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コロナウイルス連作短編その3「お前は俺のものだ」

 スーツを着た渡利宗吾が部屋から出ていくのを、御手洗雅之は憎々しげに見つめる。恋人同士になってから、一体何度目の喧嘩だろうか。数えきれないのは確かだが、その度に心に深緑色の滓が溜まる。それが悪臭を放ち、体中の毛穴から垂れ流されていくかのようなのだ。雅之は手の甲を匂ってみる。体臭の中にあの悪臭が混じっている気がする。
「謝ってたまるかよ」
 そう独りごちてから、彼は朝食を食べようとする。パンにバターを塗る。それから少し塩をかける。宗吾は健康に悪いからやめろと言うけれども、雅之には止められない。こうしてパンを食べ始めるのだが、いつもよりも不味く感じる。心をカミキリムシのように侵食する不機嫌のせいだと、雅之は思う。しかしそのまま食べ続けていると、何故だか宗吾の笑顔が頭に浮かんでくる。パンの不味さも相まって、吐き気を催してしまう。全てを飲みこんでしまおうと、冷蔵庫から牛乳を出そうとするのだが、そこで牛乳がないことに気づいた。買うのを忘れたのだ。
 そこで思い出したのは昨日見たニュースだった。コロナウイルスのせいで酪農家が大打撃を受けているのだという。そして牛乳もたくさん売れ残っているというのだ。なので雅之は今日の昼、牛乳をたくさん買おうと思った。その牛乳でグラタンやチーズを作るのだ。だがそれが美味しかったとしても、宗吾には食べさせないと心に決める。
 数時間ほど仕事をしてから、雅之は外に出かける。廃墟の工場の隣では、既に桜が咲き誇っていた。薄い桃色の花びらが淡く煌めいている。雅之はその控えめな美しさをしばらくの間、眺めていた。一枚でも小さな花びらが落ちてこないかと期待するけども、雪のように降りてくることはなかった。
 そんな雅之の後ろを、自転車に乗った少年たちが駆け抜けていく。そしてその中の一人が確かにこう叫んだ。
「ホモ野郎!」
 その言葉に、雅之の心はささくれだつ。ネット上ではこの罵詈雑言は数えきれないほど見てきたが、実際にこの耳に聞くのはいつ以来だろうか。雅之は考えてみるが、分からない。だがこの言葉を無視できてこそ、大人のゲイだと思い、彼は何事もなかったかのように歩き始めた。しかし春の柔らかな陽気に包まれているうち、雅之の心に青い怒りの炎が燃え始める。それは彼の細胞や肉を燃やし、鮮やかな痛みをもたらす。やはり"ホモ"という言葉は看過できなかった。大学生の頃、自分のことを卑下して"ホモ"というゲイの友人がいたが、それにもモヤモヤした思いを抱えていた。そして今、彼はこの言葉が害悪だと確信に至った。この言葉がどれほど自分を傷つけてきただろうか。この言葉がどれほど他のゲイたちを傷つけてきただろうか。この忌まわしき歴史を無視することはできなかった。とはいえ"ホモ野郎!"と叫んだ子供たちは既にここにはいない。この怒りをどう処理していいのか分からなかった。
 スーパーで牛乳を買う。だがついベーコンやお酢など要らないものまで買ってしまう。その途中で彼は友人である日向早紀という女性と出会った。彼女は自分がゲイであり同性の恋人と同棲していることも知っている。彼女には何でも話せるほどに親密だった。
「最近どう?」
「いやあ、ぼくのとこもコロナウイルスの影響が甚大で」
 雅之は唇を噛む。
「私んところも大変よ。学校が閉鎖されたせいで、子供たちがずっと家にいてさ、その世話しなくちゃいけないの。今は夫が見守ってくれてるから買い物にも行けてるけど、これがいつまで続くのか分からないのが辛いわ。もちろん子供といるのは楽しいよ。けどね、たまには夫と二人きりとか一人きりとかになる時間が必要だから」
「分かります、それ」
 早紀は疲労困憊の体で、力なく笑った。
「宗吾くんは調子どうなの?」
「あー……」
 雅之は思わず何も言えなくなる。
「もしかして喧嘩した?」
「うわ、何で分かるんですか?」
「いやあ、正直君の顔見れば分かるよ」
 早紀はニヤニヤした。
「喧嘩した後はね、とりあえず自分が悪いにしろ悪くないにしろ、先に謝る。それから自分が思ってることを正直に話す。嘘はダメだよ。こういう時は絶対にバレるからね。それから相手の正直な言葉を聞く。こうやって互いに誠実になるの。そうすればじきに仲直りできるよ」
「そうですかあ。いやあ朝ご飯食べながら、独り言で『謝ってたまるかよ』とか言っちゃったんですけどね」
「そんなの忘れて、ちゃんと謝んなさいよ!」
 早紀は雅之の背中を強く叩いた。かなり痛かった。
 ビニール袋を持って帰りの道を歩いていると、何故か極彩色のピエロが道端に立っているのに気づいた。最初は見間違えかと思ったが、本物のピエロだった。彼は誰もいないのに、何か現代舞踏家のような奇妙な舞を見せている。好奇心から、雅之は彼に近づいていく。するとピエロも雅之に気づいた。ピエロがこちらに近づいてきたかと思うと、突然バラを出してきた。驚く雅之に、紳士のようなピエロはそれを渡す。その鮮烈な赤に雅之は喜びを覚えた。それからピエロのマジックショーが始まる。彼は何もないところからチューリップやステッキ、ぬいぐるみ、果ては青い炎まで出した。雅之は自分の心を見透かされたような気がして再び驚かされる。
 そしてピエロに誘われるがまま、雅之は歩き続ける。彼は広場に辿り着くのだが、そこにはピエロと同じように色とりどりの巨大なテントがあった。ピエロは手招きをする。少しの恐怖と大いなる好奇心とともに、雅之はテントに入った。彼はたった一人の客だった。おそらくコロナウイルスのせいだろう。

 サーカスが終わった後、ピエロと一緒にサーカスの舞台裏へと赴く。先に見た奇妙な人々が自分たちに笑顔を向けてくれる。そして象や虎たちも陽気な鳴き声とともに雅之を歓迎した。ピエロが踊ると、彼らも楽しげにダンスをし、雅之も楽しい気分になる。踊り続けて疲れ果てた後、雅之はピエロと一緒に外へと出た。そこでしばらく見つめあった後、ピエロは仮面と服を外す。現れたのは瑞々しい茶色の肌をした青年だった。おそらく日本人ではないだろう。だがどこから来たかは分からなかった。雅之が見とれたのは青年の首筋だ。細やかな産毛の中を、筋肉の筋がまるで小川のように流れている。そしてその上を汗の繊細な滴がゆっくりと這いずるのだ。その官能性に、思わず口の中が粘った唾が溢れるのを感じた。そのしなやかな首筋が彼に近寄ってくる。雅之は動けない。青年はそのまま雅之を抱きしめ、彼は首筋にキスをすることになる。春の日差しを浴びるタンポポのような、爽やかな香り。あまりの馨しさに思わず雅之の身体が震える。彼の武骨な手に引かれて、とうとうキスをする。青年の唇は電撃のように甘く、テトロドトキシンのように安らかなものだった。そして青年の身体を貪るうち、不思議なことに気づいた。彼の身体には不思議と実在感に欠けているのだ。まるで実体のない灰色の雲を相手にしているような感じだ。初めての感覚に、雅之は興奮せざるを得なかった。
 青年が勃起しながらも小さなペニスを露出した時、雅之はすぐに舐めようとするが、彼が止めた。青年はどこからともなくゴムを出し、ゆっくりとペニスに装着する。そして笑顔とともに、ペニスを差し出した。雅之は、いつもここまで気をつけてセックスするべきなんだと思う。宗吾とは気分によってゴムをつけたり、つけなかったりする。ないのが気にならない時があれば、気になる時もあった。ゴムを装着したペニスを舐めてみると、苺の味がしたので思わず笑ってしまう。青年の顔を見ると、彼はウインクをした。雅之はフェラチオは上手でなかったが、青年を喜ばせるために頑張って舐め続けた。青年は滑らかな喘ぎ声を響かせるので、雅之は嬉しくなる。
 このまま舐め続けようとする雅之を、青年が止めた。今度は彼のペニスにゴムを優しくつける。その手捌きはとても丁寧なもので、雅之は安心感を抱いた。それから青年は道化に戻ったかのように、柔らかなお尻を滑稽に振り始める。彼のお尻は食べ応えがありそうだった。雅之はまず彼が痛がらないよう、入念に尻の穴をマッサージする。その最中にも彼は喘ぐので、ますます愛おしくなる。準備万端になったところで、雅之は青年にペニスを挿入する。キツい締めつけに、思わず雅之は一瞬でイキそうになる。それをこらえながら、激しく腰を振る。彼に気持ちよくなって欲しかったが、青年は先とは違う声を出す。それは悲鳴だった。
「ごめん、痛かった?」
 青年は答えない。その代わり、荒い息を吐く。一転して、雅之はゆっくりと腰を動かす。すると青年の声に、可愛らしい艶が戻り始める。彼が快感を感じてくれているのが嬉しかった。だから雅之はゆっくりと動き続ける。喘ぎ声は大きくなり、彼は自分自身でペニスをしごき始める。そして彼は地面に射精した。雅之ももうそろそろで絶頂に到達しそうだった。少しだけ腰を早め、そしてゴムの中で射精する。自分はこういう優しいセックスがしたかったんだな、と雅之は思った。
 部屋に戻ると、宗吾がいきなり抱きついてきた。
「遅いよ。何やってたんだよ」
「ごめん」
 彼が泣いていることに、雅之は驚く。
「お前がどっか行っちゃったかと思ったじゃんかよ」
「ごめん」
 二人はリビングの椅子に座った。
「ごめんな、雅之。俺、すごいコロナウイルスのせいで神経過敏になってると思う。今の状況さ、色々考えちゃうんだよ。東日本大震災とかさ。あの時も俺たち仲違いして、分かれる危機にあっただろ。あん時、俺本当に辛かったんだよ。それで今回も雅之と離れたくなくて、自分本位な欲望をお前にぶつけちゃったんだ。本当にごめん。お前が許してくれるまで、何度も謝るよ、俺」
 雅之は彼に誠実になろうとしたが、言葉よりも先に涙が溢れて仕様がなかった。雅之は宗吾を抱きしめる。宗吾も雅之を抱きしめた。
 その後、二人は一緒に風呂に入った。宗吾が雅之の腕を洗う。
「お前、二の腕プルプルになってね?」
「え、そうかな」
「そうだよ」
「筋トレすべきだと思う?」
「すべきだね。もうムキムキになっちゃえよ。俺は筋肉ごと雅之のこと愛すぜ」
「ははは」
 それから二人はバスソルトを投げあって遊んだ。口の中に入ったバスソルトは変な味がした。
 そしてベッドに一緒に横たわる。しばらく雅之はナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーの『フライデー・ブラック』を読んでいたが、宗吾が甘えてきた。
「なあ、仲直りしたばっかなんだけどさ……久しぶりにセックスしたい」
 そうお願いする宗吾はとても小さく見えた。互いの細い身体を貪りあい、欲望が高まってきたところで、宗吾は自身のペニスを挿入しようとする。
「ねえ、ゴムつけない?」
 そう尋ねると、宗吾は露骨に嫌な顔をした。
「いいじゃん。そんなつまんないこと言うなよ」
 その言葉が雅之の首筋に刺さる。
「うん……」
 そしてペニスが挿入される。宗吾は凄まじい速度で腰を振る。それは車が衝突事故を起こすような勢いだった。
 壊される! 壊される!
 そんな恐怖が心に浮かびながら、快楽によって塗り潰されていく。そして宗吾は雅之の髪を鷲掴みにしながら、叫んだ。
「お前は俺のものだ、お前は俺のものだ!」

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。