底ウンザリだった.“人間はアイデンティティの複合体”などとしたり顔で言う批評家やその尻穴を舐める追随者には軽蔑を抱く.そこには“私”という存在がない.トランス女性として,障害者として,日本人とアフリカ人のミックスとして何かを語れるが,そこにはただシンプルに,何の修飾語もないままに“私は”と何かを語り始めることのできる人間がいない.それが死ぬほど退屈だ.全てが,知的権威にお膳立てされた決まり文句に聞こえる.
だがそんなことを思うと,頭にあの野獣の顔が浮かぶ.
体が震え,世界すら揺れる.
「ねえ,才田くん」
後ろから突然話しかけられ,驚く.
そこには先輩の巻木道歌がいた.小柄で目が大きく,可愛らしい.彌生とは違い誰も彼女を“男性”と思う人間はいないだろう.その子供のような体格から,年齢を誤るというのはあるかもしれないが.
「大丈夫? 何かちょい具合悪そうだけど」
「ああ,いや,大丈夫っす」
「ホント? 元気ないなあとか思ってて」
「いや……ただ今,バイトとかで疲れてるだけなんで」
だが実際,図星だった.あの『サマーキャンプ・インフェルノ』の悪夢が蘇ってきてから,ここ最近あまり眠れていない.
「ねえ,じゃあちょっと外歩こうよ.中,何か白熱しちゃってアレだし」
道歌がそう誘ってくるので,適当に歩くことにする.
夜の風は凄まじく冷たく,まだまだ慣れない.だがその凍てつきの奥に,ほのかに柔らかな匂いの存在を感じた.それはおそらく横に道歌がいるからだろう.
「最近,何か映画観た?」
部屋から掠め取ってきた缶チューハイを飲みながら,彼女が尋ねてくる.
「いや,最近はポケモンばっかやってて,実は観てないっすわ……」
「はは,まあポケモン面白いもんね」
「先輩は何か観ました?」
「んー……」
才田がチラと横を見ると,道歌の首筋が眼下に見えた.凍のなかの匂いが少しだけ濃くなる.
「マーベルは全部観るつもりだから『ブラックパンサー:ワカンダ・フォーエバー』観たよ」
「えっ,観たんすか.前作はボコボコに叩いてませんでした? つまんない政治のせいでアクションがおざなりとか何とか」
「そうそう,めっちゃ叩いたんだけど,でもビックリの傑作だったよね.そのポリコレ(笑)っぽい政治部分がさ,今回は本当にしっかりしててね.ちゃんと資源地政学とコモンズ論から始まって,対立,暗躍,外交,侵攻と目に留まらぬ速さで局面が動くって政治劇をちゃんとやってる.それでナショナリズムとの距離感へ話が繋がり,ラストは国家という存在の業にまで到達って感じで.ライアン・クーグラーのこと,ちょっと見直しちゃったよね」
「へー,先輩にそこまで言わせるんすか.じゃあ観ようかな……」
空を見上げると,月が妙に透き通って見える.凍てつきが空気を浄化したのか.それとも今また缶チューハイを飲んで,酔ってきたゆえの錯覚か.
「俺は……何かマーベルついていけなくなりましたわ」
「ほう,今流行りのマーベル疲れというやつですね,見木くん」
急にそんな改まった風な物言いをするので,思わず吹き出してしまう.
「まあ,まあそんな感じですよ.でもマルチバースが始まってから,何か全部が現実の模倣に見えてきたような気がするんですよね.その資源とかいうの聞いても,ロシアの天然ガス関連の議論とか思い出しちゃってウンザリするというか.あーあ,昔のわちゃわちゃしてた頃が懐かしいですよ.最初の『アベンジャーズ』みたいに頭空っぽにして楽しめるやつ戻ってこないかなあって.“日本人よ,これが映画だ”とか言えた頃が,何か……」
また,才田の頭にあの顔面が浮かび,思わず体が強ばる.もはや帰還兵が患うPTSDのような様相を呈している.ここまであのB級ホラーに翻弄される自分に自虐の笑いすら催してしまう.
「ねえ,やっぱ顔色悪いよ.お酒もう飲まない方がいいんじゃない?」
道歌が自分に近づいてくるのが,匂いの濃さで分かる.
「最近ずっとそういう感じで,ちょっと心配だよ」
そんな言葉を聞くと,ずっと自分のことを見てくれていたのかと少し嬉しくなる.
頬骨がまた熱くなってきているのを感じた.過剰な熱は体に悪い.それは当然だ.だが今は外気の凍に晒され続けながらも,ずっと燃え続けてほしいとそう思えた.灰の冷たさに収まるのでなく,地球の内核のごとく熱くあってほしいと.
「あの,実は悩みがある,というか……」
才田は少し言いよどむ.だが道歌がこちらを真剣に見据えてくれていることに気づく.視線は頬骨をさらに燃えあがらせた.
才田は彼女に全て告白する.『サマーキャンプ・インフェルノ』について,子供の頃にこれを観て植えつけられたトラウマについて,水戸部彌生に抱いてしまう馬鹿げた妄想について.
全て言い終えた時,肺に溜まった空気を全て排出するような勢いで息を吐いてしまう.吐き終えた瞬間,背中がまたぐぢょぐぢょになっていた.
道歌の方を見ると,真剣な顔つきをしているのが分かった.
「何というか,差別主義者とか言わないでほしいんですけど……いや,差別主義者と言われてもしょうがないかもしれないですけど……」
しどろもどろになり,言葉がうまく紡げない.
不安げに,また道歌に視線を向ける.だが今,気づいた.いつの間にか,彼女はマスクを付けていなかった.青い夜のなかでその唇が,際立つように桃色に輝いている.
「そういうの,あるよね」
道歌は桃色の唇でそう言った.
「差別主義者なんて言わないよ.そういうのはみんなあるから.差別なんかじゃないよ」
ゆっくりとそう言ってくれる.
頬骨の熱が少しずつ上にせりあがり,眼球を熱くする.
「そういうのあるよ.ね,大丈夫だから」
その言葉を聞いてから,しばらく前が見えなくなる.
そして才田は道歌の部屋に行き,セックスをすることになる.最初はその流れに当惑したが,徐々に自然なことと思われてもくる.
薄い暗がりのなかで道歌が服を脱いでいき,裸になる.当然だが股間にはヴァギナがついており,ペニスはついていない.ひと安心だ.
自身の勃起したペニスにゴムを装着する時,緊張で手元が少し狂う.うまくそれをペニスの根本まで広げることができない.そんな時,道歌は微かに笑いながら,それを手伝ってくれる.滑らかな手つきによってゴムのなかで更に海綿体が膨らんでしまい,恥じらいを覚える.
ペニスを道歌のヴァギナに挿入する.その瞬間に肉体的に気持ちよくなるわけではない.だがそれ以上に精神的な達成感がある.“脳髄が快感を覚える”というのはこういう瞬間を指すのだろう.
腰を動かしながら,道歌と抱きしめあう.甲高い彼女の喘ぎ声が鼓膜を突き刺すたび,不思議と鼻に香る彼女の匂いも濃厚さと鋭さを増す.鼻の穴と耳の穴を通じて優しく犯されているような気分だった.そう思うとペニスよりも脳髄で快感を感じてしまう.蕩けていく.
だがバッと後頭部を殴りつけるように,野獣の顔が脳裏に浮かぶ.口角が掻き切れるほど大きく口を開いた,あの顔面.思わず体が痙攣し,腰が止まってしまう.
しかし道歌がそんな哀れな体を抱きしめてくれる.
彼女の柔らかさ,温かさのなかでトラウマが優しくほどかれていくような,そんな気持ちになる.
腰の勢いが強まり,喘ぎ声も匂いも強烈になる.
頭蓋骨のなかで脳髄が,陽光に晒されたシャーベットのように溶けていく.
そして今まで感じたことのない大いなる快感のなかで,才田は絶頂に至る.
その救済のなかにあの野獣の居場所など存在しない.
全身の毛穴から疲労感が吹き出すのを感じながら,道歌の体へと倒れこんでいく.だがその疲労はもはや多幸感と見分けがつかない.自分の胴体が道歌の,見かけによらず大きな乳房を潰す感覚すらも幸福に満ちている.
彼女の首筋を嗅ぎながら,大きく息を吐き,大きく息を吸う.
「よしよし」
道歌がその肩甲骨を撫でる.
「いい子いい子」
その言葉がとても嬉しい.
朝,一緒のベッドで一緒に起きたあと,ご飯を食べる.
買ってあったらしい菓子パンを適当に食べていると,道歌が冷蔵庫の野菜室から不気味な野菜を出してくる.ブロッコリーかカリフラワーかのようだが,無数の粒子がゾッとするほど美しい幾何学模様を描いている.ただの野菜とは思えなかった.
「それ,名前なんて言うんですか?」
才田はそう尋ねる.
「知りたいの?」
小悪魔的な笑顔で,逆にそう尋ねてくる.蕩けた脳髄からまた更に快楽物質が溢れてくるような感覚がある.
「じゃあ,その才田くんがトラウマになったって映画,私に見せてよ」
予想外のことを言うので,脳髄が一瞬に固まってしまう.
「……まだ怖いの?」
ニヤニヤしながら,道歌がこちらにすり寄ってくる.
「大丈夫だよ,私がいるんだから.ね?」
少し躊躇いながらも,才田は促されるままYoutubeで調べてみる.驚いたことに,未だにその映画がそこにはあった.サムネイルは中年男性の爛れた顔だった.確かこの男はコックで,グツグツ煮えた鍋汁を全身にかけられ殺されたのだと,瞬間にそう思い出せるので自分でも驚く.
「おっ,これだね」
才田の不安を尻目に,道歌は即時映画を再生してしまう.
だがいざ再見するなら,低予算ゆえのそのチャチさに驚いてしまう.俳優陣も素人としか思えない演技の拙さで,子供の頃の自分が何故これを怖がっていたのかすら分からない.
より下らなく思えるのは,横で道歌が何度も笑うからだ.グロテスクな殺人描写は荒唐無稽なものが多く,それを見るたび道歌がプッと吹き出すのだ.そして連れて才田も吹き出し,その笑いの勢いで俯きながら体をプルプル震わせる羽目になる.
確かに恐ろしい場面もあった.殺人鬼が激熱のヒートドライヤーをいけすかない少女のヴァギナに突っ込む場面,もちろん直接的ではなく壁に映った影で仄めかされるような描写だが,そこは思わず顔を背けてしまった.すると道歌が彼の体を抱きしめ「怖くないからね,いい子いい子」とあやしてくれる.それが心地よかった.
だが,とうとう問題の終盤がやってくると,どうしても体が強ばるのを感じた.彼は自分から道歌に寄り添おうとする.彼女の柔らかさのなかで,才田は目の前に広がる場面が記憶とは異なることに気づく.
キャンプの年長生2人が行方不明になった子供を探して,湖畔にやってくる.彼らは地面に座る主人公を見つけると声をかける.彼女の膝にはある少年の頭が乗っかっている.年長生はもちろん彼が主人公の膝枕で寝ているように思うが,才田にはあからさまにそれが生首で,この後にショック描写が繰り広げられるのが予想できる.それほど陳腐なのだ.横で道歌も笑いを抑えようとしている.
それでもあの野獣の顔面がもうすぐと思うと体が震えてしまう.かと思いきや,真相の映像的暴露の前に,妙に長い回想が挿入される.継母の不自然な台詞によって,本当にクドクドと“主人公は少女でなく少年である”というのが仄めかされる.延々と,永遠と.
少し拍子抜けしながら,しかし十数秒後にショックが来るのは分かっている.手が震える.
その手が,温もりに包まれるのを突然に感じた.
道歌がギュッと自分の手を握ってくれていた.
そしてドンと,野獣の顔が画面に大きく現れる.目も口も凄まじく大きく開かれ,この世のものとは思えない.今までの陳腐さは油断させる囮でしかなかったかのように,その悍ましさはトラウマと同等の鮮烈さを誇っている.だがこれは妄想の産物ではなく,現実だ.
そして主人公の体全体が映しだされ,股間にペニスがあることが発覚する.
“She is a boy”
年長生の呆然とした声が聞こえる.それは英語だが.
体が尋常でなく震え,もうどうしようもなくなる.
才田はすがるように道歌の方を見た.
瞬間に,ビッグバンさながらの爆笑が部屋に響きわたる.道歌は,もうおかしくておかしくて堪らないとでもいう風に爆笑を始め,もはや止められなくなる.
「な,何あれ,めっちゃチンポだし,めっちゃゴリラ顔だし,やっば」
爆発的な笑いの合間に,絶対にこの可笑しさを伝えたいとばかり,道歌は何とかして言葉を紡いでいっている.
「完全に,少女のマスクかぶった全裸中年オッサンの図じゃん.チンポも何かちっさ,チンポ,中学生のお弁当箱に入れるちっさいウインナーじゃん」
道歌はずっと笑い転げている.
そして顔面が大写しになったまま,画面が緑色に染まっていく.不気味な光景のようにも思える.だが背後の爆笑を聞いていると,とんでもなく馬鹿げた光景にも見えてきた.
「ははは」
才田は試しに,笑いを活字化する際によく使われる文字列を発声してみる.喉が震えるのと同時に,くぐもった息が口から転びだし,その相乗効果によってこの文字列が声となって,部屋に響いた.
「ははは,ははは」
この営為を反復してみる.すると何か気分が高揚してくる.愉快になってくるのだ.これと同時に,目の前で繰り広げられた光景が本当に馬鹿げたもののように思えてくる.
「ははは,はははははは」
言われてみれば,あの野獣の顔面は確かにゴリラそのものだ.少女がゴリラの顔面で叫んでいるなんて阿呆のような構図だ.しかも顔は少女でも首から下は,道歌の言う通り全裸中年男性の体であり,その股間から小さなペニスが顔を出している様など全くケッサクだ.
笑える,確かに笑える.
すると身体の動きを意識しないまま,才田は笑うことができる.心の底から,空気を震わせるくらいの笑いを響かせることができる.
後ろでは道歌も腹を抱えて,大爆笑している.
才田は最高の気分だった.
本当に愉快だった.
もう水戸部彌生がトランス女性か否かはどうでもいい,才田はやっとそう思えるようになる.とはいえ,こうも思う.
もちろん実際,彼女の股間にペニスがついているとするなら,それはケッサクに間違いないと.
私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。