コロナウイルス連作短編その55「埋める」

 僕は臀部を襲う壮絶な痛みに苦しんでいた。皮膚の下には膿が溜まっており、それが排泄をする際、まるでマグマに細胞もろとも肉を焼き尽くされるような痛みを僕にもたらす。これは僕が痔という病気を見くびり、そして病院に行くということも生来の臆病さから避けたことが原因だ。さらに未来にある手術や人口肛門という可能性を考え、僕は便器のうえで無様に震えている。
 何とか痛みを我慢しながらトイレットペーパーで臀部を拭くと大量の膿のなかに、鮮やかな血潮も混じっている。僕は明らかに一線を越えてしまっていた。痛い、痛いんだ、誰か助けてくれ。心のなかでそう叫ぶ、だが口に出すことはない。その勇気がない。そして僕は思い出すのだ。
 確か四歳の時だ、何故そうなったかは思い出せないが、もはや黄昏というには空がドス黒くなりすぎていた頃、僕はたった独り、公園の砂場にいた。錆びた赤いシャベルを使って、無心に砂を掘っていた。周りには糞便と変わらぬ色彩をした砂や泥が、まるで戦場の肉片さながらに散らばっていた。この時、僕は完全に見捨てられた人間だった。宇宙船と切り離されて、銀河の果てしない闇を漂うしかできない宇宙飛行士の孤独。だが幸か不幸か、僕の手元にはシャベルがあったので、砂を掘りつづけた。何故、母も父もそこにいないのか、不思議とそれを思い出すことができない。二人はいわゆる共働きであり、僕を迎えにいけない理由には事欠かなかったが、それでもこんな時間まで四歳の子供を独りにするだろうか。それに周囲の人間もこの状況を許すだろうか。だがこの記憶が捏造といった類いの物ではないことを僕は確信している。この時は確かに存在した。それを誰かに否定される覚えはない、例え母にしろ父にしろ。
 子供の頃、僕は砂を掘るのが好きだったのか、これに関しては曖昧だ。確かに泥団子を作るのは好きだった。それは破壊することのためだった。とても美しくできた泥団子を、友人たちの歓声を浴びながら、地面へと叩きつける。泥が異様な響きとともに、爆裂を遂げる。その残骸を思い出すのは、小学生の時に第二次世界大戦時の広島に関するアニメーションを観て、そこで原爆に曝された学生たちが一瞬にして壁のシミへと変貌するのを目撃した時だ。四歳の僕は知らずして、友人の前では原爆だったのだ。破壊者だったのだ。暴力の加害者だったのだ。砂を掘るのが好きだったのか。それにはイエスともノーとも言えない。だがこの時の僕は永遠と砂を掘っていたんだった。
 これは何かの不満の現れだろうか。それは悪くない予想だと思う。当時の僕は父と母に強い不信感を抱いていた。子供というのは特に両親の心を敏感に感じとる。そして僕が感じていたのは、彼らに僕が愛されていないということだった。彼らは明らかに自分が生きるのに必死だった。何とかこの社会を生き抜こうと、がむしゃらに働き続けていた。ここにおいて僕は明らかな邪魔物だった、重荷だった、彼らの人生を押し潰す巨大な糞だった。母の額に流れる冷ややかな汗の一粒、父の不気味なまでに紫に染まった耳、母の菌に蝕まれたかように醜く歪んだ爪の数々、父の首筋で蠢いているように見える黒子、母の鎖骨に吸いつくような緑色の血管、父の脇腹に穿たれた黄色い痣、母の蝋人形のように生気のない膝、父の無数の毛に包まれた悍ましい脛。その全てが僕に敵意を持っているとそう思えた。父が作る甘い麻婆豆腐は美味しかった。母が僕の身体を洗う時の優しさは何にも替えがたいものだった。だが無意味だ。僕は彼らには望まれていなかった。僕は生まれるべきではなかった。いや、何故彼らは僕を生んだのか、それが今でも分からないでいる。そして今、僕は惨めな苦痛を味わっている。彼らの無責任の代償を僕は払わされている。
 当然、当時の僕がここまで自分の心を詳しく説明できた訳がない。僕は砂を掘るしかなかった。この無力感に絡め取られないためには掘るしかなかった。シャベルを砂に突き刺す。ザシャッという音が僕の鼓膜を心地よく揺らす。そしてシャベルをわざと勢いよく持ちあげて、砂を宙にブチ撒ける。黒い闇のなかでも、茶色と灰色の砂が弾ける様がよく見える。面白くなって、何度もやった。いつの間にか僕自身が砂まみれになっている。そんな僕自身を誇りに思った。
「ちょっと君、こんな時間まで遊んでていいの?」
 砂を掘っている僕に、マスクをした僕が話しかけた。
「うん、だって誰もこない」
「いや、お母さんとかお父さんとかは」
「働いているから、お金」
「そうか、それは大変だなあ」
「何で夏なのにマスクしてるの」
「いや、僕はすぐ風邪とかひいちゃうから、マスクしてなきゃいけないんだよ。危ない病気もあるしね」
 僕は僕の隣に座った。
「じゃあ僕と一緒に遊ぶか。独りじゃ寂しいだろ」
「うん」
 僕たちはしばらく砂を掘って遊んだ。僕が笑ってくれたので僕は嬉しかった。
「ママもパパもこないなあ。ぼくのこと忘れてんのかなあ」
「ひどい親だよな、僕の両親もクソみたいな人間だったよ」
「うん」
「でも一つだけ、パパもママもすぐ来てくれる方法を知ってるよ」
「え、なに」
 僕は輝くような笑顔でそう言った。
「まずさ、砂のなかに隠れるんだ。でもいつも幼稚園でやるようなかくれんぼみたいなのじゃダメだ。もう、砂のなかに埋まるんだよ。忍者みたいにね。それで完全に、もう完全にこの世界から姿を消すんだ」
「うん」
「そうすると、やっぱり親だからね、君がいなくなっちゃったことに気づくんだ。勘ってやつだよ。そうしたらもう心配になるから、それで勘を使って君を探すんだ。手こずるかもしれないけど、親だからね、絶対にここにやってくる筈だ。すぐにね。そしたら君が砂のなかからバッと現れてパパとママを驚かすんだ。お前らあ、僕のこと忘れてたのかあ!ってね」
「へええ、でも砂に隠れてなくちゃいけないの、砂?」
「そうだよ、砂っていうのは僕たちが生きてるってことを完全に隠してくれる唯一の存在なんだ。水とか葉っぱとか影とかじゃ、そうはいかない」
「でも、潜ってる時に息とかできるの」
 そう言われたので、僕は空っぽのペットボトルを出しで僕に見せた。
「水とかは入ってないけど、空気は入ってる。これで呼吸すればいいんだ」
「おおお」
 そうは言いながら、僕は不安げな表情をしていた。
「大丈夫、大丈夫だよ。君が息できなくなったら、砂から手をあげればいいんだ。そしたら僕が助けるよ」
「約束する?」
「ああ、約束するよ」
 そうして僕たちは二人で大きな穴を一生懸命掘った。そのなかに僕は身を委ねる。
「砂とかかかるから、ちゃんと目も口も閉めておきなよ」
「うん」
 僕はシャベルを使って僕の身体を砂に埋めていく。僕は砂にまみれるうち、呻き声をあげていたけども、僕が僕に声援を送っていたので、僕は何とか我慢しているようだった。そして僕の身体はとても小さかったので、僕は僕を簡単に埋めることができた。僕はこの世界から完全に消えたんだった。糞便色の砂の山が僕の痕跡だった。だけどもその山がにわかに震えはじめ、止まる。また震えて、しかし止まる。僕は足早にその場を立ちさる。
 僕は臀部を襲う壮絶な痛みに苦しんでいた。皮膚の下には膿が溜まっており、それが排泄をする際、まるでマグマに細胞もろとも肉を焼き尽くされるような痛みを僕にもたらす。これは僕が痔という病気を見くびり、そして病院に行くということも生来の臆病さから避けたことが原因だ。さらに未来にある手術や人口肛門という可能性を考え、僕は便器のうえで無様に震えている。その時、ドアの向こうから玄関ドアが開く音を聞こえた。そして足音が近づいてきて、止まる。
 ドンドン、ドン!
 ドアが乱暴に叩かれる。
 ドン!
 ドン!
 ドンドンドンドンドンドン!
 ドンドンドン!
 僕は震えながら右の人差し指の匂いを嗅ぐ。血の匂いだ、膿の匂いだ、糞の匂いだ。そしてこれが生の匂いだった。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。