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コロナウイルス連作短編その194「誕生」

 安倍晋三元首相の国葬,そのデモへの参加者の写真を曽根山幹弥はTwitterで眺めている.掲げられるプラカードには“国葬反対”という単純も甚だしい標語が書かれ,その下には英訳が書かれている.何か文法的,もしくはスペル間違いがないかと目を皿にして凝視するが,さすがにそれはなかった.軽く舌打ちする.
 だが本当の意味で幹弥が見ているのはそこではない.
 その参加者は秋の涼しい気候に合わせてシャツと薄い上着を羽織っていたが,それらから明らかな胸の膨らみが見える.その背後には“巨乳”と呼称しても許される胸部が存在しているように,彼には思えた.もしくはブラで嵩増しをしているかだが,幹弥にはそこまで判断できない.
 彼はその呟きにつけられた引用リツイートを確認する.予想通りこの人物への下品な罵倒が並んでいたが,1つの呟きが彼の目を惹く.
 “エロ漫画に出てきそうな巨乳男さんが何か仰ってますねえ”
 このデモ参加者,揖斐忠勝はネットでも有名なアクティビストだった.大学院生の彼はトランス男性当事者としてトランスライツの拡充に尽力する存在だったが,他の人物と一線を画するのはその胸部だった.彼は胸の膨らみを全く隠すことなく,時にはむしろ膨らみを強調しながら活動している.“おっぱい持ってるけど,男”ということを声高に主張している.
 幹弥は少しだけ彼のインタビュー記事を読んだことがあった.それによれば,忠勝自身も以前は他のトランス男性と同じように乳房を女性の象徴として唾棄し,早く切除してしまいたかったのだという.だが一方で手術というものに恐怖を感じており,胸を切除したいのにする勇気がないという袋小路に陥ることになる.
 しかしある日いつものように英語で情報を収集していた際,彼は女性化乳房症という疾患を知る.過剰なエストロゲン産生により,男性でも乳腺が肥大し乳房が発育してしまうという難病だ.この治療法として脂肪吸引と,そして膨らみの原因である乳腺や胸の脂肪を取り除き胸を平らにする乳腺切除手術がある.通常はこの治療によって“男らしい胸”を取り戻すという.
 この過程にトランス男性として共感を覚える一方,より彼の関心を惹いたものがある.中にはこの膨らみをそのままにしている男性もおり,そんな彼らのコミュニティを彼は見つけたのだ.彼は膨らんだ胸を女性的と見なすことはなく,これもまた男性の一特徴として捉えなおす.それに対する苦悩や葛藤,しかし誇りや喜びをも言葉にしていた.参加者が鏡に写った自身の胸の写真を共有することもあり,時にはブラによって綺麗に形作られた乳房を自慢げに見せながら微笑む男性の写真もあった.照明の影響か,微笑みから伺える歯がなかなか黄ばんで見えたが,その黄色があまりにも眩しかったという.
 そしてこのコミュニティにはシス男性だけでなくトランス男性もいた.乳房が憎いが手術する勇気もないまま,どっちつかずの人生を過ごしてきたが,このコミュニティを見つけ,自分の乳房を愛するまでは行かないものの“1人の身近な友人,もしくは悪友”として,ありのままである勇気を持てたという.そして忠勝も,男性として自分の乳房とともに生きる勇気を持ち,このメッセージをアクティビストとして日本でも伝えていくようになった.
 写真を見ながら,幹弥はこれを思い出す.“吐き気を催す”という言葉が,今の自分の心情にピッタリだと思ったが,悲しいことに実際吐き気は催していなかった.なので幹弥は大口を開き,そして歪ませ,能動的に“うぇええええ”という声を響かせる.これを続けていると実際に気分が悪くなるので,人間という生物は不思議なものだと彼には思えた.
 そして頭にはある人物が浮かぶ.自分は女性と言いながら,顎には濃厚な髭を蓄えていた海外の歌手を昔ニュースで見たのだ.揖斐忠勝という男性の姿はその女性と同種のアベコベぶりだと幹弥は思った.男ではなく“オトコ”,女ではなく“オンナ”と表記するに相応しい存在だと.
 こんな乳持ってて,しかもAV女優とかみたいに誇示して,何が男だよ.
 幹弥は心のなかで独りごつ.だが少し気が変わる.
「こんな乳持ってて,しかもAV女優とかみたいに誇示して,何が男だよ」
 幹弥はスマートフォンを眺めながら,この言葉を発声する.なかなか気分がいい.
 そして忠勝に投げ掛けられる罵詈雑言を読むなら,これを思っているのは自分だけではないと勇気付けられる.そして彼に反感を抱くのはシス男性だけではない.
「あいつはトランス男性の地位を貶めてんだよ」
 これをZoom飲み会の場で言ったのは幹弥の友人である西東薫だ.彼もまたトランス男性だった.
「胸なんてオペして“やっと取れてせいせいした!”って言うやつでしかないんだよ、俺たちにとっちゃマジで.もちろん取るにも過程があって色々と考えも変わるかもしんないけど,でも基本“せいせいした!”に決まってんだろ.何がおっぱいあっても男だよ,キモいんだよなあ」
 あの時,薫の顔はかなり赤らんでいた.
「胸オペして残った傷跡が男のたった1つの勲章なわけだよ.だがコイツは……昔“巨乳はバカ”みたいな言葉あったじゃん.その“巨乳はバカ”の,Z世代バージョンがコイツってわけだね.俺たちは自分を“男”だって言いたいのに,こういうやつのせいで“トランス男性”なんて余計なものがくっつけられるんだよ,それこそ巨乳みたいに.俺らの面汚し以外の何者でもないだろ,本当に」
 今,また幹弥は薫の言葉を反芻する.
 当事者がそう言っているのを聞くと,自分が抱いている吐き気はシスジェンダーの被害妄想でなく普遍的な感情と思えて,安心する.自分の吐き気にお墨付きをもらえた気がするのだ.やはり揖斐忠勝は女であり,百歩譲って“オトコ”なのだ.
 “巨乳女”という単語が思い浮かぶと,幹弥は昔好きだったアイドル須藤瀬波のことも思い出してしまう.歌も踊りも中途半端で,そこが愛嬌となっていた存在だが,幹弥にとって問題は彼女がTwitterで政治的な発言を多くすることだった.ある時,彼女が“#検察庁法改正案に抗議します”というタグを呟いた.
 “何も分からない癖に,ギャーギャー喚くのは見苦しいですよ.そんなことしてたら今後の仕事がなくなります.物事は自分の頭でよく考えてから発言しましょうね.これからも頑張ってください”
 彼が思わずそんなリプライを送ると,瀬波はこう返してきた.
 “私はこの法案の危険性が分かったうえで,呟いています.あなたのほうこそ,私の心を分かったように話すべきではないと思います.ありがとうございました”
 この呟きを読んだ直後,彼は彼女のCDを土手に持っていって全て破壊し,捨て去った.それはコロナ禍が始まってからすぐのことだ.
 思い出していると怒りばかりが募る.
 不思議なのはこうなると自然とぺニスも勃起していくことだった.やはり人間という生物は奇妙なものだと幹弥には思える.
 ちょうどいいので彼は揖斐忠勝の胸部を見ながらマスターベーションを行おうと決める.女性を虚仮にするにはマスターベーションのオカズにするのが一番であると幹弥は確信していた.
 ズボンの上からしばらく撫でぺニスを十分膨張させた後,それを脱いでぺニスを露出させる.
 包皮を剥かないまま一心不乱にしごき続けるが,しかし調子が悪い.忠勝を見ながらマスターベーションをしても,全く気持ちがいいとは思えない.
 黒く小気味よい短髪,キレある眼光,ギラついた鋭角を伴う顔の輪郭,ガッシリとした肩,ガタイのいい体格,ドッシリと重さを感じさせる下半身.忠勝は胸以外,ほとんど男性のようだった.自然と自分のぺニスが柔らかくなっていくのを感じ,焦る.いくらシャツの膨らみだけを凝視しようとしても,他の部位に気をとられる.必死にぺニスをしごくが,固さは戻らない.それこそ揖斐忠勝が男性であることの証明であるように思えて恐ろしい.
 だがふと,幹弥は我に返った.Twitterを閉じてYoutubeを開く.そこで見るのは“誰でも簡単! ED改善ストレッチ”という題の動画だった.
 彼は急いで床に仰向けになり,音声に従ってストレッチを開始する.まずは足を上にあげた状態で,膝を90度に曲げる屈伸運動だ.リズムに合わせて,アキレス腱が爽やかに伸びては縮みするのを感じながら,運動を行う.この時に重要なのが腹部に力を入れて引っ込めることだ.これによって股間への力の伝わり方が変わってくる.これを意識しながら足を動かすのは,幹弥にとって予想以上に過酷だった.関節が早くも熱を持ち始める.
 次は足を横に広げる運動だ.この様は正常位を行う際に女性が股を広げるという動きに似ている.だが実際にこれをやってみると,かなり痛い作業だということに幹弥は気づいている.壊れかけのワイパーさながら,足の動きがぎこちなくならざるを得ない.思わざるを得ないのは,自身の体がかなり固いゆえに関節の可動域が狭いという事実だ.こうなるとやはり股間で血流が停滞し,うまく勃起しなくなるというのも納得してしまう.この意味で足の付け根をほぐすという作業は重要なのだ.
 そして最後はバックブリッジを行う.足を開き,両膝は90度に曲げてから立てる.骨盤から引き上げるように臀部を上げていき,肩から膝までが直線を描くような位置までいく.しばらくキープした後に,体を下げ元の状態に戻す.この運動の繰り返しがバックブリッジである.ここで重要なのは背すじをまっすぐ伸ばすこと,腹部に力を入れること,そしてお尻の穴を締めることである.このED改善ストレッチにおいて最も大切なのが最後の点だ.バックブリッジは大殿筋はもちろん,脊柱起立筋や骨盤底筋が鍛えられることで姿勢や骨盤の矯正に役立つ.中でも骨盤底筋は別名PC筋と呼ばれているが,これはぺニスが勃起する際,血が海綿体から逃げないよう締めあげる役割を持ち,ゆえに勃起の持続には欠かすことができない.これが衰えると勃起不全になるというわけである.
 幹弥はこれを必死になって行う.普段はあまり動かさない部分を強制的に動かしている感触があり,ことさら負担がかかる.そういえばセックスも,元恋人である八島茉愛と別れてからご無沙汰だ.掃除に関するこだわりが異常な人間だった.彼女もまた巨乳を持っていたと幹弥は思い出す.
 ブリッジの最中,首を横に曲げ動画を見ようとする.
 “立ち上がれ! 立ち上がれ!”
 そんな字幕が現れるので,幹弥は必死に股間を突き動かす.立てられた膝とともに,その股間が天を目指す.正にED改善ストレッチに相応しい雄姿だ.
 ホイッスルが鳴り,ストレッチが終わる.もう既に何日もこれを続けているが,未だに終わった後は疲れはてた状態で,床に転がらざるを得ない.自分が地面にだらしなく広がる泥になったような気分になる.
 だがそんななかで,幹弥のぺニスは独りでに勃起を始め,あっという間にダイヤモンドさながら固くなった.このストレッチで少しずつ勃ちがよくなっているのは感じていたが,今のようにストレッチ直後に勃起するというのは初めての経験だった.
 果てしなく清々しい.
 その清々しさのなかで,もはや忠勝を見ながらマスターベーションを行おうという邪な情念は完全に消え去っていた.
 こいつにせっかくの精子を浪費する意味はないわな.
 フフンと,幹弥は鼻で笑ってみせる.
 気を取り直してTwitterを眺めているとBBCのニュースが流れてきた.鼻持ちならないアクセントの英語で,中年の白人男性が安倍晋三元首相の国葬についてレポートしている.驚くべきことに彼は正に日本におり,国葬を待つ一般客の列を横目にレポートを行っていた.
 だが最も目障りなのは,男性がマスクをしていないという事実だ.彼は周りを気にもせずにペチャクチャと唾を飛ばしまくっている.一方で列に並ぶ人々,老年層の男女が目立っていたが,全員に共通するのはキチンとマスクをしているということだった.彼らは無言で列を作り,しかし横で唾を飛ばし続けるレポーターを不安げに見つめている.視線だけでもそれが分かる.
 幹弥はスマートフォンを持たない自分の左手が拳を作り,わなわなと震えているのに気づき驚いた.だが確かに彼は怒りを抱いていた.
 ヨーロッパの馬鹿白人どもは人様の国に来て,マスクもせずにコロナを撒き散らしてやがる.植民地に病原菌持ち込んで,先住民ブッ殺してた時代と何も変わらねえじゃねえか.しかもどうせ“極東の蛮族が俺らの真似して国葬やってる(笑)”とか思いながら,半笑いで報道してんだろ.横の,横のさ,あのおばあちゃんたちの顔見ろよ.本気で安倍首相のこと思って国葬に並んでる気持ちを,こいつら踏みにじりやがって.クソ,クソ!
 幹弥の目から自然と涙がこぼれていた.あまりにもやるせなかった.
 だが心の底からさらに込みあげてくるものが,確かにある.
 今からでも,まだ遅くない.
 スマートフォンの電源を切った後,幹弥は急いで収納スペースから,ビニールに包まれたスーツを出す.久しぶりに空気に晒されたそれから濃厚な匂いが漂う.それを嗅ぎながら,決意とともに呟く.
「俺も国葬に行こう」

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。