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コロナウイルス連作短編その145「あなたをかぎとる」

 とはいえ、茂刈唐はグエン・フォン・デルモンテと家にかえる。雪がちらつく頃、ニューヨークはいちばん美しく、残酷だ。しかし隣にグエンがいるのを感じていると、この町はただ素朴なまでに美しくみえた。
 グエンとは読書会で知りあった。椅子にかるく腰かけて、目まぐるしく変わる豊かな表情で、しかしすこぶるおだやかに本についての言葉をつむいでいく。そのきよらかな声がまず印象にのこった。正直いえば、言葉じたいはそこまで印象に残るものでなかったが、グエンの声やそのトーンはいっしゅの音楽として心にひびきつづけるのだ。唐は音楽を表現する語彙をあまりもたない。文学が好きなので、そこに出てくる詩的な修辞や比喩でしか音楽をかたることができない。そしておおくの文学を読むからといって、自分ですばらしい詩を書けるわけでもないと彼女は知っている。つまり、彼女は音楽を言葉で形容するのが本当にへたくそで、だからグエンの声のきよらかさを表現できない、表現したくない。
 だがもっとふしぎで、より唐を魅了したのは、グエンの声からにおいをかんじるということだった。それは彼女が手に持っている本のにおいや、グエンじしんの体臭ではない。紛れもなく、声のにおいなのだ。はじめてグエンが読書会にきて、パオロ・ジョルダーノの『素数たちの孤独』について話しはじめたとき、声のきよらかさに続いて、唐の鼻がそのにおいを嗅ぎとったのだ。それはレモンのようにすこしすっぱく、それでいて灰色にかがやく鉱石のようにおもみをもつにおいだ。最初、グエンが話しはじめて、唐突にこのにおいが漂ってくるので、すこし戸惑った。彼女に意識がむいたことで、彼女がつけていた香水などにやっと自分がきづいたのかと怪訝におもった。だがその心地よいにおいを嗅いでいるうち、唐のこころが、このにおいはグエンの声から発されていると理解し、そこからはひそやかに、それにひたった。
 共感覚という言葉を、唐もきいたことがある。たとえばピアノの音が色彩をまとう、小説の文字から声がきこえる、味が舌のうえで幾何学をえがきだす。そんなある感覚と感覚がまじわりあうような現象だと、唐は理解している。おそらくこの声からにおいがするという聴覚と嗅覚の共鳴も、共感覚なのでは?と、唐はおもう。だがいまままでそんな感覚とはまったく縁がなかったので、すこし驚く。しかもグエン以外の声、もしくは世界に溢れる音からにおいなどはいっさい感じない。これはグエンにだけいだく感覚だった。
 しぜんと、唐はグエンに惹かれていった。さいしょは戸惑いがさきだち、彼女に喋りかけることができない。それでも3回目に読書会でであったとき、おもいきってグエンの言葉に感銘を受けたとつたえてみる。彼女はコーヒーを飲みながら、恥ずかしげにわらいかけ、唐に「ありがとう」と言った。うれしかった。そこから読書会で会話をしたり、ときにはカフェにでかけて最近読んだ小説について語ったりする。あさ、古めかしいダイナーにいって、いっしょに朝ごはんを食べたこともある。グエンはベーコンがすきだった、焼きかげんにすこぶるこだわりがあって、でもそれを語るときのことばは、ベーコンのこんがり焼けたにおいとは似てもにつかず、おかしかった。
 メッセージもおくりあうけれど、文字からはにおいがしないので、あじけない。あって、はなして、声のにおいを嗅ぎとる。幸せだった。でも、じっさい彼女にこれを言ったことはない。ずっとかくしている。レズビアンであるとか、家庭の事情だとか、そういうごく個人的なことも話せる間柄になりながら、これだけは不思議といえない。このにおいをグエン自身に否定されるのがこわかった。
「部屋、ごちゃごちゃしてるでしょ?」
 唐は迎えいれたグエンにそういった。もちろん掃除などはしたが、基本として彼女は掃除が苦手で、部屋がごちゃごちゃしているほうがむしろ心地いい。
「うん、でもこっちの方が、なんか親密なかんじでいいよ」
 グエンがそういって笑顔をうかべるので、すこし安心する。
「それとも“めっちゃごちゃごちゃで汚い! こんなのぜんぜん'禅'じゃない!”とかいうべき?」
 そう彼女がおどけてみせるので、唐はおもわず笑ってしまう。こういうとき、彼女の声のすっぱさは刺激的なものになる。と、グエンの鼻がヒクヒクと動き、視線がそちらに向いてしまう。こうして丸っこい鼻を動かして、どんな匂いを嗅いでいるのだろうと、唐は気になってしまう。部屋のにおいはもちろん、自分の体臭や口臭がヘンじゃないかと不安になる。しかしそのふるえを、おおげさな身ぶり手ぶりでかくす。
 唐はグエンを本棚のまえにつれていった。隙間恐怖症といったふうに、本がところせましと詰めこまれている。あたまには大学時代に乗っていた満員電車がおもいうかぶ。そしてその光景がなぜだか懐かしくすらおもえて、おどろく。体がつぶされて不愉快だったし、痴漢に遇ったことすらある。なのに“満員電車”という言葉、その風景が、脳内で自動的に郷愁へと接続されていくようだ。なぜだか分からない。脳のバグのようにおもえた。
「これとか、日本語の本?」
 グエンのといかけに、意識が現実にもどる。彼女がゆびさしているのは、日本からもってきた文庫本の数々だ。本棚をみたすのはほとんどがアメリカで暮らしはじめてから買った英語の書物ばかり。しかし本棚のいちばん下のすみ、そこに数冊の文庫本がいっしょに詰まっている。
「大学で日本文学とかまなんでたからね。だから愛着があっていくつか持ってきたんだ。谷崎潤一郎の『陰影礼賛』とか、志賀直哉の『城の崎にて』とか、あとは夏目漱石の『それから』かな。大学2年の時に、これでゼミの発表したんだ」
「ふうん……」
 その曖昧なあいづちは、においもやはり曖昧だった。
「そういえば、唐から日本文学についてのはなし、聞いたことなかったね」
「そうだっけ。でもまあ、日本人だっていうと、みんなハルキ・ムラカミ、ハルキ・ムラカミって言うからね。だから自分からは日本文学のことは話さないし、話題もふらない」
「はは、その気持ちちょっと分かるよ。私もベトナム系だからって“ヴィエト・タン・ウェンどう?”とかよくいわれる。映画監督の友達はコッポラの『地獄の黙示録』についてのはなしを毎回ふられるってさ」
 2人は本棚のまえで、笑いあう。
「でも今は“わたしも日本文学読むよ”っていってもいいでしょ?」
 グエンがニヤリとしながらそう言った。声が極細の針さながら、皮膚をさすような感覚に、おもわずドキリとする。
「まあ、お話を聞かせていただきましょうか?」
 取り繕うように、どこまでもわざとらしい敬語をつむいでみせる。
「うん、いや本当に、日本文学はよく読むんだ。でもべつに唐にいい顔みせたいって下心じゃ、全然、ぜぇんぜんなくね」
「それではなにをお読みになるの、グエンさん?」
「わたしがすきなのは井上靖と庄野潤三かな」
 ひさしぶりに聞いた名前なので、かなりおどろいた。
「英訳とか、ベトナム語訳とかでてるの?」
「英訳は出てたよ、図書館で読んだ。井上の『猟銃』はかなり泥々のメロドラマで私は好きだったな、井上の作品はシビアな情念の物語が結構あって、好き。でも庄野の作品はぎゃくにのほほんとしているというか、世界に対する眼差しがあたたかくて、やさしくて、私は好きだなあ。名前はわすれちゃったけど、ただ家族のことを日記みたいにかいてる作品、読んでてほおっぺたがほころんじゃうような、ほほえましさがあってすごく好きだった」
 “ほほえましさ”と口にする、グエンの表情じたいがほほえみにほころんでいる。そして自分のほおっぺたも自然とゆるまるのにきづく。ふぬふぬと、ほおにくがとろけるように動いてしまうのだ。すこし恥ずかしい。
 文庫本をベッドにまで持っていき、ならんで寝ころぶ。黄ばんだ、うすいページをめくりながら、じっさいは文をよんでいない。つねに、となりのグエンに感覚がひらかれている。彼女もまた文庫本に目をとおしているけども、おそらく漢字やひらがなはよめないだろう。それらを純粋なかたちとして楽しんでいるのだろうか。唐はページにふたたび視線をうつすが、そこにえがかれているものは厳然として“日本語”であり、意味は自然とわかってしまう。それがすこし淋しかった、グエンと認識が重なりあわないのがさびしかった。
 だがふと、においがする。それはひびきのにおいでなく、グエンの体のにおいだった。低温やけどをひきおこしそうな、焦熱のあまさだ。そんなにおいがするのに唐はおどろき、心臓を力強くつかまれたような気分になる。高校のころ、好きだった少女が煙草をすっていた。あこがれの目でみつめていると、彼女はその煙草を自分にわたして、不敵にわらってみせる。指先をふるわせて、緊張しながら、煙草を口にくわえ紫煙をすいこむ。その時にかんじた眩暈が、唐をゆりうごかす。
「ねえ、グエン」
 唐が言う。
「どうしたの、唐」
 グエンがいう。唐はこたえない。
「なに、何も言わんの」
 グエンが笑う。
 唐はグエンの声が嗅ぎたいだけだった。声のあのすっぱさ、おもみ、また感じることができる。そして焼けつくような体臭がそこにからみあい、ふしぎな刺激が現れる。皮膚が線香花火にふれたなら、こんな感覚をあじわえるかもしれない、唐はそうおもった。そして自分の首のしたで、血管がうねり、血がドクドクと流れているのを鮮烈にかんじた。沈黙、のこりが。ただ2人だけが、それを共有している。呼吸が早くなり、それをひそかに、必死におさえようとする。だが苦しくなって、助けをもとめるように、唐はグエンのほうをむいた。彼女もこっちをみていた、うれしかった。グエンはかたわらに文庫本をおいて、右手をこちらにのばしてくる。中指の先が自分のほおにふれる、しゅんかん、ビリッと静電気がはしって、おもわず「いたっ!」と日本語でさけんでしまう。グエンもだった、しかし英語で。そして顔をみあわせて、2人で部屋がゆれるほどわらう。
「サイテー、雰囲気マジでだいなしじゃん。ファック、電気化学!」
「私もホント、濡れるくらいだったのに、一気にぜんぶ乾いた!」
 どこまでも爆笑したあと、いっしょに疲れはててベッドにしずみこむ。そしてみつめあう。
「えーっと、まあ、もう雰囲気とかどうでもいっか」
「うん、もういいよ」
「じゃあ、まあ、あらためまして……キスしていい?」
「……どんとこい!」
 そして笑いながら、唐とグエンはキスをする。彼女の唇にふれられて、しあわせだった。多幸感のなかで、唐は静電気に感謝する。なにか背伸びしすぎていたかもしれない、自分をかっこうよく見せようとしすぎていたかもしれない。だが静電気の炸裂がそれをわらいのめして、緊迫がほどけ、そうしてグエンとこころが、いっきに近づいたような気がした。
 くびすじやほおにキスをしながら、おもわず気がはやって、どんどんグエンの服をぬがせていってしまう。グエンの胸はけっこう大きかったので、うれしい。青いブラからあらわれるふくらみに、唇でかるくふれる。あのあまさが鮮烈で、体がウズウズする。そしてズボンもぬがせるのだけども、まったく別のにおいがブワッとひろがり、気圧される。それはこんがり焼けたベーコンのにおいだった。下着をみると、表面には異様なほどリアルなベーコンがえがかれており、その圧力に吹きだしてしまう。
「どうよ、ベーコンパンティ」
 グエンはいたずら小僧さながら、言ってみせる。
「なにこれ、サイテー」
「サイテーってなに、サイコーの間違いでしょ?」
 グエンはお尻をこちらに向けるけども、そちら側にはベーコンをかたどったゆるキャラがいる。つぶらな瞳で“EAT ME!” といっている。
「かわいいでしょ、30ドルで買った。ベーコン好きだから」
 唐はなんだか呆れてしまいながら、下着よりグエンのほうがかわいくおもえる。
「においつきなんだよ、これ。かいでみてよ」
「いいよ、こっからでも臭うし」
「なんだよ、わたしたちセックスしてるんだよ?」
 そのことばの意味が分からないけども、あまりにおねだりするので、唐はベーコンに顔をちかづけていく。においがどんどん濃厚になっていき、ほんとうに鼻をベーコンへ近づけているように錯覚するほどだ。たしかに30ドル分の技術は注ぎこまれているように思う。しかもかいでいて、不愉快ではない、ダイナーの安くてうまいベーコンそのままだ。いつの間に唐はグエンの下腹部に、ベーコンパンティに鼻をうずめ、そして息をすって、息をはく。極めて滑稽なすがただと、唐はおもう。なのに心地よくて、このまま股間に顔をうずめていたいとおもう。どんどん、クラクラしてくる。それをめざとく見すかしてか、グエンはふとももであたまをかるく締めつけてくる。ひひひ、そんな声がきこえてくる。濃厚なにおいのなかで、視界がぼやけてくる。
 と、おもうとグエンはするりと体をはなしてくる。唐がエサをもとめる鯉さながら、口をパクパクさせていると、彼女は下着をスルッと脱ぎすてて、高貴なるストリッパーさながらそれを唐に投げてみせる。手元におちてきたベーコンパンティを見ながら、もうトコトンばかになってしまえと、そこに鼻をうずめてにおいをかいでいく。とっても、しあわせだった。
「頭にかぶってみなよ」
 グエンがニヤニヤしながら、そう言ってみせる。脳みそがもう完全にふやけていて、その誘惑に抗することなんてできなかった。頭にそれをかぶり、鼻で息をすい、息をはく。ベーコンのにおい、ベーコンの濃厚なにおい、その他のいろいろなにおい。唐はベッドにたおれこみ、途方もなくはずかしいきもちよさにひたる。下半身がもぞもぞとしはじめ、いま、自分の下着がぬがされているのが分かる。てのひらで優しく敏感なところをなぜられ、体がふるえる。指にしのびこまれ、しかし舌の感触がない、すこし物足りない。
「ねえ、唐」
 みみもとで、声。しかし耳より、鼻がうごいてしまう。ベーコンの向こうがわから、焦熱のあまさと、そしてすっぱくて重いひびきのにおい。もうすぐに、いってしまいそうだった。それでよかった。それはすばらしいにきまっていたからだ。

 そして唐は起床する。空間は殺風景で、狭い。ベッド以外、何もない。何より凍てついている。そこに唐は独りだった。首を動かすうち、ここが今自分が住んでいる部屋だと気づく。枕の傍らにタブレットがあるので見ると、今は2021年12月30日8時13分だった。自分は完全な間抜けだと、唐は思い、そして笑う。
 何の脈絡もなく、音がした。ベーコンが焼ける音で、心臓を鷲掴みにされる衝撃を覚える。ドアが微かに開いていた。爆々と心臓が早鐘をつくなかで、唐は寝室を出て、リビングに入る。
 台所にはグエンが居なかった。別の女性が小さな台所で朝食を作っていた。脳髄がバグったような感覚がある。しかし彼女は昨日一夜を共にした希子という女性だと気づいた。何も言えなかった。希子がこちらを向き、快活な笑みを浮かべる。髪色は銀色で、頬は切り立ち、美しく険しい。
「おはよう、昨日は楽しかったよ」
 希子はそう言う。声は小綺麗な響きをしている。
「うん、そうだね」
 適当に話を合わせる。頭に彼女との夜が思い浮かばない。
 唐は椅子に座る。そして希子が皿を目の前に置いてくる。そこには目玉焼きと焼け切ったベーコンがある。
「はい、あなたのお望み通り」
 希子がそう言ったが、記憶はない。
「確かコロナ前はニューヨークに住んでたんだっけ? だからこういうのが好きなんだ」
 勝手に予想して、勝手に納得する。不愉快だ。
「ベーコン、いい匂いするでしょ?」
 特に匂いはしない。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。