見出し画像

コロナウイルス連作短編その112「図書館に行こう」

 アパートから出ていき、まずホルヘ・オルテガ・ウガスが目にするのはまろやかな水色のトタンに包まれた工場だった。だが築年数は50年を下らないように思われる。シンクにブチ撒けられた砂糖粒のような無数の錆びに、水色が侵されているからだ。その腐食ぶりに工場跡と呼びたい衝動に駆られるが、それは誤りである。アパートを出た後、今ホルヘが行こうとする方とは反対に、右へと進んでいき回りこんでみれば分かる。出入口脇に、ホルヘ3体分の巨大な木材が密集して置いてあるのだ。故にこの工場は工場跡でなく、木材工場という訳だった。とはいえホルヘはそこで何かが行われているのを見たことがない。錆びついたトタンには幾つか窓が嵌めこまれており、そこから中が覗けるのだが、常に闇しかない。照明はなく、向こう側の入り口から光が取り入れられながら、闇に完全に塗り潰される運命である。この闇によって、木材工場は物理的静寂と化すのだ。毎日この静寂を目の当たりにするが、新鮮味が薄れることはない。
 ホルヘは歩く。工場を背にしながら目にするのは幾つもの立方体が合体したような老人ホーム、“昔ながらの日本家屋”という彼の固定イメージがそのまま顕現したような小さな公民館、何の変哲もないマンションとそこに併設された駐車場にいつも停まっている、暴力的なまでに真黄色の車。それでも最近、ホルヘが気になってしまうのは、とある家屋だ。色味は当たり障りのない灰色で、漆喰の質感もその彩りを越えることのない無難なものだ。ここは最近改築された家である。以前は先程の“昔ながらの日本家屋”といった建築を更に大きくしたような、個人宅としてかなり大きな部類に入るものだった。特徴的なのは、しかし家自体でなく傍らに鬱蒼と繁茂する木々だった。その葉は黒みががかった深い緑で、これらが密集すると暗黒物質にしか思えない。そして夏はここにセミが溜まる。1匹2匹でなく、数十匹が集結し、姿は見えないのに鳴き声が轟囂として爆裂するのだ。ホルヘはセミというあの得体の知れない虫が苦手だった。肉体造型がこの世のものと思えない、暗黒物質を根城とする宇宙生物だ。ベネズエラから来たばかりの頃、友人がすこぶる昔の特撮番組を見せてくれたことがあったが、そこにセミ人間という宇宙人が登場し、日本人にも同じことを思っている人間がいると親近感を覚えたことがある。だがセミには微塵の親近感を抱くようにはならない。この暗黒の近くを通ると、鳴き声が音量を増し、時にはセミが飛び出てくる時があり、ホラー映画よりも数段恐ろしい。駅を行くにはこの道を通らざるを得ない。セミのために遠回りするのも癪ゆえに、意固地になって進み、セミに耳を蹂躙された。
 だが1年前からリフォーム作業が行われ始める。邸宅は少しずつ減築されていき、最後に現れたのは何ともこじんまりとした家だった。ここに住む人間が少なくなった結果だろうとホルヘは思った。だが何より大きな変化は木々が全て伐採されたことである。あの暗黒の塊は完全に抹消され、セミの大群も各地の木々に散り散りになってしまったようだ。この家の域はスッキリとして、清々しいものになった。何故かそれを寂しく思う。好敵手を失った気分である。
 こうした“清々しさ”の波が町に到来しているように思われる。邸宅から3分ほどまっすぐ歩いていくと少年の広場という子供たちのための広場がある。この敷地の横に6つの一戸建てが並んでいる。どれも新品として健康な輝きを放ち、健全な家族の笑い声が聞こえる。夕方に前を通り、かぐわしいカレーの匂いが漂ってきた時もある。だがホルヘにはその健やかさが気に入らない。特に気に障るのは外壁の色である。青、黄、茶、ベージュ、しかしその色彩の全てが薄い。まるで町中に自身を埋没させ、その存在感を自ら殲滅させようとしているような薄さだ。網膜に映るたびに、脳髄の神経をブチブチと千切られるような不快感を抱く。積極的な無難は嫌いだ。
 そんなホルヘを慰めてくれる家がある。血混じりの茶に包まれた木材、それで組み立てられた掘っ立て小屋にしか見えない家が、歩いていると突然現れるのだ。あの清々しさとは真逆の、グラグラと薄汚れて、ゴタゴタと装飾が加えられた猥雑さには心が落ち着く。特に目を惹くのが、育てられている植物たちだ。この家の主は何本もの鉄骨を組み上げ、鉄の網目を作っているのだが、ここにツル植物が巻きついているのだ。網目は家屋の2階まで届いているが、ツルはもうすぐ天井にまで続きそうだ。半端ではない植物の生命力というものを感じさせ、皮膚が震えるのだ。今、この町では清々しさとこういった極個人的な特異点がしのぎを削っているように思われる。ここは建築の戦場なのだ。闘争は明らかに特異点が劣勢にありながらも、このツル植物の澳溢ぶりを見ると希望を捨てるべきではないと思わされる。
 この特異点の中心地というべき場所がある。掘っ立て小屋を背に歩いて20秒、左に曲がると見えてくるのが畑である。猥雑さでは小屋の装飾に負けるとも劣らずで、相当に広い敷地がボロボロの網で分けられながら、数十の作物がささやかな区画のなかで育てられている。この畑はホルヘにとって全くの謎だ。区画区画で何かが育てられているのは明らかだ。だが誰かが区画内で水をあげたり、肥料を撒いたりしている姿を見たことがない。ただただ作物が育ち、カラスよけのため網につけられたCDディスクが増えるだけだ。そしてこの畑はすこぶる臭い。肥料の糞穢の濃厚な臭みがふんぷんと漂ってくるのだ。排泄後の個室トイレもかくやだが、この糞臭に包まれる気分は驚くほど悪くない。人生を通じてホルヘは都市生活者であったが、どこかに田舎や自然への回帰願望があるのではないかと疑っている。
 更に奇妙なのはこの畑を見下ろすように10階建てマンションが傍らに屹立しているのである。何をどうして猥雑な畑と巨大マンションが隣り合っているのか全く理解しがたい。畑の激臭が風に乗ってマンションに届かないとは思えない。10階分の数えきれない窓の全ては、ご丁寧に畑へと向いている。住民たちは朝、窓を開けて糞を全身で感じながら、朝日を眺めるのだろうか。ホルヘはこの前を通る時に思わずそんなことに思いを馳せてしまう。言っては悪いが、彼のアパートはここより歩いて8分ほどの距離があるので、端から面白がれていたし、この畑が潰されれば特異点に未来はない、つまりこの町に未来はないと思う。
 だが清々しさの陣営も負けてはいなかった。駅に到着する直前、不動産店やドラッグストアなどが多くなるなか、ひときわ目立つのがとある動物病院である。数ヶ月前に完成したばかりの建築にホルヘはどうしても心惹かれてしまう。この建築は木造のブルータリズムというべき代物だった。苦さ極まれりのチョコレートさながら弩迫なまでに濃い焦げ茶、これに全身浸った木材でできた立方体の量塊がドンと大地に置かれているといった風なのだ。もちろん前面にはガラスが張られスッキリとした印象も付け加えられながら、それ以上にマスとしての存在感が大きいのだ。柔道家の大胸筋もかくやの逞しさだ。故に、犬や猫などのペットを飼う人々がこの空間へと頼るように集ってくる。ホルヘはペットを飼っていないので用というべきものはないが、端から思わずこの全景を見てしまう。量塊こそが持てる包容力と親密さというものを、言葉でなく心で理解される。確かに美しい。だがこれはセンスがいいからこそ生まれた代物であり、新築のほとんどは積極的な無難に毒されている。難しい状況だった。
 そうしてホルヘは駅の高架下まで辿りつく。ここはある種の境界線のような場所だった。だが彼は今まで歩いていた住宅街、その境界線を挟んだ向こう側をどう呼んでいいのか分からない。立地上は駅前と言っても差し支えはないが、他の駅の駅前とは比べ物にならないほど寂れている。商店街とも言うことができない。目立つのは2店のスーパー、図書館、2件のファミリーマート、3件のパチンコ店、そして5件の歯科病院だけだ。マクドナルドも何らかの牛丼屋も1件たりとも存在しない。ここは明らかに開発に失敗した、忘れ去られた場所に思える。そして2分ほど歩くと駅前というべき場所は途絶え、また別の住宅街が広がる。犇めきが全くと言っていいほど存在しない。ここならマスクを外していてもコロナに罹からないのでは?と錯覚するほどだ、もちろんそうはしないが。
 ホルヘは境界線の向こう側にある図書館へ行こうとしていた。最近は植物学に嵌まりこみ、時間をかけながら日本語の文献を読み漁っている。だが高架下の横断歩道を渡ろうとする時、ある少女の姿が目につく。制服を着た少女は、駅の改札へ続く道、その最も手前にあるラーメン屋の前で看板を見つめていた。そこの味噌ラーメンがなかなか旨い。傑出して美味という訳ではないが、日常の味というものを感じる。ホルヘも1ヶ月に1度くらいラーメンを食べに来ていた。
 入ればいい、そう思う。だが少女は入らない、グズグズする。何故だか全く分からない。と、少女と目が合ってしまう。それで終るかと思えば、彼女が自分に近づいてきた。
「エ、エクスキューズミー……」
「いや日本語しゃべれるよ。英語でなくていい」
 少女は恥ずかしげに俯く。
「あの、すごい変と思うんですけど……一緒にラーメン食べてくれませんか?」
 その申し出に少し驚く。ナンパか? 明らかに中学生か高校生である女性にナンパされるとは、あまり名誉と思えない。だが彼女の瞳には、それ以上の切実さがあると思える。彼女の瞳は恐竜の死骸よりできた琥珀の色だ。
「ラーメン食べるだけ? それで終るなら、別にいい」
「だけです、お願いします」
 ホルヘは少女とともにラーメン屋へ入る。動物病院と同じ濃厚な焦げ茶色が店内を包んでいるが、素材の剥き出し勘はない。木材に艶があるのだ、ラーメンの油脂で輝いているのかもしれない。彼らはテーブル席に座る。
「で、どうするの」
「じゃ、じゃあ話します」
 少女は頬を赤らめながら、恐る恐る喋り始める。
「私、クローン病っていう腸の難病なんです。ずっと腸が炎症を起こして、腹痛とか下痢とかが止まらないっていう。今はちょっと症状収まってるんですけど、前は結構ひどくて。それで食事を制限しなくちゃいけないんですけど、チョコとかラーメンとかマクドナルドとかそういうの食べちゃいけないんです。それで、クローン病って治らない難病だから、一生食べちゃいけないっていうか、いや、食べてもいいけど体調が悪くなるっていうか……」
 突然、かなり重い話を告白されるのでまたも驚く。可哀想ではあるが、今は当惑ばかりが先立つ。
「でも、ラーメンすごい好きで、ここのラーメン大好きだったから、今体調いい時に食べたいんです。でもお父さんは絶対許してくれないし、でも独りで隠れて食べたら絶対全部食べちゃって体調悪くなるし、だから誰かに監視っていうか、食べてもらって、私がちょっと食べるっていうか……いや、意味分かんないですよね」
「……まあ、何となく分かるよ。でも友達に頼めばいいのじゃないの」
「友達は私のこと心配してくれてて、言わないでって口止めしても、父さんに話しちゃうかもしれなくて……」
「ふうん、いい友達持ったね」
 少女はかすかに笑った。そこに店員がやってくる。
「あの、好きなの頼んでいいですか?」
「ああ、オッケー」
 彼女はとんこつラーメンを頼む。
「ぎょ、餃子も頼んでいいですか……?」
「もちろん」
 彼女は快活に餃子を頼む。
 5分後にラーメンと餃子がやってくる。この迅速さがホルヘも好きだった。
「どうする、俺が先に食べるます? それともそっち」
「あぁ……先に一口」
 肉厚のチャーシュー、こんもりと積みあがる細ネギ、黄色が爆ぜるように輝くゆで卵。それを目で味わいながら、少女は箸を差しこみ、麺を持ちあげる。脂と熱が粒子に編みこまれた白煙がブワッと巻きあがる。ホルヘも思わず生唾を呑みこまざるを得ない。そして少女は麺を勢いよく啜りあげる。
「うんまあ……」
 頬をモゴモゴ動かしながら、そう呟いた。しかし惚けたような表情がすぐに消え去り、どんぶりをホルヘの方に持っていく。
「すいません、食べてもらってもいいですか」
「いいけど、もう少し食べないの」
「勢いでたくさん食べちゃいそうで……」
 ホルヘは「いただきます」と言った後、麺を啜る。久しぶりに食べたが、重みある麺にとんこつの濃厚さ、そして味噌のキメ細やかな塩辛さが口のなかへブワッと広がっていく。旨かった。だが旨さに埋没していいものかと思える。
「なあ、ゆっくり食べちゃダメだよな。見てると、ツラくなるだろ」
「ああ、まあ、良かったら早食いしてもらえると……」
「分かった」
 ホルヘは味わわずに機械的に麺を口へと投入していく。だがそうして機械的に処理しても、このラーメンの旨さはあまりにも豊かで、思わず頬が緩む。意識的に迅速に処理せずとも、自然に早食いしてしまう。
「何か食べる? チャーシュー、ゆで卵、ネギ」
「卵、卵食べたいです」
「他はいらないの?」
「我慢、します……」
 ホルヘは卵を皿に載せる。
「餃子はどうする?」
「……2つ食べたいです」
 餃子も載せてから、皿を少女に渡す。恐ろしいほどそれを一気に食べてしまった。今にも泣きそうな表情をしている。ホルヘはなるべく早くラーメンを食べる。そして麺が少しだけ残る。
「最後に、これくらいどう? いや、無責任だけど、もうちょっと食べたいんじゃないのかな」
「食べたいです、食べたいですけど」
「これに関しちゃ君に決めてもらうしかないね」
 少女は悩んでいた。眉間に峡谷さながらの皺が現れる。その合間を満たす影の濃さが悲痛だ。だが意を決するように、少女はどんぶりを受け取り、自分の前に置く。味わうかと思いきや、一瞬で啜った。そしてスープを少しだけ飲み、再びどんぶりをホルヘの元に返す。スープは飲まないことに決める。
 少し休んでから、帰ろうとする。代金はホルヘが払った、最後まで少女が払おうとしたが。
「ありがとうございました」
 店の前で彼女が礼を言う。
「あの、またラーメンとか何か食べたくなったら、あなたのこと呼んでいいですか……?」
「別にいいけど、他にちゃんと頼れる人探すこともオススメするよ」
「はい、でも、今は連絡先とか聞いていいですか」
「……Facebookのアカウント持ってる?」
 頷くので、ホルヘは彼女の携帯にJorge Ortega Ugásという自身の名前を打ちこむ。
「ありがとうございました」
 少女はもう一度そう言うと、歩き始める。ホルヘが来た道だ。彼女は何度もこちらを振り返り、お辞儀をする。何度も振り返り、最後には道を右に曲がる。腰を掻いてから、ホルヘもまた歩き始める。境界線の向こう側、少女とは逆の道だ。図書館には歩いて30秒で着くだろう。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。